本棚の整理 (1)吉田健一 補遺

 今日、丸の内の丸善で本棚を見ていたら、未見の吉田健一関連の本を二冊みつけた。川本直氏ら編の「吉田健一ふたたび」という本と、青土社刊の吉田健一「時間」である。
 「吉田健一ふたたび」は、その「はじめに」で、吉田健一の生前に健一と交流があった篠田一士清水徹高橋英夫、長谷川郁夫、角地幸男らの世代を第一世代、リアルタイムで吉田健一を愛読した池澤夏樹柳瀬尚紀四方田犬彦丹生谷貴志松浦寿輝らを第二世代とすれば、物心つく以前に吉田健一が亡くなっていたり、氏の存命中にはまだ生まれていなかった世代である第三世代のよる吉田健一論であることが宣言されている。事実ここに執筆しているひとたちはわたくしがまったく知ることのない名前ばありである(ある会に長老として参加したという富士川義之氏をのぞく)。わたくしはこの分類では第二世代ということになるのだろうか?
 まだ拾い読みをしただけであるが、ざっと見たところでは第二世代が示したような新しい健一観は提示されていないように感じた。Ken'ichi Yoshida Revisited と副題がある。健一訳「ブライズヘッドふたたび」のもじりなのであろう。健一ファンにとっては、この翻訳はほとんど吉田健一著という感じなのである。
 「時間」は、新潮社刊の単行本と講談社刊の文庫本がすでにあるので、なぜこれが刊行されたのかはよくわからないが(2012年11月と大分前の刊行であるが、しらなかった)、肝はおそらく松浦寿輝氏の解説が付されていることである。(単行本は既に入手困難で、文庫本は新字新仮名ということがあるのかもしれないが。)
 松浦氏の解説の終わりのほうに、「能天気なエピキュリズムの楽天性ほど吉田健一の世界から遠いものはない」とある。「能天気なエピキュリズムの楽天性」というのは、「吉田健一ふたたび」がいう第一世代。特に篠田一士氏などの健一観を指すのではないかと思う。
 わたくしが気になるのは、丸谷才一氏や池澤夏樹氏の健一論はどこに位置するのだろうかということである。丸谷氏や池澤氏は日本の私小説的風土へのアンチとして吉田健一を持ちあげたのではないかと思うので、どちらかといえば第一世代に近い吉田健一観をもっていたのではないかという気もする。
 「時間」の最後のほうに「変化」も刊行されていることが告示されている(やはり解説は松浦寿輝氏)が、これは今日は書店にはみあたらなかった。
 

吉田健一ふたたび

吉田健一ふたたび

本棚の整理(1) 吉田健一

 最近、小さな書庫を確保することができ、いままであちこちに分散して収納されていた本の一部をようやく一か所に収納できるようになった。といっても、四畳半くらいのスペースの三方に本棚を床から天井まで作り付け、本棚の奥行を25センチくらいにして、収納した本の手前に文庫本くらいはおけるようにしただけのもので、壁の一面に500冊ほど、三面全部で1500冊ほどの収納がやっとだから所蔵している本の1/3から1/4が収まるだけである。とはいっても、比較的関心が高い本が背表紙が見える状態で一か所にまとまっているというのは精神衛生上は悪くない。
 それで、そこに所蔵された本を少し点検してみることにする。
 第一回はわたくしの教祖というか神輿である吉田健一
 さっと数えて120冊くらいの吉田健一関連本があった。といっても目についた限りの文庫化された健一本はすべて持っているつもりなので(買ったのを忘れて2冊買っているものも少なからずある)、それは当然単行本などと重複しているから著書としては70~80冊だろうか?
 まず昭和43年頃刊行(つまりわたくしが21歳ごろに刊行)の原書房版「吉田健一全集」(どういうわけか全10巻のうちの7巻だけが欠けている)がある。わたくしはこの全集で吉田健一に親しむことになった。この全集では「英国の文学」と「東西文学論」を除けば(この全集には「文學の楽み」は収められていなかったように思う)、主に随筆に親しんだ。
 この原書房版の全集は吉田氏が「ヨオロツパの世紀末」でブレイクして一部に贔屓筋を持つ異端の物書きから多くの読者を有する正統に位置する作家へと変貌する前に出ている。したがって、わたくしが親しみはじめた当時の吉田健一のイメージは随筆家であった。「文句の言ひどほし」「不信心」「三文紳士」などに収められた文章には随分と多くのことを教えられた。たとえば「三文紳士」の「母について」「満腹感」「乞食時代」「貧乏物語」「家を建てる話」・・・。「文学概論」はその当時はよくわからなかった。この全集の解説は全巻を篠田一士氏が単独で書いていて、この解説にも当時は随分と影響された。たとえば、「大人が読んで、少しもおかしくない、安心できる文学者―それが吉田健一の身上なのである」といった類の文章である。後に少し書くように、今ではこれは少し違うのではないかと思うようになっている。
 死後出版の集英社版「吉田健一著作集」では、1・3・5・14・15巻と補巻1・2を持っていた。主に年譜などを参照したいと購入した記憶がある。
 同じく死後出版の新潮社版「吉田健一集成」は、2・3・5・7・別巻があった。これも主に年譜とかを見たいと思って買ったのだが、集英社版の著作集にしても新潮社版の集成にしても、そこに収められている解説とか月報とかが面白く、それを読むためにだけでもそろえておいたほうがよかったかと今になったは思う。けれども、出版当時はまだこちらは若くてで経済的な余裕がなく、さすがにそういう酔狂なことはできなかった。集成5巻の月報に収められた丹生谷貴志氏の「獣としての人間」という解説文は、わたくしが今まで目にしたなかでは最高の吉田健一論だと思っている。
 わたくしが原書房版の全集で吉田健一を読みだしたころの吉田氏は「余生の文学」とかを出していたころで、もう書きたいことはない、後は繰り返しだけだ、などとあまり意気があがらないことを書いていて、それから先に「ヨオロツパの世紀末」以降の大量の執筆があるなどとは想像もできなかった。ということで、「ヨオロツパの世紀末」にびっくりして以降の氏の著作はすべて持っているのではないかと思う。
 ちょっと変わったところでは、昭和25年刊のラフォルグ「ハムレット異聞」(「ハムレット」「サロメ」「パンとシリンクス」の翻訳と吉田氏のラフォルグ論を収める)と昭和23年刊のペイタア「ルネッサンス」の翻訳をもっている。いずれも神田の古書店でみつけたもの。前者は定価90円、後者は130円となっている。前者は後ろの扉に1300という鉛筆書きがある。おそらく古書店のつけた値段であろう。わたくしがまだ学生の時代だから50年くらいまえである。汚い壊れかけたような本であったが、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで買った記憶がある。
 この「ハムレット異聞」は若き日の大岡信氏らをふくむ何人かのひとを熱狂させたらしく、その記憶が後年の大岡氏をして、再刊を予定していた「ユリイカ」に吉田氏が連載するテーマは「ヨオロツパの世紀末」しかないという提案をさせることになったらしい。もっとも大岡氏の思い描いた「ヨオロツパの世紀末」と実際に吉田氏が執筆した「ヨオロツパの世紀末」の世紀末はまったく違ったものであったと思うけれど。
 あと、ちょっと特殊な本としては、限定版の小澤書店刊行「ラフォルグ抄」がある。わたくしが持っている本は「限定1200部刊行 本書はその290番」とある。皮装の立派な本である。限定版ではないが、同じ小澤書店から出た「定本 落日抄」も立派な本である。背が皮装になっている。小澤書店からは「ポエティカ 全二巻」という別の豪華本も出ているのだが、昭和50年ごろに各巻5200円というのでは買えなかった。当時は、こういう本を出す小澤書店というのはお金持ちがお道楽に採算を度外視してやっているのではないかと思っていた。それで、この小澤書店が倒産したと聞いたときには少し驚いた。そしてさらに後年、その小澤書店店主であった長谷川郁夫氏が「新潮」に「吉田健一」の連載をはじめたときはまたびっくりした。吉田健一に入れあげて倒産した出版社はいくつかあるようで、「吉田健一」で同じく倒産した垂水書房店主の天野亮氏のことを描く長谷川氏の筆は沈んでいる。
 その長谷川氏のものもふくめ、何冊かの吉田健一論も持っている。篠田一士吉田健一論」、高橋英夫琥珀の夜から朝の光へ」、清水徹吉田健一の時間」、富士川義之「新=東西文学論」(これは吉田論は一部)、長谷川郁夫「吉田健一」、角地幸男「ケンブリッジ帰りの文士 吉田健一」、そして丹生谷貴士・四方田犬彦松浦寿輝柳瀬尚紀吉田健一頌」・・。このなかでは「吉田健一頌」の丹生谷氏の論がわたくしには断然面白いと感じられる。
 文庫本は、持ち運びによく読みやすいのと、そこに付された解説を読むのも楽しみで刊行されたものはすべて揃えていると思うが、どの本も、新仮名・新漢字になっているのが困るところである。健一信者は、「文学の楽しみ」は「文學の楽み」でなくてはいけないなどと思うのである。もっとも吉田氏が単行本として刊行した本でも、新字新仮名とされているものもたくさんあるわけで(「文學の楽み」も「文学の楽しみ」だったと思う)、著作集とか集成とかが刊行されることの意味の一端は、吉田氏が原稿に書いたそのままの文で著書が収録されるところにあるのかもしれない。
 なぜ、わたくしが吉田氏にこれほどいかれたのかということを考えてみると、まず第一に、中学・高校・大学初年を通じてなんとなく自分がそうであると思っていた文学青年的なものを払拭してくれたことがあるのだと思う。文学が小説に限られるわけではないこと(むしろ文学のエッセンスは詩にあるのだということ)、また小説というのが著者の思想とか考え方を伝達するためにあるのではないことを教えてくれたということもある。小説家が小説を書くのは小説というある構造体を作ること自体が目的であって、何かの思想とか考えを伝達するための手段としてではないということである。
 そしてもっと大局的に見ると、反キリスト教、反観念論の人としての吉田健一にいかれたのだと思う。「時間」などという書物は、ひとによっては観念論の極致とみるかもしれない。また、吉田氏のことを《鼻もちならない「高等遊民」》(丹生谷氏)と見るひともいるであろうと思う。
 とすれば、丹生谷氏がいう「獣としての人間」が問題となる。キリスト教徒の犬とか観念論者の猫などというのはいない。そしてまた一方、言語を持つ動物も文学や音楽を楽しむ動物も人間以外にはいない。丹生谷氏によれば、「吉田健一はあらゆる理念を喪失して「獣」となった人間の中に十全な「人間」の姿を認める」人なのである。そうであれば、人間もまた、「他の動物と同じに「観念がないのだから、絶望もなければ希望もない生」を生きればいいということになる。
 「ヨオロツパの世紀末」を最初読んだときには、それを吉田氏のきわめて独創的な論と思ったものだが、その後次第に、そこで述べられていることはヨーロッパの知識人にとっては比較的常識的な見解なのではないかと思うようになった。吉田氏が若い時に留学したケンブリッジブルームズベリー・グループなどにとってはそれは特に奇異なものではなかったのではないかと思う。彼らが敵としたのは、たとえばヴィクトリア朝道徳の偽善であって、それは吉田健一が否定したヨーロッパ19世紀とほぼ重なるのではないかと思う。
 しかし、吉田氏の「ヨオロツパの世紀末」が日本の読書界ではきわめて大きなインパクトを持ったということは、それはとりもなおさず、日本の明治期以降の西欧受容がいかに歪んでいたかを示すことになるのではないかと思う。
 「吉田健一頌」の著者である丹生谷貴士・四方田犬彦松浦寿輝柳瀬尚紀といった人達はいづれもポスト・モダン思想の洗礼をうけているはずである。そして、ポスト・モダンの人達が否定したモダンとはまさにヨーロッパ19世紀のことではないかと思う。そうであれば、ポスト・モダン思想というのが現在から見るとほとんど死屍累々という結果となっているのだとしても、それがめざそうとした方向性については、それほど的を外したものだったとは言えないのだろうと思う。
 そして、わたくしが吉田健一にいかれることになった一端は、わたくしが従事している医療という分野では、いまだにモダンのものの見方について、ほとんどかすかな疑いすら抱いていないということがあるのだろうと思う。もう30年近く前に「吉田健一の医学論」というのを書いたことがあるが(このブログの最初のほうに収載してある)、今から思うと、あまりにもモダン一色である医療の世界への反発がそれを書かせたのではないかという気もする。
 吉田氏の翻訳であるウォーの「黒いいたづら」「ピンフォールドの試練」「ブライズヘッド再び」、ボーエンの「日さかり」といった本は、わたくしにはほとんど吉田氏の著書のように思えるのだが、ここにはカウントしなかった。しかし多くの読書人にとって「葡萄酒の色」は吉田氏の著作と思えているのではないだろうか? たとえば、そこのラフォルグ「最後の詩」、トオマス「ロンドンで一人の子供が火災で死んだのを悼むことに対する拒絶」(「・・・最初に死んだものの後に、又といふことはない。」)
 「吉田健一は文明開化だ」というのは河上徹太郎の言葉であるが、明治期の文明開化を否定して、本当の文明開化とはどういうものかを示そうとしたのが吉田氏の試みようとしたことであったのかもしれない。

英国の文学 (岩波文庫)

英国の文学 (岩波文庫)

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

時間 (講談社文芸文庫)

時間 (講談社文芸文庫)

加藤典洋さん

 加藤典洋さんが亡くなったらしい。先日の橋本治さんのときもそうだったが、新聞をとっていないので、訃報記事などを目にすることもなく、書店で偶然、本のカバーに「追悼〇〇さん」などという帯が巻かれているの見て、それを知ることになることが続いている。
 加藤さんも橋本さんも1948年生まれであるから、わたくしより一歳下ではあるが、同世代ということになる。ということは全共闘世代である。橋本さんは独自の感性で全共闘運動の一番根っこにあったであろう《知識人的なもの、インテリめいたもの》(それは、それ以前にあったいわゆる進歩的文化人といったもののありかたへの反発という側面をもったものであったが、それにもかかわらず、民衆を指導する前衛という図式からついに自由になれなかった)に身体感覚的に反発をしたわけだが、加藤さんの場合、全共闘運動にかかわったことが、アカデミーの道に進むことを許さず、後年、大学の教壇に立つことがあったとしても、基本的に在野のひととして生きることを選ばせたのではないかと思う。
 この度、その訃報に接して、本棚をあらためて見てみたところ、氏の著作が30冊近くあることがわかっていささか驚いた。
 氏の本にはじめて接したのが何だったか判然としないが、あるいは評判になった(というよりも批判的な評が多かった)「敗戦後論」だったかもしれない。手許にあるのは1997年8月の初版であるが、98年7月購入というメモがある。20年以上前ということになる。「敗戦後論」「戦後後論」「語り口の問題」の3つの論を収めているが、「敗戦後論」は「群像」95年1月が初出である。これはきわめて政治的な論文で、1991年の湾岸戦争での文学者の反戦声明などをとりあげ、戦後憲法戦争放棄条項が配線直後に原爆の威力、軍事的威圧のもとに押し付けられたという背景を一切抜きにして平和憲法を自明のものとして論じるいきかたなどを強く批判している。現行憲法が連合国総司令部によって作成され押し付けられたものであるという明々白々たる事実をなかったことにして、当時の日本は占領下であり、占領軍の意向に逆らうことなど到底できない状況であったこともなかったことにして、自分達の手で勝ちとった成果であるが如き顔を平気でしている欺瞞をついている。これは日本の"左派"のアキレス腱であり、日本の右側から、だからこそ「自主憲法」制定といった方向からの攻撃をうけてきた。しかし、加藤氏は左のひと、戦後憲法の肯定者なのである。にもかかわらず、氏がこの「敗戦後論」で主張したことは右側からも左側からも袋叩きという気の毒なことになった。それに対する反論(というのともちょっと違うかもしれないが)として書かれたのが「敗戦後論」に収められている「戦後後論」と「語り口の問題」で、実はわたくしにはこのほうがずっと面白く、それで加藤氏の書くもの、あるいはそこで紹介された著書をもっと読んでみたいと思ったように記憶している。この後の方の論文で論じられているのは、例えば、太宰治の「トカトントン」であり、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」であり、アーレントの「イスラエルアイヒマン」なのである。加藤さんというひとは文学が読めるひと、その点で信用できるひとなのだと思った。それでアーレントの著作なども何冊か読むことになったと記憶している。
 そういう点で面白かったのが「テクストから遠く離れて」とか「小説の未来」といった方向の本で、もっとこういったものをたくさん残してもらいたかったと思う。
 「僕が批評家になったわけ」という本で、氏が批評を書きだした当時、文壇を席巻していた蓮實重彦氏や柄谷行人氏らを筆頭とするポストモダン批評、フーコーデリダらのポストモダン思想から文化人類学記号論の分野からの引用に満ち満ちた批評に対し、そういう中途半端な学問のようなものではない、自分はどう思うかということを根拠とする批評、それを自分は目指したということが書いてある。そうでないと、「一部の人の玩弄物」になってしまうという、と。しかし、わたくしには「敗戦後論」は引用に満ち満ちたものに思えてしまうし、橋爪大三郎氏との対談(審判:竹田青嗣氏)の「天皇の戦争責任」などで展開される論はスコラ哲学顔負け煩瑣で些末な議論でしかないように思う。
 昔から「政治と文学」といったことがいわれるが、そういうことを口にするのはもっぱら文学の畑の人々だけで、政治の畑のひとがそういう議論を一顧だにしたことはない。
 加藤氏は「敗戦後論」が十全に論壇に届かなったという思いからなのだろうかか、2015年に「戦後入門」という本を書いている。自分なりの憲法改正案をふくむ大部の本であるが、こういうものが現実政治に場に微かにでも影響を与えるとは思えない。海に美酒を捧げても一瞬たりとも海が赤らむとも思えないのである。
 氏の生き方は全共闘世代の一つの典型であったのかもしれないが、憲法とかではなく、もっと文学の方面で多くの仕事をしてほしかったと思う。

敗戦後論 (ちくま学芸文庫)

敗戦後論 (ちくま学芸文庫)

テクストから遠く離れて

テクストから遠く離れて

小説の未来

小説の未来

僕が批評家になったわけ (ことばのために)

僕が批評家になったわけ (ことばのために)

天皇の戦争責任

天皇の戦争責任

戦後入門 (ちくま新書)

戦後入門 (ちくま新書)

楠木建「すべては「好き嫌い」から始まる」

 著者の楠木さんという方は、今までまったく存じ上げなかった方なのだが、つい最近、偶然、本屋で「戦略読書日記」(ちくま文庫)というのを見つけて面白かったことから、その名を知った。
 その「戦略読書日記」という本を本屋で立ち読みしていて、その第12章のタイトルである「俺の目を見ろ、何にも言うな」(これは「プロフェッショナルマネージャー」という本の書評なのだが・・楠木氏は競争戦略というおよそわたくしには縁のない学問の専門家)を見て買ってみようかという気になった。「俺の目を見ろ、何にも言うな」というのは、小室直樹氏が「痛快! 憲法学」で日本の後進性の象徴というような言い方で用いていたのが、わたくしの記憶に鮮明に残っている。要するに、会社の代表される日本の組織というのはヤクザの組織と変わらない後進性を残しているという話で(草鞋を脱ぐ、一宿一飯の恩義、・・)、それがアメリカの経営者の書いた本の書評のタイトルに出てくるところに興味を惹かれた。
 「戦略読書日記」も、まだ拾い読みをしているところなのだが、その楠木さんの「すべては「好き嫌い」から始まる」もまだ出たばかりである(前者の文庫化が本年4月10日、後者が3月30日)。この「すべては「好き嫌い」から始まる」の方が氏の思考法や感受性を直接語っているように思えるので、こちらを先に見てみることにした。
 本論の各章はすべて「あくまでも個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい。」という素敵な前口上から始まっているが、ここではまず、本章の前の「はじめに 「好き嫌い族」宣言」という前書きからみていく。
 「好き嫌い」とは「良し悪し」では割り切れないものの総称である、と宣言される。「民主主義」や「言論の自由」は普遍的な良し悪しであり「文明」である。しかし地域固有の境界の中でしか通用しない「文化」には文明ほどの普遍性はない。
 ここで著者が言わんとしていることは、最近「良し悪し族」が大きな顔をしすぎていないか、ということである。楠木さんに言わせると、良し悪し族の難点は教条主義に傾きやすい点にある。一方、好き嫌い族は教養に深くかかわる。教条対教養。日本語の教養の原語は「自由な技能」である(その対が「機械的な技能」)。「その人がその人であるための基盤」、それこそが教養である。好き嫌い族は総じて平和主義者である。歴史上、戦争を起こすのは決まって良し悪し族だった、と。
  
 《「民主主義」や「言論の自由」は普遍的な良し悪しであり「文明」である。》という一文からして論じだすときりがないと思う。「民主主義」や「言論の自由」というのはある時期の西欧が作り出したローカルな文化、ローカルな価値観であって決して普遍的に通用するものではないという見方は当然あるであろう。また科学(自然科学)は普遍的なものであって「好き嫌い」を超えるという見方もあるであろう。
 この前書きを読んでいて、すぐに頭に浮かんだのが、ドーキンス対グールドの宗教に対する見方の対立である。ドーキンスにいわせれば自然科学は事実に対する論であり、それは価値観を超越する。一方、グールドによれば自然科学は事実の問題にはかかわれるが価値の問題にはかかわれないのである。
 わたくしなどがドーキンスの宗教についての議論を読んで感じるのは、何かこの人は教養が足りないなあというか、底が浅いなあという感じである。一方、グールドの支離滅裂(としかわたくしには思えない)な宗教擁護(もっといえば広義のキリスト教擁護)の論を読んでいると、この人は倫理というものは自然科学からは絶対に導出されないと思っていて、断固たるダーウイン主義者であるにもかかわらず、「社会生物学」のようなあっけらかんとした進化論の人間への適応にはどうしても同意できないのだろうな、と感じる。
 「社会生物学論争」というのは欧米ではあれほどの大論争になったにもかかわらず日本の生物学自然科学分野でもほとんど何の波風も立てなかった。それは日本の生物学自然科学の分野の研究者が自分は事実の問題を研究しているのであって、価値の問題などはわがことではないと信じているからであろうと思う。(紅旗征戎非吾事)
 幸い、本書は人文学に属する分野をあつかっているので、自然科学の学問における立ち位置のような問題にはかかわっていない。
 本書は文明と教養の擁護を志向している。その反対は野蛮と独善ということになろう。東欧崩壊をきっかけに書かれた「歴史の終わり」などは、これからは西欧的価値観が世界を覆っていく、世界は平板になり、ニーチェがいった小賢しい「最後の人間」たちが跋扈する世界になっていくだろうという楽観的かつ悲観的な展望が描かれていたが、西欧的行き方へのアンチとしてイスラムがでてくると世界を西欧的価値観が覆っていくという見方はあっという間に崩れ、ロシアや中国に西欧からみれば何歩か後退としか思えない政体がでてきて、西欧的行き方への疑問が生じてきて戸惑っていたところに、トランプ大統領の誕生で、世界は野蛮と独善の方向にむかっているのではないかという戸惑いが、多くの教養人の間で生じてきている。
 本書が生まれる背景にはそういう最近の世の中の動きがあるのではないかと思うが、それと同時に、本書の「極私的「仕事の原則」」という章に書かれた氏の自己認識「僕が好きだったのは研究ではなくて、大学でポストを得て、自分の部屋をもらって、好きな本に囲まれながら、朝から晩まで好き勝手にああだこうだと考えていられる「様式」であり「状態」なのではないか」というのはわたしにも非常によくわかる。「人づき合いが苦手で、心を開いて仲良くなれる友達が少なく、集団行動とかチームワークがテンでダメだった」ので「一人でやる仕事、部下も上司もいない「ソロの仕事」」を目指した」というのも、わたくしもまたそうであるので非常に共感できる。医者という仕事もまさにこの条件にぴたりである。
 そういう書斎引き籠り型人間というのは本来は社会を動かす力などまったく持たないわけで、その願うところはどうか自分のことは抛っておいてくれ!、皆さんに害はあたえないから、という辺りにあるはずなのだが、どうもそうも言っていられない、お前はそんなことでいいのかと余計なお世話を焼きにくる困った正義の人、好戦的な教条の人が増えてきているという思いがあって、それでこのような本を書くことになったのではないかと思う。
 「自らの好き嫌いについての理解が深いほど、人間は快適かつ思い悩むことの少ない生活を送ることができる」と氏はいう。その路線がトランプ大統領批判にむすびつくような曲芸となれば芽出度し芽出度しなのであろうが、氏が批判するようなひとは氏の書くものを読んでも何も感じず、というかそもそも読む事もなく、読むのはわたくしのような書斎引き籠り型人間ばかりなのではないか、というのがこういう本の難しいところである。
 

戦略読書日記 〈本質を抉りだす思考のセンス〉

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痛快!憲法学 (痛快!シリーズ)

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神は妄想である―宗教との決別

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神と科学は共存できるか?

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社会生物学

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社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤ったか

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歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間

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橋本治「父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない」(2)

 わたくしはE・トッドの著作は「帝国以後」しか読んでいないので、以下、鹿島茂氏のまとめにしたがう。
 トッドは世界の家族を4類型に分ける。
1)絶対核家族イングランドアメリカ型):結婚した男子は親と同居しない。別居して別の核家族をつくる。親の権威は永続的でなく、親子関係も権威主義的ではない。結婚しなくても、生計が立つようになると子供は独立する。
 親の財産は兄弟のなかのひとりに相続されるが、誰とはきまっていない。そのための争いがしばしばおきる。
 教育には不熱心(識字率は低い)。ただし、女性の地位は比較的高く、女性識字率も比較的高い。
 イングランド、オランダ、デンマークアメリカ合衆国、オーストラリア、ニュウジーランドなど。
2)平等主義核家族(フランス・スペイン型):子どもは結婚後、親と同居することはまずない。親の権威は永続的でなく、親子関係は非権威主義的。その点は1)に似るが、遺産相続が完全に平等である点で異なる。
 識字率は低く、家庭内における女性の地位も高くない。
 フランスのパリ盆地一帯、スペイン中部、ポルトガル南西部、ポーランドルーマニア、イタリア南部、中南米など。
3)直系家族(ドイツ・日本型):結婚した子どもの一人(多くは長男)が両親と同居する。親の権威は永続的で、親子関係は権威主義的。兄弟間は不平等。財産は多くは長男が相続。長男の嫁も比較的権威を持つ。
 識字率、特に女性の識字率が高い。
 ドイツ、オーストリア、スイス、チェコスウェーデンノルウェイ、ベルギー、フランス周縁、スペインの一部、オルトガルの一部、スコットランドアイルランド、韓国、北朝鮮、日本など。
4)外婚制共同体家族(ロシア、中国型):男子はすべて結婚後も両親と同居する。父親の権威は強い。父親の死後は、財産は兄弟同士(ただし姉妹は排除)で平等に分割されて、個々が独立する。家庭内で女性の地位は低い。女性の識字率は低い。
 ロシア、中国、フィンランド、フランスの中央山間部、イタリア中部、ハンガ説リー、セルビアボスニアブルガリアマケドニアベトナム北部など。
 
 人間を決定するものは、生得的な遺伝的なものか、後天的に文化によって決定されるのかについては従来から喧々諤々の議論があり、従来の人文学では後天的文化決定論が主流であったものが、次第に生得説が勢いを得てきているというのが現状であろう。遺伝説はわれわれにはまだ狩猟採集時代の環境に適応した生得の傾向をもっているというわけであるが、トッドの家族類型論は生得説と後天説の中間に位置するように思われる。
 日本は明治以降、西欧を受け入れてきた(あるいは押しつけられてきた)わけで、さらに敗戦後はアメリカを受容したわけであるが、トッドの分類によれば一言で欧米といっても、ドイツ・フランス・英米でそれぞれまったく異なる類型に属するわけである。明治期以降、日本の洋学派はフランス派、ドイツ派はたくさんいたが、イギリス派やアメリカ派というのはずっと少なかったように思う。ヨーロッパの文明の精華というのは主としてドイツやフランスにあって、それに比べたらイギリスなどにはあまりみるべきものはないということになっていたのかもしれない。
 吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」にはドイツのことはあまりでてこない。ゲーテが少しでてくるくらいかもしれない。健一さんにとってヨーロッパの精華は英仏にあるのである。そして「英国の文化の流れ」という文章(「英国に就て」所収)では、水洗便所がフランスなどよりもはるかに早くイギリスで発達したことに、イギリス文化の特色をみている。要するに生活の快適を何より重視する姿勢である。
 さて、1947年の民法改正は直系家族の行き方を一編の法律によって絶対家族型へと転換させようとしたものである。しかし、単なる法律の条文の変更が社会をすぐにかえるということはない。とはいっても長い時間軸のなかでは社会も変わっていく。その変化の要因としてトッドが重視するのが「女性識字率」で、女性の識字率が50%を超えると出生率が下がるとトッドは主張する。事実、日本では女性の教育水準はどんどんとあがっていて、その一方で、出生率は低下してきている。なぜ教育水準があがると出生率は下がるのか? 教育水準があがると子供を産む産まない(あるいは、そもそも結婚するしない)の選択の主体が男性から女性に移るからである。そして女性が選択するものは子供を産む産まないだけではない。
 ここまで来て、ようやく「父権制の崩壊 あるいは指導者はもういない」の「父権制を‥転覆させたのは女である」の議論に戻ることができる。
 トッドの家族システムの分類において女性は大きな役割を演じていない。女性の識字率が低い傾向にあるか、相対的に高い傾向にあるかは家族類型によって違いはあるが、女性識字率を向上させる動機自体は家族システムには内在していない。
 すべての家族システムにおいて男が主導権を握っていることについては狩猟採集時代の生活形態という進化論的な背景があるのであろう。一方、農耕の開始にともなう余剰な富の蓄積は言語を産み、文字を産み、都市を産み、文明を産み、そしてついには当初は男性だけのものであった教育が女性にも普及するようになり、それが家族システムという下部構造を侵食しはじめている、
 橋本氏がいう『父権制の崩壊』というのはそのことで、侵食の具体例はセクハラやパワハラという形であらわれてきている。しかし、セクハラもパワハラも組織という背景があるにしろ、個対個の問題である。問題は女性の識字率の向上に相当するものが、日本の疑似《家》である会社組織においてもみられるだろうかということである。山本七平のいう、日本においては機能集団は共同体化しないかぎり機能集団としての機能も果たせないという問題である。日本においては確かに《家》は《戸》ではなくなってきている。しかし《疑似家》はあいかわらず《戸》のままではないのだろうか?
 正社員と非正社員の別は、家族と家族外の区別であるし、年功序列は長男優先である。いわゆる日本型雇用(終身雇用、年功序列企業別組合)の慣行が確立されたのは高度成長期であるとされているが、そのルーツは陸軍内務班にあるのではないかと思っている。あるいは「直系家族」の文化が組織を作ると何らか陸軍内務班的なものになるということなのかもしれない。「星の数よりメンコの数」「私的制裁」・・・。現在のパワハラはもとをたどれば「私的制裁」にいたるのではないだろうか?
 わたくしはこの辺りの問題について山本七平氏から多くを学んできたと思っているが、山本氏は日本の組織というものについて愛憎半ばしたひとである。氏は陸軍で経験した不条理の考察から言論活動をはじめたひとである(「日本人とユダヤ人」はほんのご挨拶、名刺交換といったものであろう。「私の中の日本軍」「ある異常体験者の偏見」こそが氏の出発点である。そしてそれは後年の「日本はなぜ敗れるのか」まで一貫している。それと同時に「日本資本主義の精神」で紹介されている氏と同業である製本業の中小企業主であるHさんへの無条件の敬愛など、氏の言論は日本の組織のもつ美点と欠点双方への愛憎で引き裂かれている。
 橋本氏は生涯、筆一本で生きたひとで組織には属することがなかったひとだから(それにしては「上司は思いつきでものをいう」のような本を書けるのが不思議であるが)、一人出版社主で小なりといえども企業経営を経験した山本氏とは違うということなのであろう。
 家制度は崩れ、現在夫婦間にあるのは建物としての家だけである。しかし、233ページに『「企業」「会社」という、「赤の他人同士の集合体」』とあるが、上述のように日本の「企業」や「会社」という集合体は、今までのところは、それが赤の他人同士の集合体であるかぎりはうまく機能しなくて、疑似=家となり共同体化して、はじめて機能してきたという歴史を持つ。
 橋本氏は現在のアメリカ、ロシア、中国、北朝鮮での独裁的権力者の出現を「力を備えた一人の指導者」というかつての「家」に由来する幻想からわれわれがまだ自由になっていないためとしている。最終ページのひとつ前の234ページから始まる最後のセンテンスは「いきなり大胆にもこの全部をまとめてしまうと」という文からはじまる。性急でせわしない感じである。本当はもっと詳細な議論をしたいのだが、自分にはもはや時間がないということを感じていたのだろうか?
 E・トッドは『外婚制共同体家族(ロシア、中国型)』の形態をとる地域の分布が共産圏の分布にほぼ一致することを発見することで自分の説に自信をもったということである。ロシアや中国の現在というのは確かにトッドの説を裏付けているように思える。鹿島氏の本によれば、E・トッドはトランプ政権の出現をも予言していたのだそうで、それはアメリカの白人中年の死亡率上昇にみられる『グローバリゼーション疲れ』による当然の結果としているとのことである。鹿島氏はそれに加えて、アングロサクソンの家族類型の特徴である教育に熱心でないことも関連しているのではないかとしている。
 橋本氏は近世に親和性を持つ江戸を肌で理解できる特異な感性をもった稀有なひとだったのだと思う。その感性から日本の近代の歪みというのを理屈でなく身体で感じとることができる特殊な能力を持っていた。そしてその歪んだ日本の近代に対照するものとして掲げられていたのはやはりヨーロッパ18世紀の啓蒙思想に由来する人間像、つまり『平等主義核家族(フランス・スペイン型)』であったように思う。
 橋本氏が指摘する日本の近代の歪みというのは概ね首肯できるものであるとしても、ヨーロッパ18世紀の啓蒙思想が提示した人間像がこれからも長く命脈を保ちうるものであるのか否か、その辺りのことについて、もっと橋本氏の見解をきいてみたかったという気がする。
 

帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕

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ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

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英国に就て (ちくま学芸文庫)

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山本七平ライブラリー7 ある異常体験者の偏見

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上司は思いつきでものを言う (集英社新書)

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私の身体は頭がいい―非中枢的身体論

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橋本治「父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない」(1)

 橋本氏が「小説トリッパー」に2017年秋号から2018年冬季号まで、連載したものの書籍化。おそらく、この後も書き継ぐつもりでいたものが、氏の死により中断されたもののように思う(161ページに「六月の末に癌の摘出手術を受けて入院中とある)。それで「あとがき」がない。しかし、おそらく後1~2回で終わる予定でいたのではないかと思うで、今回刊行部分で評することには問題はないように思う。
 この「小説トリッパー」に連載されたものとしてはすでに2017年に刊行された「知性の顚覆」がある。その副題が「日本人がバカになってしまう構造」で、イギリスのEU離脱やトランプ大統領誕生などをとりあげているものの、話があっちにいったりこっちにいったりで、書いた本人が「むずかしい本だな」などと嘯いている焦点がしぼりにくい本であった。それにくらべると本書は、父権制・家父長制・家制度・戸籍制度といった方向に話が絞られているので、その分、方向が見えやすいが、それでも「スター・ウォーズ」や「ゴッドファーザー」などへの脱線は相変わらずで、もうすこし話をまっすぐ進めてくれたらな、と思う部分がある。それで敢えてくねくねした進行をまっすぐにして考えていきたいと思うので、橋本氏の論の進行の含みや奥行が消えてしまうことをおそれるが、それはお許しいただければと思う。
 それで話は、主題が「父権制の崩壊」であって「父権の崩壊」ではないというところからスタートする。父権制しなわち家父長制は、父親を「一家の長」とする制度で、父親に家族を扶養する義務を負荷するのと同時に、家族を支配統括する権利をも与える制度で、この制度での一家の長を戸主と呼ぶ(戸というのは家であり、戸籍制度の戸である)。日本ではそのような制度は1947年の民法改正で廃止されているので、その時点で、家父長制は法的にはなくなっている。
 家父長制は「お父さんはえらい」という考えを基礎にしていたわけであるが、法律が変わったら、すぐにその考えがなくなったわけではなく、戦後においても日本を長く呪縛した。しかし、それが今ようやく瓦解しようとしている。それは「女の力」によってである、と橋本氏はいう。
 東京では、1970年代までは普通にあった木造アパートが80年代になると消えていき、若者もワンルームマンションなどに住むようになる。大家さんや管理人がいなくなり、地域社会というものが下町を残しては消えていった。
 現在進行している世界的な右傾化の傾向はかなりの部分が《家父長制に帰りたい》という動きによって説明できる。その《家父長制に帰りたい》と思う人達の理想のおやじがドナルド・トランプである。
 男というものは自分の外側にあるシステム(「社会」とか「全世界」)にシンクロするようにして生きている。男の外部にあるというのがそれに同調する男にメリットをあたえるようにできているからで、その典型が戦後日本の会社である。
 「論理」というのは少なくとも、今のところは、男のものである。「論理は女のもの」とはなっていないし、「論理は男のものだった」という過去形にもなってもいない。
 セクハラは《男性優位ということを当然としている》男性がおこなうものである。だからする側にそれが悪いことであるという自覚がない。1968年ごろの学生運動を思い出すと、それは理解しやすい。なぜ、学生たちはそれを闘争と呼び、大学当局は紛争と呼んだのか? 大学当局は自分達は学生より優位であることを疑っていなかったからである。学生たちがそれが問題だ!といいだした時点でも、大学当局は、だから何なの?としか思えなかった。大学当局が当たり前としていたことも、学生たちには当たり前とは思えなったのである。これは当たり前と思って好き勝手をしてきた男が「セクハラ!」と訴えられて慌てるのと同じ構造である。
 そのように「男の論理だけが論理である」が通らなくなってきており、女をも包括する論理が必要とされるようになってきている。
 森友、加計学園問題で明らかになったのは、中央の人間は地方の人間を下にみている、ということである。下のものは上のものにしたがって当然と思っているということである。
 パワハラは組織内の上下関係から生まれる。パワーハラスメントは、その人個人のパワーではなく、組織がその人にあたえる「場の力」によって生まれる。つまりパワハラは「組織という構造に由来する病」である。
 組織とは単なる会社といった単位ではなく、もっと大きな業界といったものもふくむ。「個人」がパワハラを告発すると、「あいつは組織に馴染めない人間だ」といわれる。
 これはいじめとその告発の構造とも同じである。完結した自分達の世界の中に住んでいるひとは、自分たちの世界の外に別の価値基準を持つ世界があるとは考えない。組織の外側にいる個人というものを想像できないのである。
 しかし少しづつ、「組織とは個なる人によって出来あがるものだ」という常識が浸透してきている。その個人はひとりひとりが自分の考え方を持っている。
 日本でも、「組織というものは上から下に下がっていく枠組みである」という見方と、「組織はそれを構成する個々の人間が作っていくものだ」という考えが拮抗して併存するようになってきている。
 パワハラは組織の上位者による下位の人間への凌辱行為である。「お前は組織のなかにいて組織に面倒をみてもらっているのだから、組織に逆らってはいけない」という考えを基礎にしている。その声はかつては非常に強力であったが、それがようやく今、変わろうとしてきている。
 セクハラの構造もパワハラの構造とまったく同じである。だからセクハラをしたとされて辞任した財務省の事務移管は「自分はセクハラはしていないが、自分の所属する組織に迷惑をかけたので辞める」のだといった。これは組織の内側でしか通用しない言語である。「自分の考え方」を持った個人には通用しない。「組織に所属する人間」である前に「自分なりの考えをもった一個人」であることが現在では要請されてきているのである。「組織はすでにできあがっていて、上から下への命令がおりてくるもの」という考えと「組織は我々が作っていくものである」という考えが併存するようになってきている。
 組織のほうでは、「お前は組織のなかにいて組織に面倒をみてもらっているのだから、組織には逆らえないよな?」と思っている。しかし昨今、セクハラ被害への告発が続いているということは、それが崩れてきているということである。
 日本ボクシング連盟の問題というのは日本の組織というものを何よりもよく示した事件であった。山根会長というのは「日本の昔にいた田舎のおっさん」そのものである。1960年以前の日本は圧倒的に農村社会であった。そして昨今の事件は永田町もまた同じ構造のままであることを示した。
 人間の歴史は「男社会の歴史」である。とすれば、それを壊すものがあるとすれば当然「女」である。
 かつては、「男=主、女=従」が当たり前とされていたから、女がそれを抑圧と感じることもなかった。しかし、もしそれを女が抑圧と感じるようになれば? それが現在である。女を守るものでもありまた抑圧するものでもあったタガは外れた。そのタガというのが結婚である。『両性の合意のみによってなりたつ結婚』は脆い。「家」という抽象概念を背景に持たない結婚は危い。
 今では「というのが単なる建物のことになってしまった。しかしそうではあっても、今でも結婚届けを出すと新しい戸籍が作られる。その場合に誰を戸主にするかが問題となる。姓は二つという選択は現在の制度では認められていない(夫婦別姓が日本で容認されにくいのはそのためである)。しかし二人で作るシステムの代表が一人でなければならないというのは最早時代錯誤になってきているのである。家父長制という、家を代表するものはただ一人で、それは男でなくてはならないといういきかたはもはや機能しなくなってきている。
 明治に統治者としての天皇を神格化した。これが普通の家庭にも波及し、家長の絶対化がおこった。このことによって日本での男の在り方は、明治以降、江戸時代よりも後ろ向きとなった。敗戦で天皇は自らの神格性を否定した。それと並行して、民法は改正され、制度上の家父長制は消えた。日本の家庭はただの家庭に戻った。
 それでは本来、家というものがもっていた機能というものはどのようなものであったのかを考察する途中で本書は終わっている。おそらく橋本氏の死によってそれが中断してしまったのであろう。もしも氏が存命で連載が続いていたら、現在の改元とともに出てきてきている皇位継承の問題、女性天皇などの問題についても大いに議論がなされていたはずである。
 
 わたくしは1947年生まれなので、丁度、民法が改定された年である。その改定によって、『家・戸主の廃止、家督相続の廃止と均分相続の確立、婚姻・親族・相続などにおける女性の地位向上』などが図られたとされている。
 わたくしは長男であるが、家督というようなことを今まで意識したことはまったくないように思う。父は三男坊であり、母は二人姉妹の妹。父母は母の両親と同居し、その死後もそのままその家に住み続けた。わたくしは結婚して家をでた後、しばらくしてまた親と同居するようになり現在にいたっている。
 家督という意識はまったくなくても、不動産というものあるいはその相続ということについては、血縁という意識が日本の法律にはあるのではないかということを感じる。母方の祖父が取得した不動産は母に相続されたわけで、それには父は一切の権利を有していない。民法改正以前は長男に相続されたものが改正によって女である母にも相続の権利が生じたということなのかなと思っている(改正前民法についての知識が不足しているので違っているかもしれない)。後は墓であろうか? 母方は女二人姉妹であるので、その死後の墓の維持ということが母の懸念であるらしい。
 そのようにわたくしからみると戸というものは不動産相続の問題であったり、墓の問題であったりといった即物的な方向だけなのであるが、そうではない見方をするひともあるわけで、ソーントン不破直子氏の「戸籍の謎と丸谷才一」では、戸籍という制度を「可死性への挑戦」への一つの挑戦として捉えている。
 不破氏(と書くとすでに問題がおきるのだが、正確にはソーントン不破氏?)がそのようなことを意識するきっかけとなったのが、氏が国際結婚をしたことである。氏は一人っ子で将来子供が生まれたら少なくとも一人は日本国籍にして自分の姓を継いでもらいたいと思ったという。それで法務省に確認したところ、それはできないことがわかった。日本の戸籍法では、子供は父親の戸籍を取得しなくてはいけないので、米国籍となる。それを逃れるためには私生児とするしかない。そうであれば父親がいないので母の国籍となれる。米国での小切手ではナオコ・フワ・ソーントンという記載であったが、日本における戸籍は結婚後も旧姓のままだった。(結婚によって両親の戸籍からは除外され、、旧姓のままで新しい戸籍の筆頭者となっていた。) 国籍が違う配偶者とは同性になれなかった。長男はアメリカで生まれたので出生届けを州の役所に届けた。次男は日本で生まれたので在日米国領事館に届けパスポートが発行された。子供を日本国籍にすることはできなかった。自分との親子関係を示す戸籍は存在しないことになった。
 その後、国籍と戸籍にかんする法律がかわり、子供が望めば母親の国籍を取得することも可能となった。1990年代にさらに姓をソーントン直子からソーントン不破直子とすることも可能となった。しかし、相変わらず戸籍には子供にかんする記載はない。
 そこから不破氏は戸籍にかんする議論にうつる。戸籍は東アジアの中華文明圏にのみみられる制度(中国 朝鮮 日本)であり、たとえばアングロサクソン系では、出生届けは個人単位である。それは徴兵と課税のためのものとされる。
 しかし日本ではそれ以外に家族関係についての公文書という色彩も持つようになった。公民の家系意識と皇統の万世一系の物語が、個々人のアイデンティティと国のアイデンティティを支えることとなった。
 江戸時代には、武家では子がないと家名断絶となるので、子がない場合、養子をとったり側室に子供を産ませようとした。武家では相続権は男子のみ(庶民では女子の相続もあった)であった。
 明治にはいり、武家と庶民の別は廃され、明治31年の明治民法で現在のような夫婦同姓となったため。この民法の成立から「家」の概念が濃くでてくる。戦後の民法改正によっても、この「家」の概念は残っており、一人一戸籍ではなく「夫婦と同氏の子」を戸籍編成の基準とした。
 人間が自己の死を自覚した場合、何らかの永世を信じる手段として、青史に名を残すとか、いろいろな足掻き方があると思うし、家というのもその一つの手段たりうるとは思うが、戸籍というものもその一つなのであるという不破氏の見解にはいささか納得しずらいものを感じる。あるいは丸谷氏の諸作を「可死性への挑戦」という観点から見るという方向に疑問を感じる。丸谷氏は日本の私小説を中心とする文学風土に「逆らって」、あるいは主観的にはそれに「たった一人の反乱」をおこすことを自分の立ち位置とすることを選んだひとであったのだと思う。何らかの個性を主張する文学ではなく、大きな文学の伝統の流れの中に生きる一人の文学者としての自分という位置づけである。この文学観は、血縁の流れの末端にいる自分という見方とパラレルの部分がある。丸谷氏の文学が血縁、戸籍というものにこだわるように見える部分があるのはそれによるのではないだろうか?
 橋本治氏は「宗教なんかこわくない!」の中の「近代人は二度死ねない」の項で『「魂の不滅」は、やっぱり、人間の死に対する恐怖であろう』といって、なんとドーキンスの「利己的な遺伝子」まで持ち出してくる。 やはり、近代人には「可死性への挑戦」という方向は嘘になるのである。同じ「宗教なんか・・」で橋本氏は"自分の頭で考えられるようになること”―日本に近代化の必要が叫ばれるようになってから日本人に終始一貫求められているものは、これである。これだけが求められていて、これだけが達成されていなくて、これだけが理解されていない、といっている。本書「父権制の崩壊・・・」もその延長戦の方向なのだろうと思う。
 わたくしは家意識といったものが極めて乏しい人間なので、この不破氏の著作で戸籍制度というのが中華文明圏でのみ見られる制度であることをはじめて教えられた。そして不破氏はそれを個人単位で出生を管理するアングロサクソンのやりかたと対比させている。わたくしは個人というものを西欧の発明だと思っているので、この対比は魅力的である。しかし、そこから可死性への挑戦といった方向にいくのは飛躍であると感じる。
 それで家族類型からわれわれの生き方を説明するE・トッドの家族システムの見方のほうがずっと説得的であると感じる。それで鹿島茂氏の「エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層」を見ながら「父権制の崩壊・・」をみて行きたいと考えるが、長くなったので項をあらためる。
 

戸籍の謎と丸谷才一

戸籍の謎と丸谷才一

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

橘玲「朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論」(2) 

 内田樹さんの2002年の本「「おじさん」的思考」は「日本の正しいおじさん」擁護のための書であることが言われている。そこでは内田氏自身は、どちらかといえば「日本の悪いおじさん」であって《インテリで、リベラルで、勤勉で、公正で、温厚な》「日本の正しいおじさん」に逆らい反抗の限りを尽くしてきたのだが、それが可能であったのは、「日本の正しいおじさん」こそが日本の土台であり、基幹であって、そういう存在があるからこそ安心して、かれらに嫌がらせをいうという「わがまま」も可能であったのだとしていた。論壇に登場して以降の内田氏の論の面白さというのは、そういうトリックスター的姿勢によるところが大きかったのだろうと思う。そして最近の内田氏の論がいたって精彩を欠くのは、氏がいつの間にか「悪いおじさん」から「正しいおじさん」になってしまって、論に裏とか奥行がなくなってしまったからではないかと思う。
 それと、論壇に登場して以降の氏があまりにも売れっ子になってしまって、勉強する時間がもてなくなってしまったことも大きいだろうと思う。レヴィナスなどという相当なインテリだってまず読まないだろう思想家に入れあげてずっと沈潜していた時期の蓄積がその後の氏の言論活動を支えてきたが、さすがにその蓄えも底をついてきたということなのであろう。
 レヴィナスユダヤ教の系譜のひとなのではないかと思うが、西洋思想史に疎いわたくしから見ると広い意味でのカトリック思想のひとなのではないかと思う。西洋思想の中でカトリック思想というのは実に強力なものであって、それに対抗するものとして18世紀以降の啓蒙思想がでてきたのであろうが、啓蒙思想というのは「話せば解る」といった姿勢を根底に持つから、「問答無用」といった「暴力」「絶対的な悪」には対抗できないという弱点をもっている。
 レヴィナスナチスという「悪」への対抗から思想を紡いでいったように、内田氏も若い時に参加した学生運動の場で見た「悪」から考えることをはじめたのだろうと思う。
 内田氏が村上春樹を論じる場でいう「雪かき仕事」というのも「勤勉で、公正で、温厚」の徳を説くものなのであろう。そういう《黙々》とは正反対の「インテリで、リベラル」な朝日新聞の人々は《饒舌の徒》であっても、雪かき仕事など薬にもしたくない人たちである。つまり「日本の正しいおじさん」は二分されるわけで、空理空論をもてあそぶ口舌の徒と、黙々とそれぞれの場で働く底辺の人である。
 中井久夫氏が「分裂病と人類」で描く二宮尊徳像もどこかで「雪かき仕事」という言葉を連想させるものであるが、それと同時に山崎正和氏が「鴎外・闘う家長」で描く森鴎外像をもどうかで彷彿とさせる。中井氏は尊徳について「飛躍のない連続的な努力」ということをいう。尊徳のような人間がもっとも恐れるのは、連続性を断つ飛躍や跳躍であり、大変化やカタストロフはそれがどのようなものであっても、計測可能性、予測可能性を超えるという点であたかも天災のように受け取られることになる。
 日本の戦後復興もあるいはオイル・ショックへの対応も、参照すべき他国の事例がすでに存在していたり、過去の経験の応用で対応できるようなものとされる場合には、日本人はうまくあるいは何とか対応できてきた。中井氏のいう「立て直し」の路線である。しかし、それを超える大変化では?
 本書「朝日ぎらい」で橘氏がいいたいことの一つが、現在日本が直面している事態は、過去の経験からの外挿や計測可能性で対応できるようなものではないにもかかわらず、日本人が相変わらず、「世直し」ではなく「立て直し」の論理で対応していることの無理の指摘。あるいはそれへの危機感ということになるのだろうと思う。
 本書のPART2「アイデンティティという病」で議論されるのは、いわゆるネトウヨの問題である。一般にそう思われているのとは異なり、ネトウヨの主体は40代らしい(20代で日本と世界の激変を体験し、「右」と「左」の価値観が逆転した世代)。彼らは「雪かき仕事」といった日々の出来事でおのれに矜持をもつこともできず、自分が日本人であるということのみをアイデンティティとすることでかろうじて自尊を保つことができる存在なのであるとされている。
 橘氏によれば、彼らの行動は容易に現代の進化論から説明できるという。われわれは集団を即座に「俺たち」と「奴ら」に分割するメカニズムが身体に組み込まれていることがさまざまな心理実験で証明されていることを氏は示し、われわれは自分が正義の側にいると感じるときに脳から快楽物質であるドーパミンが放出されることを報告する。われわれは過去の狩猟採集時代の集団生活で、そのように反応することがおのれの生き残りに利したことから、それが遺伝的性向として固定されているのだという。
 日本のネトウヨに相当するのがアメリカでトランプ大統領を支持するプーア・ホワイトといわれる人たちで、高い知能を持つものが有利になるという現在の知識社会から脱落して貧しくなった彼らには白人であるということ以外に誇るべきものをてたないがゆえにそうなるのだと橘氏は説明する。同様にネトウヨは日本人であるということ以外に誇りを持てない人達なのである。
 このわれわれはつねに仲間と敵に集団を分けるという方向の話をわたくしがはじめて知ったのは栗本慎一郎氏の「パンツをはいたサル」(1981)ででだったと思う。「異国人が団体で入ってくると、たとえそれが友好的な人びとであっても、人はすぐに砂かけばばあや妖怪・一反もめんのごとき妖怪と考えてしまう。・・社会学が明らかにしているように、私たちの心の中には、よそのおばあちゃん(社会学的には制外者、異人またじゃよそ者と呼ぶ)が砂かけばばあや妖怪・一反もめんに見えてしまう、という構造が存在しているのだ。」 ここで栗本氏が社会学の成果として示しているものを、橘氏は進化論の成果として示しているわけである。
 そしてこういうことをもう少し詳しく実験で示したのがコールダーの「人間、この共謀するもの 人間の社会的行動」(1980)だったように記憶している。これはBBCの番組を書籍化したもので、人間の社会的行動は進化によってもたらされた生物学的条件と社会的経験との産物であるとの観点から人間を考察したものである。特に第4章の「共謀」は「内集団」(自分が属する信じる集団)と「外集団」(自分はそこにはが属さないと考える集団)とに対してわれわれがまったく異なる対応をすることが示されている。
 本書で橘氏が言っていることはもう40年近く前から言われているわけである。ただ従来、人文学の分野で言われてきたことが、進化論という自然科学によって裏打ちされてきているということを強調しているわけである。橘氏の「言ってはいけない」とか「もっと言ってはいけない」は、われわれはわれわれ自身が考えている以上に遺伝(あるいは進化)によって規定された存在であるということを、それが不愉快な真実であるといいながらも、わりあいと嬉しそうに示しているように見える本であるが、確かに日本の人文系の本を読むと、遺伝とか進化といったことがまったく考慮の外であるように見える本があまりに多いので、橘氏が「お前たち、少しは勉強しろよ!」ということでこのような本を書くのは理解できる。「もっと言ってはいけない」の最後は「咲ける場所に移りなさい」となっていて、「置かれた場所で咲きなさい」(この本はわたくしは読んでいない)といった言説へのアンチを提示して終わっている。
 おそらく日本の多くのおじさん達は「会社」という集団(置かれた場所)に帰属し、それをアイデンティティとすることで己を持することができてきた。しかし、もうそんな時代ではないのだよ、そんなこどでは不幸になるだけだぞ!、ということを本書は主張するわけである。
 「もっと言ってはいけない」の「あとがき」で橘氏は「私の政治的立場はリベラルだ。「普遍的な人権」という近代の発明(虚構)を最大限尊重し、すべてのものが、人種は民族、国籍、性別や性的指向、障がいの有無にかかわらず、もって生まれた可能性を最大限発揮できるような社会が理想だと思っている。」と書き、「その一方で、「知能を無視して知識社会を語ることはできないとも考えている。・・知識社会そのものが不愉快で残酷なのだ」とも書いている。
 ここで氏も認めているように、「普遍的な人権」などというのはまったくの虚構であり、生物学的。進化的な基礎を一切欠く。そして氏の描く「知識社会」は優れた知能を持たないものには極めて残酷な社会なのである。
 わたくしから見れば、氏の描く「知識社会」は野蛮な社会、少なくとも非文明的な社会である。いうまでもなく「普遍的な人権」などというのは『神がそれを人に授け給うた。The God who gave us life ,gave us liberty at the same time 』とでもしなければ何ら根拠のない、啓蒙主義が作り上げたフィクションである。そして啓蒙派の人々がなぜそのようなフィクションを作り上げてきたのかといえば、文明社会とは人が人として遇される世界であるべきだとしたからであり、そのために「基本的人権」というフィクションが要請されてくるわけである。《ひとは生まれながらに「基本的人権」を有するとみなそうではないか、われわれが互いをそれぞれを人として遇することができるように。》ということである。『偉大な創造的行為やまっとうな人間関係は、すべて力が正面に出てこられない休止期間中に生まれるのである。この休止期間が大事なのだ、私はこういうい休止期間がなるべく頻繁に訪れしかも長く続くのを願いながら、それを「文明」と呼ぶ。・・力はたしかに存在するのであって、大事なのは、それが箱から出てこないようにすることなのではないだろうか。』とフォースターは「私の信条」でいうのであるが、すくなくとも橘氏がいう《優れた知能を持たないものには極めて残酷な知識社会》でどのような生き方をめざすべきなのか、何等かの提示がされない限り、ネトウヨは増えていくばかりなのではないかと思う。
 橘氏はまず現在の世界がどのようになっているかを知ること、それなしには何もはじまらないとしているように思える。しかし、それを知るためにも相当な知能が要請されるのだとすれば、スタートラインにさえ立てないひとが多数になってしまうような気がする。本書にくらべれば、村上龍氏の「13歳のハローワーク」のほうがずっと愛情に満ちているような気がする。
 次のPART3は「リバタニアとドメスティクス」と題されていて、ようやく「朝日ぎらい」という本題に近づいていく。
 

「おじさん」的思考 (角川文庫)

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村上春樹にご用心

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パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か (カッパ・サイエンス)

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言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書)

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もっと言ってはいけない (新潮新書)

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フォースター評論集 (岩波文庫)

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13歳のハローワーク

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