本棚の整理(3) 三島由紀夫
三島の本もそれほど多くは持っていない。(単行本25冊くらい。短編全集6巻。文庫本10冊で、計40冊くらい。) わたくしが大学2年の時に三島がもう死んでしまったためで、晩年の「豊穣の海」4巻とか、「太陽と鉄」といったものは刊行当時に入手しているが、それ以外はさかのぼって単行本を購入したり、文庫本で読んだりであるので、読んでいないものも少なくない(「金閣寺」や「午後の曳航」なども読んでいない)。
読んだ範囲で面白いと思うのは、「美徳のよろめき」とか「永すぎた春」とか「美しい星」とかいった方向のもの、あるいは「愛の渇き」、「豊穣の海」でいえば「春の雪」と「奔馬」。しかし、三島としてはそういうものだけでは満足できなかったはずである。というか、そういう作品を書いていただけでは、日本の文壇からは決して本流とはみなされなかったわけで、だから「仮面の告白」とか「金閣寺」とかが必要になった。また「鏡子の家」が書かれることになった。あるいは「豊穣の海」では「暁の寺」が書かれなくてはならなかった。
本当は「愛の渇き」の路線でずっといけばよかったのだろうが、そういうものだけでは、作り物を書く人、もう少し極端には、大衆小説作家とみなされてしまうことになっただろうと思う。だから「仮面の告白」の様な作を名刺代わりに書いて提出することが必要になった。「自分へのこだわり」というものがどこかにない作家は日本では信用されないのである。「豊穣の海」でも第一巻と第二巻は明らかに作り話であるが、「暁の寺」でそれまで狂言まわしであった本多繁邦が「認識の不毛」という命題を背負って物語の表にでてくることによって、はじめて「本物」の文学の列に加わることができるようになる。日本では文学を書くということが倫理的行為となってしまう。「作り物」の話を書くというだけでは「男子一生の仕事」たりえないのである。
周到な準備のもとに書き降ろしとして出版された「鏡子の家」が評価されなかったことが、その後の三島に決定的な影響を与えたといわれるが、最初わたくしが二十歳くらいで読んだときは面白いとおもったこのニヒリズム研究とでもいった小説はその後読み返せばやはり失敗作である。登場人物のすべてが作者に動かされていて、作者の手つきが露骨に見えてしまう。ボクサーの俊吉、画家の夏雄、俳優の治、会社員の清一郎はのちに「豊穣の海」で夏雄が松枝清秋に、俊吉が飯沼勲に、そして清一郎が本多繁邦になっていったのだと思うが、石坂洋二郎的な戦後民主主義的明るさへのアンチたることをめざしたのであろう本書は、その後の氏を規定していったのだろうと思う。(渡部昇一「戦後啓蒙の終わり・三島由紀夫」(「腐敗の時代」所収)
わたくしは三島の一生を考える場合、氏が東大法学部を出たということが決定的に大きかったのではないかと思っている。文学部を出ればよかったのである。東大法学部は官僚養成機関である。将に「実」の世界である。それなのに自分は文学という「虚」の世界にいる、という引け目を氏はずっと感じていたのではないかと思う。そして氏は「絹と明察」をめぐる裁判で有田八郎氏に敗訴した。東大法学部をでているのに裁判に負けたと世間は笑っているのではないか、というような過剰な自己意識があって、今に見ていろ、世間をあっといわせてやるとずっと思っていて、それが氏の最期に繋がったのではないかと思う。氏は最後まで文学は虚であるという思いがあって実の世界への引け目を感じ続けていたのではないだろうか? だから、氏の最期は氏としてはじめての実の行為だったのだと思う。
11月15日の氏の最期のことはよく覚えている。内科診断学の授業が午後にあって、例によって午前の講義はさぼって、昼ごろ大学にいって何か食べようと食堂にいったら、テレビで「盾の会、自衛隊に乱入、三島由紀夫自殺」というテロップが流れていた。別に大して驚かなくて、ふーんと思った。三島が世間をからかうためにやっていた「盾の会」の会員が、愚かにも三島の冗談を真にうけて自衛隊に乱入した。それを知った三島は責任をおって自殺した、というのがまず第一に頭に浮かんだことだった。しかし、テレビをみているとどうも三島も一緒らしい、ことがわかった。それで、縦の会の会員に「先生! 立ちましょう!」などといわれてつきあったといいのが次に考えたことだった。とにかく「盾の会」などというのを三島が真面目にやっているとは少しも思っていなかったのである。これで「豊穣の海」も未完で終わってしまったな、とも思った(その年の4月から「新潮」に「天人五衰」の連載がはじまったばかりだった。その連載開始の号を本屋で立ち読みして、「あれ? 変だな」と思ったことを思い出した。当初「月蝕」という題が予告されていて、それにくらべて、「天人五衰」という題名は何か弱弱しい感じで、しかも巻頭からいきなり転生した主人公がでてくるのである。予告では本多繁邦が転生者を探し回る話だった。しかもその主人公がとても物語を支えられるとは思えない冴えない人物なのである。しかし、そんなことはすぐに忘れていた)。家に帰って、夕刊を読んで、三島がその日の朝、「天人五衰」の最後の部分のを編集者にわてしていたという記事を読んで、「何か、女々しいじゃないか」と感じた。「文学よりもっと大事なものがある!」ということで死んだはずなのに、作品を完結させることにもこだわった、というのは何か清々しくないように思った。
松浦寿輝氏の「不可能」は事件で死に損なって生き残った三島が吉田健一のようになっていくとでもいった趣の小説である。
三島というひとは日本の文学風土の犠牲になったのだと思う。ヨーロッパにでも生まれていれば、高踏派の作家・劇作家の一人として天寿をまっとうできたのではないかと思う。
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本棚の整理(2) 福田恆存
福田氏の本はそれほど持っていない。新潮社の評論集7巻、文藝春秋社版の全集8巻、後は単行本(主に戯曲)5冊ほど、文庫本5冊くらいで、併せて25冊ほどである。
福田氏はわたくしが最初に遭遇した思想家で、大学の教養学部時代に読んで圧倒された。ここで何度も書いていると思うが、読んだきっかけは吉本隆明の「自立の思想的拠点」に、「味方の陣営には碌な奴がいないが、敵側にはなかなかのひとがいる」と書いてあって、江藤淳と福田恆存の名前があげてあったことである。江藤氏の本はすでに「夏目漱石」などを読んでいたが、福田氏は紀元節復活運動などという馬鹿なことをしている貧相なおじさんとだけ思っていたので、なぜそういうひとを吉本氏が評価しているのかが不思議だった。それで読んでみたのだが、一読、打ちのめされることになった。
それで、この昭和41年ごろ刊行の新潮社版の「評論集」は繰り返し読んだものだが、中でも、第1巻「芸術とは何か」、第2巻「人間・この劇的なるもの」は何回も読んだ。また第2巻に収載された西欧の作家を論じた文章、特にチェーホフ・ロレンス・エリオットなどについての論も繰り返し読んだ。「チェーホフの恐れたのは虚無ではない―虚無の観念をすらのみこんでしまふこの平凡な常識(絶望的な虚無思想をいだきながらも、ひとはやはり三度の飯を食ふのであるという事実)なのである。」「ロマンティックなもの、メタフィジックなもの、センティメンタルなものを、なぜチェーホフは憎んだか。理由はかんたんだ。これら三つのものに共通する根本的な性格―それは他人の存在を忘れることであり、他人の注意を自分にひきつけることであり、他人の生活を自己の基準によつて秩序づけることである。チェーホフはそのことにほとんど生理的な嫌悪感をいだいてゐた。」「これでチェーホフが敵としてゐたものの正体が明らかになつた―自己完成、良心、クリスト教道徳、そしてその背後にひそむ選民意識と自我意識。ロレンスがヨーロッパの伝統たるクリスト教精神のうちに認めた矛盾もまたそれであつた。なんぢの敵を愛せよ、なんぢ自身の徳を完成するためにーひとたびこの矛盾に気づくや、チェーホフの心は執拗にその矛盾に固執した。」「ところで、問題はソーニャだよ、カチューシャだよ。つまりスラブ人といふことになる。ラスコリニコフ対ソーニャ、ネフリュードフ対カチューシャ、西欧対スラブといふことなんだ。」「われわれにとつて必要なのは不幸に対する羞恥心である。原因を探すやうでは、それが見つかつたら、大手をふつて不幸を自慢にするつもりなんだらう。」「『チャタレイ夫人の恋人』がわいせつだつて?―冗談もいゝ加減にしたまへ。あのなかでロレンスが説きたかつた福音はかんたんなことだ。男は女にとつて、女は男にとつて、魅力ある生物になれ―たゞそれだけなんだよ、いゝ教へじやないか。従ひ甲斐のある教へじやないか。愛や誠実とちがつて、これは自分も相手も苦しめずにすむ。・・人間が愛や正義や法律や論理を動員して、自他を縛らうと決心したのは、つまり男が女に、女が男に魅力を失ひかけたといふ事実を自覚しだしたからなんだ。性の魅力の恢復―人間の幸福はそれだけさ、とロレンスはいつてゐるんだよ。・・」などなど。
福田氏を読む前、大学初年度のころにいかれていたのは吉行淳之介で、吉行氏の小説(特に初期の娼婦もの)では他人を傷つけることの警戒、他人と深くかかわることは即他人を傷つけることになるという構造への過敏な意識が目立つ。さらに、その前の高校時代に読んでいたのは太宰治で、太宰にも人間関係への過敏は明らかである。どうもそういう人間関係への意識過剰、他人を傷つけることへの恐れのようなものが自分にあることを当時は感じていて、それをスラブ対西欧という気宇壮大な大きな構図のなかで説明する福田氏の鮮やかな論法にすっかりといかれてしまったのだろうと思う。そいこうしているうちに、福田氏がいう全体感覚とか宇宙感覚というものが、本当には福田氏自身にも信じるられていないのではないかと感じるようになって(ロレンスは、それを間違いなく感じ取っていたはずである)、福田氏から距離を置くようになったのではないかと思う。たしか氏の「億万長者夫人」を三百人劇場かで見たことがある。しかし、そのあまりの演技の拙さ、ほとんど学芸会のような出来の舞台をみたことが、福田氏から決定的に離れる一つのきっかけになったように思う。
大学紛争のあおりで入試が中止されたころに発表された庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読み、まさに福田恆存思想を小説化したものなどと思い込んだりしたのも、今から思うと微笑ましい思い出である。
晩年の福田氏はT・S・エリオットを神輿にしていたように思うが、イギリス聖公会に帰依したエリオットとカトリックの無免許運転を自称していた福田氏ではやはり勝負は自ずから明らかなのだと思う。もっともエリオットの信仰についてはいろいろと議論があるところであろうが。
おそらく福田氏は文学者としてよりも劇作家あるいは演出家としてより、保守思想家として世に知られたのだと思うが、それはその当時の進歩的文化人というのがあまりにお粗末であったからで、福田氏が主張したことはごく当たり前の常識論に過ぎなかったのだと思う。氏の進歩的文化人をからかう姿勢がうまく表現されたのが「解つてたまるか!」であると思うが、それも進歩的文化人というものが往時の勢いを持たない存在になってしまえば、その役割を終える。進歩的文化人が論壇で力を失っていったことに、はたして福田氏がどの程度の枠割りを果たしたのか? まあ、ある程度のブレーキをかけるくらいの効果はあったのかもしれないが、福田氏がいようといまいと進歩的文化人などというのは文明開化の仇花なのであるから、早晩表舞台から消えていく運命であったわけである。
福田氏の一番の問題は文学者でありながら文学それ自体を愛する、あるいは楽しむひとではなく、文学を思想表現の手段としてみていた点にあるのではないかと思う。
福田氏の書いたもので一番後世に残るのは「私の国語教室」ではないかと思う。しかし、そこに書かれていることは議論の余地なく正しいのだとしても、それでも旧字旧かなで書く人間は今後そう遠くない将来に絶滅してしまうのではないかと思うので(短歌の世界などでは生き残るのだろうか?)、やはり福田氏は過渡期の人であったという思いを禁じえない。
そういうことで、いづれ読み返すかもしれないと思って揃えた文藝春秋社版の全集もまだほとんど目を通していない。
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本棚の整理 (1)吉田健一 補遺
今日、丸の内の丸善で本棚を見ていたら、未見の吉田健一関連の本を二冊みつけた。川本直氏ら編の「吉田健一ふたたび」という本と、青土社刊の吉田健一「時間」である。
「吉田健一ふたたび」は、その「はじめに」で、吉田健一の生前に健一と交流があった篠田一士、清水徹、高橋英夫、長谷川郁夫、角地幸男らの世代を第一世代、リアルタイムで吉田健一を愛読した池澤夏樹、柳瀬尚紀、四方田犬彦、丹生谷貴志、松浦寿輝らを第二世代とすれば、物心つく以前に吉田健一が亡くなっていたり、氏の存命中にはまだ生まれていなかった世代である第三世代のよる吉田健一論であることが宣言されている。事実ここに執筆しているひとたちはわたくしがまったく知ることのない名前ばありである(ある会に長老として参加したという富士川義之氏をのぞく)。わたくしはこの分類では第二世代ということになるのだろうか?
まだ拾い読みをしただけであるが、ざっと見たところでは第二世代が示したような新しい健一観は提示されていないように感じた。Ken'ichi Yoshida Revisited と副題がある。健一訳「ブライズヘッドふたたび」のもじりなのであろう。健一ファンにとっては、この翻訳はほとんど吉田健一著という感じなのである。
「時間」は、新潮社刊の単行本と講談社刊の文庫本がすでにあるので、なぜこれが刊行されたのかはよくわからないが(2012年11月と大分前の刊行であるが、しらなかった)、肝はおそらく松浦寿輝氏の解説が付されていることである。(単行本は既に入手困難で、文庫本は新字新仮名ということがあるのかもしれないが。)
松浦氏の解説の終わりのほうに、「能天気なエピキュリズムの楽天性ほど吉田健一の世界から遠いものはない」とある。「能天気なエピキュリズムの楽天性」というのは、「吉田健一ふたたび」がいう第一世代。特に篠田一士氏などの健一観を指すのではないかと思う。
わたくしが気になるのは、丸谷才一氏や池澤夏樹氏の健一論はどこに位置するのだろうかということである。丸谷氏や池澤氏は日本の私小説的風土へのアンチとして吉田健一を持ちあげたのではないかと思うので、どちらかといえば第一世代に近い吉田健一観をもっていたのではないかという気もする。
「時間」の最後のほうに「変化」も刊行されていることが告示されている(やはり解説は松浦寿輝氏)が、これは今日は書店にはみあたらなかった。
本棚の整理(1) 吉田健一
最近、小さな書庫を確保することができ、いままであちこちに分散して収納されていた本の一部をようやく一か所に収納できるようになった。といっても、四畳半くらいのスペースの三方に本棚を床から天井まで作り付け、本棚の奥行を25センチくらいにして、収納した本の手前に文庫本くらいはおけるようにしただけのもので、壁の一面に500冊ほど、三面全部で1500冊ほどの収納がやっとだから所蔵している本の1/3から1/4が収まるだけである。とはいっても、比較的関心が高い本が背表紙が見える状態で一か所にまとまっているというのは精神衛生上は悪くない。
それで、そこに所蔵された本を少し点検してみることにする。
第一回はわたくしの教祖というか神輿である吉田健一。
さっと数えて120冊くらいの吉田健一関連本があった。といっても目についた限りの文庫化された健一本はすべて持っているつもりなので(買ったのを忘れて2冊買っているものも少なからずある)、それは当然単行本などと重複しているから著書としては70~80冊だろうか?
まず昭和43年頃刊行(つまりわたくしが21歳ごろに刊行)の原書房版「吉田健一全集」(どういうわけか全10巻のうちの7巻だけが欠けている)がある。わたくしはこの全集で吉田健一に親しむことになった。この全集では「英国の文学」と「東西文学論」を除けば(この全集には「文學の楽み」は収められていなかったように思う)、主に随筆に親しんだ。
この原書房版の全集は吉田氏が「ヨオロツパの世紀末」でブレイクして一部に贔屓筋を持つ異端の物書きから多くの読者を有する正統に位置する作家へと変貌する前に出ている。したがって、わたくしが親しみはじめた当時の吉田健一のイメージは随筆家であった。「文句の言ひどほし」「不信心」「三文紳士」などに収められた文章には随分と多くのことを教えられた。たとえば「三文紳士」の「母について」「満腹感」「乞食時代」「貧乏物語」「家を建てる話」・・・。「文学概論」はその当時はよくわからなかった。この全集の解説は全巻を篠田一士氏が単独で書いていて、この解説にも当時は随分と影響された。たとえば、「大人が読んで、少しもおかしくない、安心できる文学者―それが吉田健一の身上なのである」といった類の文章である。後に少し書くように、今ではこれは少し違うのではないかと思うようになっている。
死後出版の集英社版「吉田健一著作集」では、1・3・5・14・15巻と補巻1・2を持っていた。主に年譜などを参照したいと購入した記憶がある。
同じく死後出版の新潮社版「吉田健一集成」は、2・3・5・7・別巻があった。これも主に年譜とかを見たいと思って買ったのだが、集英社版の著作集にしても新潮社版の集成にしても、そこに収められている解説とか月報とかが面白く、それを読むためにだけでもそろえておいたほうがよかったかと今になったは思う。けれども、出版当時はまだこちらは若くてで経済的な余裕がなく、さすがにそういう酔狂なことはできなかった。集成5巻の月報に収められた丹生谷貴志氏の「獣としての人間」という解説文は、わたくしが今まで目にしたなかでは最高の吉田健一論だと思っている。
わたくしが原書房版の全集で吉田健一を読みだしたころの吉田氏は「余生の文学」とかを出していたころで、もう書きたいことはない、後は繰り返しだけだ、などとあまり意気があがらないことを書いていて、それから先に「ヨオロツパの世紀末」以降の大量の執筆があるなどとは想像もできなかった。ということで、「ヨオロツパの世紀末」にびっくりして以降の氏の著作はすべて持っているのではないかと思う。
ちょっと変わったところでは、昭和25年刊のラフォルグ「ハムレット異聞」(「ハムレット」「サロメ」「パンとシリンクス」の翻訳と吉田氏のラフォルグ論を収める)と昭和23年刊のペイタア「ルネッサンス」の翻訳をもっている。いずれも神田の古書店でみつけたもの。前者は定価90円、後者は130円となっている。前者は後ろの扉に1300という鉛筆書きがある。おそらく古書店のつけた値段であろう。わたくしがまだ学生の時代だから50年くらいまえである。汚い壊れかけたような本であったが、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで買った記憶がある。
この「ハムレット異聞」は若き日の大岡信氏らをふくむ何人かのひとを熱狂させたらしく、その記憶が後年の大岡氏をして、再刊を予定していた「ユリイカ」に吉田氏が連載するテーマは「ヨオロツパの世紀末」しかないという提案をさせることになったらしい。もっとも大岡氏の思い描いた「ヨオロツパの世紀末」と実際に吉田氏が執筆した「ヨオロツパの世紀末」の世紀末はまったく違ったものであったと思うけれど。
あと、ちょっと特殊な本としては、限定版の小澤書店刊行「ラフォルグ抄」がある。わたくしが持っている本は「限定1200部刊行 本書はその290番」とある。皮装の立派な本である。限定版ではないが、同じ小澤書店から出た「定本 落日抄」も立派な本である。背が皮装になっている。小澤書店からは「ポエティカ 全二巻」という別の豪華本も出ているのだが、昭和50年ごろに各巻5200円というのでは買えなかった。当時は、こういう本を出す小澤書店というのはお金持ちがお道楽に採算を度外視してやっているのではないかと思っていた。それで、この小澤書店が倒産したと聞いたときには少し驚いた。そしてさらに後年、その小澤書店店主であった長谷川郁夫氏が「新潮」に「吉田健一」の連載をはじめたときはまたびっくりした。吉田健一に入れあげて倒産した出版社はいくつかあるようで、「吉田健一」で同じく倒産した垂水書房店主の天野亮氏のことを描く長谷川氏の筆は沈んでいる。
その長谷川氏のものもふくめ、何冊かの吉田健一論も持っている。篠田一士「吉田健一論」、高橋英夫「琥珀の夜から朝の光へ」、清水徹「吉田健一の時間」、富士川義之「新=東西文学論」(これは吉田論は一部)、長谷川郁夫「吉田健一」、角地幸男「ケンブリッジ帰りの文士 吉田健一」、そして丹生谷貴士・四方田犬彦・松浦寿輝・柳瀬尚紀「吉田健一頌」・・。このなかでは「吉田健一頌」の丹生谷氏の論がわたくしには断然面白いと感じられる。
文庫本は、持ち運びによく読みやすいのと、そこに付された解説を読むのも楽しみで刊行されたものはすべて揃えていると思うが、どの本も、新仮名・新漢字になっているのが困るところである。健一信者は、「文学の楽しみ」は「文學の楽み」でなくてはいけないなどと思うのである。もっとも吉田氏が単行本として刊行した本でも、新字新仮名とされているものもたくさんあるわけで(「文學の楽み」も「文学の楽しみ」だったと思う)、著作集とか集成とかが刊行されることの意味の一端は、吉田氏が原稿に書いたそのままの文で著書が収録されるところにあるのかもしれない。
なぜ、わたくしが吉田氏にこれほどいかれたのかということを考えてみると、まず第一に、中学・高校・大学初年を通じてなんとなく自分がそうであると思っていた文学青年的なものを払拭してくれたことがあるのだと思う。文学が小説に限られるわけではないこと(むしろ文学のエッセンスは詩にあるのだということ)、また小説というのが著者の思想とか考え方を伝達するためにあるのではないことを教えてくれたということもある。小説家が小説を書くのは小説というある構造体を作ること自体が目的であって、何かの思想とか考えを伝達するための手段としてではないということである。
そしてもっと大局的に見ると、反キリスト教、反観念論の人としての吉田健一にいかれたのだと思う。「時間」などという書物は、ひとによっては観念論の極致とみるかもしれない。また、吉田氏のことを《鼻もちならない「高等遊民」》(丹生谷氏)と見るひともいるであろうと思う。
とすれば、丹生谷氏がいう「獣としての人間」が問題となる。キリスト教徒の犬とか観念論者の猫などというのはいない。そしてまた一方、言語を持つ動物も文学や音楽を楽しむ動物も人間以外にはいない。丹生谷氏によれば、「吉田健一はあらゆる理念を喪失して「獣」となった人間の中に十全な「人間」の姿を認める」人なのである。そうであれば、人間もまた、「他の動物と同じに「観念がないのだから、絶望もなければ希望もない生」を生きればいいということになる。
「ヨオロツパの世紀末」を最初読んだときには、それを吉田氏のきわめて独創的な論と思ったものだが、その後次第に、そこで述べられていることはヨーロッパの知識人にとっては比較的常識的な見解なのではないかと思うようになった。吉田氏が若い時に留学したケンブリッジのブルームズベリー・グループなどにとってはそれは特に奇異なものではなかったのではないかと思う。彼らが敵としたのは、たとえばヴィクトリア朝道徳の偽善であって、それは吉田健一が否定したヨーロッパ19世紀とほぼ重なるのではないかと思う。
しかし、吉田氏の「ヨオロツパの世紀末」が日本の読書界ではきわめて大きなインパクトを持ったということは、それはとりもなおさず、日本の明治期以降の西欧受容がいかに歪んでいたかを示すことになるのではないかと思う。
「吉田健一頌」の著者である丹生谷貴士・四方田犬彦・松浦寿輝・柳瀬尚紀といった人達はいづれもポスト・モダン思想の洗礼をうけているはずである。そして、ポスト・モダンの人達が否定したモダンとはまさにヨーロッパ19世紀のことではないかと思う。そうであれば、ポスト・モダン思想というのが現在から見るとほとんど死屍累々という結果となっているのだとしても、それがめざそうとした方向性については、それほど的を外したものだったとは言えないのだろうと思う。
そして、わたくしが吉田健一にいかれることになった一端は、わたくしが従事している医療という分野では、いまだにモダンのものの見方について、ほとんどかすかな疑いすら抱いていないということがあるのだろうと思う。もう30年近く前に「吉田健一の医学論」というのを書いたことがあるが(このブログの最初のほうに収載してある)、今から思うと、あまりにもモダン一色である医療の世界への反発がそれを書かせたのではないかという気もする。
吉田氏の翻訳であるウォーの「黒いいたづら」「ピンフォールドの試練」「ブライズヘッド再び」、ボーエンの「日さかり」といった本は、わたくしにはほとんど吉田氏の著書のように思えるのだが、ここにはカウントしなかった。しかし多くの読書人にとって「葡萄酒の色」は吉田氏の著作と思えているのではないだろうか? たとえば、そこのラフォルグ「最後の詩」、トオマス「ロンドンで一人の子供が火災で死んだのを悼むことに対する拒絶」(「・・・最初に死んだものの後に、又といふことはない。」)
「吉田健一は文明開化だ」というのは河上徹太郎の言葉であるが、明治期の文明開化を否定して、本当の文明開化とはどういうものかを示そうとしたのが吉田氏の試みようとしたことであったのかもしれない。
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加藤典洋さん
加藤典洋さんが亡くなったらしい。先日の橋本治さんのときもそうだったが、新聞をとっていないので、訃報記事などを目にすることもなく、書店で偶然、本のカバーに「追悼〇〇さん」などという帯が巻かれているの見て、それを知ることになることが続いている。
加藤さんも橋本さんも1948年生まれであるから、わたくしより一歳下ではあるが、同世代ということになる。ということは全共闘世代である。橋本さんは独自の感性で全共闘運動の一番根っこにあったであろう《知識人的なもの、インテリめいたもの》(それは、それ以前にあったいわゆる進歩的文化人といったもののありかたへの反発という側面をもったものであったが、それにもかかわらず、民衆を指導する前衛という図式からついに自由になれなかった)に身体感覚的に反発をしたわけだが、加藤さんの場合、全共闘運動にかかわったことが、アカデミーの道に進むことを許さず、後年、大学の教壇に立つことがあったとしても、基本的に在野のひととして生きることを選ばせたのではないかと思う。
この度、その訃報に接して、本棚をあらためて見てみたところ、氏の著作が30冊近くあることがわかっていささか驚いた。
氏の本にはじめて接したのが何だったか判然としないが、あるいは評判になった(というよりも批判的な評が多かった)「敗戦後論」だったかもしれない。手許にあるのは1997年8月の初版であるが、98年7月購入というメモがある。20年以上前ということになる。「敗戦後論」「戦後後論」「語り口の問題」の3つの論を収めているが、「敗戦後論」は「群像」95年1月が初出である。これはきわめて政治的な論文で、1991年の湾岸戦争での文学者の反戦声明などをとりあげ、戦後憲法の戦争放棄条項が配線直後に原爆の威力、軍事的威圧のもとに押し付けられたという背景を一切抜きにして平和憲法を自明のものとして論じるいきかたなどを強く批判している。現行憲法が連合国総司令部によって作成され押し付けられたものであるという明々白々たる事実をなかったことにして、当時の日本は占領下であり、占領軍の意向に逆らうことなど到底できない状況であったこともなかったことにして、自分達の手で勝ちとった成果であるが如き顔を平気でしている欺瞞をついている。これは日本の"左派"のアキレス腱であり、日本の右側から、だからこそ「自主憲法」制定といった方向からの攻撃をうけてきた。しかし、加藤氏は左のひと、戦後憲法の肯定者なのである。にもかかわらず、氏がこの「敗戦後論」で主張したことは右側からも左側からも袋叩きという気の毒なことになった。それに対する反論(というのともちょっと違うかもしれないが)として書かれたのが「敗戦後論」に収められている「戦後後論」と「語り口の問題」で、実はわたくしにはこのほうがずっと面白く、それで加藤氏の書くもの、あるいはそこで紹介された著書をもっと読んでみたいと思ったように記憶している。この後の方の論文で論じられているのは、例えば、太宰治の「トカトントン」であり、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」であり、アーレントの「イスラエルのアイヒマン」なのである。加藤さんというひとは文学が読めるひと、その点で信用できるひとなのだと思った。それでアーレントの著作なども何冊か読むことになったと記憶している。
そういう点で面白かったのが「テクストから遠く離れて」とか「小説の未来」といった方向の本で、もっとこういったものをたくさん残してもらいたかったと思う。
「僕が批評家になったわけ」という本で、氏が批評を書きだした当時、文壇を席巻していた蓮實重彦氏や柄谷行人氏らを筆頭とするポストモダン批評、フーコーやデリダらのポストモダン思想から文化人類学や記号論の分野からの引用に満ち満ちた批評に対し、そういう中途半端な学問のようなものではない、自分はどう思うかということを根拠とする批評、それを自分は目指したということが書いてある。そうでないと、「一部の人の玩弄物」になってしまうという、と。しかし、わたくしには「敗戦後論」は引用に満ち満ちたものに思えてしまうし、橋爪大三郎氏との対談(審判:竹田青嗣氏)の「天皇の戦争責任」などで展開される論はスコラ哲学顔負け煩瑣で些末な議論でしかないように思う。
昔から「政治と文学」といったことがいわれるが、そういうことを口にするのはもっぱら文学の畑の人々だけで、政治の畑のひとがそういう議論を一顧だにしたことはない。
加藤氏は「敗戦後論」が十全に論壇に届かなったという思いからなのだろうかか、2015年に「戦後入門」という本を書いている。自分なりの憲法改正案をふくむ大部の本であるが、こういうものが現実政治に場に微かにでも影響を与えるとは思えない。海に美酒を捧げても一瞬たりとも海が赤らむとも思えないのである。
氏の生き方は全共闘世代の一つの典型であったのかもしれないが、憲法とかではなく、もっと文学の方面で多くの仕事をしてほしかったと思う。
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楠木建「すべては「好き嫌い」から始まる」
著者の楠木さんという方は、今までまったく存じ上げなかった方なのだが、つい最近、偶然、本屋で「戦略読書日記」(ちくま文庫)というのを見つけて面白かったことから、その名を知った。
その「戦略読書日記」という本を本屋で立ち読みしていて、その第12章のタイトルである「俺の目を見ろ、何にも言うな」(これは「プロフェッショナルマネージャー」という本の書評なのだが・・楠木氏は競争戦略というおよそわたくしには縁のない学問の専門家)を見て買ってみようかという気になった。「俺の目を見ろ、何にも言うな」というのは、小室直樹氏が「痛快! 憲法学」で日本の後進性の象徴というような言い方で用いていたのが、わたくしの記憶に鮮明に残っている。要するに、会社の代表される日本の組織というのはヤクザの組織と変わらない後進性を残しているという話で(草鞋を脱ぐ、一宿一飯の恩義、・・)、それがアメリカの経営者の書いた本の書評のタイトルに出てくるところに興味を惹かれた。
「戦略読書日記」も、まだ拾い読みをしているところなのだが、その楠木さんの「すべては「好き嫌い」から始まる」もまだ出たばかりである(前者の文庫化が本年4月10日、後者が3月30日)。この「すべては「好き嫌い」から始まる」の方が氏の思考法や感受性を直接語っているように思えるので、こちらを先に見てみることにした。
本論の各章はすべて「あくまでも個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい。」という素敵な前口上から始まっているが、ここではまず、本章の前の「はじめに 「好き嫌い族」宣言」という前書きからみていく。
「好き嫌い」とは「良し悪し」では割り切れないものの総称である、と宣言される。「民主主義」や「言論の自由」は普遍的な良し悪しであり「文明」である。しかし地域固有の境界の中でしか通用しない「文化」には文明ほどの普遍性はない。
ここで著者が言わんとしていることは、最近「良し悪し族」が大きな顔をしすぎていないか、ということである。楠木さんに言わせると、良し悪し族の難点は教条主義に傾きやすい点にある。一方、好き嫌い族は教養に深くかかわる。教条対教養。日本語の教養の原語は「自由な技能」である(その対が「機械的な技能」)。「その人がその人であるための基盤」、それこそが教養である。好き嫌い族は総じて平和主義者である。歴史上、戦争を起こすのは決まって良し悪し族だった、と。
《「民主主義」や「言論の自由」は普遍的な良し悪しであり「文明」である。》という一文からして論じだすときりがないと思う。「民主主義」や「言論の自由」というのはある時期の西欧が作り出したローカルな文化、ローカルな価値観であって決して普遍的に通用するものではないという見方は当然あるであろう。また科学(自然科学)は普遍的なものであって「好き嫌い」を超えるという見方もあるであろう。
この前書きを読んでいて、すぐに頭に浮かんだのが、ドーキンス対グールドの宗教に対する見方の対立である。ドーキンスにいわせれば自然科学は事実に対する論であり、それは価値観を超越する。一方、グールドによれば自然科学は事実の問題にはかかわれるが価値の問題にはかかわれないのである。
わたくしなどがドーキンスの宗教についての議論を読んで感じるのは、何かこの人は教養が足りないなあというか、底が浅いなあという感じである。一方、グールドの支離滅裂(としかわたくしには思えない)な宗教擁護(もっといえば広義のキリスト教擁護)の論を読んでいると、この人は倫理というものは自然科学からは絶対に導出されないと思っていて、断固たるダーウイン主義者であるにもかかわらず、「社会生物学」のようなあっけらかんとした進化論の人間への適応にはどうしても同意できないのだろうな、と感じる。
「社会生物学論争」というのは欧米ではあれほどの大論争になったにもかかわらず日本の生物学自然科学分野でもほとんど何の波風も立てなかった。それは日本の生物学自然科学の分野の研究者が自分は事実の問題を研究しているのであって、価値の問題などはわがことではないと信じているからであろうと思う。(紅旗征戎非吾事)
幸い、本書は人文学に属する分野をあつかっているので、自然科学の学問における立ち位置のような問題にはかかわっていない。
本書は文明と教養の擁護を志向している。その反対は野蛮と独善ということになろう。東欧崩壊をきっかけに書かれた「歴史の終わり」などは、これからは西欧的価値観が世界を覆っていく、世界は平板になり、ニーチェがいった小賢しい「最後の人間」たちが跋扈する世界になっていくだろうという楽観的かつ悲観的な展望が描かれていたが、西欧的行き方へのアンチとしてイスラムがでてくると世界を西欧的価値観が覆っていくという見方はあっという間に崩れ、ロシアや中国に西欧からみれば何歩か後退としか思えない政体がでてきて、西欧的行き方への疑問が生じてきて戸惑っていたところに、トランプ大統領の誕生で、世界は野蛮と独善の方向にむかっているのではないかという戸惑いが、多くの教養人の間で生じてきている。
本書が生まれる背景にはそういう最近の世の中の動きがあるのではないかと思うが、それと同時に、本書の「極私的「仕事の原則」」という章に書かれた氏の自己認識「僕が好きだったのは研究ではなくて、大学でポストを得て、自分の部屋をもらって、好きな本に囲まれながら、朝から晩まで好き勝手にああだこうだと考えていられる「様式」であり「状態」なのではないか」というのはわたしにも非常によくわかる。「人づき合いが苦手で、心を開いて仲良くなれる友達が少なく、集団行動とかチームワークがテンでダメだった」ので「一人でやる仕事、部下も上司もいない「ソロの仕事」」を目指した」というのも、わたくしもまたそうであるので非常に共感できる。医者という仕事もまさにこの条件にぴたりである。
そういう書斎引き籠り型人間というのは本来は社会を動かす力などまったく持たないわけで、その願うところはどうか自分のことは抛っておいてくれ!、皆さんに害はあたえないから、という辺りにあるはずなのだが、どうもそうも言っていられない、お前はそんなことでいいのかと余計なお世話を焼きにくる困った正義の人、好戦的な教条の人が増えてきているという思いがあって、それでこのような本を書くことになったのではないかと思う。
「自らの好き嫌いについての理解が深いほど、人間は快適かつ思い悩むことの少ない生活を送ることができる」と氏はいう。その路線がトランプ大統領批判にむすびつくような曲芸となれば芽出度し芽出度しなのであろうが、氏が批判するようなひとは氏の書くものを読んでも何も感じず、というかそもそも読む事もなく、読むのはわたくしのような書斎引き籠り型人間ばかりなのではないか、というのがこういう本の難しいところである。
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橋本治「父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない」(2)
わたくしはE・トッドの著作は「帝国以後」しか読んでいないので、以下、鹿島茂氏のまとめにしたがう。
トッドは世界の家族を4類型に分ける。
1)絶対核家族(イングランド・アメリカ型):結婚した男子は親と同居しない。別居して別の核家族をつくる。親の権威は永続的でなく、親子関係も権威主義的ではない。結婚しなくても、生計が立つようになると子供は独立する。
親の財産は兄弟のなかのひとりに相続されるが、誰とはきまっていない。そのための争いがしばしばおきる。
教育には不熱心(識字率は低い)。ただし、女性の地位は比較的高く、女性識字率も比較的高い。
イングランド、オランダ、デンマーク、アメリカ合衆国、オーストラリア、ニュウジーランドなど。
2)平等主義核家族(フランス・スペイン型):子どもは結婚後、親と同居することはまずない。親の権威は永続的でなく、親子関係は非権威主義的。その点は1)に似るが、遺産相続が完全に平等である点で異なる。
識字率は低く、家庭内における女性の地位も高くない。
フランスのパリ盆地一帯、スペイン中部、ポルトガル南西部、ポーランド、ルーマニア、イタリア南部、中南米など。
3)直系家族(ドイツ・日本型):結婚した子どもの一人(多くは長男)が両親と同居する。親の権威は永続的で、親子関係は権威主義的。兄弟間は不平等。財産は多くは長男が相続。長男の嫁も比較的権威を持つ。
識字率、特に女性の識字率が高い。
ドイツ、オーストリア、スイス、チェコ、スウェーデン、ノルウェイ、ベルギー、フランス周縁、スペインの一部、オルトガルの一部、スコットランド、アイルランド、韓国、北朝鮮、日本など。
4)外婚制共同体家族(ロシア、中国型):男子はすべて結婚後も両親と同居する。父親の権威は強い。父親の死後は、財産は兄弟同士(ただし姉妹は排除)で平等に分割されて、個々が独立する。家庭内で女性の地位は低い。女性の識字率は低い。
ロシア、中国、フィンランド、フランスの中央山間部、イタリア中部、ハンガ説リー、セルビア、ボスニア、ブルガリア、マケドニア、ベトナム北部など。
人間を決定するものは、生得的な遺伝的なものか、後天的に文化によって決定されるのかについては従来から喧々諤々の議論があり、従来の人文学では後天的文化決定論が主流であったものが、次第に生得説が勢いを得てきているというのが現状であろう。遺伝説はわれわれにはまだ狩猟採集時代の環境に適応した生得の傾向をもっているというわけであるが、トッドの家族類型論は生得説と後天説の中間に位置するように思われる。
日本は明治以降、西欧を受け入れてきた(あるいは押しつけられてきた)わけで、さらに敗戦後はアメリカを受容したわけであるが、トッドの分類によれば一言で欧米といっても、ドイツ・フランス・英米でそれぞれまったく異なる類型に属するわけである。明治期以降、日本の洋学派はフランス派、ドイツ派はたくさんいたが、イギリス派やアメリカ派というのはずっと少なかったように思う。ヨーロッパの文明の精華というのは主としてドイツやフランスにあって、それに比べたらイギリスなどにはあまりみるべきものはないということになっていたのかもしれない。
吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」にはドイツのことはあまりでてこない。ゲーテが少しでてくるくらいかもしれない。健一さんにとってヨーロッパの精華は英仏にあるのである。そして「英国の文化の流れ」という文章(「英国に就て」所収)では、水洗便所がフランスなどよりもはるかに早くイギリスで発達したことに、イギリス文化の特色をみている。要するに生活の快適を何より重視する姿勢である。
さて、1947年の民法改正は直系家族の行き方を一編の法律によって絶対家族型へと転換させようとしたものである。しかし、単なる法律の条文の変更が社会をすぐにかえるということはない。とはいっても長い時間軸のなかでは社会も変わっていく。その変化の要因としてトッドが重視するのが「女性識字率」で、女性の識字率が50%を超えると出生率が下がるとトッドは主張する。事実、日本では女性の教育水準はどんどんとあがっていて、その一方で、出生率は低下してきている。なぜ教育水準があがると出生率は下がるのか? 教育水準があがると子供を産む産まない(あるいは、そもそも結婚するしない)の選択の主体が男性から女性に移るからである。そして女性が選択するものは子供を産む産まないだけではない。
ここまで来て、ようやく「父権制の崩壊 あるいは指導者はもういない」の「父権制を‥転覆させたのは女である」の議論に戻ることができる。
トッドの家族システムの分類において女性は大きな役割を演じていない。女性の識字率が低い傾向にあるか、相対的に高い傾向にあるかは家族類型によって違いはあるが、女性識字率を向上させる動機自体は家族システムには内在していない。
すべての家族システムにおいて男が主導権を握っていることについては狩猟採集時代の生活形態という進化論的な背景があるのであろう。一方、農耕の開始にともなう余剰な富の蓄積は言語を産み、文字を産み、都市を産み、文明を産み、そしてついには当初は男性だけのものであった教育が女性にも普及するようになり、それが家族システムという下部構造を侵食しはじめている、
橋本氏がいう『父権制の崩壊』というのはそのことで、侵食の具体例はセクハラやパワハラという形であらわれてきている。しかし、セクハラもパワハラも組織という背景があるにしろ、個対個の問題である。問題は女性の識字率の向上に相当するものが、日本の疑似《家》である会社組織においてもみられるだろうかということである。山本七平のいう、日本においては機能集団は共同体化しないかぎり機能集団としての機能も果たせないという問題である。日本においては確かに《家》は《戸》ではなくなってきている。しかし《疑似家》はあいかわらず《戸》のままではないのだろうか?
正社員と非正社員の別は、家族と家族外の区別であるし、年功序列は長男優先である。いわゆる日本型雇用(終身雇用、年功序列、企業別組合)の慣行が確立されたのは高度成長期であるとされているが、そのルーツは陸軍内務班にあるのではないかと思っている。あるいは「直系家族」の文化が組織を作ると何らか陸軍内務班的なものになるということなのかもしれない。「星の数よりメンコの数」「私的制裁」・・・。現在のパワハラはもとをたどれば「私的制裁」にいたるのではないだろうか?
わたくしはこの辺りの問題について山本七平氏から多くを学んできたと思っているが、山本氏は日本の組織というものについて愛憎半ばしたひとである。氏は陸軍で経験した不条理の考察から言論活動をはじめたひとである(「日本人とユダヤ人」はほんのご挨拶、名刺交換といったものであろう。「私の中の日本軍」「ある異常体験者の偏見」こそが氏の出発点である。そしてそれは後年の「日本はなぜ敗れるのか」まで一貫している。それと同時に「日本資本主義の精神」で紹介されている氏と同業である製本業の中小企業主であるHさんへの無条件の敬愛など、氏の言論は日本の組織のもつ美点と欠点双方への愛憎で引き裂かれている。
橋本氏は生涯、筆一本で生きたひとで組織には属することがなかったひとだから(それにしては「上司は思いつきでものをいう」のような本を書けるのが不思議であるが)、一人出版社主で小なりといえども企業経営を経験した山本氏とは違うということなのであろう。
家制度は崩れ、現在夫婦間にあるのは建物としての家だけである。しかし、233ページに『「企業」「会社」という、「赤の他人同士の集合体」』とあるが、上述のように日本の「企業」や「会社」という集合体は、今までのところは、それが赤の他人同士の集合体であるかぎりはうまく機能しなくて、疑似=家となり共同体化して、はじめて機能してきたという歴史を持つ。
橋本氏は現在のアメリカ、ロシア、中国、北朝鮮での独裁的権力者の出現を「力を備えた一人の指導者」というかつての「家」に由来する幻想からわれわれがまだ自由になっていないためとしている。最終ページのひとつ前の234ページから始まる最後のセンテンスは「いきなり大胆にもこの全部をまとめてしまうと」という文からはじまる。性急でせわしない感じである。本当はもっと詳細な議論をしたいのだが、自分にはもはや時間がないということを感じていたのだろうか?
E・トッドは『外婚制共同体家族(ロシア、中国型)』の形態をとる地域の分布が共産圏の分布にほぼ一致することを発見することで自分の説に自信をもったということである。ロシアや中国の現在というのは確かにトッドの説を裏付けているように思える。鹿島氏の本によれば、E・トッドはトランプ政権の出現をも予言していたのだそうで、それはアメリカの白人中年の死亡率上昇にみられる『グローバリゼーション疲れ』による当然の結果としているとのことである。鹿島氏はそれに加えて、アングロサクソンの家族類型の特徴である教育に熱心でないことも関連しているのではないかとしている。
橋本氏は近世に親和性を持つ江戸を肌で理解できる特異な感性をもった稀有なひとだったのだと思う。その感性から日本の近代の歪みというのを理屈でなく身体で感じとることができる特殊な能力を持っていた。そしてその歪んだ日本の近代に対照するものとして掲げられていたのはやはりヨーロッパ18世紀の啓蒙思想に由来する人間像、つまり『平等主義核家族(フランス・スペイン型)』であったように思う。
橋本氏が指摘する日本の近代の歪みというのは概ね首肯できるものであるとしても、ヨーロッパ18世紀の啓蒙思想が提示した人間像がこれからも長く命脈を保ちうるものであるのか否か、その辺りのことについて、もっと橋本氏の見解をきいてみたかったという気がする。
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