中村哲 澤池久枝「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束」

 池澤夏樹氏の本で知った中村哲氏と澤地久枝氏の対談「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」を読んで、中村氏が小さいころ昆虫少年であったこと、西南学院というミッションスクールで学んだことからクリスチャンになったこと、中村氏の父はコミュニストであったが、同時に日本的道義も大切にする人で、中村氏にもまず論語素読をさせるようなひとであったことなどを知った。
 養老孟司氏も池田清彦氏も幼少時、昆虫青年で、そのまま現在の昆虫老年にいたったひとのようだから、昆虫好きには少し変わった方が多いのかもしれない。北杜夫も昆虫少年だったと本書にあった。少なくとも、昆虫好きの裏には人間嫌いという側面がうっすらとあるようにも思う、氏がアフガニスタンとかかわることになったのも、虫好きの延長での山好きということもあったようだが、直接には、「日本キリスト教海外医療協力会」からの依頼が発端であったらしい。
 前回のエントリーに中野重治コミュニストでありながら、武士的倫理をそのバックボーンを持つひとであったというようなことを書いた。わたくしはその最後の世代であると思うのだが、男というもの漠然とした像として士大夫の士であるべしというようなものがあったのではないかと思う。武士は食はねど高楊枝である。原口統三の「二十歳のエチュード」のどこかに、「武士は食はねど高楊枝 ぼくはこの言葉がどんなに好きだったろう」というようなところがあったと記憶している。吉田健一の何かの本に、氏の祖父にあたる牧野伸顕が「I am SAMURAI !」と占領米軍人に叫ぶ場面があった。養老氏の孟司という名前にも強く儒教の匂いがする。わたくしは一高寮歌祭的なようなものというか「嗚呼玉杯・・」を袴高下駄で肩を組んで陶酔して歌うおじさんが大嫌いなのだけれども、ああいった選良意識は武士意識の一番悪いあらわれなのかもしれない。
 それでは女性の場合は? ミィツション・スクールというのが大きな役割を果たしたのではないかと思う。知り合いに女子学院出のひとがいるが、自分ではクリスチャンのつもりらしいが、話をきいていると、どうみてもキリスト教徒というより女子学院教徒である。麻布も変わった学校だが、女子学院という学校もかなり変わった学校のようで、先生のかなりは離婚した女性で、自活のために教壇にたっていたらしい。「結婚してもいやになったらすぐに別れなさい」などと公言する先生もいたらしく、良妻賢母といった方面にはいささかも関心のない学校らしい。
 日本の場合はindependentであること、自立しているということは、男性の場合は儒教→武士道路線から、女性の場合にはキリスト教を経由した男女対等路線からきているような気がする。
 中村氏は当初、精神科を専攻したひとであることも初めて知った、精神科だったら暇だから趣味の昆虫採集も並行して続けられるという思いがあったのと、自分自身が赤面恐怖という一種の精神科症状があったためと、本書ではいわれている。
 医者で文人というひとは相当数いて、わたくしは小説家になるなどという馬鹿なことは医学部学生になってからは一切考えなくなっていたが、それでも本を読むことは続けたいという思いはあって、医業と文筆業を両立させた先人がたくさんいるのだから、医者をしながら本を読むひとであることは可能なのではないかという思いがあって医学部にいったという側面は確かにあったと思う。
 医療について積極的な動機がなく医学部にいき、いった途端に東大闘争(紛争)というドラマティックというも愚かな出来事の渦中に巻き込まれ、それの終焉の後は、もう散文的の極致の、どの筋肉がどの骨についているかなどの講義(ムスクルス・ステルノクレイドマストイデウス・・・)がひたすら続き、医学そのものに関心がもてなくなってしまったことには本当に困った。
 ともにかく研究のまねごとをして学位がとれたので、35歳で市中の病院にでて、すっかり錆びついていた臨床をとりもどすのにバタバタしているうちに、40歳くらいになって、なんとなく患者さんの気持ちというのが理解できるような気がする状況がときどきでてきて、ようやく臨床をやっていての落ち着かなさが少しは薄れてきた。「どうしましたか?」「お腹が痛くて」だけではだめで、「実は最近、親戚で大腸がんがわかったひとがいて・・・」というところまでいきつかないと臨床はうまくいかない。小説を読んできた功徳か、そういうことはそれほど苦手ではないと思えるようになってきて、自分のような医者もいてもいいのかなと思えるようになってきた。臨床、特に内科の方面は(精神医学はさらにそうであるかもしれないが)、自然科学というより人文科学という側面を持つように思う。
 高一のころ、医学部進学希望を小児科医であった父に告げたら、「医学なんか何の役にもたたん。農学部にいって食糧増産の研究でもしろ!」と反対された。
 中村氏のたどった道は正にアフガンでは臨床医学などほとんど何の役にも立たない。まず食べものの確保をという道である。
 そして今になって思えば、食糧増産の研究も本当にはアフガンの役には大きくは立てなくて、アフガンの現状をもたらした元凶は政治である。そしておそらく中村氏の命を奪ったものも政治である。
 「小医は病を癒し、中医は人を癒し、大医は国を癒す」という言葉がある。中村氏は大医を目指したのではないだろうが、いくら目の前の患者を癒しても、その患者が飢えや渇きで次々に死んでいくのを見て、井戸を掘り、水を引くことに道を変えたのであろう。
 しかし、病を癒せるのなら、小医だって大したもので、実際には、「ときに癒し、しばしば和らげ、つねに慰む」であって、癒せることだってそれほど多くはない。治せないまでも和らげることがせいぜいのことは多いわけだし、それさえできなければ、あとできることは傍にいることだけである。
 中村氏が大であったのは、アフガンに居続けたことなのだと思う。その地を見捨てることなく、そこに居続けたことなのだと思う。その点で中村氏はやはり一人の臨床医であったのだと思う。

漢文の世界

 最近、老眼がとみに進んで、細かい活字の本を読むのがつらくなり(一番つらいのは「今日の治療薬」といった細かい活字がぎっしり組まれたリファレンス本)、読書量が減ってきて本の感想だけでは間があきすぎるようになってきたので、すこし以前の話なども書いて穴埋めをしていこうかと思う。
 わたくしが医学生から医者になるころに「醫事新報」という雑誌があった。(今でもあるだろうと思う。) 医者の雑誌なのだが学術雑誌というより医療をめぐる随想とか意見交換とかを載せる雑誌で、何しろ、日本語縦書きだから、わたくしなどよりずっと年輩の先生方が主に論文を寄せていた。そこに投稿欄があって、漢詩を寄せている先生がすくなからずいた。漢詩を実作している方がまだまだいたということである。五言絶句とか七言律詩とかが実際に載っていた。これはもうわれわれの世代には確実に失われた世界である。
 わたくしが中高を過ごした麻布学園というのは変わった学校で、中一から高三までずっと漢文の授業があった。学校としては道徳教育の代用と思っていたのかもしれないが、とにかくそれだけやっていれば、少しは漢文にも慣れるわけで、わたくしが受験で一番点が稼げたのが漢文だった。それで、「力山を抜き 気世を蓋う 時利あらずして 騅逝かず 騅の逝かざるは奈何ともすべし 虞や虞や若を奈何にせん」などという章句を思い出すことができる。それであっても、われわれの世代で漢詩を実作しているひとはまずいなかっただろうと思う。
 菅茶山の「風軽軽 雨軽軽 雨歇風恬鳥乱鳴 此朝発武城 人含情 我含情 再会何年笑相迎 撫躬更自驚」という告別の詩を知ったのは吉田健一の「文学の楽み」でであったと思うが、同じ吉田氏の別の何かの本で、この菅茶山の詩の韻律が、中野重治の「雨の降る品川駅」と同じなのだという指摘を読んだ時は、本当に驚いた。
「辛よ さようなら/ 金よ さようなら/ 君らは雨の降る品川駅から乗車する/ 李よ さようなら/ もう一人の李よ さようなら/ 君らは君らの父母の国にかえる・・・」 確かに言われてみればそうだし、これも中野重治の詩もまた告別の歌なのだけれど、何しろ、「日本プロレタリアートのうしろ盾まえ盾/ さようなら/ 報復の歓喜に泣きわらう日まで」であるから、吉田氏の説には意表をつかれた。
 たとえば、「豪傑」という詩を読めば、中野重治という人もまた漢文脈の人だったわけである。「むかし豪傑というものがいた/ 彼は書物を読み/ 嘘をつかず/ みなりを気にせず/ わざをみがくために飯を食わなかった/ うしろ指をさされると腹を切った/ 恥ずかしい心が生じると腹を切った/ かいしゃくは友達にしてもらった/ 彼は銭をためるかわりにためなかった/ つらいというかわりに敵を殺した/ 恩を感じると胸のなかにたたんでおいて/ あとでその人のために敵を殺した/ いくらでも殺した/ それからおのれも死んだ/ ・・・/ 彼は心を鍛えるために自分の心臓をふいごにした/ そして種族の重いひき臼をしずかにまわした/ 重いひき臼をしずかにまわし/ そしてやがて死んだ・・・」 これは武士の倫理である。そして漢詩の世界もまた町人ではなく武士の世界である。
 渡部昇一氏が、われわれの道徳観は、孔子の『論語』の「子路第十三」の逸話、「葉公、孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬なる者あり。其の父、羊をぬすみて、子これを証す。孔子の曰わく、吾が党の直き者は是れに異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為めに隠す。直きこと其の中に在り。」の中にあるのだということを言っていた。
 ここで突然、変なことを書くが、最近話題のゴーンさんの言動を見ていると、中野重治の「豪傑」や論語子路篇」の世界とは真逆な世界にいる人だと思う。ゴーンさんはグローバル・スタンダードの世界にいる人で、国境などというものや国籍などというものに囚われることがただもう不愉快で仕方がなく、パスポートなどというものなしに自由に国境を超える鳥や獣とくらべてなんと人間は不自由なものだろうと思っていると思うが、同時に日産を建て直してやったのに報酬はたったこれだけかと思って、国際標準からみればまったく普通で正当な金額を懐に入れただけなのに、何でこんな目に合わなければならないのか心底不満で納得できない思いを抱いているのではないかと思う。しかし「うしろ指をさされると腹を切る」人間では決してなくて、あの記者会見のように、猛然と機関銃のように自己の正当性を述べ立てるひとである。「種族の重いひき臼」など薬にもしたくない人である。
 わたくしは村落共同体的なものがとにかく苦手で、ただただ会社生活的なものから逃げるために医者になったような人間だけれども、それでもゴーンさんのようなひとには絶対に傍にきてほしくないと思う。「俺の目を見ろ何にもいうな」という世界は苦手でも、「以心伝心」の世界で生きるは楽だと思う。
 自分の中に中学高校で接した漢文的世界がどのくらい残っているのかはわからないけれど、日本の文化の根というのはやはり武士の倫理であると思う。「武士は食はねど高楊枝」である。
 などといっていると、これからの世界から落ちこぼれる一方なのだと思うけれど、もともと自分が多数派であるなどと思ったことは一度もないわけだから、それは甘受するしかないのだと思う。

 カテゴリーのタイトル「かつてアルカディアに」というのは、プーサンの絵「アルカディアの牧人たち」に描かれている墓に刻まれた碑文「Et in Arcadia Ego」、これはどうも「メメント・モリ」というようなことらしいのだが、単に「わたくしはかつてアルカディアに生きた」という解釈もあるのだそうで、後者の意味合いとして、昔のことを少し書いてみようというようなつもりをあらわしたつもりである。別に昔はよかったというつもりではない。
 このプーサンの絵は、ルーブルで見たが、割に小さな目立たない絵だった。

いつのまにやら令和2年

 自分は昭和の子であると自認しているせいか、平成という年号になじめないなと思っているうちに、いつの間にやら令和2年ということらしい。それで、平成19年などといわれても今から何年前かピンとこなくて、いちいち西暦に換算して確かめる始末である。早く、年号は西暦に統一してもらいたいと思う。
 昭和という時代にははっきりとしたイメージがある。昭和の前半期は天谷直弘氏のいう「坂の下の沼」の時代で、明治期に西洋を謙虚に憧憬して世界に乗り出したが、いつからか西洋の毒にあたって夜郎自大となり、ふたたび第二の鎖国というか、西洋のことは西洋でやってくれ、そのかわり東洋のことは日本にやらせてくれという自閉路線に走り、敗れて再び謙虚になって、「本当によく勉強しました。とにかく、一刻も早く先進国に追いつきたくて、努力は骨の髄からやりましたよ。・・何のかんの言ったって、ついこの間まで日本は後進国だったんだって、われわれはアメリカに学んでようやくここまで来たんだって。・・日本はあまり生意気なことを言っちゃいけない。・・・」というようなことをいうのだったが(「電子立国日本の自叙伝」)、いつのまにか(また60年安保あたりからか?)、変な自信をつけるようになり、「10年で所得を倍増します。わたくしは嘘は申しません。」などといっているうちに、高度成長となり、ジャパン・アズ・ナンバーワン、日本的経営などと浮かれているうちに、バブルは崩壊、失われた〇〇年といっているうちに、いつまでたっても失われたまま現在にいたる、というのがわたくしの頭のなかにある日本の昭和以降の歴史の略図である。
 平成元年は1989年だから、平成というのはただの失われた30年ではなかったかという気がする。あったのは天変地異だけ。もちろん原発事故はあった。しかし、それもまた天変地異の副産物である。
 それでは令和は? 地震といった予想不可能な天変地異から予想可能な転変地異の時代、すなわち地球温暖化の時代に、つまり真にグローバルな時代に?
 地球温暖化ということは以前からいわれていたが、わたくしは南極の氷が解けて海面が上昇して陸地が狭くなるといった、いたって静的なイメージを思い描いていた。台風の威力に関係するなどということは思ってもいなかった。
 何で読んだかわすれたが、地球温暖化は昆虫の生態にも途轍もない影響を与えるらしい。そして昆虫の生態のちょっとした変化も植物の生態に大きな影響をあたえるから、農業という営みにも計り知れない影響をもたらすらしい。
 海の温度の変化は魚の生態の変化を通じて漁業にもすでに大きな影響をあたえている。
 はじめての令和の年号下の正月ということで、早くも、オリンピックがどうこうと浮かれている。温暖化顕在化後はじめてのオリンピックなのだろうと思うが、次のオリンピック開催予定地のパリの夏の気温は摂氏40度にもなるそうである。そろそろオリンピックも止め時なのではないだろうか?

ノブレス・オブリージ―天谷直弘主要論文集

ノブレス・オブリージ―天谷直弘主要論文集

NHK 電子立国日本の自叙伝〈上〉

NHK 電子立国日本の自叙伝〈上〉

今週の「週刊新潮」の片山杜秀氏のコラム

 今週号の「週刊新潮」の片山杜秀氏の「夏裘冬扇」というコラムに中曽根康弘を論じた文があって、海軍の主計少佐であったことが、その後の中曽根氏を決定したということがいわれているのだが、そこに「帝国陸軍はけっこう社会主義的だった」という文があって虚をつかれた。
 わたくしはとにかく日本陸軍的なものが一から十まですべて嫌いで、戦中の陸軍について書かれたものを読むたびに、ああこの時代に生まれなくてよかったと思うことを繰り返してきた。
 とにかくファナティックなもの、空虚な精神論のようなものが大嫌いで、それに比べれば海軍について書かれたものにはそのような嫌悪感を抱くことはなかった。「戦艦大和ノ最期」のようなものは、陸軍からは生まれようもないものである。
 陸軍のなかで例外的に合理性を要求される部隊である砲兵隊に属した山本七平氏や戦車隊であった司馬遼太郎氏は、その軍隊生活のなかで様々な日本の病理を身をもって体験したはずである。丸山眞男氏が陸軍で徹底的にいじめられたことは、その後の氏の思想に様々に影響しているということはないだろうか?
 だから日本の知識人には圧倒的に陸軍嫌い海軍好きが多いと思っていて、同時に日本の知識人の多くは社会主義にシンパシーを感じるひとが多い(多かった?)わけであるから、それで「帝国陸軍はけっこう社会主義的だった」という文に躓いたわけである。
 ここで片山氏がいっているのは陸軍の原理は「平等横並び」で、海軍は「エリート主義」というようなことである。知識人は自分はエリートだと思っているが、人はみな平等でなければならないと思っているのだから、「帝国陸軍はけっこう社会主義的だった」という文は別におかしくないことになるのだろうか? 
 われわれの多くは、海軍のほうにずっと合理主義的精神を感じ、陸軍にはそうではない。何しろそこは「私的制裁」の跋扈する世界なのであるから。
社会主義というのは自然発生的なものではなく、合理主義精神が生み出したものでる。一方、日本陸軍は村落共同体組織の延長という要素が多分にあるから、「帝国陸軍はけっこう社会主義的だった」といわれると躓く。
 もう一つ、ベルリンの壁の崩壊直後に日本のバブル経済が崩壊したということも指摘されている。東西冷戦の最期のときに米のレーガン政権は宇宙戦争などといって人工衛星にミサイルを積んで、そこからいつでも敵国を攻撃できるようにするなどというSF的な構想を打ち出し、それに対抗して無理をしたことがソ連の崩壊の一因になったというような話をきいたことがある。中曽根氏はレーガン政権に大いに肩入れした。
 今日、ピンカーの「21世紀の啓蒙」という本を買ってきた。まだほとんど何も読んではいないが、進化心理学者として「心の仕組み」とか「人間の本性を考える」といった本を書いていたひとが、「暴力の人類史」を書き、ついには啓蒙思想の擁護の本を書くようになるわけである。「利己的な遺伝子」のドーキンスが「宗教は妄想である」を書くようになった変化ほどではないにしろ、西欧世界の知識人が追い込まれている窮地のようなものを感じる。ドーキンスの場合、敵はキリスト教原理主義であったが、ピンカーの場合はもっと広く反知性主義であろう。ドーキンスの場合、今一つ教養に欠けるところがあるので、イーグルトンに「宗教とは何か」でいいように揶揄われていたが、ピンカーが敵とするひとが、こんな厚い本を読むとも思えない。
 海軍はエリート主義であったかもしれないが、同時に(陸軍に較べれば)合理主義的でもあったであろう。計算で合わないところはすべて精神力で補うなどということはしなかったはずである。
 《スランス革命前後からの西欧啓蒙思想がいずれ世界を席巻するであろう》という西欧が抱き続けてきた信念が、少し前はイスラムの側からの攻撃によって、最近では西欧の内側からの反撃ののろしで大きくゆらいできている。多分、反=西欧啓蒙思想の象徴がトランプ大統領である。トランプ大統領は青白いインテリは大嫌いであろう。日本陸軍はなにがしか反=インテリであり、海軍はなにがしか親=インテリであろう。
 わたくしなども、二十歳ごろからもっぱら西欧啓蒙思想の信者としてやってきた。それが人生の最後のほうになって旗色が悪くなってきているのは甚だ困るのであるが、もともと啓蒙派というのはいつの時代であっても多数派であったことはなかったはずである。
 片山氏はいう。陸軍は大部隊で大人数であるからこそそれを統制するためには平等横並びで社会主義的方向を志向せざるをえず、一方、海軍は少数であるがゆえにエリート主義と自由主義となる、と。
 ある時期、啓蒙派が多数意見の側にいるように見えたことが何かの間違いであって、最近の状況こそが常態にもどってきているということなのかもしれない。
 

戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫)

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私の中の日本軍 (山本七平ライブラリー)

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一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)

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21世紀の啓蒙 上: 理性、科学、ヒューマニズム、進歩

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神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

宗教とは何か

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池澤夏樹氏の本から

 今日、買ってきた池澤夏樹氏の「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」に中村哲さんについて論じている部分があった(p55~)。もっともその項は中村氏と似たような経歴のポール・ファーマーというアメリカの医者を紹介した「国境を越えた医者」(T・キダー)という本を主に論じていて、中村氏はその対照として言及されている。
 池澤氏は書く。「中村哲という医師の名をぼくたちはアフガニスタンの戦争を通じて知った。/ 医療から井戸掘りまでという彼の支援活動は約二十年前に始まっていたのだが、アメリカが見当違いな攻撃でアフタにスタンに注目が集まって初めて、中村氏とペシャワール会のことが広く使えられた。」
本当にそうで、わたくしもまたアフガンの戦争を機に中村氏の名前を知った。そしてアフガンとかサリバンとかが報道の関心からなくなっていくとともに、中村氏のことを忘れ、氏の死によって、中村氏がアフガンの地でずっと活動を続けていたことを知った。
中村氏の「医者井戸を掘る」も論じられるが、池澤氏はこういう本は「自分で書いたのでは限界がある」という。どうしても多角的な視点に欠ける、と。
本書では「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束」という澤地久恵氏が聞き手となって中村氏の活動について書いた本も紹介されていて、この本は知らなかった。
 そこにこう書かれている。「中村と一緒に働いていた伊藤和也が「現地で亡くなった時、日本のジャーナリズムは一斉に「危ないから、皆、引きあげろ」と合唱した。しかし、彼らの活動がその時まで五人の殉職者を出していたことを報道していない。その五人は日本人ではなく、現地の人々だったから。(二〇〇三年秋にイラクで奥克彦大使と井ノ上正盛一等書記官が殺された時、一緒に犠牲になったイラク人運転手の名を日本のメディアはほとんど報道していなかった。・・)」 今回の中村氏の死においても同じである。
 海外で航空機事故などがあると、まず報道されるのが日本人搭乗者の有無である。今までまったく報道されることなどなかったアメリカのプロバスケット・ボールに日本国籍の選手が加入すると連日報道である。イチロー選手が米大リーグに加入したときもそうだった。これはアメリカに戦争で負けたコンプレックスの屈折した表れなのだろうか? 9・11の時、まだ十分な情報がない時、テレビでそれをみていたあるわたくしより10歳くらい上の男性が「よくやった! やったのは日本人か?」と叫んだと、その方の奥様があきれ顔で語っていた。
 アフガンで医療活動をし、井戸を掘っていたのが日本人でなければ、おそらくわれわれはその活動にまったく関心を抱かないだろうと思う。
 明治から昭和前期までのほうがまだ日本はまだ今よりは開かれていたのではないだろうか?
 

いつだって読むのは目の前の一冊なのだ

いつだって読むのは目の前の一冊なのだ

  • 作者:池澤 夏樹
  • 出版社/メーカー: 作品社
  • 発売日: 2019/12/01
  • メディア: 単行本

開高健 没後30年

 今朝、新聞を見ていたら、本の宣伝の惹句に「開高健 没後30年」とあった。ベルリンの壁崩壊からも30年だそうであるから、氏は東側の崩壊を見ずに亡くなったわけである。
 氏の一番の傑作は私見によれば「夏の闇」だと思う。今、本棚から取り出してきた「夏の闇」は昭和47年(1972年)の刊で、そこに「波」1972年3月号に掲載された佐々木基一氏との対談「『夏の闇』の意味するもの」というのが、全集なら月報というような感じで挟まっていた(どうでもいいことだが、この本は箱入りで、そういう小パンフレットまで収められていた。小説の単行本が箱入りでなくなってきたのはいつごろからだろうか? だんだんと出版社の小説刊行への熱意と敬意が乏しくなっているような気がする。もちろん出版不況がそこにかかわっているのは間違いないのだろうが・・)。そこで開高氏は以下のようなことを言っている。「ぼくが芥川賞をもらったころ、心中ひそかに誓ったことがあるんです。当時の日本の文壇には、抒情と告白、孤独とセックス、そして観念しかなかった。それが私にはがまんができなかったんです。・・・私にふさわしくないようなテーマばかり選んで、自分から逃げるというか、遠心力みたいな力で小説を書いていこうとした。・・・(しかし)それまでの方法ではもうやっていけなくなってきた。・・この作品はぼくの第二の処女作なんです。・・」
 それならば、「夏の闇」が「抒情と告白、孤独とセックス、そして観念」に戻ったのかといえば、それが難しいところである。それは、何かが欠落した男と女が再会して別れる話である。「当時の日本の文壇には、抒情と告白、孤独とセックス、そして観念しかなかった」という場合では、それらが一見は否定的に描かれているように見えても、最終的にどこかで肯定されていくのであるが、それとは違って、この小説では、欠落している二人の人間が、その欠落の不幸のままで救済を求めていく物語である。そしてそのままではどうにもならない物語に、最後に機械仕掛けの神様として現れれてくるのがベトナム戦争なのだである。
 「夏の闇」の前作が「輝ける闇」で、これは氏がベトナム戦争に従軍して九死に一生をえた経験をもとにしていることはいうまでもないが、それでもまだこれは「遠心力」路線の延長線上にあると思う。開高氏はベ平連の創立メンバーの一人であるが、途中からそこから離れたと記憶している。そこで政治というものについて非常に多くの経験を氏はしたのではないかと思う。それは、矢沢永一・向井敏氏との鼎談「書斎のポ・ト・フ」の中の「手袋の裏もまた手袋 *文学のなかの政治」の章にも色濃く反映されているように思う。そこで取り上げられている6冊の本のうちの4冊、アナトール・フランス「神々は渇く」、ツヴァイク「ジョゼフ・フーシュ」、ダフ・クーパー「タレイラン評伝」、モーム「昔も今も」はわたくしもその本で知って後から読んでみたくらい、その章は面白い章だった。ここでの「神々は渇く」についての議論は開高氏のベ平連での経験が色濃く反映しているだろうと思う。そして、氏がオーウエルの「動物農場」を訳したことについても大きく関係しているだろうと思う。
 わたくしの大学時代はベトナム戦争の時期と重なっているのだが、今でも不思議でならないのが、サイゴン陥落まではあれほど熱心にベトナムのことを報じていたマスコミが、その後のベトナムについてほとんど何もといっていいくらい報じなくなったことである。中越戦争などそれ自体があまり報じられなかったように思うし、今のベトナムの現状がどうなっているのかもほとんど報じられることがない。
 そもそも現在のベトナム社会主義国家なのであろうか? それなら社会主義というのは何を指す言葉なのだろうか? 現在の中国もまた社会主義国家なのだろうか? それとも社会主義とは現在においては一党独裁の別名に過ぎないのだろうか? おそらくベトナム戦争の時代まではまだ社会主義への憧れと熱気があって、それでこそホーチミンの神格化のようなこともおきたのだろうが、ソ連崩壊後、社会主義への熱気が失われると、現在のベトナムのような国をどう評価していいかわからなくなってきているのであろうと思う。
 そして開高氏は、政治に懲りて、ベトナムにかかわって、今度は「オーパ!」の路線に転向したのであろう。中年の倦怠と惨憺たるぬかるみを一時であれ癒すものとしての釣り!
 そして文学としては「ロマネ・コンテイ 1935年」から「珠玉」へ。きちっと構成された短編の世界へ。そして、そこにも色濃く漂う倦怠の影。
 氏は60歳にならない年齢で食道がんで死んだけれども、もしももう少し長く生きたら、どんな作品を書いただろうかと思う。なんだか成熟という言葉が似合わないひとだったようにも思うからである。それとも、時々、完成した掌編を発表する気難しい老大家のようになっていったのだろか?

夏の闇 (1972年)

夏の闇 (1972年)

  • 作者:開高 健
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1972
  • メディア:
書斎のポ・ト・フ (ちくま文庫)

書斎のポ・ト・フ (ちくま文庫)

オーパ! (集英社文庫)

オーパ! (集英社文庫)

ロマネ・コンティ・一九三五年 六つの短篇小説 (文春文庫)

ロマネ・コンティ・一九三五年 六つの短篇小説 (文春文庫)

珠玉 (文春文庫)

珠玉 (文春文庫)

中村哲氏の訃報に接して

 中村哲氏の訃報に接して、本棚から氏の「医者井戸を掘る アフガン旱魃との闘い」を取り出してきた。2001年10月刊行の本で、わたくしが持っているのは2001年12月の第3刷。
 この本は2000年6月にアフガニスタンに久しぶりに戻った中村氏が赤痢の大流行をみて驚くところからはじまっている。その原因は旱魃による飲料水の欠乏。それで「素人集団」が井戸を掘り始めるわけである。「医者井戸を掘る」。
 この地域はもともと乾燥地帯なのではなく、前年までは水であふれる水田地帯であったらしい。中村氏が医者をやめて、飲み水と灌漑用水の確保にその後も邁進することになったのは、2000年を境に気候が変化し旱魃が続くようになったのか、それは2001年に出版された本書ではわからない。
 本書の後半はアフガニスタンの政治状況への言及が増える。それは2001年3月のタリバンによるバーミヤンの仏跡の破壊が一つのきっかけとなっている。「生身の人々より死んだ遺跡に執着するほうが異様に思えた。」 中村氏が井戸を掘り始めたころはアフガニスタンでのタリバン政権が世界の耳目を集めていた時期なのである。
 本棚に同じころ(2001年11月)に出版されたマフマルバフの「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」が並んで置いてあった。「一切れのパンを求める民を前にして、バーミヤンの仏像は自分の偉大さなど何の足しにもならないと恥じた。アフガニスタンに対する世界の無知を恥じて、自ら崩れ落ちたのだ」
 2001年9月11日の事件がおき、ビンラディンがその首謀者とされた。しかし「タリバンは遠くからみれば危険なイスラム原理主義者だが、近づいて個々を見ればそれはバシュトゥーンの飢えた孤児である。」 だが、「一人の死は悲劇だが百万の死は統計に過ぎない」
 アフガニスタンがわれわれの関心をひくようになったのは1979年のソ連のアフガン侵攻からではないかと思う。確実にソ連崩壊の遠因となったとされるこの事件をきっかけにアメリカはタリバンに肩入れし、それが結果として9・11にもつながったという文脈のなかで、アフガニスタンが一時期われわれの関心をあつめたわけだが、最近ではまた忘れられていた。中村氏の死によりまた一時われわれはアフガニスタンのことを思い出すことになった。
 もう20年近く前のことなので、わたくしがどのような理由でこの「医者井戸を掘る」を購入したのかは思い出せないが、バーミヤンの石仏の破壊、タリバンといったことでアフガニスタンという国に関心をもっていたからであるかもしれない。
 そしておそらくはこの「医者井戸を掘る」というタイトルに何かを感じたのかもしれない。栄養が悪く衛生状態も不良である地域においては医療にできることは極めて限られてしまう。結核は貧困の病である。ストレプトマイシンが発見される以前から日本で栄養状態の改善により、結核はすでに減り始めている。日本における上下水道の整備は新生児や乳幼児の死亡率を劇的に減らしたはずである。
 医療にできることはごく限られているので、時と場合によっては医療行為などより井戸を掘るほうがはるかに有効である。そういう警鐘としてこの「医者井戸を掘る」という本のタイトルを受け取ったのかもしれない。
 そして中村氏のこともアフガニスタンのことも忘れてしまっていた。今回、中村氏の死という「一人の死」によって、つかの間、また氏のこととアフガニスタンのことを思い出すことになった。実は、中村氏がアフガニスタンの水にかかわる仕事をずっと続けていたことさえ知らずにいた。
 中村氏は自分の死によってつかの間アフガニスタンのことをわれわれがおもいだすというようなことをのぞんでいないのではないかと思う。しかし時間がたつとアフガニスタンのことはまた統計の問題へと戻ってしまう。われわれはどうしても顔がみえないひとに親身にはなり切れないのではないかと思う。
 

医者井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い

医者井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い

アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ

アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ