救急医療とCOVID-19

 この数日の新聞などの記事で、新型コロナウイルス感染のために救急医療が危機に瀕しているというようなことが多く書かれている。発熱などの患者が多くの救急病院で断られ、結果として最前線の一時救急を担当する救急センターにそういう患者さんが集中し、結果として本来そういう救命救急センターが本来担当すべき患者さんが入院できないケース増えてきているというのである。
 それで10日ほど前の外来を思い出した。「一週間前くらいからの頭痛が主訴の30台の女性が来ていて、吐いているので早く見て下さい」と看護師さんがいう。診察してみるとそれほどの重症感はないのだが、頭痛+吐き気は脳圧亢進を疑うのは医者の常識なので、念のためと思いCTをとったところ、どうも硬膜下血種がありそうである。しかも、ミッドラインシフトまでありそうである。あわててMRをとって確認、家族に連絡するとともに救急病院と連絡をとった。通常だとそれで終わりなのであるが、一向に転送先がきまらない。変な言い方だが、硬膜下血種は脳外科としてはとても“おいしい”症例のはずで、きわめて侵襲の少ない手術でほぼ確実に救命ができる疾患なので、いつもは“喜んで”とってもらえるのだが、なかなか受けてもらえない。「手術室が確保できない」というような理由である。こちらは文京区にある病院で、周囲には医科歯科や日本医大のような大きな救命救急のセンターがある。それでも駄目なのである。最終的にようやく東大でとってもらえたが、今までにない経験だった。
 最近、新型コロナウイルスの関連で、人工呼吸器が足りないというようなことがいわれている。しかし呼吸器という機械だけあっても、それを扱える医者がいなければどうにもならない。おそらく呼吸器の操作に一番熟達しているのはICU・CCUの医師とともに麻酔科の医師や呼吸器内科や外科の医師のはずで、そういう医師がコロナ感染対策にかりだされているのだろうか? あるいは呼吸器を一番所有している部署は手術室かもしれないので、呼吸器も一時的に新型コロナウイルス治療にまわされていたりするのだろうか?
 自分が研修していたときの経験では呼吸器管理が必要になった患者の受け持ちになったりすると(ARDSといった病名がつけられている場合が多かった)、その患者さんが自分の受け持ち患者のほぼ100%になったような感じで、その患者さんが安定するまでは、連日の泊まり込みが必須であった。だから、そういう呼吸器管理が必要な患者さんばかりが集まっている病棟を受け持っている医師や看護スタッフの苦労は察するにあまりある。
 そのためか、最近のマスコミの報道をみると、えらく医者や看護師などの医療関係者をもちあげている記事や報道が多く、それはそれで気持ちが悪い。ひと昔前の医療過誤叩きを競っていた時代とは隔世の感である。
わたくしのような外来診療だけを担当してものでも、診察をするからには病院にいかなければならないから《在宅勤務》は不可能であるし、診察行為では《密接》を避けることも不可能である。律儀な患者さんは診察室にはいってきて、「マスクをしたままで済みません」と言ったり、マスクを外そうとしたりする。「いえいえ、そのままで結構です」とはいうが、咽頭を観察するときには、外してもらわなければならない。
そうではあるが、わたくしはインフルエンザが流行しているときでも普通に診療していて(ワクチン接種はしているとはいえ)、数十年の間、一度もインフルエンザに罹患したことがないので、今度のウイルスもインフルエンザ・ウイルスとほぼ同程度の感染力であるとされているので、まあそれほどの危機感をもって診療をしているわけではない。
だが、それはこちらが、外来だけ担当しているからであって、すでにCOVID-19と確定している患者さんばかりを担当している医療者は全く、別であろう。自分が若いころに経験したやや似た経験としては、エイズが流行しだしたころにエイズ感染患者を担当したことかもしれない。採血などは看護師さんはやってくれずすべてこちらがやることになった。しかしこれは血液、体液を介した感染であるので、特別な感染防御などが必要とされたわけではない。
 今回、たまたま救急搬送に難渋した経験で、COVID-19感染流行が医療現場に様々に影響していることを実感することになった。
状況は1週間単位で変わっているので、もう1週間・2週間するとそんなのんびりした感想を抱くような状況では全然なくなっているかもしれないが、とりあえずの、現在、市中病院で外来診療をしている人間の感想である。

三浦雅士「石坂洋次郎の逆襲」(2)

 渡部昇一氏の「戦後啓蒙のおわり・三島由紀夫」(「腐敗の時代」1975年 初出「諸君! 1974年12月号」)は三島由紀夫、特にその「鏡子の家」、を論じたものであるが、昭和35年(1960年)の日本社会党委員長浅沼稲次郎刺殺事件から稿を起こしている。その犯人である山口二矢はその年の十一月に少年鑑別所で「七生報国」と「天皇陛下万歳」と書き残して自殺しているが、渡部氏は映画館のニュース映画で浅沼刺殺事件の映像をみて「戦後はこれで終わった」と感じ、そして、突然、この事件を解く鍵が前年に出版されていた三島由紀夫の「鏡子の家」にあると感じたとのだという。さらに後年の三島事件のテレビ映像に刺激されて読み返した小説が、石坂洋次郎の「青い山脈」と「山のかなたに」であったのだ、と。三島事件の時、三島も「七生報国」の鉢巻きをしていた。三島の死の後で読む「青い山脈」や「山のかなたに」は「恥ずかしいほど明るく、恥ずかしいほど楽天的で、恥ずかしいほど浅薄で、読むに耐えない底のものであった」という。
 しかし、昭和22年に当時山形県鶴岡市の高校生であった渡部氏が学校の図書館で読んだ「青い山脈」は膝に震えがくるほどの面白さであったという。そして西条八十作曲の映画「青い山脈」の主題歌が引用される。「若く明るい唄声に 雪崩も消える花も咲く 青い山脈 雪割り桜 空の果て 今日もわれらの夢を呼ぶ・・・」 過去は暗く未来は明るい・・。
 渡部氏の高校時代の先生は「石坂洋次郎の小説には、男のほっぺたをひっぱたく女が必ず出てくるな」といっていたという。「石坂洋次郎が『若い人』をはじめとする人気作の中に、女子大を出た知的な女教師を登場させ、その女主人公に男のほっぺたをひっぱたくシーンを用意したことは当時としてはなみなみならぬ小説技巧であった」と渡部氏はいう。昔の男は偉い者であって・・特に東北地方ではいつまでも男子尊重の念が強かったのであるから、そういう石坂の女性像は漱石が「三四郎」で美彌子を創造したのと同じで、まだ現実には存在していない女性の像を小説の中で造形して、「男のほっぺたをひっぱたく女が」が現実にも出てくることを石坂は期待したのだ、と。
 この辺りから少しずつ三浦氏の石坂洋次郎論に戻っていける。三浦氏はいう。石坂には「女を主体として描く」という特徴があるのだと。女は主体的に男を選び、男に結婚を促し、自分自身の事業を展開する主体なのだ、と。その理由として三浦氏が挙げるのが、日本の東北の苛烈な自然環境においては主体的な女なしに生活はありえなかったということを石坂氏が肌身に沁みて知っていたことと、石坂が母の経済的な才能と力量によって大学に進学できたことを挙げる。そして石坂氏が進学した慶応大学で柳田國男折口信夫に接することにより「女性が強いということこそが日本古来の姿であった」と徹底的に認識することになったのだ、と。「津軽の女は強くて主体的だが、じつはそのほうが人間本来の姿だと考えたのだ」と。「女は昔から強かったのだ」と。
 ここで、二つのまったく異なる主張に出会うことになる。渡部氏は石坂は現実にはまだ存在していない女性像を将来に期待して、筆の上で造り上げたのだというのに対し、三浦氏はすでに存在している女性像を、石坂氏はただ目鼻立ちをくっきりさせて提示したに過ぎないのだという。面白いことに、石坂氏も渡部氏も三浦氏もみな東北の出身である。
この両者の主張のどちらが正しいかを論じても意味がないだろうと思う。現実にどこかに石坂氏が描くような女性はいたかもしれないが、それはごく例外的な少数であった場合、両者の主張はともに肯定されうるからである。この場合、一番の問題は女性の経済的な自立ということであると思う。
 それで、わたくしの場合について少し考えてみる。わたくしが育った環境において、自分の周囲に働いている女性がいなかった。ほとんど全部が専業主婦であった。唯一の例外が看護師さんをしていた親戚で、最終的に大きな病院の師長さんをしたので、終生働いていたわけだが、夫君は社会主義協会の重鎮であった方で、生涯を社会主義の世界を地上の天国であると信じたまま終わったという、大変幸せな生をおくった方で、思想の世界に生きるひとの常として(なのかどうかはわからないが)家計の方面にはいたって疎い人であったので、奥さんが経済的の方面はもっぱら担っていたのではないかと思う。奥さんは夫君の思想的同志でもあり、ご主人が社会主義世界の実現のために邁進するのを支えることをいたって当然のこととしていたので、旦那さんが甲斐性のないので自分が家計を支えざるをえないというような感じ方は微塵も持っていなかっただろうと思う。おそらく政治の世界は男の世界と思っていたのではないかと思う。
 もちろん、専業主婦というのはほとんどの場合、家計の実権を握っているのであるから、家のなかでほんとうに権力を握っているのは女性ということになるのかもしれないが、わたくしの場合には周囲に働く女性というのは現実の像としてはほとんど知らなかった。
 「東北の苛烈な自然環境においては主体的な女なしに生活はありえなかった」というのは本当であろうと思うが、これは農家のことを指すのではないだろうか? 農家の嫁というのはまず労働力として期待されていたはずである。そしてまた、子という新たな労働力を再生産する存在としても。戦後のある時期、専業主婦というのが一部の女性の憧れの対象となったのは、労働力として期待されるのではなく一人の女性として望まれるという形が魅力的に映ったということがあるのではないだろうか?
 わたくしが最近強く感じているのが、自分が杉並という東京の山の手という新興の街でほとんどの人生を過ぎしてきたことが、自分に決定的に影響しているのではないかということである。
 堀田善衛氏の「若き日の詩人たちの肖像」をぼちぼちと少しずつ読んでいるのだが、そこで感じるのは堀田氏が金沢という歴史のある町に生まれたということが、堀田氏の様々なものへの視点に決定的に影響をあたえているということである。氏が若き日に東京に出てきてまず感じるのが東京という町の文化的な貧しさである。
 わたくしが小学校の頃、課外実習?で時々、学校のそとに出て田圃でザリガニを採りにいったりしていた。なにしろ、学校のすぐにある井の頭の線沿線は一面、田圃であったのである。それが次々に住宅地にかわっていったのであるが、それまで人が住んでいなかったところが住宅地にかわっていったわけである。何代にもわたって人が住み続けることではじめてうまれるような蓄積は皆無なわけである。堀田氏は金沢という歴史のある土地に生まれ、(没落しつつあるとはいえ)回船問屋という外に開かれた商家の出である。
 だから自分の生活の律するような自前の内なる規範がなかった。今から思うとわたくしが中学から高校にかけて抱いていたものの見方はなにがしかヴィクトリア朝的道徳に繋がるようなものである。あるいはそのころテレビで放映されていたドラマに描かれたアメリカの家庭像などにも無意識に感化されたのかもしれない。たとえば、「パパは何でも知っている」(原題は Father knows best 何といううまい訳であろうかと感心した。)
 そして、わたくしが中学高校時代に漠然と感じていた石坂洋次郎の像というのは、なにがしかアメリカ的価値観的なものの唱道者というものであった。渡部昇一氏が三島事件のときに感じたという石坂像と同じである。一言でいえば、「暗さ」がない。あるいは「影」がない。「後ろめたさ」がない。「深さ」がない。総じて、われわれが文学というものに期待している何か(たとえば太宰治的なもの)をほとんど欠いている。「明るさは滅びの姿であろうか。人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ」(太宰治:右大臣実朝)
 この三浦氏の提出する石坂洋次郎像が面白いのは、そういう旧来からの石坂像を見事にひっくり返している点にある。石坂洋次郎もまた「暗い」のだぞ! と。
 暗い石坂像はまた稿をあらためて。

石坂洋次郎の逆襲

石坂洋次郎の逆襲

腐敗の時代 (PHP文庫)

腐敗の時代 (PHP文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)

若き日の詩人たちの肖像 上 (集英社文庫)

若き日の詩人たちの肖像 上 (集英社文庫)

  • 作者:堀田 善衞
  • 発売日: 1977/10/20
  • メディア: ペーパーバック

マスクが目立つコンサート(補遺)

 数日前に「マスクが目立つコンサート」などといささか呑気な記事を書いたら、状況が大きく動いている。25日の朝の通勤電車が何だがあまり混雑していないなと思っていたら、その後いろいろな集会がばたばたと中止とか延期になってきていて、わたくしがいったコンサートは2月24日(休日)のサントリー・ホールだけれども、そこの公演も27日からは中止または延期になってきているようである。
 新型コロナウイルス(COVID-19)感染症は医療の問題ではあるけれども、特別に有効な治療法がないという点では、魔法の弾丸(抗生物質)発見以前の世界である。もちろん、医療技術は進歩していて、現在のCOVID-19感染症治療で大きな役割を演じていると思われる人工呼吸器などは抗生物質以前の医療の場にはなかった。しかし重症化し、呼吸器装着にいたった患者さんのなかで回復し元気で退院できた患者さんがどの程度いるのだろうか? そういったデータはまだ十分には開示されていないように思える。
 報道で目にする医療現場では医療者はみな防御服をきている。特効薬がないとすれば、「ときに癒し、しばしば和らげ、つねに慰む」の世界に戻っていると思われるが、あの防御服では患者さんを「慰める」ことはまずできないのではないかと思う。
 普段の臨床がなりたっているのは、医者が診断を間違おうが、見当違いの治療をしようが、自然治癒力で大部分の患者さんは自力で回復するからで、正確な診断と治療がなされなければ患者さんの回復はないのであれば、臨床の世界は間違いなく崩壊する。今回のコロナウイルス感染症でも、相当部分の患者さんは何らの治療も要さずに自然に回復しているはずである。
 今回の事態がわれわれにとって奇妙に見えるのは、疾患への対応について、《公衆衛生学》的対応が前面にでてきているからなのであろう。そういう対応が必要とされる事態をわれわれは長らく経験してこなかった。産褥熱という病気が医者が手洗いをするようになったことで激減したことはよく知られている。ある時期の日本の乳幼児死亡率の低下には上水の塩素殺菌が行われるようになったことが貢献しているらしい。
 マスク着用とか手洗いの励行が疾病対策の中心になるとか、人の移動の制限が対策になるというのは、いかにも原始的な対応のように思える。しかし、こういう経験は臨床医学というものをあらためて考えなおす一つのきっかけにはなるのではないかと思う。
 ちょっと例外的とは思うが、わたくしの医学部の同期生は、当初はすべてが臨床への道を選択した。基礎医学のほうに進んだものはひとりもいなかった。その後、臨床から研究の道に転じたり、厚生省に勤め行政のほうにいくようになったものもいるから、最終的には全員が臨床を継続したわけではないが、圧倒的な多数は臨床の医者である。
 「小医は病を癒し、中医は人を癒し、大医は国を癒す」のだそうだから、臨床医というのは結局小医である。それと比較して、おそらく公衆衛生の分野というのは、どこかで大医に通じる存在なのであろう。
 日本では公衆衛生分野の専門家自体が少なく、またそのため発言力も弱く、本来、その力が発揮されるべき今日の事態においても、その機会が十分にはあたえられていないのかもしれない。
 いま話題の?(炎上中の?)岩田健太郎教授は感染症の専門家である。その経歴をみても、第一線での臨床家であって、その抗生物質の適正な使い方の指南書などは多くの臨床家の座右の書になっているはずである。感染症分野というのは臨床医学のなかでは比較的公衆衛生と接する場面が多い分野であると思われるが、もしも公衆衛生の専門家がもっと強力な指導力を発揮していれば、あえて氏がクルーズ船の管理について発言することもなかったのかもしれない。
 日本では「わたし、失敗しないので」という医者が名医ということになっているらしい。しかし、そういう先生のところにいっても、現状では、COVID-19感染患者の全員が救命されるわけではない。
 臨床という行為の限界、それに何ができて何ができないかについて、さらに一般的にいえば、科学の分野でできることできないこととその限界について、今一度考え直してみる、一つのいい機会が現在あたえられているのかもしれない。
 もっと簡便で迅速にウイルスの有無が判定できる検査法を確立すること、有効な治療薬を開発すること、これらは科学の分野の問題である。今回のCOVID―19が既存の抗ウイルス薬で確実に対応できるものであったとすれば、今の騒動はおきていなかったはずである。
 わたくしが少し関係している肝臓病の分野でいえば、C型肝炎ウイルスをほぼ100%排除することが可能な薬剤が開発されたことが、多くの肝臓病医の今後の展望を厳しくしているといわれている。要するに、病気がなくなってしまえば、専門医もやることがなくなる。
 わたくしが大学を出たころはようやくB型肝炎ウイルスが特定されたころで、それにより輸血後肝炎といわれていたものの本態が少しずつ解明されるようになり、輸血後肝炎にもB型以外にも原因があることがわかり、それが仮称として一時非A非B型肝炎といわれていたものが、あるヴェンチャー企業がウイルスを同定することに成功したことによりC型肝炎と呼ばれるようになり、B型肝炎ワクチンが開発され、インターフェロン療法が試みられ・・・、ついにはC型肝炎については、ほぼ副作用なく、根治させることが可能な時代になった。B型肝炎ウイルスについてはまだ根絶可能な薬剤はなく、増殖を抑制する薬剤しかわれわれはもっていないが、それでもB型肝炎という病気がコントロール可能な疾患になったことは間違いない。また公衆衛生的見地からいえば、輸血のスクリーニングで輸血後肝炎がほぼ根絶されたことが非常に大きい。
 確かに科学がなしえてきたことは大きい(ただし、少なくとも肝炎の分野でいえば、それへの臨床家の貢献は微々たるものなのであるが)。
 そういう中で、手洗いとか隔離といったことが病気への対応策としてでてくると、なんだか時代が100年くらい戻ってしまったような感じをわれわれは抱く。しかし、「ホレイショーよ、この天地のあいだには、人智の思いも及ばぬことが幾らもあるのだ」というハムレットの言葉を思い出すことが、われわれには、時に必要とされているのだろうと思う。

マスクの目立つコンサート

 一昨日、昨日とコンサートにいってきたのだが、客席の過半のひとがマスクをしていた。電車に乗っても同じような感じだから異とするには足りないのかもしれないが、舞台の上のオーケストラの団員、合唱団員、ソロの歌い手、指揮者はもちろん誰もマスクなどはしていない。部隊上と客席の奇妙なコントラストだった。
 マスクの着用はCOVID-19感染予防にはそれほどの効果はないとされているにもかかわらず、かなりの普及である。こういうのを、人事を尽くして天命を待つとでもいうのだろうか? オペラシティでは客席の入り口に小さな消毒薬がただ置いてあっただけだが、サントリーホールでは入場者全員に手指のアルコール消毒を求めていた。
 昨今の感染対策について、批判の論、擁護の論、いろいろとあるようである。しかし、何となく「戦力の逐次投入」という印象がないではない。中国政府の武漢の封鎖というやりかたは、とにかく「戦力の逐次投入」でないことだけは確かである。はじめてその報道に接した時、他の方はどう感じたかはわからないが、わたくしは現代でもこんなことができるのだと驚いた。カミュの「ペスト」は今から80年くらい前の時代の想定である。その当時ならいざ知らず、現代でもこんなことができるのだと驚嘆した。
 クルーズ船での感染拡大対策について、いろいろな批判と擁護がでている。その対応にあたった方の多くがお役所にかかわるかたなのではないかと思う。そして、こういう事態への対応というものこそお役所がもっとも苦手とするところなのではないかと思う。
 神戸の震災での事態について中井久夫さんがこんなことを書いている。「有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自分の責任において行ったものであった。・・・指示を待ったものは何ごともなしえなかった。統制、調整、一元化を要求したものは現場の足をしばしば引っ張った。「何が必要か」と電話あるいはファックスで尋ねてくる偉い方々には答えようがなかった。」 「状況がすべてである」というのはドゴールの言葉らしい。中井氏はいう。「ボスの行うべきことは、各人が状況の中で最善と判断し実行したことの追認である。」 そしておそらくお役人というのは「自分でその時点で最良と思う行動を自分の責任において行う」ことを最も苦手とする人たちなのではないだろうかと思う。昔読んだ「お笑い大蔵省極秘情報」という本で、その当時の大蔵省の高級官僚たちが自分たちがいかに優秀かを縷々語った後、しかし自分たちにも一つだけ苦手なことがある。それは前例のないことへの対応であるといっていた。高級官僚というのは過去の事例に先人がどのように対応したかについての膨大の資料をもっていて、つねにそれを参照して行動を決めるらしい。しかし、過去に先例がなくそれにどのように対応したかの記録がないものについては、どう対応していいか自分で判断することをきわめて不得手とするらしい。
 若い方はほとんどがご存じないかもしれないが、昔、洞爺丸転覆事件というのがあった。1954年(昭和29年)9月26日に青函航路で台風第15号により起こった、日本国有鉄道青函連絡船洞爺丸が沈没した海難事故で、死者・行方不明者あわせて1155人とされる日本海難史上最大の惨事ということである。まだ青函トンネルがなく、青森と函館を連絡船がつないでいた時代のことである。この事件は作家の想像力を刺激するようで水上勉の「飢餓海峡」や中井英夫の「虚無への供物」を生んでいる。
 この洞爺丸転覆事故について福田恆存がこんなことを書いている。「驚いたのは、その最初の事件の報道と同時に、著名な「文化人」数名の転覆事故についての意見が掲載されていたことです。・・・誰も彼ももっともらしく、あるいは船長を責め、あるいは当局を難じ、あるいは造船技術について云々しております。だが「運が悪かった」といったひとはひとりもいませんでした。・・・」
 われわれは何かことがおきると、それに対してどうしたらいいのかと考える。どうしようもないという答えは想定されない。しかし、われわれにとってどうしようもないこともあって、それはわれわれはいずれ必ず死ぬということである。だから医療は必敗の科学などとも揶揄される。そうではなく医療の目的はわれわれが死ななくすることではなく、天寿を全うするようにすることなのかもしれないが・・・。
 今、オーストラリアは山火事で大変なことになっているらしいが、ごく最近、30年ぶりの大雨でそれが収束する見通しもでてきているらしい。しかし、この雨が別の大きな被害を起こす可能性もあるらしい。また、東アフリカではバッタの大量発生で多くのひとが飢餓に直面しているということである。自然の活動は時に人知をこえる。
 14世紀のペストの流行では一億人が死んだといわれる。当時の人口は4億5千万人くらいだそうである。
 史上最悪のインフルエンザといわれる1918年~1920年のスペイン風邪では世界人口の1/3が感染し、2~5千万人が死んだそうである(第一次世界大戦中で正確な資料がないらしい)。
 リスボン地震の厄災がヴォルテールの「カンディード」を生んだといわれる。こんどの新型ウイルスの感染拡大はわれわれのものの見方を少しは変えていくということがあるのだろうか?

1995年1月・神戸――「阪神大震災」下の精神科医たち

1995年1月・神戸――「阪神大震災」下の精神科医たち

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 1995/03/24
  • メディア: 単行本
お笑い大蔵省極秘情報

お笑い大蔵省極秘情報

福田恒存著作集〈第6巻〉評論編 (1958年)

福田恒存著作集〈第6巻〉評論編 (1958年)

  • 作者:福田 恒存
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1958
  • メディア:
史上最悪のインフルエンザ  忘れられたパンデミック

史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミック

岩田健太郎教授

 岩田氏の名前を最初に知ったのがいつであったかよく覚えていないが、ディオバン事件のころではないかと思うので、もう10年以上も前のことである。最初の印象は何だか似たような名前の画家がいるなということであった。それと随分と若いひとだなあということでもあった。その当時まだ30台であったはずである。それで履歴を見てみると、地方の大学をでて沖縄の病院で研修し、アメリカにわたって武者修行をしたあと、日本の第一線の病院に戻り、そこからいきなり神戸大学の教授に抜擢されている。36歳前後ではないかと思う。日本の通常の医学部での出世コースである医局員→講師→助教授(准教授)→教授というコースからはまったく外れている。ということは、さぞかし敵も多いのだろうなあ、と思った。
 氏の専門は感染症で、抗生物質の使いかたについての本どは研修医の間でのベストセラーになっているのではないかと思う。この方は、ブログなどでの発信も積極的にしている方で、「楽園はこちら側」というブログに掲載されていた「絶対に 医者に殺されない47の心得」(これは近藤誠さんに似たような名前の本があるので、それにあやかった題名らしい)などにあったと思う日本禁煙学会(これは学会という名前にはなっているが禁煙に熱心な運動家の集まり)の硬直をからかった文章とか、近藤誠氏の「がんもどき理論」へのそれがでてきた背景への理解をもふくむ情理をかねそなえた反論(近藤氏は日本で世界のなかでもかなり最後までおこなわれていた乳がんの拡大手術(いわゆるハルシュット手術)から温存手術が標準的な手術法に転換していくようになることについてきわめて大きな役割をはたしたと思う)、ワクチン(特にそれへの反対運動)の問題、健診の功罪の問題、さらに前立腺がんや乳がんの問題などのいろいろな悪性腫瘍への治療方針の問題などにつき、わたくしは非常に多くのことを岩田氏から学んでいたと思っている。自分の専門分野以外のことについてはかなりの部分については岩田氏の見解をそのまま自分の見解として採用している。
 わたくしは産業医という仕事もしているので、ときどき健診について話をするが、健診をうけるということは必ずしもいいことばかりではないのだといった話をすると、多くのかたが怪訝な顔をする。何しろ日本では会社員であるかぎり、年に一回健診を受けることが法的な義務となっている(これは世界でも珍しいことではないかと思う。最近、日本の会社でも外国からの方が増えてきているが、そういう方から、毎年、胸部レントゲンをとるなどというのは野蛮である。放射線被ばくのことは考えていないのかという抗議をうけたことがある)。会社の安全衛生担当の方は社員が全員検診をうけることに血眼になっていて、それが達成されると、それだけで安心してしまって、健診の結果を社員の福利厚生にどう役にたっているかについてはほとんど関心がない、そういういささか本末転倒なことがあちこちでおきてきている。
 ごく最近、岩田氏が新型コロナウイルスについて、例のクルーズ船に乗り込んでその感染対策の体制が杜撰であることを指摘する映像をyou tube に投稿して、「たった二時間の観察で何がわかる!」といったバッシングを受けて、一日で撤回するというようなことがおきている。タバコや乳がんの問題とは異なり、感染症は岩田氏の専門分野である。門外漢がタバコや健診の問題に意見を述べるのとはおのずと反応が違うのかもしれない。
 このクルーズ船についての投稿の直前に氏は「COVIDと対峙するために日本社会が変わるべきこと」という文を発表している。現在進行中の新型コロナウイルスへの対応の中で、日本の社会の持つ様々な問題点が各所で浮き彫りにされてくるだろうと思う。
 岩田氏がバッシングを受けることで、頑なになり、現在の近藤誠氏のような方向に走ることがなければいいなと思う。

三浦雅士「石坂洋次郎の逆襲」(1)

 最近、書店で偶然みつけた本だが(本年1月28日に刊行)、とても面白かったので、しばらく、これについて、いくつか書いてみたいと思う。石坂洋二郎の小説群を「母系制」という視点から見直そうとしている本である。
 しかし、困ったことが多くある。第一にというか一番困ったことに、わたくしは石坂洋次郎の小説をまったく読んでいない(正確には、数年前、思うところがあって「青い山脈」を読みだしたのだが、はじめの方で挫折したままになっている。) また上述のように、本書は石坂の小説のほとんどすべてが母系制の問題とかかわることを主張したものであるが、その関係で民俗学の話が当然のように出てくる。柳田國男とか折口信夫とかの名前もでてくる。この辺りについてもいたって不勉強なので、最近文庫になった岡野弘彦折口信夫伝」などというのも買ってきてみたりはした。しかし、どうにも苦手というか、こういう濃いひとというのは自分の体質にはあわないと思った。折口は民俗学者であると同時に国学でもあるわけで、だから「大君は 神といまして 神ながら思ほしなげくことの かしこさ」ということになるのだが、「神がかる」という方向には一切背をむけて、わたくしは生きてきた。それで折口の「死者の書」は昔トライした記憶があるが、巻頭数ページで挫折している。
 また、宮本常一網野善彦の名もでてくる。さすがに土佐源氏の話は読んだことがあるし、網野氏の本は往時の網野ブームの時にかなり読んでいる。網野氏にはエクセントリックなところはないと思う。
 グレゴリー・ベイトソンとかマーガレット・ミードの名も挙げられている。ベイトソンの本は昔、熱心に読んだことがある。ニュー・エイジ系の思想家のなかで唯一まともひとがベイトソンなのではないかと思っている。(それならカプラは? 意図的に正統科学の硬直をおちょくるという使命は十分に果たしたとひとだとは思うが・・・)
 確か一時はベイトソンの奥さんであったミードの「サモアの思春期」にも言及されているが、この本は学問的にはかなり問題な本ということになっているのではないだろうか?
 またE・トッドも随所で論じられる。最近、トッドはいろいろな学問分野での基礎文献となってきているようである。トッドの本も少しは読んでいるが、多くの情報は鹿島茂さん経由である。
 吉田健一「文學の楽み」に以下のようなところがある(旧かなで引用したいので全集から引く)。「併し学者は或る程度まで養成できても、批評は文学に属することで、例へば、受験勉強で身に付けられるものではない。英国の大学でも。折口信夫を英国人にしたやうなものがいつまでも、どこにでもゐる訳ではなくて・・・」
 最初読んだときに、ここで躓いた。吉田健一折口信夫はまったく肌合いの違う文学者だと思っていたからである。
 最新の葬式は仏式かキリスト教あるいは無宗教がほとんどで、神式というのは滅多にないが、まれにあるそれに参列すると、そこでの祝詞というのがどうにも駄目で、なんともおどろおどろしい。悲憤慷慨というのだろうか。だから、「あはれ折口春洋主 今しはるけき青波の果、いや遠き海境硫黄が島より 足の音もしみにより来たまひて、主が廿年住ひしこの家のくまに彳みて、われどち主が友がき学び子親たちの言ふことのをぢなきをつばらに聞きわき給へ。ことし、今日この日かの時より既く五年経て国がら山川の姿よりはじめて、人心のおくがまで全くあらたまり行くを主は見明らめたまふらむ 国々の中にも大倭国 人々のうちとも大倭びと然思ひ相ほこりし心もくづほれて、われどちいつまでかくだちゆかむとすらむ ・・・」などといういのも、生理的に受けつけない。
 以前にも言及したことがあると思うが、三浦雅士氏が丸谷才一全集第七巻の巻末に書いた解説の「文学史とは何か」で、一時國學院大學で教えていた丸谷才一はそこで折口信夫の学統に触れたのだということがいわれている。そこではまた最晩年の折口は吉田健一を数度にわたって國學院大學に招聘し、英文学を講じさせたことが述べられている。折口は吉田健一のなかに自分の文学と同質のものを見出したのだ、という。しかし日本の正統的な吉田健一信者の書くもの(たとえば長谷川郁夫氏の「吉田健一」)には折口信夫路線はまず言及されていないように思う。
 丸谷才一鹿島茂三浦雅士の三氏が架空の文学全集を構想するという変た本である「文学全集を立ちあげる」では、柳田國男折口信夫にそれぞれ一巻が充てられているが(吉田健一も一巻)、「死者の書」について、丸谷「ぼくはさっぱりわからないんだ」、鹿島「私もわからないんです。どこがいいの?」、三浦「「した、した、した」って、最初の出だしからして、気持ち悪いよね」、鹿島「ああ、よかった。みんなわからないんだ(笑)。」ということになっている。それでもこの架空の日本文学全集に「死者の書」をいれることにしているのだが。わたくしも「みんなわからないんだ、ああ、よかった」の口なのであるが、この石坂洋次郎論では、三浦氏は母系論の観点から折口について、いろいろと論じている。
 それで信太妻の話「恋しくば、たづね来て見よ。和泉なる信太の森の うらみ葛の葉」もでてくるが、これが母系制とどうかかわるのか今ひとつ呑み込めなかった。わたくしには信太妻の話は岡倉天心の書いた英語のオペラ脚本「白狐」の原話なのである(大岡信岡倉天心」)。「 (Yasuna) In thee I am. (Kuzunoha) In myself I am not. (Kuzunoha and Yasuna) Sweet mystery, / Sacred rapture. / Passions are merged / In the passion eternal. / Thoughts have vanished / In the thought supreme. / Sweet mystery, / Sacred rapture, / Nirvana of Love. 」 この英語の詩句のどこからも母系制の香りは感じられない。
 本書にも書かれているように、わたくしが若いころ、石坂洋二郎の小説は次々とベストセラーになり映画化されていた。それでわたくしの頭のなかではどこかで、石坂洋二郎と石原裕次郎がオーバーラップしているくらいである。本書では書かれていないが、テレビドラマにも多くなっていたように記憶している。原作も読んでいないし、映画もみていないが、テレビドラマはところどころ見た記憶があって、何だか気恥ずかしい感じというのが残っている印象である。戦後開明された若者たちが封建的な古い戦前世代の親たちと対立するといった構図のドラマのように思えて、何だかなと思った。一言でいえば、観念的かつ図式的であって、若い世代に媚びているように感じたのである。
 今では、封建的という言葉は死語であろう。しかし、私が若いころには、これはまだ相当に切れ味のある言葉で、戦前の価値観を引きずっているという批判をふくむ重宝な言葉であった。わたくしの感覚では、封建的という言葉が使われなくなるのと並行して、石坂洋二郎も第一線の作家ではなくなっていった。
 「戦後の明るさ」の代表という観点から石坂洋二郎を論じているのが渡部昇一の「戦後啓蒙のおわり・三島由紀夫」である(「腐敗の時代」所収)。これは本当は三島由紀夫論(特に「鏡子の家」論)であって、石坂洋二郎はその対照にあるものとして前座として参照されているのだけなのであるが、そして映画「青い山脈」の西条八十作詞の主題歌(若く明るい歌声に/ 雪崩も消える花も咲く・・)にもよりかかった論なのであるが、わたくしが若いころ石坂洋二郎原作のテレビドラマをみて感じた気恥ずかしさをうまく説明してくれているもののように思う。
 しかし、長くなったので、この渡部昇一氏の論から稿をあらためる。

石坂洋次郎の逆襲

石坂洋次郎の逆襲

丸谷才一全集 第七巻 王朝和歌と日本文学史

丸谷才一全集 第七巻 王朝和歌と日本文学史

文学全集を立ちあげる (文春文庫)

文学全集を立ちあげる (文春文庫)

岡倉天心 (1975年) (朝日評伝選〈4〉)

岡倉天心 (1975年) (朝日評伝選〈4〉)

腐敗の時代 (1975年)

腐敗の時代 (1975年)

本棚の整理(5) 丸谷才一

 丸谷氏の本は随分と多く持っている。対談本までふくめると70冊以上あった。それは氏がわたくしより年上ではあっても(20歳くらい上)、まあ同時代の文学者としてほぼリアルタイムで本を読んできているからだと思う。
 ご多聞に漏れず、最初に読んだのは「笹まくら」だったと思う。手持ちの本は昭和43年刊の再版で(初版昭和41年)、これは河出書房新社で刊行されていた「書き下ろし長編小説叢書」の一冊として刊行されている。この叢書では高橋和巳の「憂鬱なる党派」なども刊行されている。最初「笹まくら」の紹介をみて、徴兵忌避者を主人公にしているらしいことがわかって食指が動かなかった。なんとなく「反戦」というその時代の雰囲気におもねるもののように感じたからである。
 それですぐには読まなかったわけであるが、読んでみればまったくそういうものではなかった。これは丸谷氏の持つほとんど唯一の主題ではないかと思う「逃げる」ということをあつかった作品であった(と同時に、技巧的な小説を作るという万年文学青年としての氏の側面も強くでた作でもあった)。
 これに触発されて読んだ氏の処女長編である「エホバの顔を避けて」とともに、この「笹まくら」は政治的なものから逃げたい、それとは別の世界で生きることを許してほしいという氏の願望を強く反映したものになっている(「だめだらめておれはとけてゆくちいさな・・・」)。その別の世界とは文学の世界、それも「文学趣味に淫した世界」(「日本文学のなかの世界文学」(「梨のつぶて」(1966初版))であって、そういう世界にひたっていたい、「ロリータ」の中の模倣詩を読んで、すぐにエリオットの詩のパロディとわかる同好の士とともに文学を語り合っていきたいという全く反時代的な願望を表したものになっている。「西の国の伊達男たち」(「梨のつぶて」所収)でのエリオットの「荒地」の何とも楽しそうな読み、またジョイスの「フィネガン・・」の深読み・・・。
 わたくしは「梨のつぶて」が氏の評論集として最良のものではないかと思う。自分が西欧の文学の正統に繋がっているという強い自負と、さりながら私小説が文壇を席捲する日本においては、自分はマイナーな存在たらざるをえないという厳しい現状の認識・・・。
 晩年の丸谷氏は自分が日本の文壇のメジヤーでありその指導者となったと自負していたと思う。最後の長編の「持ち重りする薔薇の花」の主人公、若者が作る新しい弦楽四重奏団パトロンである財界の重鎮というというのは氏の自画像でもあったのだろうと思う。
 湯川豊氏を聞き手とした晩年の「文学のレッスン」(2010)は、自分は文学というものをこう思うというのではなくて、文学というのがどういうものであるのかの教えをたれるという姿勢である。わたくしには晩年の氏をみて「いい気なものだ」という感じをぬぐうことがどうしてもできなかった。
 氏の長編小説は「エホバの顔を避けて」「笹まくら」「たつた一人の反乱」「裏声で歌へ君が代」「女ざかり」「輝く日の宮」「持ち重りする薔薇の花」の7つだけれど、「エホバ・・」はいかにも同人雑誌に書かれたという匂いが残っている若書きで、本当に長編を世に問うたのは「笹まくら」であるが、その主人公が大学の事務職員であるのは示唆的であると思う。「笹まくら」執筆当時、丸谷氏が知っていた現実世界というのは氏が教壇にたっていた大学だけであったのだとうと思う。
 それで次の「たつた一人の反乱」は通産省から天下りした重役といった従来の日本の小説にはまずでてこなかった人物を主人公にした。それで、ついには「女ざかり」では総理大臣までが登場することになった。全然、総理大臣らしくはなかったけれど。
 「たつた一人の反乱」の裏表紙に「作者のことば」があって、そこに「この長編小説 それ自体もまた 今の日本の小説の書き方に 決然と 逆らつてゐるといふ点で 一人の小説家の “たつた一人の反乱”にほかならない。」とある。これを書いた当時は丸谷氏はまだ自分を少数派と思っていたわけである。それがいつの間にか自分が多数派となり、文壇を指導するというような意識を持つようになったとき、氏の緊張が緩んでしまったのだと思う。
 今のわたくしにとって、丸谷氏の著作で一番面白いのは山崎正和氏との対談「日本史を読む」「二十世紀を読む」「日本の町」、山崎正和木村尚三郎氏との「鼎談書評」「三人で本を読む」、鹿島茂三浦雅士氏との「文学全集を立ち上げる」といった対談鼎談本、「深夜の散歩」といったミステリ評論などである。
 また、「後鳥羽院」などの古典論にも教えられた。「われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」の「心して」を何だか女々しいなあ、と思っていた長年の疑問が氷解した。「心して」を「自分をいたわって」というような意味だと思っていたのである。まあ単にこちらが常識を欠いていた、あるいは津田左右吉的文学観に毒されていただけということなのかもしれないが・・。(「津田左右吉に逆らって」(「梨のつぶて」)
 もしも丸谷氏がヨーロッパに生まれていたら、博識のマイナーポエットというような一定の立ち位置を容易に獲得できたのではないかと思う。日本に生まれてしまったのが氏の不幸で、私小説的文学風土との不毛な消耗戦を強いられたわけである。その文学風土を壊すのに果たして丸谷氏がどの程度の功績があったのかはよくわからない。
 吉田健一丸谷才一池澤夏樹路線というのが何となく現在の文壇の主流であるようにも一見はみえるけれども、村上春樹村上龍というのがその路線上にいるとは思えないし、何よりも現代詩というのが日本の文学でほとんど何の力も持っていない。俳句や短歌というのは相変わらずの華道茶道の家元路線の上にいるようだし、それは日本の文壇とはまったく別の場所にいる。要するに丸谷氏の文学は言葉で作るというヨーロッパの常識を日本に持ち込もうとしたのだろうと思うけれど、日本で確固たる勢力をもつ壇というものは相変わらず存在していて、俳壇・歌壇・文壇といったものは相変わらず健在である。結果としては丸谷氏は文壇の親分という位置に収まることで満足したのではないかと思う。それが最後まで異端であった吉田健一との大きな違いではないかと思う。
 丸谷氏はやはり小説家であった。文学というもののなかで小説などというものの位置は随分と低いことは頭ではわかっていたであろうが、若い時にジョイスに打ちのめされた経験から生涯逃れられなかったのであろう。ジョイスの書いた小説は高級な小説である。ナボコフが書いたのもまた高級な小説であった。丸谷氏がいかにミステリを愛するひとであったとしても「ゼンダ城の虜」と「ユリシーズ」を同列におくことはできなかったのであろう。その点、大衆小説と「たつた一人の反乱」を区別することがなかった吉田健一のほうが一枚上手だったということなのだろうと思う。要するに小説というのが現在文学の領域で大きな顔をしているのは、ヨーロッパの歴史のある時期に生じた個人という概念の発明という偶然に由来しているのであり、文学の長い歴史のなかでは例外的なことなのであるという認識が頭ではわかっていてもどうしても充分には腑に落ちなかったのであろうと思う。池澤夏樹氏もまた小説という形式への未練をなかなか捨てられないようである。
 小説などというのは別になくても一向に構わないもので、事実、その形式は間違いなく衰微しようとしている。多分、それは英国のEU離脱などともどこかで関連しているはずである。しかし人間というものがもうしばらく地球上で命脈を保つとするならば、考えることをし、文章を書くこともしていくであろうから、文学というものもまた続いていくはずである。
 「梨のつぶて」はその題名の通り、返答を期待しない問いかけであった。文学の根っこにあるのはそれで、「答えのない問い」である。自分が自分に問いかけること・・。それが自分の問いに反応があって、自分の言葉が日本の文壇を動かす力があるのではないかと思いだした時から、丸谷氏の書くものがもつ力がどこか弱くなっていったような気がする。
 

エホバの顔を避けて (1960年)

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たった一人の反乱 (1972年)

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梨のつぶて―文芸評論集 (1966年)

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持ち重りする薔薇の花

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  • 作者:丸谷 才一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/10
  • メディア: 単行本
文学のレッスン (新潮選書)

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鼎談書評 (1979年)

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後鳥羽院 (1973年) (日本詩人選〈10〉)

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