三島由紀夫 没後50年

 最近、書店にゆくと三島由紀夫関係の本が目立つなと思っていたら、今年は没後50年ということらしい。
 もっとも多いといってもやや目立つ程度であるから、三島もかなり忘れられた作家になりつつあるということでもあるのかもしれない。
 没後50年に敬意を表して「中央公論特別編集 彼女たちの三島由紀夫」という本(雑誌?)を買ってきた。「執筆者 対談相手は女性に限る(除く中村勘三郎)。三島の発言も「婦人公論」から採録」、という方針で作られたものである。まだパラパラと見ただけであるが、湯浅あつ子氏(「鏡子の家」の鏡子のモデルとされる方であるらしい)の「三島由紀夫の青春時代」という文章が哀切であった。
 三島が死んだ日のことはよく覚えている。医学部1年生で、例によって午前の講義はさぼって、午後からの実習にでるために昼頃、学食に入ったら、そこのテレビに「「盾の会」隊員自衛隊に乱入。三島由紀夫自殺」というテロップが流れていた。最初に思ったのは、自衛隊に乱入したのは「盾の会」の一部会員で、三島はその報をきいて、自宅で自殺したのだろうというようなことであった。しかしテレビをみていると、どうも「自衛隊に乱入した人間の中に三島もいるようである。それで思ったのが、三島が世間をからかう遊びとして作った「盾の会」の隊員が「先生、立ちましょう!」などと真顔で蜂起をせまってくる。「どうも、困ったものだ。しかし、自分が作った以上、責任がある」ということでつきあったというようなことであった。
 わたくしが三島を読んでいることを知っていた同じクラスの民青の活動家が「キミ、三島の気持ちわかる?」などときいてきた。「どうも、命と暮らしを守る、などといっている人間には、人が責任をとって死を選ぶ場合もあるということがわからないのかな?」などといささか優越した気分になった。
 いずれにしても、わたくしも三島が本気で死んだとはまったく思っていないわけである。おそらくその当時のひとのほとんどがそう思っていただろうように、わたくしも「知性の人三島由紀夫が、反=知性の極北のような「天皇陛下万歳」などということを真剣に信じている」とはいささかも思ってはいなかったわけである。(今でも、そう思うところが残っていないわけではない。)
 しかし、家にかえって夕刊を見てみるとどうも変である。事件の当日朝、新潮社のひとに「新潮」に連載していた「豊穣の海」最終巻の「天人五衰」の結尾の原稿を渡していたと書いてある。「女々しいじゃないか! 三島は最後まで文学を捨てられなかったのだ!」そう思った。それに「天人五衰」はその年の4月から「新潮」に連載がはじまったばかりである。半年で結末にいたるというのも信じがたい。
 実は「天人五衰」の連載がはじまったその年の4月の「新潮」を本屋で立ち読みして、「何か変だな?」とは思っていた。まず題名が予告されていた「月蝕」とは違っていた。また最終巻は「豊穣の海」の狂言回しである本多繁邦が4人目の転生者を探す話であったはずなのに、いきなり転生者とおぼしき人間が出てくる。しかもそれが何とも安っぽい人間で、安永透というなんとも作者の愛情が感じられない名前になっている。変だ、変だ、とは思ったが、作者が構想を変えるというのはよくあることなので、それ以上は深く考えなかった。(「豊穣の海」は第三巻「暁の寺」から変調をきたしていて、転生者で主人公であるはずの「月光姫」にはほとんど存在感がなく、狂言回しであるはずの本多繁邦が主人公になってしまい、その本多さんは覗きなどをはじめ、観察者への嫌悪、行動しない人間への軽蔑という主題が前面にでてきて「春の雪」「奔馬」とのバランスを大きく欠くことになっていた。)
 後から考えると、70年安保がほとんど何事もなく、平穏に終わってしまったことが、すべてを狂わせてしまったのであろう。1970年の東京が大騒乱になり、左翼勢力から天皇制(といっても日本国憲法に規定された天皇制ではなく(などてすめろぎはひととなりたまひし)、日本の文化の精髄を体現する存在としての天皇)を守るために「盾の会」を率いて斬り死にする、という計画が崩れ、死に場所がなくなってしまった。それであのようなわざとらしい大袈裟な舞台装置をしつらえるしかなくなった、ということなのだと思っている。晩年の三島は文学にすっかり愛想をつかして、「実」への志向に急傾斜していったのであろう。
 そうなってしまったのは、三島が東大法学部を出たのがいけない、というのがわたくしの抱いている仮説である。文学部を出ればああいうことにはならなかったと思う。東大法学部卒業生は日本の官僚制度の中心にいて日本を動かしている(三島も短期間、大蔵省勤務)。しかし自分は東大法学部を出ているのに結局、文学などという「虚業」に携わっているという劣等感にずっとさいなまれていたのではないかと思う。
 それと、有田八郎との「宴のあと」裁判に負けたというのも大きいのではないだろうか? 東大法学部を出ているのに三島は裁判に負けたといって世間は自分を笑っているのではないかといういわれのない思いからも逃れられなかったのではないだろうか?
 湯浅あつ子氏の文「三島由紀夫の青春時代」で、湯浅氏は三島のことを「運動神経皆無」と評している(そして、からっきし喧嘩ができない、とも)。同類であるわたくしとしては大変うれしいが、ボディビルなど無駄な抵抗をせずに、運命を甘受すればよかったのである。わたくしはスクワットなどを一所懸命にやっている老人をみると、「ケッツ」と思うのであるが、そんなことをいっているわたくしは万一もっと長生きしたら寝たきり老人になること必定である。
 三島はもしも長生きしたら、谷崎潤一郎ではなく永井荷風のようになることを非常におそれていたのだそうである。長生きした三島由紀夫という仮定で書かれた松浦寿輝の「不可能」という素敵に面白い小説がある(2011年講談社)。「三島由紀夫吉田健一になる」というのがこの本への三浦雅士氏の評であるが、三島はある時期まで藤原定家を主人公にした小説を書くというプランをもっていたそうである。「紅旗征戎吾事に非ず」という方向への傾斜もまたずっと持っていたのであろう。それを断念したころから、切死にという方向へ一直線に傾斜していったのであろう。
 上野千鶴子小倉千加子富岡多恵子の鼎談「男流文学論」では、三島もとりあげられている。そこで富岡多恵子が「三島は結婚がいやだから死んだ」という説を開陳している。「要するに、たかをくくっていたわけよ。結婚ぐらいできる、と。・・結婚はやっぱり、そんななめたものじゃない。彼はなめてかかっていたのとちがいますか。なめてかかった。ところがそれがなめてかかって済むことではなかった。かれにとってなかなかたいしたものだった。」 上野千鶴子は口をとがらせて反論しているが、これを見ると上野千鶴子は完全な女・三島由紀夫である。というか、完全に男である。人生を自分の知性で完全にコントロール下におけると思っている人である。
 橋本治の「「三島由紀夫」とは何ものだったのか」は、三島を「塔のなかの王子様」と評している。自分は塔のなかに閉じこもっているから安全であり、誰にも自分の内面に踏み込むことはさせない。自分は自分をわかっている。しかし他人が自分の内面に踏み込んでくることだけは絶対にさせない。橋本治は、これは日本の近代知識人のもつ共通の病弊であると思っていて、その典型を三島にみているわけである。自分は奥さんを完全に理解している。しかし、奥さんには自分の内面には絶対に立ち入らせない。三島はそれができると思って結婚した。しかしそうは問屋がおろさなかったというのが富岡説である。
 まったく偶然であるが、わたくしは三島夫人の瑤子さんと面識を持ったことある。たまたま父君の杉山寧氏を看取ることになったという縁による。杉山家のかたがたを見て、芸術一家というのもなかなか大変なものだと思った。(三島の死後もう20年以上たった時点で、受け持ち医として短期間かかわっただけの縁に過ぎないが、)少なくともその時の瑤子氏はオカルトのひとという印象であった。三島があのような死に方をしたことによって、そういう方向にいったのだろうか? 杉山氏は、生没が同一の日になっているが、これは死亡宣告をいつの時点とするかは医者の特権であることにもよる。杉山家、なかでも瑤子氏の希望によるものだったように記憶している。わずか数日の接触ではあったが、三島由紀夫もなかなか大変だったろうなあ、と思った。
 ということもあって、わたくしは富岡説に強く共感するのであろう。
 飯島耕一の「川と河」という詩に、「彼(三島由紀夫)は 正月の元旦のような気分が 一年中 ほしかったのだろう あわれな男。」という一節がある。  
 「彼女たちの三島由紀夫」にも収載されている倉橋由美子の「英雄の死」という文章に、「三島氏が楯の会の青年たちと風呂にはいっているときその他の、要するに文学以外のことをしているときの顔は、四十代の男の顔とは思えぬ晴朗さで輝いていて、曇りのない眼というような形容はこの三島氏の眼に使わなければならない」とあるのもこのことを言っているのであろう。
 三島氏が、時々、珠玉の短編を書くだけで生きていけるマイナー・ポエットの立ち位置でいられたら、あのような死はなかったであろう。しかし「鏡子の家」の不評の後、ふたたび文芸誌連載へと戻らなければいけなかった氏にはそれは叶わないことであったのだろう。
「永すぎた春」とか「美徳のよろめき」とか「美しい星」とかいった小説を書くことで生きていければよかったのに・・。
 小説の衰微がいわれて久しい。小説は小人の説であり、市井の渺たる個人にもその内面には神話の英雄にも比すべきドラマがあるという信念がそれを支えている。しかし、集団と集団が対立し、「あいつはアカだ!」というような粗雑な言葉がまかり通るようになれば、小説の命脈が断たれるのも時間の問題であるのかもしれない。あと20年もすれば三島由紀夫の名も忘れられ、小説という形式さえ過去のものということになっているかもしれない。
 

不可能

不可能

「お人好し時代のアメリカ」

 「お人好しの時代のアメリカ」というのは、ドラッカーの自伝?である「Adventures of A Bystander 」の最後の章のタイトルである。(本書の邦訳の題名は「ドラッカー わが軌跡」(上田惇生訳) 「傍観者の時代」(同じく上田氏訳) 「傍観者の時代 ―わが二〇世紀の光と影―」(風間禎三郎訳)といった様に様々なタイトルとなっているけれど、単純に直訳して「傍観者の冒険」とするのがいいのではないかと思う。冒険などするはずのない傍観者の冒険、というのが意表をつくし、傍観者、冒険と、Bの音が頭韻を踏むのもしゃれているし・・・。
 1938年にドラッカーが六週間のヨーロッパ取材旅行に際し提出した所得証明の書類を見て移民局の係官が、あなたの履歴ならもっと稼ぎがいい職があるよと親切に世話をしてくれそうになるエピソードからこの章は始まっている。その時代のアメリカは不況であったが、アメリカ人には特有の人の好さと行動力あったとドラッカーはいう。嫉妬や羨望とは無縁の社会で、誰かの成功は皆の成功だったのだ、と。そしてアメリカではまだコミュニティが健在だった、と。
 あるスウェーデン訛りのある年配の牧師がルーテル派教会の日曜礼拝でした説教をドラッカーは紹介している。
 「私たちは大変な時代に生きています。しかし、皆さんのご先祖は、ヨーロッパの絶え間ない戦争、憎しみ、虚栄から逃れて、この地にやってきました。国の名誉という不正と愚行、軍の栄光という政府の専横には与しない自由の人として生きるために、冬のみぞれと夏の砂嵐のなかで荒野を耕してこられました。皆さんのご先祖は、人に従うのではなく、法に従う新しい国をつくるためにこの国に来ました。私たちが、今日のこの苦しみを乗り越え、最後にして最良の希望の地であり続け、空しい帝国のリストの末席に加わることのないように、祈りましょう」
 ドラッカーはこの話に感動したが、しかし、よき意図だけでは、もはや間に合わないことも感じていた、という。国際主義者と孤立主義者の対立が、すでにアメリカの夢を引き裂いていたのだから。そして、この説教をきいてすぐに日本の真珠湾攻撃のニュースをきいた、と記す。それによりお人好しの時代は終わり、アメリカは大国になる道を選ばざるをえなくなったのだ、と。

 このドラッカーの「わが軌跡」は本当に面白い本で、あまり面白いので、ちょっと出来すぎではないかと感じるところも多々ある。事実、栗本慎一郎氏は「ブダペスト物語」の一章で「傍観者の時代」(「わが軌跡」)の第6章「ポランニー一家と「社会の時代」の終焉」を論じ、はなはだロマンティックなその記載について多くの修正の必要を指摘している。
 どうもドラッカーはサービス精神旺盛というか話を面白くしすぎる人のようである。とはいっても、ドラッカーも末席に参加していたある雑誌の編集会議で、カール・ポランニーが次の雑誌のテーマとして、1)張作霖などの中国軍閥間の内戦、2)世界市場での農作物価格の下落が世界恐慌の引き金になるかもしれないことについて、3)スターリン治下のソ連は独裁農奴制の復活であるという話、4)同時まだ無名であったのケインズという経済学者の書いた「平和の経済的帰結」について、の4本のテーマを提案したが、他の編集委員に反対され、それでドラッカーにでは何かほかにいいテーマはあるかときいたので、ドラッカーは、「では、ヒトラーの政権奪取というテーマはどうでしょう」と提案したが、選挙で大敗したばかりのヒトラーについて(ポランニーとポランニー以外の)編集委員はもはや再起不能と思っていて、そんな話題はとりあげる価値なしとして反対したことなどが書かれている部分だけをみても、素敵に面白い。世に具眼の士はいるものである。(もしもここが創作でなければ)やはりカール・ポランニーというのは大した人であるし、ドラッカーもまた。
 だから牧師さんの説教のすぐあとに真珠湾攻撃のニュースというのはいささか出来すぎで、潤色があるのではないかと思うのだが、日本の真珠湾攻撃アメリカに孤立主義を捨てさせる最後の一押しとなったことは確かである。
 今のアメリカの混乱の一つの要因が国際主義と孤立主義の対立にあるのかもしれないが(片方は、なにしろ国境に壁を作ろうというひとである)、「私はアメリカ合衆国の国旗、並びにその国旗が表すところの共和国、全ての民のために自由と正義を備え、神の下に唯一分割すべからざる一国家であるこの共和国に忠誠を誓います」という宣誓、これは、合衆国国旗に顔を向け、起立し、帽子を取り、右手を左胸に当てて暗唱しなくてはならないのだそうであるが、これはまだ今もおこなわれているのだろうか?
 今晩には、アメリカで投票がはじまるらしい。
 いずれにしても、「お人好しの時代のアメリカ」などというのが、はるか遠い昔のお伽噺としか思えなくなってきていることは確かである。ドラッカーが描いたのは80年ほど前のアメリカなのであるが・・。

ドラッカー わが軌跡

ドラッカー わが軌跡

アメリカ

 田村隆一に「リバーマン帰る」という詩がある(「新年の手紙」昭和48年刊所収)。「雨男のリバーマン、アメリカは中西部/ トーモロコシの空間に帰って行くよ。」と始まる。 「横浜の波止場から/ おお 船に乗って!」/ 二人の娘と、一人の息子を/ 両脇にかかえて、白熊のような奥さんに、/ Support されて、イリノイ大学へ帰って行くよ。/ 早く帰らないと、/ ウーマン・リブの女教師に、Professor の Position を/ とられてしまうぞ、・・・」 
 そのお別れパーティで「ぼく」は演説する。「原稿料が入ったから、雨男は料理屋へ行ったよ、/・・そこで、板前がたずねたものだ、「お客さん、ご職業は?」/ 雨男は、鼻をヒクヒクさせて、マイルドな日本語で答えたものさ、/ 「わたしは、シュジンです」/ 「へえ、主人?」/ 「シジンです」/ 「なーんだ、詩人ですかい」/ そこで、ぼくは演説したよ、ヒョロヒョロ、立ち上がって、演説したんだ、「日本じゃ、/ 大学の先生と、云ったほうがいいね、詩人といったら、乞食のことだ、中西部とはちがうんだ、あの燃える、/ 夕日がギラギラ落ちて行く、トーモロコシ畠のまん中で、/ ほんとうの詩人とは、腕ぷしの強い農夫のことさ、日本じゃ、進歩的なヘナチョコ百姓ばかり、アメリカといったら、ベトナム戦争と人種差別のオウム返しさ、・・・」
 今のアメリカについての報道をみていると、わたくしなどにはもうまったく理解できないことばかりである。それはおそらく「中西部の」「燃える夕日がギラギラ落ちて行くトーモロコシ畠」とそこにいる「腕ぷしの強い農夫」がわたくしのまったくの理解の外にあるからなのであろう。
 わたくしは二十歳からの人生を結局、吉田健一信者として過ごしてきたと思うけれど、その吉田健一について「鼎談書評」(昭和54年刊)で山崎正和氏がこんなことを言っている。「吉田健一のヨーロッパ的ものさしでは、日本酒こそ最高の位置に来る、その矛盾から出て来るのが「「反米」なんです。アメリカ文明というのは浅薄で、日本に何の影響も及ぼさなかったというところだけ、吉田さんに似合わず少し激してるんですよね。イギリスと日本という、どちらも何かトロトロと溶けたような、不可思議なとこで育った人が、一箇所明快にいえるのは、「アメリカ人はバカだなあ」ということなんだと思う。」 それに応えて、丸谷才一氏が、「吉田さんんが亡くなったあと、中村光夫さんと故人を偲ぶ話をしたんです。そうしらた中村さんが、「アメリカって国が存在することを、黙認してやるっていった調子だったねえ(笑)」 ぼくはとてもうまい表現だと思った。・・・」
 吉田健一は都会の人であった。「トーモロコシ畠」とか、そこにいる「腕ぷしの強い農夫」とかには縁もゆかりもないひとであった。
 そもそも文明というのは都会が生み出すものであるというのが吉田氏の信念であったはずである。そしてもう一つ氏にとって文明化というのはキリスト教の持つ野蛮の克服をも意味していた。(「我々にとつて重要なのはギボンにキリスト教といふものが一種の狂気にしか見えなかつたことである。・・古代に属する人間にとつてキリスト教は明らかに狂気の沙汰である他なかつたのであり、その狂気が十数世紀も続いたならばヨオロツパがヨオロツパであるには古代の理性が再び働いて均衡の回復を図らなければならなかつた。」(「ヨオロツパの世紀末」)
 リチャード・ドーキンスに「悪魔に使える牧師」とか「神は妄想である」とかいった変な本があって、わたくしの印象ではまずもって野蛮な本なのであるが、ドーキンスさん今のアメリカの状態をみていたら悲憤慷慨、ほとんど憤死しかねないのではないかと思う。そのドーキンスの論敵のS・J・グールドはその本を読むかぎり文明的ではあるのだが、その論旨を曇らせているのもキリスト教である。つくづくと宗教というのは困ったものだと思う。
 もう後数日でアメリカ大統領選挙である。トランプさんという人はわたくしにはほとんど理解の外のひとであるが、ではバイデンさんはいえば、これまた何だかなあなのである。どうも別種のアメリカ的野蛮の系列の人にしか思えない。
 吉田健一信者の一人として、わたくしもまた「アメリカ人はバカだなあ」と思っている。しかし、「トーモロコシ畠のまん中にいる、腕ぷしの強い農夫」から見れば、わたくしのごときひ弱な都会育ちなどは相手にするにも値しない口舌だけの徒ということになるのだろうと思う。
 ソヴィエトが崩壊し、東西冷戦が終結した時、われわれはもう少し別な未来を思い描いていたのではないかと思う。「ポスト・モダン論」という今から思えば明後日の方向の議論があったこともなつかしく思い出される。未来は誰にも予想できない、未来は開かれているのだとしても、わたくしが漠然と思い描いてきた啓蒙思想が普及して文明化していく未来というのはどうも期待薄なようで、少なくとも今しばらくは、力が前面にでる野蛮の方向に停滞するのではないかと思う。
 

鼎談書評 (1979年)

鼎談書評 (1979年)

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別




 

学術会議

 最近 いろいろ話題になっているので、学術会議の会員というのはどんなひとがいるのかなと思って、調べてみた。
 検索で最初にヒットしたのが第22期という少し前のもので、猪口邦子さんとか上野千鶴子さん、野家啓一さん、長谷川寿一さん、吉川洋さんなど、さらには、大学の先輩、同輩、後輩、また高校の同級などもいて、12名ほどは名前を知っていた。しかし最新のものでは、大竹文雄さん、苅部直さん、平田オリザさん+大学の後輩1名のわずか4名であった。
 もちろん、わたくしの無知と不勉強がそうさせているのであろうが、今回の名簿を見るかぎり、わずか数年前に比べても、広く社会に発信しているというかたが随分と少なくなっているのではないかという印象をもった。
 別に自分の研究成果を社会に問うことが学者に求められているわけではないし、大学あるいはアカデミーというのは、社会性が乏しく、一般社会では生きていくことが難しい人間に、なんとか生きていける場を提供するというのも大きな役割の一つであろうから、象牙の塔に閉じこもることも一概に非難されることではないのかもしれないが、何となく学術会議というのも小粒の学者の集まりになってきているのはないかという印象は拭えなかった。
 因みに、今回、任命を拒否された6名の方では、宇野重規氏と加藤陽子氏の本は読んだことがあったが、他の4名の方の名前は存じ上げなかった。

ノーベル医学生理学賞

 報道によれば、今年のノーベル医学生理学賞C型肝炎ウイルス研究関係の3氏に決定したようである。肝臓病を臨床の主たるフィールドとしてきた人間であるので少し感想など。
 C型肝炎ウイルスが同定されたのは1989年のことで、それに成功したのはカイロン社というヴェンチャー企業であるということであった。その報を聞いたときにまず感じたのが、臨床研究もついにビジネスの対象になってしまったのだなということであった。
 B型肝炎ウイルスが特定された後でも、相変わらず輸血後肝炎は頻繁におきていたので、当然、B型肝炎ウイルス以外に輸血後肝炎をおこす未知のウイルスが少なくとも一つ以上は存在することは明らかであったわけであり、世界中の肝炎研究者がその発見をめぐって覇を競っていた。もちろん日本でもそうで、わたくしの周囲にも、その競争に参加している先生もいた。しかし、長年肝炎の研究にたずさわっていた基礎医学臨床医学の分野の人間からではなく、明確にビジネスとして未知のウイルスの発見に挑戦し、それに成功した企業が出たということが、時代が変化したことを思わせた。
 このウイルスの同定が臨床的にきわめて意義深いものであったことは明らかで、まず検査試薬が開発されることにより、輸血後肝炎はほぼ発生することがなくなり(このことによって、輸血後肝炎を起こすウイルスはB型、C型の二種だけであることも明らかになった)、その後のウイルスの増殖様式に解明により種々の治療薬が開発され、現在では2ヶ月間の飲み薬の服用によりウイルスを根絶されることがほぼ100%可能になってきているのであるから、これが受賞に値する立派な業績であることは論をまたない。
 カイロン社C型肝炎ウイルスを特定という報が聞こえてきてしばらくすると今度はその発見者が、「ひょっとすると自分はノーベル賞がもられるかも」と思ってビジネスの世界を出て、研究者生活にはいったというような話がきこえてきて、人間というのはそういうものなのかなあという感慨をもった。
 今回の3名の受賞者の内のホートン氏はカイロン社出身とあるからおそらくはわれわれの耳にはいってきたのは氏の話であったのかもしれない。
 ブランバーグがオーストラリア抗原を見出したのが1964年で、これは後にB型肝炎ウイルスと関連することが明らかになり、1976年にノーベル賞を受賞することになるわけであるが、発見から10年ちょっとである。一方、C型肝炎ウイルスの同定は30年以上前のことであるので、わたくしもカイロン社のエピソードのことなどとっくに忘れていた。
 おそらくこれが受賞対象になったのは、最近のC型肝炎治療薬の劇的といっていいような開発の進展との合わせ技ということでもあり、それで30年という時間を要したのかもしれない。
 わたくしが臨床研修をはじめたのは1973年、まだB型肝炎ウイルスではなくAu抗原という呼び方が普通だった時代で(研修医として受け持ったまだ20代の女性の肝硬変患者がAu抗原陽性であるという検査結果が届いたときの驚きをいまだに覚えている)、それからほぼ50年前、B型肝炎も経口剤でコントロール可能となり、C型肝炎も経口剤でほぼ100%根治可能という時代になった。これからの肝臓医は何もみていけばいいのだろうかという話をよくきくようになった。もちろんアルコールによる肝疾患はある。しかしアルコール依存症の治療は敗北の歴史であり、その専門家もかなりがアルコール症の治療にさじをなげてゲーム依存に向かおうとしている。後は生活習慣病である。肥満による脂肪肝の一部が進行して肝硬変から肝癌にいたることがある。しかし、肝疾患の主な原因はB型C型の肝炎であったことは間違いない事実で、それが臨床のフィールドからほぼなくなって、あとはお酒をやめましょうとか痩せましょうといった生活指導しかないということになると、臨床肝臓病の分野は随分と地味で人をひきつけない分野になっていくのではないかと思う。
 臨床にたずさわってそろそろ50年。ちょうど、いい時期に臨床肝臓病にかかわったことになるのかもしれない。

啓蒙主義

 若い時は啓蒙主義とか啓蒙思想とかに非常な反感を持っていた。要するに、学ぶことによって世界の真理を会得したものが、まだ無知蒙昧で世界の仕組みを理解していないものに教えをたれて良き方向に導いていく、というような何とも傲慢で思いあがった考え方のことだと思っていた。今では死語であるが、わたくしが若いころには進歩的文化人という言葉もあって、啓蒙思想はそれと同義だと思っていた。
 その見方を根底から覆したのが、「より良き世界をもとめて」と題する本に収載されたポパーの「寛容と知的責任」という1981年の講演記録を読んだことによってであった。この日本語訳の刊行は1995年であるから、おそらくわたくしが読んだのは40歳後半である。
 この講演当時の世界の混乱(ベトナムカンボジアイラン革命アフガニスタン・・・)に対してわれわれは何をできるかという疑問を提出して(ポパーはここでのわれわれとは「知識人、つまり、理念に関心をもつ人間、とりわけ、読書しそしておそらく著述するであろう人間のこと」であるとしている)、ポパーはできると断言する。なぜなら「われわれ知識人は何千年来となく身の毛をよだつような害悪をなしてきたから」。
 そして啓蒙主義の父ヴォルテールの言葉を引用する。「寛容は、われわれとは過ちを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれすべては終始誤りを犯しているという洞察から必然的に導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。これが自然法の基礎である。」 ポパーはこれを自由訳であると断っているので、どこまでヴォルテールの言葉に忠実であるのかがわからないのだが、とにかくこの言葉を読んだときには仰天した。それまでのわたくしの啓蒙主義理解とはまったく正反対であったからである。この論に従えば、進歩的文化人も《何千年来となく身の毛をよだつような害悪をなしてきた》知識人の正統の後継者であることになる。なぜなら彼らは自分が考えていることが正しいことを微塵も疑っておらず、自分が過ちを犯す可能性があるなどとはまったく想定しないからである。間違っているのはつねに他人であり、自分はそれを批判する正当な権利をもつと彼らは確信している。
 しかし、知識人は何か正しいことがわかったと考えることで、世界に多大な惨禍をもたらしてきたとすれば、知識人が自分もまた無知であって、何も知らない人間の一人であることを自覚すれば、その惨禍の多くを無くすことができる、という、ポパー経由のヴォルテールの言葉の線で「啓蒙」を理解するとするならば、わたくしはずいぶんと以前からその方向には親しんできたこともわかった。
 たとえば福田恆存の「平和論に対する疑問」。洞爺丸転覆事故の翌日の新聞紙面に掲載された文化人の「堂々たる卓見」へのからかい(発表は昭和29年、わたくしが読んだのは昭和42~43年?) しかし、福田氏のことを啓蒙主義者などというひとは一人もいなかった。氏は保守反動といわれていた。
 この「平和論に対する疑問」について吉田健一は「原稿料稼ぎに少し枚数を多くした感想文に過ぎないのに、それが所謂、知識階級の手に掛かると「福田提案」などとものものしくなるのだから、実際、こういう連中は早く消えてなくなればいい、とこっちも思うのである」と書いている。(「三文紳士」)ある時期までわたくしは所謂「進歩的文化人」≒「啓蒙思想の流れの人」と思っていたわけである。
 ポパーによれば、われわれが考え得ることはすべて仮説にすぎない。その説自体をいくら眺めていてもその説の正否はわからない。しかし仮説はもしもわたくしの考えることが正しいとするならば、未来はこうなるであろうという予見をも同時に提示するのだから、仮説の正否を決めるのは、未来に何がおきるかである。
 おそらくポパーの頭にあるのが、ニュートン力学からアインシュタインの相対性原理への転換である。アインシュタインが相対原理を提出するまで、リュートン力学は《真理》であると思われていた。「ニュートンは真理を発見した。その真理によって世界は説明できたし未来も予見できた!」 「個人は真理を発見しうる。その真理によって世界は予見できるし、設計することができる!」 この思考法のもっとも悪しき応用がマルクスによる科学的社会主義の主張、歴史の発展法則発見の主張で、進歩的文化人、知識階級などといわれたひとたちはみなその後裔であったわけだから、東側の崩壊によって、その人たちはすごすごと言論の世界から退場していったかといえば、決してそういうことにはならなかった。《マルクスの考えは残念ながら真理ではなかった、しかし世の中がむかうべき正しい方向があるということ自体は間違っていないのだから、それを見出して人々に指し示していくのが知識を持つ人間の相変わらずの義務であって、われわれはその要請にこれからも応えていかなければならない》という信念は揺らぐことはなかった。
 その典型が私見によれば朝日新聞である。その紙面からは、われわれは現在こういう主張をしているが、それが正しいかどうかはわからない。だから将来おきることによって現在の主張があやまっていることが明らかになった場合には、それを直ちに取り消すことは当然のことである、という姿勢などは微塵も感じられない。
 その朝日新聞にとっては、絶対悪、これだけは100%間違っているという仮想敵があることは大変重宝なわけで、それが安倍政権的なもの、《美しい国を回復するために憲法を改正する》といった方向であったのだと思う。安倍氏は毛並みのいいボンボンとしてドブ板選挙で苦労するなどということは一切なく政治家になれて、純粋培養のなかで本気でその理念を信じていたのであろうが、政権が長期になり、世界各国と外交で伍していく経験をつむなかで、「美しい国」などというのは全然明後日の方向であって世界からは相手にもされないことを痛切に感じるようになった。それで現実にはその方向は棚上げして、アベノミクスといった形而下の方向に舵をきったのであろう。そもそも、一億総活躍社会などというのが、「美しい日本」とは真逆の方向である。だから一部自分を信奉する支持者を繋ぎとめておくために、憲法改正などの看板は下ろさないものの、それは神棚に安置されたままになる。
 しかし朝日新聞にとってはたとえ神棚に安置されただけのものであっても、憲法改正の看板がひっこめられずにそこにあるということはとても重要なことであった。仮想敵は目に見えるところになければならない。そうであるとすれば、今回の安倍首相退陣は、朝日新聞の終わりの始まりを告げるものなのではないかという気がする。
 次の首相は菅氏がなるらしいが、菅氏はまさに安倍氏と正反対、ドブ板たたき上げの苦労人で政治とは利害調整のことである信念のもとに生きてきたひとであろうと思うので、理念などという腹の足しにならないならないことにはまったく関心がないだろうと思う。
 わたくしが記憶している限り、政権誕生時に、朝日新聞が持ち上げた唯一の宰相は、民主党政権誕生時を除けば、田中角栄宰相であったと思う。小学校しか出ていない人は今までとは違う何かをなしとげてくれるだろうといった論調だった。田中氏もまた、日本列島改造には熱心であっても、「美しい国」などという方向にはいささかの関心ももたなかった。
 菅氏は安倍政権の継承などといっているので、仮想敵であることは続くのであろうが、およそ理念などいう関心を持たないであろう菅氏にどう反応していったらいいのか、とまどっているのではないかと思う。
 世界はポパーのいう啓蒙主義とは真逆の方向に動こうとしている。「寛容は、われわれとは過ちを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれすべては終始誤りを犯しているという洞察から必然的に導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。これが自然法の基礎である。」などというのはトランプ大統領にとっては寝言以下の戯言であろう。プーチン大統領習近平主席とっても同様であるはずである。
 啓蒙思想というのは西欧の軟弱な文人が抱いた一場の夢であったのかもしれない。加藤典洋氏の「ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ」(2002年)に「悪魔の詩」を書いたことによってホメイニ師から死刑の布告をだされているサルマン・ラシュディの文章が紹介されている。「安易な日常生活、ぬるま湯につかった平和こそが大切なのであり」「公の場でのキス、ベーコンサンド、意見の対立、最新流行のファッション、文学作品、寛大さ、飲み水、世界の資源の公平な分配、映画、音楽、思想の自由、美、愛」といったささいでありふれた自由こそが大事、「安逸な日常生活、ぬるま湯につかった平和」といったものこそが何よりも大切であるとその文章はいっている。
ミラン・クンデラエルサレム賞受賞講演で、「個人が尊重される世界」というヨーロッパに抱く私たちの夢はもろくはかないものであることをわたくしたちは知っているが、個人の尊厳。個人の独自な思想と侵すことのできない私的生活の権利の尊重というヨーロッパ精神の貴重な本質は小説の歴史のなかに預けられている、といっている。
 村上春樹の同じエルサレム賞受賞講演での《高く堅牢な壁と、そこにぶつかれば壊れてしまう卵》の話も同工異作というか、クンデラ講演の延長のようなものであると思うが、ヨーロッパで発明された《一見しがない一個人も、実は神話の英雄と何ら変わることのない内実をもつ存在》というおそらく世界の歴史のなかで唯一ヨーロッパでのみ発明された奇矯な見方を踏襲したものである。
 それがもっと極端になれば「結婚して子供を生み、そして、子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値がある存在なんだ」という吉本隆明の激越な言葉にもつながってくる。
 今まで、個人の「安逸な日常生活、ぬるま湯につかった平和」に対立するものは、国家というような大きな物語、「美しい国」というような神話であった。しかし「(平和とは)自分の村から隣の村に行く道の脇に大木が生えていて、それを通りすがりに眺めるのを邪魔するものがいないことである、或いは、去年に比べて今年の柿の方が出来がいいのが話題になることである(吉田健一)」のだとして、道端の大木を眺めていると、今そんなのんびりしたことをしている場合かと文句をいってくるひとがでてきたり、去年に比べて今年の柿の方が出来がいいことを話題にしようとしても、去年と今年はまったく違ってしまったのだから、柿の出来などはどうでもいいではないかということになってしまったり、日々の当たり前の生活がこれからも継続していくであろうという確信が昨今のわれわれには持てなくなってきている可能性がある、それが一番の問題なのではないかと思う。
 「公の場でキスすること」など今ではなかなか難しいであろう。「映画、音楽」の鑑賞もままならない。すべての行動がビッグ・ブラザーの監視下にあるような息苦しさが昨今の状況にはある。
 われわれにできるささやかな抵抗は、極力、今まで通りの生活を続けていくことなのではないだろうか? 「個人が尊重される世界」というヨーロッパに抱く私たちの夢はもろくはかないものであることをわたくしたちは知っている」し、実際、個人というのは壁にぶつかれば簡単に壊れる脆い卵であるのだが、しかし、それでもヨーロッパ以外の文明はついに個人という虚構を発明できなかった。
 「個人の尊厳。個人の独自な思想と侵すことのできない私的生活の権利の尊重というヨーロッパ精神の貴重な本質は小説の歴史のなかに預けられている」とクンデラはいう。小説というのは小人を描くものであるが、小説の中では風車と対峙する郷士ドン・キホーテも騎士ものがたりの英雄であり、冴えないダブリンの中年男もまたホメロス叙事詩の英雄なのである。そしてそんな英雄物語などは必要ない。ただ生きて死ぬということそれ自体が大事業なのだというのが、「結婚して子供を生み、そして、子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ、そういう生活者」を礼賛する吉本隆明のいわんとするところなのであろう。
 最近、明らかに小説は低調である。ヨーロッパが18世紀ごろに発明した個人という虚構の賞味期限がそろそろ切れかかってきているのかもしれない。それに加えて、最近の新型コロナウイルス感染の流行によって、今までとは異なった顔をした「公」のようなものを形成されてきているようにも思える。そして個々の人間は「われわれとは過ちを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれすべては終始誤りを犯しているという洞察」などはどこかにすっかり忘れてしまって、お互いに批判しあい罵りあうことに汲々としているようにみえる。「われわれは相互に誤りを許しあおうではないか」というような気持ちはどこかにいってしまった。
 To err is human, to forgive divine(過つは人の常、許すは神の業)というのは確かポープの言葉だったと思うが、今は小さな神様同士が互いに争っている。
 最近のいろいろな知見をみるならば、専門家と称する人間のいうことがいかにあてにならないものなのかは一目瞭然である、専門家も素人も五十歩百歩であることが白日のもとにさらされることになった。しかし、実際には誰かは真理を知っているはずである。それが誰なのか、という不毛の方向へとみなが走りだしているように思える。
 われわれは今、啓蒙の数世紀の賞味期限の最後の時間に立ち会っているのかもしれない。しかし、それでも、もしも啓蒙の時代がこれからももう少し続いていくことを望むのであるならば、それが可能となるか否かは、われわれが今まで通りに「「安逸な日常生活、ぬるま湯につかった平和」を続けていけるかどうかにかかっているのだろうと思う。
 そして、もしもそれに行き詰まったら、「本当に困ったんだったら、泥棒して食っていったっていいんだぜ」(吉本隆明)である。
 吉田健一も生活に窮した挙句、近所に住んでいる人の所に金と米が欲しいと言いにいった話を書いている。(「貧乏物語」(「三文紳士」所収)) 
 「何の理由もありはしないので、ただのゆすりとどこが違うのか決めるのは難しい問題」なのであるが、「併しその人は一晩中、酒を飲ませてくれた上に、こっちが言っただけの金と米を出して家まで送って来てくれた」ということになっている。「こういう行為に対して何をなすべきか、これも問題である」と吉田氏は言う。確かにそうである。
 吉田氏は嘘を書く名人であるから、この話もおそらく創作であろうが(「貧乏物語」の後半の横須賀線終電車転覆計画などは「嘘つき健一」の面目躍如であって、健一さんは007ものなども愛読していたのだろうと思う。
人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」というのと啓蒙主義がどのように関係するのかはよくわからないが、何となく無関係ではないような気がする。しかし太宰治はその強さを持てなかった。
 「われわれとは過ちを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれすべては終始誤りを犯しているという洞察」はその裏に、例えわれわれは誤ることがあったとしても、臆することなく生きていてもいいのだという一種の《生の肯定》の方向性をももっているということなのだろうと思う。

未来は開かれている

 一月の終わりに、中国で新たな新型肺炎が流行しているという報道をみたときは、フーンと思っただけだった。以前、病院の責任者をしていた時に、何回か新種のウイルスが日本にはいってくるかもしれないという話が出たことがあって、そのたびに、もしそうなったら発熱外来をどう設置するか、感染者のための入院病床を何ベッドまで確保できるかなどいろいろと議論したが、結局、すべてが空振りに終わっていた。それで、今回もまた、どうせそうなるだろうと多寡を括ったわけである。
 また、わたくしはあるクラス会の幹事をしていて、それを毎年3月の初旬に開催してきていた。今年も2月はじめに会場を予約し関係者に連絡した。その時には、コロナウイルスのことなど考えもしなかった。しかし、2月も半ばすぎて何となく雲行きがあやしい。それで、大事をとって、会の延期を決めた。お店にキャンセルの電話をしたら、店員さんは「えー? キャンセルですか?」という怪訝な反応であった。わたくしはそのクラス会の医療相談担当のようなこともしていて、同窓の何人かがいわゆる重篤な基礎疾患を持っていることを知っていたので、安全を見込んだわけである。しかし、その時も、7~8月になったらウイルスも収束の方向が見えてきているだろうから、秋ごろにでも開催を相談しましょう、というような呑気な感じであった。
 われわれには未来のことはわからない。3・11ももちろん、それを予言できたひとはいなかった。そして、これが過去のものとはならず、いまだにわわれわれの現実であり続けているのは、それが原発の事故(炉心融解、水素爆発)を引き起こしたからで、それがなければ、われわれにとって神戸の震災がすでに過去のものとなってきているのと同じで(その時の首相は社会党党首の村山さんであった。その社会党ももう存在しない)、そろそろ10年の年月がたとうとしているのだから、われわれが思い出すこともまれになっていたかもしれない。
 福島第一原発の事故は全電源喪失の結果としておきたのだという。この炉はアメリカ製のものを一切の変更なしで使うという条件で日本に設置したもので、アメリカの原発は平地にあり、想定される最大の天災はハリケーンとのことで、それは天上から襲ってくるものだから非常用電源はすべて地下に配置されていた。しかし、日本での天災は津波であったのだから、一番低い場所に設置されていた非常用電源は津波の到来で最初に駄目になってしまったという話をきいたことがある。もちろん、想定外の津波が来たということで、津波の到達を予想していたら設計は根本的に変わっていたのかもしれないが・・・。
 
 「未来は開かれている」というのは、K・ポパーとK・ローレンツの対談のタイトルである。これはポパー独特の言い方で、要するに「未来はわからない」ということである。おそらくポパーが意識しているのは「ラプラスの魔」のような考え方で、もしも現在のある時点において作用している全ての力学的・物理的な状態を完全に把握・解析する能力を持つ超越的存在があるとすれば、その存在にとっては、遠い未来の宇宙の全運動までも確実に知ることができる、というような考え方である。その「魔」にとっては3・11も今回のコロナウイルスの流行もすべてお見通しのはずである。「幼なじみの 観音者にや 俺の心は お見通し」(矢野亮 詞) われわれは何かを考えたときに。それは自分が自分で考えたと思うわけであるが、これは脳内ニューロン中の伝達物質の動きの結果なのであり、そこには少しも自発性などというものはないという見方もあるようである。
 ポパーというのは変なひとで「未来は開かれている」などといいながら、不確定性原理のようなものは気にいらなかったようで、それはわれわれの知識の不確かさによるのであって、もっとわれわれの知識が確かなものになれば霧消すると思っていたようである。それで何らかの思考実験によって不確定性原理の脆弱を示すことで、量子力学の歴史に自分の名を残したいという野望を抱いていたようであるが、もちろんそれは成功しなかった。

 今ここでこんなことを書いているのは、タレブの「ブラック・スワン」を念頭においている。タレブのこの本は、原本は2007年の刊行(訳書は2009年)である。リーマンショックが2008年であるから、その前年、いわゆるサブプライム・ローン市場がやばくなっていた時で、タレブは本書を書いたことで、100年に一度の危機を予言したとして一躍有名になった。タレブはトレーダーであるが氏のとるポジションは、通常ではない事態(100年に一度などといわれるが、それでもその割には頻回におきる、しかし通常はないイレギュラーな事態)が発生しても損をしないというものであるらしい。あるいは通常は損をしていても、そういう非日常の状況においては利益をえる。 
 良くは知らないが、年末年始の恒例の行事の一つとして、一年後の株価の予想などというのも新聞の片隅にでるのはないかと思う。楽観的なもの悲観的なものいろいろな予想があったのであろうが、今年は100年に一度のパンデミックがおきるから、それによってリーマンショック級の影響が株式市場にあるであろうなどという予想をしたひとがいるとは思えない。もしもいたら、それは投資家ではなく占師か予言者である。こういう株価の予想などは昨日までの日常が今日も明日も続くであろうことを前提にしている。ブラック・スワンのいない世界である。
 タレブはレバノンの出身らしい。レバノンは、昨年はゴーンさんの脱出先、最近では大規模爆発の発生地として話題になっているが、現代史においては1975年から1990年までのいわゆるレバノン内戦の地である。
 「ブラック・スワン」によれば、このレバノンの地は1000年以上にわたって12以上の宗教、民族、思想を持つ人々が平和裏に共存していた。キリスト教諸派イスラム諸派ユダヤ教・・・。しかしそれが一瞬で消えた。タレブによるとその地に住む教養ある人々の数がある一定の数以下になると、そこは真空地帯となってこのようなことがおきるのだという。
 このレバノン内戦がはじまったとき、タレブはまだ年少だったが、大人たちは異口同音に「この争いはほんの数日で終わる」と言い続けていたのだという。
 タレブが挙げる例:カストロ政権ができたときにキューバからマイアミに逃げた人たちは「ほんの数日」の逃亡のつもりだった。1978年にイスラム共和国ができたときパリやロンドンに脱出したイラン人たちもちょっとした休暇くらいのつもりだった。1917年のロシア革命を機にロシアからベルリンに逃れたひとも、すぐに戻れると思っていた、
 さらにタレブが挙げる例:イエスが布教していた時代にそのイエスの活動を記した文献はほとんどない(わずかヨセフス「ユダヤ戦記」の一冊があるのみで、それもほんの数行の記載)。誰もこのユダヤの異端の宗教が後世に何かを残すとは思っていなかった。また7世紀に突然あらわれた別の宗教がほんの数年でインドからスペインまでに領土をひろげ、イスラム法を広めたことも、その宗教の出現した当時は誰も予見できなかった。
 もっといえばわれわれ人類が現在、地球上で大きな顔をしているのだって、はるか昔に大きな隕石が地球に衝突したことによって恐竜が絶滅した結果らしい。いまだ発見されていない太陽の回りをまわっている伴星ネメシスの影響によるものかどうかはわからないが・・。
 ツヴァイクはその「昨日の世界」を「私が育った第一次世界大戦以前の世界を言い表すべき手ごろな公式を見つけようとするならば、それを安定の黄金時代であったと呼べば、おそらくいちばん適格なのではあるまいか」と書き出している。「大きな嵐がそれを粉砕してしまった今日では、われわれは、あの安定の世界が夢幻の城であったことを、決定的に知っている。だがそれでも、私の両親はその世界に、石造の家に住むのと同じように住んだのである。」 第一次世界大戦がはじまったときに、多くのひとは、これはせいぜい1~2ヶ月で終わるだろう思ったのだそうである。そして、第一次世界大戦の後にはさらに今次の大戦があって、ナチスが欧州を席捲しているのをみて、「私自身の言葉を話す世界が、私にとっては消滅したも同然となり、私の精神的な故郷であるヨーロッパが、みずからを否定し去った」こと感じて、ツヴァイク自死した。

 われわれには未来のことがわからない。今の新型コロナウイルス感染がこの先どうなるのかもまたわからない。
 ジョルダーノは「コロナの時代の僕ら」で、人々が口々に「専門家はこう言っている」といいながら様々な見解をぶつけ合っているさまを記している。同じデータを分析し、同じモデルを共有しているのに反対の結論に達している専門家たち。それを風邪程度の病気というものから、全員病院に隔離すべきというものまで。またちょっと頻繁に手洗いをすればいいというものから、全国で外出禁止令を発令すべきというものまで。
 おそらく各々の手許の資料にあるベルカーブが様々なのだろう。あるいは同じベルカーブをみても何を重視するべきかが異なるのであろう。経済学者と公衆衛生学者では視点がまったく異なる。また、臨床医と公衆衛生学者でも同様である。この治療法を選択した場合の成功率は50%というのは統計学的には意味があっても、臨床の場では「やってみなればわかない」というのと特に変わりはない。
 学者というのはみな大なり小なりタレブのいう「プラトン性」にとらわれている存在で、タレブがいうには、そのために「実際にわかっている以上のことを自分はわかっている」という思い込みから容易には逃れられない。そのため、何かを聞かれるとわかっているような気がして反射的に答えてしまう。専門家というのは「こういう場合にはどうしたらいいのか?」を(素人とは違って)知っている存在であり、だからこその専門家であると思われているので、専門家あつかいされると、答えなければいけないという誘惑に抗するのは容易ではない。それゆえに何かの対策を提言してしまう。だが、その対策が正しいかどうかはやってみなければわからない。いわば、トライアル&エラーである。しかも、現在、実にさまざまな対策(しかもそれがもたらす結果が正反対でありうるような対策が)が同時並行的に行われているのだから、ある結果がでても、それがどの対策の結果なのかがわからない。
 ポパーがよく用いる図式に、
P1→TS→EE→P2 
というのがある、
(P1 最初の問題 TS 暫定的解決 EE 誤りの排除 P2 新しく生じる問題)
 これは生物の進化についての議論であるが、ある生物が現在住む環境において何らかの問題(P1)に遭遇すると、とりあえず変異(TS)という形でそれに答える。それがうまく問題への対応となった場合には、誤りの排除が行われることになるが、その結果また新しい問題も生じてくる(p2)という単純な図式である。
 今さまざまなひとがさまざまに提言している現在のウイルス感染拡大への対処法というのはTSなのであるが、何が問題なのであるかという認識がそれぞれに異なっているので、提出されるTSも様々であり、まったく相反する解決法の提言さえなされうる。しかしそれらすべてが場合によっては相互に効果を相殺しながらであっても、何らかの結果をもたらす。
 今われわれが一番わからないのが、このウイルスのパンデミックが、自分達の「昨日までの世界」を根底から変えてしまうものなのか? それとも通り過ぎるのを待っていればいい一過性の嵐で、収束すればまたこれまで通りの生活が復するのかという点であろう。
 これは誰にもわからないことで、それはわれわれがとにもかくにも今おきていることに対して何等かの行動をすでにおこしていることによって、未来が変わってしまうからである。
 われわれがどのような未来を望むのかということがなければ、どのように行動をすべきかを選択することはできない。しかし、それぞれが望む未来はてんでんばらばらであるかもしれないわけだし、ある結果を期待しておこなった試行が別の予想外の結果をもたらすこともあるかもしれない。とすればわれわれが現在している様々な試みも、その結果がどうなるのかは、まったくわからないことになる。つまり、未来は開かれている。あるいは一寸先は闇。
 しかしとにもかくにも未来を考えるということは、今われわれに守るべき現在があるということで、そういうものがもしも存在しないのであれば、議論はすべて宙に浮いてしまう。
 今の議論をみていると、方向は二つに分かれているように思われる。一つは命が何より大切だという方向であり、もう一つが命があったってお金がなければ生きてはいけないという方向である。前者からは新型コロナウイルスでは死なないためにはどうすればいいかという課題がでてくるし、後者からは感染を制御しながら経済をまわすにはどうしたらいいかという話がでてくる。しかし、両者ともに生きていくこと(死なないこと)が共通の目標になっている。
 経済活動に一切影響を与えることのない活動の制限というのはおそらく存在しない。そうすると、活動の制限によってどの程度までの経済活動の縮小は許容されるのかということの議論が必要とされることになる。しかし、活動の制限がどの程度まで経済活動に影響するのかも、活動の制限をしてみたあとにある程度の時間が経過してはじめて明らかになってくることであり、事前に正確な予想をすることはできない。また経済活動への影響は一律ではなく部門によって大きな差が生じる。さらに、その影響をどう評価するかについては各人の価値観がそれに大きくかかわる。今は「太く短く」ではなく「細く長く」が自明の前提とされている。つまり「命あっての物種」。
 医療もまた当然それを前提にしている。「まず何よりも害をなすなかれ。」 ここから筋萎縮性側索硬化症の問題も脳死判定の問題も生じてくる。
 現在、医療崩壊という事態になることを避けるということが新型コロナウイルス感染対策の大きな柱の一つになっているが、これは暗黙の了解として、トリアージュをせざるをえないような状況にならないようにしたいという含意があるはずである。命の選別をすることは医療の根幹を破壊し現場のモラルを崩壊させてしまう可能性がある。すでに装着している呼吸器を回復の見込みがないということで外したり、高齢で若いひとにくらべると回復の可能性が低いという理由で装着をしないことにする、そういう状況には直面したくない、すべての患者に人事をつくして天命をまてる状況を提供したい。
とはいっても経口摂取ができなくなった患者への胃瘻増設術施行の頻度は日本では高いし、一方では合法的に安楽死が可能になっている国もある。
 わたくしは、尊厳死協会の会員ですべての延命治療を拒否する旨の書類にサインしているかたが何かの病気で入院してきて、「あれは撤回します。すべての可能な治療をやってください。あれは健康なときに考えたことです。病気になって考えが変わりました。」という申し出を受けたことが何回かある。人間は自分ひとりのことに限っても「未来は開かれて」いるわけである。
 熊谷徹氏の「パンデミックが露わにした「国のかたち」」を読んでいたら、ドイツで2012年に「未知のコロナウイルスにより多数の死者が出る事態」を想定した報告書が出されていることが紹介されていた。これは「変種SARS飛沫感染により拡大、一人の感染者が3人に伝播させる。潜伏期間は3~5日だが、最長14日。症状は咳・発熱・息苦しさ、悪寒、筋肉痛、頭痛などの症状で、レントゲンで肺炎の所見。子どもや若者は軽症もしくは中程度の症状で約3週間で治癒。65歳以上の高齢者がしばしば重篤化し入院が必要になる。子供や若者の死亡率が1%、65歳以上の患者の死亡率は50%になる」というもので現在の新型コロナウイルスパンデミックをおどろくほどよく予言しているようにみえる。しかし、この論文が注目されたのは、今回のパンデミックが実際におきたからで、もしもそれが起きなかったとしたら、この論文は永久に埋もれたままであったはずである。
 タレブの「ブラック・スワン」に、9・11のような事態をさけるために飛行機の操縦席に防弾ドアをつけ、ずっと鍵をかけておくことを9・11の前に誰かが提言し、その提案が実行されたとして、その提言者が9・11を防いだ英雄として賞賛されることは絶対にないということが書かれている。なぜならわれわれは起きなったことを知ることはできないからである。
 未来にはほとんど無数のありとあらゆることがおきる可能性がある。しかし、その中で実際におきることはそのごく一部で、その起きたことによって未来がきまっていく。
 新型コロナウイルスによるパンデミックは実際におきてしまった。しかし、もしも初期対応が迅速になされていて、それがうまく運び、ごく狭い地域だけに感染が限定されて収束してしまったとすれば、われわれは今頃、オリンピックなどを話題に昨年までと変わらない生活をおくっていたはずである。武漢での肺炎はローカルな話題としてすぐに忘れ去られたに違いない。

 もしも、キリストの布教が狭い地域に限定したひとつのエピソードで終わっていたら、われわれが今知っている西洋の個人というものも存在しなかったはずで、世界は相変わらず民族間の武力抗争の世界が続いていたかもしれない。科学というのがキリスト教の産物であるかということについては大いに議論があるところであろうが、科学もまた西洋で主として発展したことは確かで、それは宇宙の動きには神がつくった法則性があるはずという信念を背景にしていた。その信念なしには科学はないとすれば、ちょっとした歴史の偶然で、わたくしがいまここでパーソナル・コンピュータなどというもので文章を打っていることなどが決してない世界が存在したはずなのである。
 今、新型コロナウイルス感染パンデミックに対して、さまざまなひとがさまざまな提言を行っている。それぞれのひとは自分が正しいと主張しているが、それが正しいかどうかは現在知ることは決してできなくて、それを教えてくれるのは提言を実行したこと、あるいはしなかったことの結果、未来におきるさまざまな出来事だけである。
 竹内靖雄氏は「経済思想の巨人たち」の「ケインズ」の項で、ケインズが100年以内(2030年まで)には経済的問題は解決されてしまうであろうと予言していることについて、「ケインズほどの人物でも、先の事を見通すプロメテウスではありえなかったわけで、人間は凡人から天才まで、おしなべてエピメテウス、つまりことが起こったあとでわかる人にすぎないのである」と書いている。

 未来のことはわからない。去年、今年の新型コロナウイルスパンデミックを予見できたひともいないし、今年のパンデミックがどのような来年をもたらすのかも誰にもわからない。ただ、ただわれわれは仮説をたてて未来に問いかけるしかない。
 今回の安倍首相の退任だって、7月の時点でそれを予見していたひとはまずいないだろうと思う。本人だってそうかもしれない。われわれの開かれた未来を確実に狭めてしまうものの一つとして病気がある。われわれは致死率100%の存在ではあるが、その死がいつくるのかわからないという意味で“開かれた未来”に安住している。しかし、病の宣告はその未来を閉じたものとしてしまうかもしれない。しかし閉じたものとなるのはその個々の人間の未来であって、世界全体の未来は相変わらず開かれたままなのである。


昨日の世界〈1〉 (みすずライブラリー)

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コロナの時代の僕ら

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経済思想の巨人たち (新潮文庫)

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