前文訂正

 昨日の記事で、ロシアからマックやスタバは西側の文化の象徴として撤退しないほうがいいのではなどと書いた。
 ところが、今朝の朝日新聞をみたら、「閉店したはず マックに人波」という記事が載っていてびっくりした。本店は確かにロシアの店舗を一時(?)閉鎖したようだが、モスクワだけでも10店以上のフランチャイズが本社に抵抗して?未だに営業しているのだそうである。
 マックの会社内の指揮命令系統はどうなっているのだろう?
 そもそもロシアの社会というのはどうなっているのだろう?

 もしもそこに住む人々がマックやスタバを自分達が生きていく上で必須のものとしているのであれば、いくらプーチン氏が崇高な精神論を唱えても、足元が掬われるのではないだろうか?

 ロシアには「愛国婦人団」のようなものがあって、マックやスタバの前に立って、店に入ろうとしている人に、「あなたは敵方が好んで食べるものを食べようとしている! 恥ずかしいと思わないのか!」と叫ぶとか、「欲しがりません、勝つまでは!」というプラカードを持って街を練り歩く、とかするというようなことはないのだろうか? なにしろプーチン氏の支持率は80%を超えるのである。

 それともプーチン氏の目指すのはロシアがもっと豊かになって、ロシア中にマックやスタバが溢れるようになることなのだろうか?
 何だかよくわからない。

 ということで前文(一日前の記事を訂正する次第。

最近のウクライナの戦争についての報道

 最近のウクライナの戦争についての報道をみていると、ロシアの側が100%悪く、ウクライナの側が100%正義とするものばかりである。「盗人にも三分の理」ということもあるから、世におきるあらゆる出来事で一方が100%正しく、もう一方が100%間違っているなどというということはないと思うのだが・・・。
 プーチン氏を盗人といっているのではない。氏は今のわれわれにはもはや受けいれがたい何かを信じているのであって、それは宗教のような何かであり、ロシアの大地といったものであり、総じて西欧が長い時間をかけて克服しようとしてきた何かである。

 今のロシアが経験していることは、おそらく、わずか80年ほど前の日本人の多くが体験したことでもある。
太平洋戦争開戦時に、頭の上に乗っていた重しが一気にとれ、晴れ晴れとした清々しい気持ちになったということを多くのひとが述べている。
 要するに、西洋というのが偽善の固まりに見えていたのである。

 この200年、西欧は世俗化してきた。ということは宗教を否定しようとしてきたわけであり、何が正しいかはわからないということが正しいとしたわけである。
 とすれば、ウクライナの側が100%正しいとすることはそもそも西欧の理念に反するのではないだろうか?

 わたくしはウクライナのことなどはまったく関心なくきたので(またソヴィエト崩壊後のロシアについてもまったく無知であったので)、現下の状況につき、なにも言えることはないが、地理的にウクライナは西欧に近いために、その価値観が浸透しやすく、それでそれの中に入りたいという思いが強く(NATOへの加入志向など)、それがロシアから見れば許しがたいということになるのだろうと思う。

 今戦闘の場になっているウクライナの東側に住む人々は長い歴史からロシア語もウクライナ語も双方話せる人も多く、どちらの側が権力を握っても生きていける人も多いというようなことはないのだろうか?

 わたくしは15歳くらいからずっと西洋啓蒙思想の信者として生きてきたと思う。あとから考えればではあるが、全共闘運動というのは反=啓蒙の運動であったと思う。もっと大きく見れば、マルクスの思想というのも反=啓蒙の思想であると思う。
 だから、ソヴィエトが崩壊した時に、多くの人が啓蒙の思想がついに勝利したと思ったのではないかと思う。
 しかし、学者さんはいざしらず、日々を懸命に生きているひとにとっては、西欧の勝利とはスタバやマクドナルドで自由に飲食できることなのかも知れない。そうだとすればスタバやマクドナルドは西欧の先兵としてロシアから撤退しない方がよかったのかも知れない。しかし、かりにロシアに残っても、西欧の頽廃の象徴として追い払われただろうか? あるいはロシアの人々が「欲しがりません。勝つまでは!」と言って、不買運動をおこしただろうか?

S・ピンカー氏のウクライナでの戦争への見解

 
 今回のウクライナでの戦争が始まってから、「21世紀の啓蒙」や「暴力の人類氏」を書いたS・ピンカー氏ならこの事態をどうみているのだろうかと思っていたところ、氏がこの事態への見方についての見解を書いていることをしった。(ボストン・グローブ」に寄稿した「ウクライナ侵攻で世界大戦後の『長い平和』は終わりを迎えるのか」)(「クーリエ・ジャパン」で紹介)
 以下その稿について少し考えてみたい。

 まず氏は「苦しみ以外には何も生まない戦争を、人間はなぜこうも繰り返すのか。世界大戦で多くの国が「戦争は悪」と認識したはずなのに、戦争が地上から消えたことはない。そして今、国際秩序を大きく揺るがす侵略をロシアは続けている。」と書き出す。
 その後の氏の論の展開をみていくと、氏は「ウクライナは正当な国民国家ではなく、ロシア人の歴史、文化、精神と不可分一体」というプーチン大統領の主張こそ反=啓蒙の主張、としていることがわかる。問題はそのプーチン氏の主張がロシア国民に支持されているか、かりに支持されているとしたら、これは国のプロパガンダに洗脳されているのだ、ということになるのだろうか?ということである。

 氏は続ける。「私は『暴力の人類史』の2文目で、さまざまな暴力が減少傾向にあるのは間違いないとはいえ、「今後も減少し続ける保証はない」と警告した。そして、その予言通り「ロシアがウクライナに侵攻し、その減少の軌道が残虐的に止められたのだ。」と。

 「戦死者が少なくとも年間1000人に達する国家間の武力衝突」を戦争と定義すれば、今回のウクライナ侵攻は、ヨーロッパでは戦後80年以上が経過してはじめて起きた国家間戦争であり(1956年のソ連によるハンガリーの短期侵攻を除けば)、アフリカと中東以外では40年以上ぶりの戦争になる、と。

 わたくしが気になるのは、「アフリカと中東以外では」というところで、今回の出来事が広い意味でのヨーロッパ圏でおきたからからこそ、大きな関心を呼ぶことになっているのだろうか?ということである。啓蒙思想の発祥の地でおきている「啓蒙思想」への反旗だからこそ、大きな関心を呼ぶということなのだろうか?
 例えばイスラム圏は今の事態をどう見ているのだろう? もしも中国が近隣国に今のロシアと同じことをしかけたら、アジアはまだ遅れているね、しょうがないね、ということで済まされてしまうことはないだろうか?

 氏は続ける。「ウクライナは正当な国民国家ではなく、ロシア人の歴史、文化、精神と不可分一体」というプーチン大統領の主張こそ反=啓蒙の主張なのである、と。

 さらに「ロシアには民主主義がない。ロシアは「選挙独裁国家」であり、指導者が自国を愚かな戦争へと引きずり込むことを抑止するチェック・アンド・バランスの機能がない」ともピンカーはいう。

 「現代では、横暴な統治者を「悪性自己愛者」と診断することも可能だろう。彼らは栄光への飽くなき渇望、エンパシー(共感)の欠如、少しの侮辱にも激昂する過剰な自意識の持ち主である。」と。

 また「平和を促進する力の残るひとつは、啓蒙的人道主義だ。」という。また、「究極の善は個人の生命と自由と幸福にあり、政府はこれらの権利を約束する社会契約として設立されたとする理念」である、とも。

 「だがプーチンは、「究極の善は民族国家の威信にある」というナショナル・ロマンティシズム(国民的ロマン主義)から頑として離れようとしない。彼のような独裁者らは、それを実現させるのが国家と強い指導者だと考える。そのため、なんとしても覇権を掌中に収め、歴史に刻まれた屈辱を修正することに血眼となる。」と。

 「今回の戦争が「長い平和」を覆し、文明衝突の時代へ世界を逆行させるかどうかは誰にもわからない」ともいう。

 「そのうち、平和的な抑止力が効果を発揮するだろう。ロシアはいまや世界経済の一部であり、予測を上回る速さで厳しい経済制裁の痛みを味わうはずだ。」と氏はいう。

 だが「こうした国際社会からの締め出しで、事態は好転するのだろうか?」とも氏は自問する。「グローバリゼーションはいっときの流行にすぎない」とポピュリスト国家主義者たちがいくら喧伝しても、国と国が不可逆的に相互依存し合う現代の世界では、ひとり自分勝手な行動に出ればただちに制裁を加えられる。一国が抱える課題は地図上に引かれた国境線を尊重しないことがほとんどであり、対処するには国際的に問題を解決する共同社会の一員にならざるを得ない。だから、「人道主義革命の進展に伴い野蛮な慣習がすたれていく流れが逆行することもありそうにない」と。

 また「独裁者がいくら服従と権威を押しつけようが、人間らしい幸福のさらにの追求には勝てない。そしていかなる国の指導者も、自らが思い描く歴史の誇大妄想に耽溺するために、市民を砲弾の餌食にする暴挙はますます許されなくなるだろう。」という。

 さらに、この事態は一時的逆行だろうか?と自問し、「それを願おう。しかし、ただ願うだけでは何も変わらない。暴力を衰退に追いやった啓蒙のさまざまな力が必要となる。それはたとえば人間の生命を第一とする価値観や、国際協調をもたらす規範や機関で、私たちは今後も、それらを維持促進する努力を続けなければならない。」そういって氏は稿を終えている。

 わたくしは、昨年末にすべての仕事から引いたので、ぼんやりとテレビを見る時間が増えたが、上でピンカーさんが言っていることは、そこで喧々諤々論じられていることとあまり変わりないように思う。(テレビで多くのひとが多くのことを語っているが、聞くにたるのは現場の人間、外交などの実務に携わっている人間の話だけで、学者さんの意見、象牙の塔のなかからの見解など、空理空論としか思えないものばかりである。そしてピンカーさんの見解もまた。
 一番気になるのは、ヨーロッパの人間対プーチン個人という図式である。ロシアの国民が見えてこない。報道されているとことによれば、ロシア国民のプーチン大統領への支持率はとんでもなく高い。ロシア国民が官製の情報しか知らされていないからだという説明がなされているが、これは単純にプーチン大統領がロシア国民の生活水準をあげたからなのではないだろうか? だから各国からの制裁でまた国民の生活が苦しくなってくれば、ロシア国民もプーチン大統領への支持を続けなくなるだろうとされているようである。
 しかし、自分達の生活をよくしてくれたわが大統領を西欧諸国が不当にいじめていると思うと「欲しがりません 勝つまでは」というようなことになることはないだろうか? そうだとすれば西欧側の武器は啓蒙思想ではなくマクドナルドになるではないかと思う。だが。マクドナルドは啓蒙思想の産物だろうか?

 「究極の善は民族国家の威信にある」といプーチン氏のナショナル・ロマンティシズム(国民的ロマン主義)はどの程度ロシア国民にも共有されているのだろうか? また日本国民には?
 私見によれば、これらを高めるのは貧しさであり、崩すのは豊かさである。個人がしたいことを出来るようになると、ナショナリズムは衰退していく。誰が言っていたか「西欧が求めているのは、ミニスカートを履く自由である。」 要するに「個人がしたいことが出来ること。」
 「民族国家の威信」対「ミニスカート」で「ミニスカート」は勝てるのか?

 K・ポパーは「寛容と知的責任」という講演で、啓蒙主義の父ヴヴォルテールの思想をこう紹介している。「寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれすべては終始誤りを犯しているという洞察から導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。これが自然法の基礎である。」(「よりよき世界を求めて」未来社 1995)
 ポパーはまたいう。「もしわれわれが、非寛容な行動もまた許容される権利をもつと認めるならば、われわれは寛容と法治国家とを破壊することになります。これは、ワイマール共和国の運命でした。」
 ポパーの文は、ベトナム難民、カンボジアポル・ポトの犠牲者、アフガニスタンの難民に言及することから始まっている。
 一方、今回のピンカー氏の発言では、遅れた非西欧圏でなら仕方がないが、ほかならぬヨーロッパでこういう事態がおきたとは!という落胆が色濃く漂っている。ピンカーさんは、今回のウクライナの戦争が、ほかなならぬ啓蒙思想発生の地のであるヨーロッパ圏でおきたことに衝撃をうけているのかもしれない。しかし、ロシアは果たして西欧圏なのだろうか? 東洋圏ということはないだろうか?

 共産主義という思想はヨーロッパ発のものであるが、結局、大国ではソ連と中華人民主義共和国という二国でしか成立しなかった。ということは、専制主義の伝統のもとでしかこの思想は成り立たないということかも知れない。

 このピンカー氏の文を読んでいて、一番気になったのが、ウクライナをふくむ?西欧が現在持つ価値観対プーチン氏が個人的に抱く民族主義的価値観の対立という構図である。ヨーロッパという全体的な概念対ロシア大統領という個別的概念の対立。
 現在の西欧の主たる構成するメンバーである英独仏は、80年前には現在のウクライナの戦争とは比較にならない凄惨な戦いをしたわけであるし、日本はB29の焼夷弾爆撃投下にも、原爆の投下にも戦争犯罪だ!などとはいわなかった。ひょっとするとこれがなければ戦争をやめることができなかったとありがたかったという思いさえうかがえないでもない。史上もっともうまくいった占領政策といわれる由縁であろう。
 「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という碑文の主語はわれわれ日本人である。「われわれ日本人は過ちを犯した。だから原爆の投下という事態を招いた。アメリカには罪はない。」

 いまウクライナの大統領は大いなる賞賛のなかにいる。ウクライナ人の愛国心もまた。しかし、この愛国心プーチン氏の抱く民族主義的価値観とどう違うのかは極めて微妙な問題だろう。日本とは違い、陸地に人為的に引いた国境線は過去何度も変更されて来たはずである。

 栗本慎一郎氏が1981年に出した「パンツをはいたサル」という本がある。そこに「異国人が団体で入ってくると、たとえそれが友好的な人びとであっても、人はすぐに砂かけばばあや妖怪・一反もめんのごとき妖怪と考えてしまう」とある。「古今東西を問わず、人間が起こしたあらゆる戦争は、すべて正義のための戦争であった」と。
 栗本氏がいっていることは、人間のしていることは他の動物と変わりはないが、ただ他の動物にはない「過剰」な部分があるということである。

 ピンカー氏はもともと進化論を一番の専門領域とする人だから、そんなことは百も承知なわけで、人間を「良心を持つもの」といったアプリオリな定義で見るのではなく、進化の過程で生じた一つの種という観点から見て、それでも「啓蒙」の力で少しずつわれわれの世界を住みよくして行けると考える人である。

 わたくしもまたポパーの信者として(「推測と反駁」)また吉田健一の信者として(「ヨウロツパの世紀末」)、ずっと啓蒙の側にいる人間であると思ってきたが、それは村上春樹のいう「壁と卵」での壁にぶつかれば簡単に砕ける卵であって、まことに無力な存在である。

 啓蒙の側が言葉によってこれから何ができるのか? わたくしにはただ見てゆくことだけしかできないが、おそらく一番大事なことは今までの生活をそのまま続けていくことなのだろうと思う。守るべき生活がなければ、言葉はすべての力を失うだろうから。

ウクライナ

ウクライナ

これからしばらく
ひとはウクライナについて語り続けるだろう
そして国境についても

鳥は自由に国境を超える
パスポートも持たずに

だが 鳥も縄張りは持ち
自分の仲間とそれ以外を区別し続ける
生き残るために

ひともまた同じ?

言語と国境線

 
 林達夫氏が敗戦後のアメリカ占領下で書いた「新しき幕開け」という文に以下のようなところがある。「あの八月十五日の晩、私はドーデの「最後の授業」を読んでそこでまたこんどは嗚咽したことを思い出す。」
 この「最後の授業」は仏独国境で当時はフランス領であったアルザス・ロレーヌ地方での話で、独仏戦争でフランスが敗れた結果、明日からフランス語の教育が禁止されドイツ語の教育になるという時代を描いたものである。世界に感たる美しいフランスが禁止され、野蛮な?ドイツ語になるということの怒りと悲しみを、あるいは戦争に敗れることの悲しみを描いている。

 しかし、ある時、篠沢秀夫氏の「フランス文学講義」を読んでいたらこんなことが書いてあった。「アルザス・ロレーヌという地方は、ドイツに帰属する。・・アルザスの人の名字はみんなドイツ語なんです。・・ドーデは南フランスの人間でアルザスのことはよく知らない。・・」
 アルザスのことを知らないパリあたりのフランス人、ありはもっと知らない日本人読者は、大日本帝国が朝鮮や台湾でやったようなことをドイツ人はフランスでやったと思っている。
 しかしアルザスでは日常ではドイツ語を使い、学校でフランス語を学んでいたのだ、と。われわれが英語を学校で勉強するのと同じに。

 なんでこんなことを書いているのかといえば、もちろん最近のウクライナ情勢をみてである。ウクライナとロシアは国境を接する。現在ウクライナに帰属しているあたりは、ロシア語が日常にもちいされるところも多いらしい。
 ロシアの現大統領としては、ソ連の崩壊によって本来自分の支配下にあったロシア語を母語とする地域が、西欧側に組み込まれてしまった、と感じても特に不思議ではないように思う。

 ウクライナの大統領としてはどうなのだろう。西欧文明圏への志向があることは明らかなようにおもわれるが、ウクライナ語圏を守るというような意識もあるのだろうか?

 日本は海に囲まれていて、しかも言語も日本語を母語とする国は日本だけであるので、ナポレオンの時代からナチスドイツの時代を経て現在まで、国境線の変更を繰り返してきたヨーロッパに住む人の感覚や感情は、なかなか肌感覚としてはわかりにくいところがあると思う。

 そして宗教の問題もある。ロシア正教がいかなるものであるかということは、ほぼ脱宗教を果たした日本人には理屈ではともかく、肌感覚としてはまず理解不能であろう。
 そして他国から侵略された経験も元寇以来いらいない(あるいはアメリカのB29の焼夷弾爆撃を除いては)ないという国である。

 今回のウクライナの事態は、日本がいかに特異な歴史を持つ国かということも明らかにしているように思う。
 
 ロシア語とウクライナ語はきわめて近い言語であるらしい。かつては、インテリはロシア語を話し農民がウクライナ語を話すという時代もあったらしい。そのロシアも、かつては上流階級はフランス語を話すという時代もあったわけである。
 
 日本の敗戦後でもさすがに英語を公用語にという話は出なかったようである。しかし、それは現代の会社では行われていて、日本人同士がカムカム英語で話をしている。滑稽で悲惨としかいえない光景である。

 わたくしは日本国憲法戦争放棄条項というのは、日本の兵隊さんがとんでもなく強かったため、アメリカがもうこいつらとは二度と闘いたくないと思ったためにできたのではないかと思っている

 今の日本の世論がえらくウクライナに同情的であるのは、一般的には判官贔屓というということであろうが、明白な戦争犯罪にたいし一切抗議できなかったという過去のうっぷんを、今はらしたいと側面もあるいは混ざっていないとも限らないと感じている。

壁と卵


 文学の世界ではかなり権威のある賞であるらしいエルサレム賞というのがあり、2009年には村上春樹が受賞している。村上氏はそれでエルサレムに出かけ、受賞演説をした。しかし、ここではひと悶着があった。というのは、そのころイスラエルからのガザ地区への爆撃が行われており、そういう時期にエルサレムに赴くということは、イスラエルの行為を肯定することになるという意見が広範にあったからである。
 しかし、ともかくも。村上氏はイスラエルにいって。受賞スピーチをした。

 ここで取り上げたいのは、そのスピーチで村上氏が述べている、氏が小説を書く時に心に刻んでいるというモットーについてである。
 「高く堅牢な壁と、そこにぶつかれば壊れてしまう卵があるなら、私は常に卵の側に立とう」
 「爆撃機や戦車、ロケット弾、そして白リン弾は、高い壁です。卵は、押しつぶされ、熱に焼かれ、銃で撃たれた非武装の一般市民たちです。これがこの比喩の一つの意味であり、真実です。」

 村上氏受賞の大分前の1985年、チェコの作家クンデラも同じエルサレム賞を受賞し、受賞講演を残している。
 そこでクンデラは「アジェラスト」という言葉を紹介している。ギリシャ語由の言葉だそうで「笑わぬ者、ユーモアのセンスのない者」を指すのだという。
 クンデラはいう。「最近、十八世紀を悪しざまにいう習慣が定着してしまいました。そして、ロシアの全体主義の不幸は、ヨーロッパの、それも特に「啓蒙」の世紀の無神論的合理主義の、その理性万能の信仰であるというあの決まり文句がいわれるようにさえなりました。」 しかし十八世紀はルソーやヴォルテールの時代であるとともに、フィールディングやスターンやゲーテラクロの時代でもあったのだと。
 クンデラはさらに続ける。
「われわれがヨーロッパに抱く夢「個人が尊重される世界」がはかなくもろいものであることはみな知っている。がそれでも「個人の尊重、その私的生活の権利というヨーロッパ精神の貴重な本質は小説の歴史の中に預けてられている」そう言って、氏は講演を終える。

 このクンデラの講演と村上の演説はほとんど同じことを言っていると思う。「壁」=「アジェラスト」、「卵」=「個人」。
 またクンデラは「セルバンテスの不評を買った遺産」という別の文で、小説=不確実性の知恵、とぃっている。また、《「個人のかけがえのない唯一性」という、大いなる幻想》ということも言っている。

 小説というのは小人の説であり、ギリシャの神々のような英雄譚と対立するものである。
 1800年前後からの約250年前後、われわれは啓蒙の時代を生きてきた。
 昨今、ロシアの「笑う」ことのあまりないようにみえる大統領がヨーロッパ啓蒙への嫌悪を露わにして行動を始めている。その帰結はまだわからないけれども、啓蒙の時代への信仰が絶対的なものではなくなりつつある時代に、われわれはいま遭遇しているのかも知れない。

 9・11もまたイスラム世界の、啓蒙の時代への嫌悪を表わしていたように、わたくしには思える。
 イスラム世界の根にあるものの一つは男性の女性への恐れであるのではないかと思う。だからこそ男は髭をはやし、女はヒジャーブで頭を覆う。
 一方、その当時(そして今でも)西欧世界では女性がほとんど裸同然の格好で平気で街を闊歩している。イスラムの教えの側から見れば頽廃の極致であり、ソドムの街はもはや焼き払わねばならない、ということになるのかも知れない。

 西欧世界は卵が壁に勝てることもあるかもしれないという神話のなかでこの何世紀かを生きて来た。村上春樹の「神の子どもたちはみな踊る」に収められた「かえるくん、東京を救う」はその寓話だろう。

 庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」のなかで薫くんはこういう。「ああいうキザでいやったらしい大芝居というのは、それを続けるにはそれこそ全員が意地をはって見栄を張って無理して大騒ぎしなければいけないけれど、壊すだんになればそれこそ刃物はいらない・・・・」

 ソ連が崩壊した後、フクヤマの「歴史の終わり」のような、今後の世界は西欧の価値観が支配するようになるだろうが、それはニーチェのいう「末人」の世界、凡庸で退屈な世界であろうという方向と、ハンチントンの「文明の衝突」のような、今後の西欧文明はイスラム圏のような異質の文明との衝突を迎えるようになるだろうという二つの方向が示されたように思う。
 しかし、西欧が自身で反啓蒙の方向に先祖返りしていくという方向はあまり想定はされていなかったように思う。

 わたくしは戦後すぐに生まれた古い人間なので、ロシアというとまずドストエフスキー、あるいはその「カラマーゾフの兄弟」をおもい出してしまう。あるいはトルストイの「戦争と平和」。

 竹内靖男氏はその「世界名作の経済倫理学」で、「カラマーゾフ」特にその「大審問官」の章を論じて、「共産主義ローマ・カトリックの世俗版である。前者は人間を羊に変えて救済し、後者はパンで救済しようとする」といっている。

 ロシアの現大統領は、国民がたとえ飢えようともロシア正教に帰依することができれば、もっと言えばロシアの大地との結びつきを回復さえできれば、それでよしとしているのではないかと思う。

 一方、クンデラは「個人の尊重、その私的生活の権利の擁護」というヨーロッパ精神の貴重な本質を擁護するために小説を書く。
 戦車対ミニスカート。もちろん、ミニスカートが戦車に勝てるわけはないが、「啓蒙」は敢えてそれが可能であることもあるかも知れないという知的フィクションの下に、最近の200年以上を生きてきた。

 「愛国心はならず者の最後の逃げ場(サミュエル・ジョンソン)」なのかも知れないが、それなら、今は、ならず者同士が争っていることになるのだろうか?

 わたくしは1947年生まれで、戦後啓蒙の時代を生きてきた人間として、1991年のソ連崩壊を自分が生きてきた時代での最大の出来事と思ってきたが(私的な体験としては1968年前後の経験)、まさかこの年になってこのような時代に遭遇することになるとは思ってもいなかった。

文献:
「心をゆさぶる平和へのメッセージ なぜ、村上春樹エルサレム賞を受賞したのか?」 2009年 ゴマブックス
 ミラン・クンデラ「小説の精神」  1990年 法政大学出版局
 村上春樹神の子どもたちはみな踊る」 2000年 新潮社
 庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」 1969年 中央公論社
 ℉・フクヤマ「歴史の終わり」 1992年 三 笠書房 
 ハンチントン文明の衝突」 1998年 集英社
 竹内靖男「世界名作の経済倫理学」 1997年 PHP新書

渚にて

 確かわたくしが中学に入ったばかりに上映されたアメリカ映画である。調べてみると1959年に上映とあった。白黒映画という今ではまずない、印象としてはとても地味な映画だった。
 内容は東西冷戦下、第三次世界大戦が勃発し、核弾頭の打ち合いで北半球は壊滅、南半球ではわずかに生き残っている者がいるが、それも北からの汚染の拡大でいずれは北半球と同じ運命を辿ることは避けられないという状況で、潜水艦に乗っていたため?生き延びた数名の行動を描いたものである。
 阿鼻叫喚といった場面はなく、恋愛場面もあったらしいが中学生のわたくしにはピンと来なかったようで、まったく記憶にない。
 唯一覚えているのが、人類が死滅したはずの北半球から、モールス信号が送られてきて、調べにいくと、無人の信号所の発信機がカーテンが風に煽られて打腱器に当たり、時々意味のない発信をしていたことがわかる場面である。

 ネットで調べてみたら、原題の on the beach はエリオットの詩「虚ろな人々」のⅣにある gathered on this beach of the tumid river に由来するらしい。
 その末尾は「これでこの世はお終いだ バーンと終わらぬ めそめそと」である。This is the way the world ends not with bang but a whimper.

 しかし映画の人物は毅然としていたように思う。