生きる喜び(序にかえて)

  
   生きる喜び(序にかえて)
 
 平和とは何か。それは自分の村から隣の村に行く道の脇に大木が生えていて、それを通りすがりに眺めるのを邪魔するものがないことである。或は、去年に比べて今年の柿の方が出来がいいのが話題になることである。
 
 右の文章は吉田健一氏の随筆集「文句の言いどおし」の一節である。まずここから「吉田健一の医学論」を始めたいと思う。この文章に始めて接したのはまだ医学部の学生のころだったと思う。丁度、学園紛争華やかなりし頃で、毎日、戦争だ、平和だと議論に明け暮れていた。だが、この吉田氏の文章は、そのころこちらが使っていたのとは余りにも違った意味で平和という言葉を使っていたので初めて読んだ時は意味が判らなかった。その後、吉田氏の作品を少しずつ読み進んできた今では、平和という言葉が、心の平静さといったものとどこかで通じるような意味で用いられていることが判る。しかしそればかりではなく、ここには後の吉田氏の作品で展開される時間論がすでに萌芽していることも併せて窺うことが出来る。時間が当り前に流れてゆくこと、それが人間の生活で一番肝腎のことであることを吉田氏は繰り返し説いた。もしも、道端の大木を眺めるのをさまたげるものがあるとすれば、その時、時間は正常に流れていないのである。
 
 冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位の時間がたつかというのでなくてただ確実にたって行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間というものなのである。(時間)
 
 さてそれならば、病気になるということは、このような当り前の時間の流れを切断するものなのだろうか。病人にとっては、もはや平常の時間の流れは無くなってしまうのだろうか。明日の命がおぼつかない人にとって、今年の柿のできなどは問題にならないのだろうか。
 医学について論じることに、臨床に従事している人の多くは興味を示さない。そんなことは時間の無駄だという。臨床の現場にいる人は具体的な指針を尊重し、抽象的な議論を嫌う。医学とは何かとか、医学の本質とはどんなものか、とかは抽象的な議論の最たるものである。そういった問いには答えはないかも知れず、第一、そう問うこと自体が間違ったことでないという保証もない。何々の本質は、と問うやりかたは間違いであり、人を不幸に陥れてきたやりかたであると言う人もいる。いずれにしても、医学について抽象的に論じても、個々の事例にどのように具体的に対応したらよいかの指針とはならない。
医学について何かを論じることによって、われわれの日々の医療行為が変ることは恐らく無い。それでも、医学について論じることに、もしもなにがしかの意味があるとすれば、それは日々の行為にもう少し意識的になれるということかも知れぬ。「前提がまちがっていることもあり得るのだという観念を一切欠いた人間は、ノーハウしか学ぶことができない」とグレゴリー・ベイトソンは言っている。「科学もまた前提の上に成っている。・・現在の前提の是非を問い、非ならば破棄して新しい前提を造ること――科学的思考の目標はそこにあるのである」
 医学を学んでいる時、医学がどのような前提の上に成りたっているのかについての議論に出会ったという記憶はない。ノーハウだけを教えられてきた気がする。医学の前提は余りに明らかなので敢えて議論するまでもないのであろうか。
 人間の様々な営為から孤立し独立して医療が存在しているというようなことはない。医療は人間の他の営みと無関係に自己発生的に生じてきたものではない。人間の生活の上での必要から生まれてきた筈のものである。医療を求める人がいたから医療は生れてきた。肉体に生じた苦痛を取り除いて欲しいといったごく素朴な要求からおそらく医療は生じて来たのであろう。しかし医療の現状はそのような素朴な状態からは随分とかけ離れてしまっている。現在の内科の通院患者のかなりの部分をしめる高血圧症の患者さんには自覚症状のない人が多い。大部分の糖尿病の患者さんは自覚症状がないばかりでなく、食べたいものを我慢するという肉体的な苦痛さえ強いられている。それなのに医者はそのような苦痛を強いることをごく当然と考えている。
 現在の医療体制では、患者さんが医療施設を訪れることから医療は出発する。医者は病院の中にいて患者さんがくるのをまっている。そして患者さんが病院へやって来たならば当然医療行為を求めてきたと考える。しかしこんな場合はどうだろうか。会社の健康診断を受けたら尿に糖が出ているからと再検査に呼び出される。健康診断は自分が受けたくて受けた訳ではない。会社のきまりだから受けただけである。再検査の結果やっぱり糖が出ているからといわれ○○病院に精密検査にゆけと指示される。その病院へゆくと変な水を飲まされたりいろいろ検査をされた挙句、糖尿病と診断され、カロリーの厳格な制限を指示される。こんなことはそれほど珍しいことではない筈である。
 この場合、医者の側ではある種の前提にたって行動していて、その前提は当然患者さん側にも共有されていると考えている。そしてその前提のために治療行為はほとんど自動的に進められてゆく。しかしその前提はそんなに自明なことといえるのだろうか。疑ってかかる必要はないのだろうか。そういったことを考えてゆくことを本書は目的としている。
 ところで本書は「吉田健一の医学論」と名づけられている。言うまでもなく、吉田健一氏は文学者である。医学について纏まって論じるようなことはしていない。文学者としての吉田健一氏がその著書で示しているのは氏の人間観、文明観である。筆者は内科の臨床に従事しているものであるが、吉田氏の著作から多くのことを学んできたと考えている。そんな訳で、吉田氏の人間観(とこちらが考えるもの)で医学をみてゆくとどのように見えてくるか、そんな点にとても興味がある。「吉田健一の医学論」という題はそんな意味あいでつけたものである。
 昭和五十二年に六十五歳で吉田健一氏は亡くなった。晩年の十年間位、ことに「ヨオロッパの世紀末」や「瓦礫の中」が刊行された昭和四十五年以降にはかなりの数の読者を獲得したけれども、それ以前は日本の文学界においては傍流の異端的存在という印象が強かった。
 
 確かにヨオロッパでの生きていることに対するそういう考え方(生きているのがみじめなことであるとする考え方・・・引用者)、或はそれに傾いていると見られる態度の例は幾つか挙げられるが、それが直ぐに頭に浮ぶのがそれがヨオロッパでは逆説的な印象を与えて目立つ為であることを忘れてはならない。サルトルが余り不景気なことばかり言うので、それならば何故生きているのだと新聞記者に聞かれた時、自分でも解らないと答えたのは今日の日本でと違って余りに奇抜なことに思われたので新聞種になった。
 
 これは昭和四十二年に刊行された「文学の楽み」の中の「生きる喜び」と題する章の一節である。生きる事がどうでも良いつまらないことであるといった考え方が氏には不思議で仕方がなかったように見える。その感じかたは氏の文学の出発点である「英国の文学」以来一貫して変っていない。ある程度文学に親しんでいるひとになら、氏のこういった感じ方が日本の明治以来の文学の伝統の中では随分と異端的であることは解っていただけると思う。少し戯画的に言えば、明治以来の文学作品では、生きることが素晴しいなどというのは感受性の鈍いオメデタイ人間の感じかたであって、鋭い感受性で人間の真実を眼をそむけることなく見詰めてゆけば、空漠とした、面白くもない生の実体がおのずと表れてくるはずなのである。
 生きることが素晴しいとかそうでないとかを抽象的に論じても得るところはないかもしれない。吉田氏の独特なところは、そういう議論を超越して、生きることが良いことであるということをほとんど本能的肉体的な感覚でとらえていたところにある。猫が一匹赤く燃えるストーブの前で気持ちよさそうに眠っているのを見て、生きることは何と素晴しいことだろうと猫が思っているということは出来ないだろう。だが、猫がいい気持ちでいるというなら、それは間違いではない。人間も寒いところから帰ってきて暖かいストーブの前に来ればいい気持ちである。空腹の時に何か口にする場合も同様である。ストーブの前の猫は生きることは詰らないことだとは思ってはいないだろう。吉田氏が生きることを肯定するのは、人間が動物であり、動物である犬や猫や熊や栗鼠が生きることを肯定しているからなのである。犬や猫や熊や栗鼠が生きることを肯定しているというのは正確な言いかたではないかもしれない。良いも悪いもなく彼等はただ生きているのだというほうが近いのかもしれない。けれども、ただ生きているということがつきつめれば生きることを肯定しているということなのである。吉田氏が言い続けたことは、人間も犬や猫のように当り前に生きよということであったといえるかもしれない。(人間が動物であるということは本書の中心テーマとなる予定であり、これからも各所で繰り返し論ずることになると思う。)
 人間も動物の一種であるということは、あらためて言うまでもない当り前のこととも言える。しかし、生物学的に見ればとか、科学の見地によればとかいった何らかの留保条件が付き、確かに人間は動物の一種ではあるが、単なる動物ではないのだといった言いかたがされる場合が多い。そして、文学者などは、生物学的見方、科学的見方を軽蔑する存在として、人間が動物であるといった地平とは全く別個の場所で仕事をしているようにみえる。だが不思議なことに、文学者である吉田氏は科学的見方に対し皮肉な意見を随所に記したにもかかわらず、人間が動物であるという認識を自分の仕事の最も基本的な柱の一つとしていたように思われる。氏は、詩を読む喜びを論じ、酒の旨さを語り続けた。詩を読むのは人間だけであり、酒を楽しむのも(多分)人間だけである。それでも、そのことによって、人間が人間以外の動物とは次元のことなった格別の存在となるのだといった見方を吉田氏は決してとらなかった。人間は科学的に見た場合にのみ動物なのではなく、詩を読み音楽を聴くことを含めて動物なのである。
 
 人間以外の動物は純粋に時間とともにあると言える。・・・これは自分とともにあることでもあってそれ故にそういう動物が戦えば死ぬまで戦い、これは死期が近づいたのを知るのと違って現に自分が戦っているその時間のうちにいるのであってそれで傷いて倒れて死期が近づいたのを知る。それは小鳥が朝が来て木の梢や家の屋根で鳴くのとその状態に就て変ることはなくてそこに共通の静かなものが時間である。・・又従ってそれは我々が朝起きて番茶でも紅茶でも飲んでこれから何をするという考えにまだ煩されていない時の状態とも同じであってその状態にあるままでこれからすることを考えるならばそのなすべきことも現在していることの形を取って我々は有効に考えることが出来る。(覚書)
 
 科学の一分野として(といっていいのだろうか)医学では人間が動物であるということは余りにも自明のことのように思える。そうでなければ、鼠で得られた実験データが人間に応用出来るはずがない(しかし簡単にそう言えるのは化学的な実験の場合であって、鼠を使った心理学実験では議論が百出する)。鼠で得られた実験データが人間に応用出来るとすることは暗黙のうちに進化を事実として認めているように思われる。このことは現在の日本ではあまり問題とはならないかもしれないが、キリスト教の伝統の強いところにおいてはそうはいかない。人間は人間以外の動物とはまったく違ったものとして創られたと考えるからである。キリスト教の人間観の問題はいずれまたあらためて論じなければならないと思うが、とりあえず一言述べておけば、吉田氏は常に一貫してアンチ・キリストの立場だったように思われる。それはつまるところ、動物としての人間という正当な認識を妨げるものとしてキリスト教が存在しているからなのである。
 本当のところ、人間以外の動物が世界とどのようにかかわっているのかは、最早われわれ人間には解らなくなっている。だから人間以外の動物が感じている生きる喜びというのもわれわれにはどうしても抽象的にしか理解出来ない。やはり一番良く解るのはわれわれ人間自身が感じている生きる喜びである。
 
 いい所に生れたものである。そこへ餅がこんがり焼けた匂いが漂って来て屠蘇散の袋を浸した大杯に酒が光り、芽出た芽出たの若松様よであって、この頃は数の子が大変な値段だと書きたてられるがダイヤモンドの指環を買ったりするよりもまだ増しでずっと安い。(東京の雑煮「私の食物誌」)
 
 兎に角、正月に他のものよりも早く起きて既に出来上がったこのおせちを肴に同じく大晦日の晩から屠蘇散の袋が浸してある酒をのんでいる時の気分と言ったらない。それはほのぼのでも染みじみでもなくてただいいものなので、もし一年の計が元旦にあるならばこの気分で一年を通すことを願うのは人間である所以に適っている。(東京のおせち「私の食物誌」)
 
 これこそが生きる喜びなのだと、つい声を大にして言いたくなるのは、こちらが酒呑みだからなのだろうか。ついでに本書のタイトルも「酒呑みの医学論」と変えたほうがよいであろうか。そんなことはどうでも良いとして、兎に角、われわれにはまもらなければならない生活があること、それが医学をふくめたあらゆることの出発点なのである。旨いものを食べ、酒を楽しみ、そして冒頭に掲げた文章のように柿の出来を気にすること、それがわれわれの生活の基本である。吉田氏の文章には、食べものや酒をあつかったものが数えきれないくらいある。引用すればきりがない。それらは医学とは直接は何も関係がないようにみえる。けれども医学もわれわれの生活の根のうえに存在しているのだから、それは決して無関係ではない。もし生きることが喜びでないのなら、医学が存在する必要はないはずなのであるから。
 さて、これから吉田健一氏の著作を読みながら、医学およびその周辺についていろいろと論じていきたいと思っている。その際、心掛けてゆきたいことは、過度に真面目にならないこと、乾いた調子にならないことである。医学について論じる場合、ひとは必要以上に真面目になりがちである。しかし、硬直した姿勢では捕えられないものが医療には多く存在する。幸い、吉田氏の著作にはユーモアもふんだんにある。それらの助けも大いに借りながら、これからの論を進めていきたいと思っている。