第6章.グレゴリー・ベイトソン (アンチ吉田健一・その二)

 
   第6章.グレゴリー・ベイトソン
      (アンチ吉田健一・その二)
 
 養老孟司氏は人間が科学を志向する動機についてこう述べる。
 
 なぜわれわれは、意味を発見しようとするのか。それは、おそらく、知りたいからである。あるいは理解したいからである。「わかった」ときの喜びは、きわめて素朴なものだが、強烈である。それはたぶん「中毒」をひきおこす。アルキメデスが、裸で風呂から飛び出したという話は、「わかった」からである。かれにとっては、それが学会未知の事実であろうと、きわめて高度の論理であろうと、そんなことは無関係だった。かれの発見が、かれにとって、まさしく「発見」だったから、風呂から飛び出した。たとえささやかなものでも、いったん、この種の発作を経験すると、ヒトは中毒を起こす。(形を読む)
 
 また、梅棹忠夫氏はこう述べる。
 
 なぜ人間は科学をやるのか、人間にとって、科学とは何か。これは、わたしはやっぱり「業」だとおもっております。人間はのろわれた存在で、科学も人間の「業」みたいなものだから、やるなといっても、やらないわけにいかない。・・・真実をあきらかにし、論理的にかんがえ、知識を蓄積するというのは、人間の業なんです。・・ ここで、どうせそんなものは「業」でやっているんだから、単なるあそびでいいじゃないか、というかんがえ方がでてくるとおもいます。
 つまり、科学的生産でなくて、なんでしょうか、科学を一種のレジャー消費とかんがえるわけです。科学を、生産というより消費としてとらえるんですね。何を消費しているかといえば、人生を消費してる。・・・
 こんにち、もう大部分の専門論文は、分野にもよりますけれども、世界で三人ぐらいしかよんでくれないというのが、いくらでもあるんです。それで結構です、場合によっては一人もよまなくて結構です。
 これはおのれのたのしみのためかいたのであって、だれがよんでくれなくてもいい。世の中の役にたたなくてもいいということになる。わたしなんかは、じつは、こういう科学こそ、人間の精神活動におけるもっとも神聖な領域に属している行為だとおもっているんです。(わたしの生きがい論)
 
 どちらも前章でとりあげたポッパーがきいたら、目をむいておこりそうな議論である。
 養老氏によれば、科学はどんな問題をとりあげるかよりも、科学者にどんな喜びをもたらすかのほうが重要なのであるし、梅棹氏によれば科学者はむしろどうでも良い役に立たないことをやったほうが世のためなのである。何しろ梅棹氏は、科学者の活動は暇な御夫人方が俳句などひねって新聞に投ずるのとかわるところはないというのである。俳句とか和歌の雑誌、あるいは新聞の俳壇、歌壇、そういうものは沢山ある。しかし、それを読むのはおそらく本人と選者ぐらいだろう、そう梅棹氏はいう。しかしだれが読まなくても、その作者の人生にはりあいをもたせるという意味でそれは有意義だというのである。
だから、
 
 壮大な長篇小説、ごついのをがんばってかいた、ああできた。ところが、だれもよまない。しかし、それでもちっともかまわないではないか。そういうものですね。これはいうなれば、家庭菜園です。家庭菜園で立派なトマトができた。そんなもの、だれも感心もしません。自分ひとりでよろこんでいるだけです。・・・
 結局、現在進行しつつある方向というのは、こういうものだとおもうのです。いかにして自分の人生をつぶしてゆくかという努力ですね。できるだけ無為でゆこう。役にたつ方向へはもってゆくまい、ということです。・・・
 現在、潜在的にみんながかんがえているのは、そういう意味での人生のつぶし方だとおもうのです。どうせ死ぬんです。死ぬまでの、生きているあいだの人生をどうつぶしたらいいかということが、なかなかわからない。・・・(同前)
 
 ということになる。科学者が偉そうな顔をしたって、やってることは同じなんだというわけである。しかし、ベイトソンはそんなことは言わない。科学にはまともな科学とそうでない科学があると主張する。
 
 私は、どうでもよいことと本質的なことの違いを識別できずに科学をやっている人たちには永らくいらだちを覚えてきたのだが、いざにその違いを明瞭に説明するよう学生たちに求められると言葉につまってしまうのだった。宇宙の「秩序」と「パターン」の解明に向けられた研究ならすべて重要と考えて間違いない、と、そんな漠然とした答えを私は繰り返してきた。
 
 さて本章は前章の補遺であるとともに、前章で方向がずれた論旨をもう少し医学の方へ引き戻すことを目的としている。本章でとりあげるベイトソンは吉田氏と対立するとともに、またポッパーとも対立する。その三人の間の関係から何かが見えてくるということになれば本章の目的は達せられる。
 ベイトソンはまず文化人類学者としてその経歴を出発した。文化人類学は未開を文明と相対化し、西洋を非西洋と相対化する視点をもった学問であるから、その点ですでに西洋の価値を信じるポッパーや、文明を称揚する吉田氏と対立する。しかしベイトソン文化人類学の領域には長くとどまってはいなかった。その後、生物学や精神医学など幅広い分野に発言を続けたが、最後にはいわゆるニュー・サイエンスの立場に近いところにいたように思われる。一九八○年に肺癌で死んだベイトソンの弔辞はニュー・サイエンス陣営の代表の一人カプラが読んだと言うことである。しかし、他のニュー・サイエンスの人々にしばしば見られる神秘主義や生気論への傾きが、ベイトソンには全く見られない。それがベイトソンを他のニュー・サイエンスの人々から区別するものとしているとともに、独自の魅力ある存在ともしている。
 ベイトソンの思考が吉田氏と対立するのは、ポッパーの場合と同様、科学をどのようなものとしてとらえるかという点である。吉田氏が考えるような(そしてポッパーが主張するような)科学、物質をあつかい万人に共通した理解を期待しうるといった科学を、ベイトソンはハード・サイエンスと呼ぶ。ところがベイトソンが問題にするのは、動物の左右対称性、植物の葉の配列パターン、軍備競争の拡大プロセス、愛の進行過程、生物進化の謎、現代における人間対環境の関係の危機といった問題であり、それが、何か共通した視点から理解できないかということなのである。動物の左右対称性や現代における人間対環境の関係の危機といった問題を、共通の枠組のなかで、科学のやり方によって検討することは可能だろうか、そういう疑問が当然生じる。ベイトソンは可能であるという。しかしそれが吉田氏のいう科学とは(そしてポッパーの科学とも)はっきりと異なったものであることは確かである。
 ベイトソンは以下のような設問をする。「幼い息子がホウレン草を食べるたびにご褒美としてアイスクリームを与える母親がいる。この子供が、ホウレン草を好きになるか嫌いになるか、アイスクリームを好きになるか嫌いになるか、母親を好きになるか嫌いになるか、の予測が立つためにはほかにどんな情報が必要か。」ベイトソンによれば、そのために必要な情報はすべて母と子の行動のコンテクスト(文脈)にかかわるものである。そしてこのコンテクストという現象には意味という現象が密接にかかわって来る(というのは「あるコンテキストの中に置いて見なくては、何事も意味を持ち得ない」から)。このコンテクストと意味が、ベイトソンの考える科学とハード・サイエンスとをわけるものとなる。ベイトソンが論考の対象にするのは、コンテクスト、意味、関係、差異といったものである。これらは物質がなければ存在しえないかもしれないが、物質自体を指し示す言葉ではない。そして、こういうコンテクスト、意味、関係、差異といったものこそが生命の特徴を明らかにするものなのであって、物質自体の研究からは生命は明らかになってこない、というのがベイトソンの主張の骨子なのである。ベイトソンによれば、生命においては物質自体が問題なのではなく、物質と物質との間の関係や差異がなによりも問題となる。だから、物質自体を相手にしている今までの科学のやり方では生命の本当の姿は表れてくるはずがないことになる。しかし差異や関係といったものがどのようにして科学の対象になりうるのだろうか。そのためにベイトソンは fundamentals (邦訳では「根源者」)と彼が呼ぶものを持ちだしてくる。それは真である以外ない命題(たとえば数学の定理)およびシステムと、出来事一般についてなりたつ命題(それを法則と呼ぶ。たとえば熱力学の第二法則など)からなりたつものである。関係とかコンテクストを考えてゆく場合にも、この fundamentals との対応をきちっと踏まえてゆく限りにおいては、それは科学たりうるのである。ベイトソンによれば、現代の自然科学以外の科学(あるいは科学と称するもの)、たとえば心理学とか経済学といったものが、一見科学の手続きをとっているように見えながら科学でないのは、それが fundamentals との対応を全く欠くためである。そして科学の最終目的は fundamentals に関する知識の増大にあり、また通常の科学の活動の目的は、fundamentals とデータの対応を示す地図を書くことである。
 ベイトソンにおいて、関係や差異といったものも科学の対象になりうるのは、それらを真理あるいはそれに近いものと対応させることが可能だからである。吉田氏において、あるいは一般に言って、文学の世界には真理という言葉はなじまないということは前章で述べた。ある文学作品に描かれた世界が真理を示すといったことはない。たかだか、それを書いた人間にとってその作品の世界が真実であるということに過ぎない。それならば例えば、吉田健一氏のヨーロッパ論である「ヨオロッパの世紀末」に書かれていることが正しいとか間違っているとかあるいは真実であるとかないとか言うことが可能だろうか。吉田氏の見方とは著しく性格を異にするヨーロッパ論があったとして、そのヨーロッパ論が吉田氏のものとならんで、どちらも成り立つということがありうるだろうか。成り立つのであり、それが文学というものなのである。「ヨオロッパの世紀末」は吉田健一というひとりの人間の目に映じたヨーロッパであり、別のひとの書いたヨーロッパ論はその別のひとりの人間の目に映じたヨーロッパである。吉田健一というひとりの人間がいて、詩を読み酒を楽しむ。そして人間であるから、ものを考えることもして、ヨーロッパについて考えることもする。その結果が「ヨオロッパの世紀末」であるが、その「ヨオロッパの世紀末」を読むということは吉田健一という独自な人間を知るということでもある。知ってどうなるということもないが、それは生きているのが特にどうということでもないのと同じことで、それでもわれわれが文学を読むのは人間に親しむことがわれわれの喜びだからである。あるひとを知るということはそのひとの息づかいを知ることでもある。文学の場合、息づかいは文体である。前に石川淳氏の「夷斎筆談」から「恋愛について」の一部を引用したが、そこで述べられていることも文体から離れては意味をなさない。相互に相反する見解がともに成り立ったり、そこに述べられていることが文体から離れては成立しないような場所では、真理といったことを考えることは意味をなさず、したがって科学が出る幕もないように思われる。
 個々の作品、たとえば石川淳氏の「夷斎筆談」や吉田健一氏の「ヨオロツパの世紀末」、あるいはバッハの「マタイ受難曲」やモツアルトの「ト短調交響曲」があるとして、これらが何故ひとを打つのか(勿論、打たれないひともいるわけだが)、それを論理的に分析して明らかにすることは出来ないだろう。というのは個々の作品はそれが客観的にひとから独立して存在しているのではなく、その作品が読まれたり、聴かれたりしてひとと関係を持つことによって、あるいはそのことによってそのひとを動かすことによって、はじめて作品となるからである。(ポッパーは、本は誰にも読まれないとしたら単に黒いしみのついた紙の束に過ぎないという考えを批判して、それが読まれうる形となっている、ひとに働きかけうる形となっているという事実において、読まれる読まれないに関係なく客観的に本である、と主張している。また、あるひとがある理論を提唱したが、同時代からも後世からも全く理解されなかったとしても、理論は理解されるされないにかかわりなく理論であるという。また、理論を提唱したひとが自分の理論を理解していない場合もしばしばあるという。ポッパーの主張は本が理論を伝達するための手段であるとするならば、説得力をもつ。しかし、一つの詩、一つのソナタがだれにも読まれず、だれにも聴かれない場合にも、なお作品でありうるかは疑問である。詩や楽曲が客観的にひとを打つということは、考えられないからである。)しかしながら、一旦あるひとがある詩に打たれたり、ある交響曲に感動したりすることがあることを事実として受けいれるならば、一部の人間が文学や音楽に牽かれるのは何故なのかという問題が、解答を期待しうる問題として浮びあがってくるということは考えられる。詩を読んで打たれるひとがいるのは何故かという設問に対しては、ほとんど無限ともいっていいような解答が考えられる。ベイトソンが主張するのは、そのようなことを考えていく場合にも決して忘れてはいけないいくつかの根本的な規則 fundamentals があるということであり、そのような根本的な規則を無視して議論をするならば、議論は恣意的で空疎なものとなってしまうだろう、ということなのである。
 ここでまたしても、人間が動物であるという問題が浮びあがってくる。あるひとがバッハの「ゴールドベルク変奏曲」を聴いて打たれたとして、そのことを物理化学的な法則の積み重ねによって説明しきるということは不可能だろう。しかし、生物が生きてゆく過程でおこなう様々な試み、そのような試みとどこかつながったものとして、ひとが音楽を聴くことをとらえることは考えられないことではない。事実、ベイトソンがおこなおうとしていたのはそういった試みであったと考えられる。われわれを支配する根本的な規則というと、われわれはすぐに物理化学的な法則を思い浮べがちである。しかし、生命を持つものが生命をもつということによって示す固有の規則、それを明らかにすることは可能であるとベイトソンは考えた。われわれが精神活動とよんで人間固有であると信じているものも人間以外の生命を支配する規則と同様の規則によって支配されている。だから、広く生命を支配している根本的な規則を明らかにすることにより、われわれが精神と読んでいるものの本当の姿も明らかに出来、延いては、われわれがあるものを美しいと感じること、あるいは、あることを神聖と感じること、それがどういうことであるかということをも、人間以外の動物が行う活動、更にはもっと広く、あらゆる生命体が行う活動と結びつけて説明しうるようになる、そうベイトソンは主張する。
 
 ここで指摘しておきたいことは、物語で考えるということは、何も人間だけの特性ではない、人間をヒトデやイソギンチャクやヤシの木やサクラソウから切り離すものではないということである。もし世界が結ばれ合っているのなら、もし私の論が根本的に誤ったものでないとするなら、物語で考えるということを、すべての精神が−−われわれの精神のみならず、セコイアの森林やイソギンチャクの精神も−−共有しているはずである。
 
 ベイトソンによれば、世界はどのように結ばれ合っているのか、それを明らかにすることが何よりも重要なことなのである。物質の世界には結びつきはない。生なき世界、ビリヤード球や銀河系のような世界にあるのは力と衝撃だけであって、そこには何ら結びつきといったものは存在しない。しかし結びつきが何より重要である生命を扱う学問の場合には、その結びつきを明らかにすることが、学問の第一の目的となる。
 このベイトソンの考えかたは、前章でとりあげたポッパーの「生命のない物質の世界は価値も問題も存在しない世界である。生命の誕生とともに問題が生れる。生命体は問題解決体である」とする主張とどこかで通ずるところがある。生命が出現すると同時に問題が生じるのは、ある事態が別の事態に較べて一つの生命体にとって好ましかったりそうでなかったりすることがありうるからである。もし単に生き続ける、あるいはより多くの子孫を残すという点のみが問題となるとしたら、物理化学的な法則だけでも間にあうかもしれない。しかし単に生きるのではなく、より良く生きるとか、一つの生が別の生より望ましいという観点が這入ってくる余地がもしあるならば、それは物理化学的な法則からは完全にはみだしてしまう。ポッパーは、生命体はこの世に白紙で生れてくるのではなく、外界に秩序を期待して生れてくると主張するけれども、期待ということは物理化学法則からは説明のしようがない。恐らく、ポッパーの期待とベイトソンの結びつきはどこかで関連してくる。そうではあっても、ベイトソンがもっぱら生きた世界に関心をむけるのに対し、ポッパーの最大の関心は物理学理論の周辺にあるなど、二人の関心は必ずしも一致しない。しかし、人間にはさしせまって解決しなければならない重要な問題があるという点については二人の見解は一致する。そういうさしせまった問題の解決に連なる学問は重要な学問なのであり、そういった問題と無関係な学問はどうでもいい学問なのである。だから、本章の冒頭にとりあげた養老孟司氏や梅棹忠夫氏の科学についての見方は、ベイトソンやポッパーの考えと対照的と言うことができる。養老氏、梅棹氏どちらの考えをとっても、ある学問がどういう問題をとりあげるかには第一義的な重要性はないからである。
 「六十年代の学園紛争も、結局は学生たちによる《関連》の要求にほかならなかった」とベイトソンはいう。一方、養老氏は、紛争中に学生に専門バカと罵られた先生が「お前らこそバカ専門ではないか」といったという話を伝えている。そして梅棹氏は専門バカは例え馬鹿ではあっても、それ程世間に危害は加えない、その点に意味を認めてやろうという。
 ポッパーの科学観は実際に行われている科学とは掛け離れている、という批判は様々な方面からなされている。クーンの「科学革命の構造」もその一つとして良いと思われるが、クーンの説があれ程広い範囲の反響を呼んだのも、彼の説がポッパーのものよりずっと良く科学の現実を説明するように見えるからであるように思われる。クーンは、科学の基本的な枠組(パラダイム)の変換は科学の歴史のなかでごく稀にしか起らないし、また大部分の科学者の活動はそのような枠組を批判し打ち壊すことを目指すものではなく、むしろ枠組を補強することを目指しているのである、という。パラダイムを補強するような性質の科学活動を、クーンはノーマル・サイエンス(通常科学)と呼ぶ。大部分の科学者の活動はノーマル・サイエンスに属するとクーンはいう。例えば、ニュートンの力学がうけいれられたあとの物理学者の活動は、ニュートンの力学を拡張し補強することにあって、それとは別の力学を打ち建てることを目指したものではなかった、といった見方である。「成熟した科学の活動に従事したことのない人には、一つのパラダイムからどれほど多くの後始末的仕事が生じるか、そういう仕事を遂行するのがどれほどおもしろいかは、解りにくいであろう」というクーンの言葉に、大部分の科学者は大きな共感を覚えるのではないだろうか。たとえ、ノーマル・サイエンスの一番大きな特徴が「概念であろうと現象であろうと、全く斬新なものを生み出す作用は全然しないということ」にあるとしても。
 クーンの説は現在の実際の科学活動を、あるいは時には科学史の実例をも、ポッパーの説よりずっとうまく説明してくれるように思われる。そしてそのことはポッパー自身もある程度は認めている。「批判と知識の成長」として訳されている「科学革命の構造」をめぐるコロキュムにおいて、ポッパーは、クーンのいう「通常科学」が存在することは自分も認めると言っている。しかしまた、そういう「通常科学」者は憐れむべき人物であり、科学活動がもっぱら「通常科学」と化してゆくことは、科学にとってばかりでなく、われわれの文明にとっての大きな危機であるとも述べている。(そして、ポッパーによれば、専門化もまた、それと同様の危機なのである。)
 クーンとポッパーの見解の対立の根はとても深い。クーンから見ると、ポッパーは事実の蓄積を科学の進歩であると考える陣営に属する。(吉田氏の科学観がそのようなものであること、ポッパーはそのような見方を批判していることは、既に述べた。)ポッパーは理論の進歩はあるということを主張しており、その理論の進歩が科学の進歩に他ならないという。しかし、クーンはそのような科学の進歩といったものは無いと主張する。あるのは事実についての見方の変化だというのである。事実は一つであっても、その事実をどのように見るかという見方は複数存在し、ある見方から別の見方への変換は時におきる。ある見方から別の見方への変換、それがパラダイム変換なのであり、あるものをどのように見るかということにつき、その時にそのパラダイムで定められている見方を素直に受入れ、それに疑問を抱かず、その枠組の中で仕事を進めてゆく、そういう仕事がノーマル・サイエンスなのである。そしてパラダイムが変るということは、ある事実をどのように見るかという見方が変るわけであるから、異なるパラダイムのあいだには共通の言葉は存在しないことになり、従って、異なるパラダイムでの仕事を比較することは意味をなさないことになる。またパラダイムの変換も、進歩ではなく認識論上の変化に過ぎないことになる。このことは、事実は人間のそとに事実として存在するのか、それともあることをどのようにひとが見るかということを含めて事実なのであるか、という議論に行きついてしまう。ケプラー宇宙論ニュートンの仕事に連なるものであったことは確かであるが、ケプラーの宇宙に対する見方は現代のわれわれのものとは全く異なっていたことは確かである。また数学の歴史上もっとも奇妙な人物の一人かも知れないカントールの無限に関する仕事を支えていたものは、宗教的情熱とでも呼ぶほかないものである。そしてケプラーカントールがどのような考えでその仕事をしたのであっても、われわれの前にはただその業績が残されている。重要なのは、あることがどのようであるかということなのであろうか、それとも、あることをわれわれがどのように見るかということなのであろうか。現代の哲学(科学哲学も含めて)の趨勢は圧倒的に後者に傾いているように見える。それに対立する前に引用したポッパーの事実の尊重の主張(反本質主義的訓戒)は、彼も認めているように現在ではかなり孤立したものなのである。もし存在するのが、モノの見方についての差だけであり、その見方それぞれの間に優劣はつけられないとしたら、科学の進歩といったものはありえないことになり、どうでもよい科学と本質的な科学の差といったものも存在しえないことになる。ポッパーばかりでなく、ベイトソンもまたそういう見解には同意しないものと思われる。
 結局は、結びつきということに戻ってくる。結びつきというのは、生きているということとほとんど同義語である。六十年代の学園紛争は関連、結びつきの要求であったとベイトソンはいう。現在の学問はてんでにばらばらで、お互い同士の結びつきが全くわからなくなっている。それぞれの学問がわれわれとどのように結びついているのか、われわれとどのような関係があるのか、そう学生たちは問いかけたのである。もし、それがわれわれと何の関係もないとしたら、それは死んだ学問ではないか。だが結局、学問の世界は変らなかった。現代の学問の世界の一番基本的なパラダイムは揺らがなかった。だが、ポッパーの批判にも見られるように、そのパラダイムは自明で無批判にうけいれてよいものでは決してないのである。クーンもいうように、ノーマル・サイエンスの仕事は無味乾燥で詰らないものではなく、生涯を賭けるに値するわくわくするような魅力的なものでありうる。しかし、そのことが直ちにノーマル・サイエンスの存在を肯定することにはつながるわけではないことは念頭に置いておかなければならない。
 ベイトソンが結びつきや関係ということを強調するのは、それが生命の第一の特徴であると考えるからである。従来から、結びつきや関係といったことは、宗教、あるいはそうでないまでも人間の中の科学とは関らない側面から議論されることが多かった。前にとりあげたD・H・ロレンスの主張はまさに結びつきの強調にほかならないが、それが科学とは何の関わりもない地点から発言されていることは言うまでもない。そしてニュー・サイエンスと呼ばれるものもロレンスとどこか通じる主張をしていることも既に論じたが、それは何でもばらばらにしてしまう現代の科学の動向に対する反発の一つなのである。現代の科学では、たとえ生命をあつかっている場合においても、いつの間にか生命が消えうせてしまうということが多い。
 現代の科学のかかえる様々な問題点につきこのように考えてくると、その問題点はそのまま医学の抱えている問題点でもあることに気づく。医学という学問は現在極めて盛んに行われているように見えるが、それは本当の必要があって行われているのか、その学問をささえるパラダイムは何なのか、そのパラダイムで前提されていることは疑ってかかる必要はないのか、医学の場から生命という問題がいつの間にか消えうせてはいないか。そして、一番根本的には、医学は何と結びついているのか。あるいは、既に結びつきを失って枯れはじめているのではないか、そういった問題である。それと言うのも、今の医学は何かおかしいという感じを、かなりのひとが抱きはじめているように思えるからである。今の医学への不満は決して技術に対する不満ではない。技術が進歩したにもかかわらず、あるいは技術が進歩したがゆえの不満なのである。
 
 老人医学に限らず、医学はこれ以上進歩する必要があるのだろうかと考える時もある。現在の医学の知識や薬学の成果はすばらしい。にもかかわらずわれわれが医者に不満を感ずるのは、ヘボ医者が多いだけの話なのではあるまいか。現在の最高の医学をマスターした良心的名医に診ていただければそれで大抵は満足行くものだと思う。医学が進んでも医者や設備が駄目なら駄目である。医学を進めるよりも、もっとよい医者を、よい病院を、というのがみんなの願いになるはずだ。よい医者、よい看護婦、よい病院で手厚い取扱いを受けて七十歳で死ぬ方が、人工臓器だらけの体で百五十歳まで生きるよりましであろう。そして人間はやはり死んだほうがよいので、医学はなるべく幸福で、他人に迷惑にならない死に方の役に立つための学問であると定義し直される日が遠からず来るに違いない。(渡部昇一「文科の時代」)
 
 このような主張はそれほど珍しいものではない。今の一般のひとびとのなかにかなり広く見られる気分をうまくあらわしたものであるように思われる。
 哺乳動物のなかでは人間が一番長生きなのだそうである(中川志郎氏による)(その次はゾウ)。ただ問題なのは人間のみが中川氏のいう生理的寿命を生きていて、人間以外の動物は生態的寿命を生きているということである。中川氏のあげているライオンとアンティロープという例で示すならば、年をとったライオンは脚力が衰えるため、たとえ目が見え、耳が聞こえ、食べることが可能であっても、アンティロープをつかまえられないため、飢えて死ななければならない。一方、アンティロープの方も、脚力が衰えれば、目が見え、耳が聞こえ、食べることが可能であっても、ライオンにつかまって死ななければならない。これが生態学的寿命である。ひとり人間のみが肉体的な生産能力が終ったあとにおいても知的な生産は続けながら、人間に備わった生理的寿命まで生きられるようになっている。だから老人を大事にするということは人間のもっとも人間らしいところの一つであり、老人を貴んで世話しないような人間は人間とは言えない、そう中川氏は主張する。深沢七郎氏の「楢山節考」が発表された時、もっとも強くそれを批判し、捨てられたお婆さんを助け出しにゆくのはわれわれの義務であるといったことを述べたのが吉田氏であった。「楢山節考」は生態学的寿命がつきた人間は捨ててしまうという話である。だが現在の医学は逆に生理的寿命がつきているひとをもあらゆる手段を講じて生きさせているようなところがある。川端康成氏がガス自殺をした時、吉田氏は「大往生です。何も言うことはありません」と述べた。
 現在の内科の臨床のかかえる問題のかなりの部分は老人の問題である。その一端は渡部昇一氏の文にも現れているが、それに対してどのように対処してゆくべきかという問題に対する答は、現代の医学のパラダイムからは期待できない。医学はなるべく幸福で、他人に迷惑にならない死に方の役に立つための学問であると定義し直される日が遠からず来るに違いない、などと言われても、医学の側はただ目を白黒させるばかりで返答のしようもない。死に方の研究などということは、今の医学のどこをたたいても出てくるはずはないのである。そんなことは医学とは別のどこかの分野が研究すればいいことだ、という答えが返ってくるかもしれない。しかし、片方であらゆる手段を講じて生きさせる算段をしながら、もう一方ではよい死に方の研究をしているなどというのが正常な状態でないのは確かである。ここでもまた、結びつきが失われている。
 ホウレン草を食べるたびにアイスクリームをあたえても、それで子供がホウレン草を好きになるとは限らない。すべては母と子の関係にかかっている。そして同様に、一般的な幸福な死といったものはない。また、よい医者とか、よい看護婦といったものもない。ある患者にとってのよい医者は、別の患者にとっての悪い医者でありうる。医者や看護婦と患者さんの間のコンテクストがそれを決める。「病気の治る治らないは、今では『科学技術』の問題だが、患者さんがともかく満足するかしないかは、相変らず医者の芸のうちである」と養老孟司氏はいう。患者さんは満足していても病気は治らずに死んでしまうこともありうるし、逆に、大いに不満に感じながらも病気はすっかり治ってしまうこともありうるわけである。そのどちらがよいかということを決める何かの基準があるだろうか。ともかく病気が治ればそれでいいではないか、ということになるのだろうか。死んで花実が咲くものか、ということもある。
 「美的統一感を失ったとき、われわれは認識論上の大きな過ちを犯した。この考えが私の思索の根本にある。昔の認識論にもいろいろと狂ったところはあったが、そのどれと比べても美的統一感の喪失の方が重大な誤りだと私は信じている」、そうベイトソンは述べる。また「生物世界と人間世界との統一感、世界をあまねく満たす美に包まれてみんな結ばれあっているのだという安らかな感情を、ほとんどの人間は失ってしまっている」とも言っている。そのような統一感、安らかな感情をとりもどすことは可能だろうか。そういう統一感は医学の世界にもまた必要なのだろうか。それともそんなことは感傷だろうか。
 人間の世界もまた人間以外の生物の世界に見られるのと何ら変るところのない規則に支配されていることを示すことによって、ベイトソンはそれをとりもどそうと試みている。そのために「精神と自然」の中でベイトソンが展開している議論の細部は必ずしも充分に説得的とはいえない。しかし、このような大きな問題がさして大部でもない一冊の著書によって十全に解決されることを期待するとしたら、それはむしが好すぎるというものだろう。ポッパーもいうように、何より重要なことは問題を提出すること、問題のありかをはっきりさせることなのである。問題はそこにはっきりと指摘されている。そして、ともかくも一歩が踏み出されている。
 浅田彰氏はベイトソンを、「さまざまな領域を経めぐって縦横無尽な交通を行い、行った先々で、その領域特有の約束ごとのバカらしさを、いわば、「王様は裸だ」といってみせる子供のようなスタンスであばいていった、そういう人」であったといっている。六十年代の学生たちもまた「王様は裸だ」といっていたのかもしれない。そして今、医学という王様もまた裸であるのかも知れない。だが、ただ単に王様が裸であることを指摘するだけなら、そこで何ごとかが壊されることはあっても、新しいものは生れてこない。ベイトソンは「王様は裸だ」と言っただけではなく、自分にはなぜ裸に見えるのか、多くの人にはそう見えないのかを説明した。その一番根もとにある考えかたは、異なるレベル、メタレベルからものを見るということであるように思われる。浅田氏は、そのようなベイトソンの姿勢を、「ある次元では矛盾を孕んだシステムとして固定されているものが、高次元ではそれらのプロセスを包括するシステムが現れて、そのあげく究極的にはコスモロジカルなハーモニーに身を委ねることができる」とする「ユートピア的なヴィジョン」であり、「安易な観念論」であるとして批判している。いわゆるニュー・サイエンスのひとびとは現代の科学があらゆるものを分析、分断してしてゆくことを批判して、それに対置するものとして、全体論的見方、コスモロジー的見方を提案する。それは科学の衣をまとっていても、観念論のにおいをどこかにもっている。ベイトソンはその中において観念論の色彩がもっとも薄いひとではあるが、それでもいくらかの観念論の影は引きずっているかもしれない。
 ベイトソンはこういう。「彼らは信仰を教え、降伏せよと説教する。しかし私の望みは明析さにある。勿論、明析さのためには信仰と降伏が必要だという論も成り立つだろう。しかし理解の曇った部分を信仰で埋めるなんて、私はご免こうむる。」「宗教というものは、いつも堕落に向かう傾きを持つ。・・・みんなして寄ってたかって、宗教をつくり変えてしまう。娯楽だとか政治だとか魔術だとか《パワー》だとかに。」「(ESPとか、霊魂顕現とか、霊魂遊離とか、降霊術とかは)みんな野卑な物質主義を安易に逃れようとする誤った試み、病める文化の症候だ。奇跡とは、物質主義者の考える物質主義脱出法である」「野卑な物質主義を逃れる道は奇跡ではなく美である。」
 美ということを、いわば生物学的に論じきること、それがベイトソンの目指したものであった。生物学の範囲で論じきるならば、それは科学であり、観念論ではない、そうベイトソンは主張したものと思われる。しかし、例えば、エコロジーという学問が生物学なのか、科学なのかということは、随分と難しい問題を含んでいる。というのはエコロジーという学問の根本のところに、生命は善であり、生命が続いてゆくことは善であるとする考えがひそんでいるように思われるからである。それは人間の価値観である疑いが強い。ベイトソンの主張はなにがしかエコロジーとかかわりのある主張であった。
吉田氏は観念論に敵対するひとであることを既に述べた。吉田氏がどのようにシェイクスピアのブランク・ヴァースを愛するのであっても、それがなければ生きてゆけないといったことを吉田氏は決して言わない。それより以前に、暖かさを暖かさと感じ、寒さを寒さと感じて、旨いものを旨いと思う、そういうことの方がはるかに大事なのである。氏の文学的処女作であるといってもよい「英国の文学」で、
 
 小鳥が多い英国で、鳥が一羽もいなくなったのも同然の冬の後でこの thrush という小鳥の声を聞く時、自分の心の廻りにも凍り付いていた氷が解けて来たような感じがする。又、秋には木が凡て落葉するのであるから、春になって木が芽を吹くのも一斉にである。牧場が緑になり、三月の末から六月の半ばに掛けて英国の自然の美しさが増して行く有様は、それを見ても直ぐには信じることが出来ない。「真夏の夜の夢」という喜劇の題の真夏というのは六月の半ばのことで、シェイクスピアの妖精達と区別するのが難しい位、美しい季節であって、この英国の六月に匹敵するのは、色取りどりに紅葉した木々が柔いだ日光を浴びて立つ英国の秋だけである。
 
 と論じたあと、シェイクスピアの有名な、
 
 Shall I compare thee to a summer's day!
 
 で始まるソネットを引き、
 
 この詩には、漸く沈み掛けていて、いつかは沈むとも見えない太陽の豊かな光線が空中に金粉を舞わせている英国の夏の黄昏がある。我々は東洋に生れて、こういう濃厚であると同等に自然のままに美しい現実を、西洋の詩や音楽、或は絵を通してしか経験したことがない。それは、我々が英国の陰惨な冬を知らないことと違ってはいなくて、例えば、英国の秋の景色にも前に触れたが、木が紅葉すると言っても、その色は赤と黄に限られているのではなくて紫、茶、黄、赤などの色がまだ紅葉していない木の緑と混じって秋の空の下に輝くのであり、それは満目紅葉というような寂びれた印象を伴うものではない。又、夏の緑も、それに劣らず何か現実とは思えない光沢を帯びていて、我々にはこういう事実に基いて次のように考えることが許される。
 春から秋に掛けての英国の自然が、我々東洋人には直ぐには信じられない位、美しいならば、英国の冬はこれに匹敵して醜悪である。そして冬が十月に来る国では、この二つの期間はその長さに掛けて先ず同じであって、英国人はこういう春や夏があるから冬に堪えられるのでなしに、このような冬にも堪えられる神経の持主なので春や夏の、我々ならば圧倒され兼ねない美しさが楽しめるのである。・・・如何に美しいものにも対抗することが出来る忍耐力ということが、英国人の国民性に認められる一つの特徴であると言える。或るものを美しいと見るにも力がなければならず、それを美しいと見た上で更にそれを自分のものにするには、力が一層に必要なのである。
 
 と述べている。
 この如何に美しいものにも対抗することが出来る力が吉田氏を観念論から守るものなのである。野卑な物質主義を逃れるための美といった考えは、美しさを見据える力が失われたところからでてくると言えるかも知れない。あるいは、野卑な物質主義を逃れるということ自体が、過酷な冬に堪えられない精神を表しているのかも知れない。問題があっても、それに対する答えがあるとは限らない。問題を見た時にすぐに答えを要求する精神は脆弱すぎるかも知れないのである。
 確かにベイトソンは問題を提出した。それに対する彼の答えは、しかし、あまりに美しすぎる、あるいは整合的にすぎるという気がする。何も答えなどなくてもいいのではないだろうか。問題の所在がはっきりすればそれでいいのではないだろうか。ベイトソンはこう問いかけた。あなたが生きているというのはどういうことか。あなたが生きていることと、カニが生きていることは、同じことなのか、異なったことなのか。あなたはカニとどうつながっているのか。あなたはすべての生きたもの、生きていないものとどうつながっているのか。生きているというのはどういうことなのか。あなたは生きているのか。
 この問いをまた医学に対してもむけてみよう。医学が生きているというのはどういうことか。医学はわれわれとどうつながっているのか。医学はすべての生きたもの、生きていないものとどうつながっているのか。医学は生きているのか。こういう問いを野暮で野蛮であるとかたずけるのは簡単である。しかし、野蛮にも三分の理ということもある。時には野蛮につきあうことも必要である。それにしても、前の章とこの章はいささか野蛮に傾きすぎただろうか。というのも、ポッパーは言うまでもなく、一見そうはみえないベイトソンでさえ、ものの考えかたは見事に西洋そのものだからである。
 ところで、前に一行だけ引用したシェイクスピアソネットは以下のようなものである。これは優雅なのだろうか野蛮なのだろうか。
 
 Shall I compare thee to a summer's day!
 Thou art more lovely and more temperate:
 Rough winds do shake the darling buds of May,
 And summer's lease hath all too short a date:
 Sometime too hot the eye of heaven shines,
 And often is his gold complexion dimm'd:
 And every fair from fair sometime declines,
 By chance or nature's changing course untrimm'd;
 But the eternal summer shall not fade
 Nor lose possession of that fair thou owest;
 Nor shall Death brag thou wander'st in his shade,
 When in eternal linens to time thou growest:
  So long as men can breathe or eyes can see,
  So long lives this and this gives life to thee.
 
 君を夏の一日に譬えようか。
 君は更に美しくて、更に優しい。
 心ない風は五月の蕾を散らし、
 又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。
 太陽の熱気は時に堪え難くて、
 その黄金の面を遮る雲もある。
 そしてどんなに美しいものでもいつも美しくはなくて、
 偶然の出来事や自然の変化に傷つけられる。
 併し君の夏が過ぎることはなくて、
 君の美しさが褪せることもない。
 この数行によって君は永遠に生きて、
 死はその暗い世界を君がさ迷っていると得意げに言うことは出来ない。
  人間が地上にあって盲にならない間、
  この数行は読まれて、君に命を与える。
 
 優雅ではある。しかし、それは少し青い優雅であるかも知れない。