第8章.宗教論その他

 
   第8章.宗教論その他
 
 桂子さんはある種先天的に弱い人間やそのために現に病気になっている人間にとってキリスト教が一定の効用をもっていることは認めている。医者と薬は病人のために必要である。そしてそれがなくては病人が困る。ただし一般の健康な人間には関係ない。精神についても同じことが言えるのではないだろうか。そこで医者と病人は病院で暮し、そうでない人間は病院の外で暮すという区別が画然としていて、お互い無関係にやって行ける限り、桂子さんはキリスト教のようなものの存在を認めるのである。自分が病気で治療を要すると思う人はいつでも病院にはいって患者という身分を得ればよい。
 
 倉橋由美子氏の宗教論小説「城の中の城」の一節である。宗教論とはいっても、ここにみられるとおり、専ら反宗教の立場から書かれている。倉橋氏がどこかに書いているように、ここでの「反」の対象は特に宗教である必要もないようで、心身の弱さや異常を克服することをさせず、そのまま肯定させる働きを持つようなものは、すべて「反」の対象となるようである。倉橋氏によれば、大部分の文学もそのような働きをもつ。そう言えば、昔、三島由紀夫氏が、文学青年の悩みなどはボデイ・ビルをやれば無くなってしまう、と言っていたのを思いだす。倉橋氏が三島氏を敬愛していたことは衆知のことである。その倉橋氏はまた吉田健一氏にも熱烈なオマージュを捧げている。「正常であるということがルカスから受け取った最も貴重なものであることが漸くこの頃になって解った。・・・ルカスの本の選択にもそれに対する批評にもそういう人間の精神の病的であることを斥けた働きが感じられてそれは本の世界全体に光が及んで行く感じだった」という吉田氏の「交遊録」の一節は前にも引用したことがあるような気がする。宗教は倉橋氏がいうように、人間の精神の中の病的な部分の表れなのであろうか。吉田氏もまた、そのように考えているのであろうか。(倉橋氏はそう信じているようであるが。)
 十年以上臨床をやってきた経験から言っても、宗教の問題が治療を遂行する上で妨げになったり、あるいは、助けになったりしたということは(一部の新興宗教による数例を除けば)皆無といってよい。だから、宗教の問題というのは医療とはあまり関わりはないのかもしれない。しかしターミナル・ケアとかホスピスといった問題に関心がある人々は宗教に強い興味をよせる場合が多いように見える。つまり、医療技術は人の生き死にの本当に大切な部分を解決することは出来ないので、それに対しては宗教が必要になるという考えかたである。ターミナル・ケアとかホスピスとかは、医療技術が疾患を根治させることを期しがたくなった場合に必要となるのであるから(鎮痛とか鎮静とか医療技術がなしうることも多々あるが)、医療技術のみでは充分に対応しえないのは事実である。しかし、だからといって、その真空の場所に宗教が出てこなければならない必然性は何もないように思われる。(医療技術が疾患を根治させうる場合には医療技術さえあればいいのか、というのも問題である。ターミナル・ケアに宗教が必要なら、医療のあらゆる局面で宗教は必要となるかも知れないから。)
 序章でも述べたように、宗教の問題は人間が動物であるということと深い関わりを持つ。(ところで、これまでも実はそうしていたのであるが、これからも特に断らない限り、宗教という言葉は専らキリスト教を指すことにする。人間が動物であるということは、仏教ではキリスト教の場合とは全く異なった意味を持つ可能性がある。)キリスト教においては、人間は人間以外の動物とはまったく異なり、神の姿に似て形づくられた特別の存在である。日本人は結局のところキリスト教を受け入れなかったにもかかわらず、人間は人間以外の動物とは根本的に異なる優れた存在であるとする見方は平然と自明のこととして受け入れているようである。そのことに対する批評は吉田氏のいくつかの作品の主題となっている。そして日本人は時間が直線的に流れるという考えをも、またキリスト教を通じて受け入れたようにみえる。日本はキリスト教国にはならなかったにもかかわらず、キリスト教のものの見方は至るところで日本人に大きな影響を与えている。(日本ではマルクス主義イデオロギーをうけいれていない人でも、マルクス主義の世界観や歴史観はうけいれている場合が多い。マルクス主義は俗化したキリスト教に他ならない。)吉田氏がキリスト教を問題にするのは、人間を人間以外の動物と選別するという見方に関してである。一方、倉橋氏は、人間の弱い部分、病的な部分を肯定するものとしての宗教を問題にする。前に引用した部分の続きはこうなっている。
 
 ところがなかなかそうは行かないので困るのである。入院して患者になった人は、あなたも一つ入院してはどうかとしきりに勧誘に来る。時には医者自ら勧誘に来ることもある。医者にしてみればできるだけ多くの患者が欲しいし、いったん患者になれば仲間の患者を増やす活動をすることが行動療法か何かの一環であるらしい。・・・桂子さんが怒り心頭に発するのは宗教の、と言っても大概はキリスト教のどこかの派の勧誘員である。連中は入信すればお得ですということを余り説かない。それよりもこちらを病人に仕立てようとする。あなたはご存じないが実は不治の病に犯されているのだ式の勝手な診断を唱えて止まない。何か悩み、つまり自覚症状はないかと問診するので桂子さんは格別ないと答える。すると相手はないはずはないでしょうと言う。人間みな病人という前提があるらしく、従って万人が治療を要するはずだと主張する。桂子さんはそう言われると最大の侮辱を感じる。悩みなんかないし、すべて間に合ってますと答えると、相手はそうやって自覚がないことがまさしく大変な病気にかかっている証拠だといって、例の「憐れみの目」という奴でじっと桂子さんを見る・・・
 
 つまり、人間の原罪の問題である。自分が罪を負っている人間であるということを知っていることは、まだそれを知らない人間に対し、それを知っている人間を何がしか優越した立場に立たせるという奇妙な関係がそこに生じる。しかし、宗教を信じていない人間は(少なくともキリスト教が言うような意味での)罪は認めない訳であるから、これは確かに腹立たしい関係であるに違いない。だから、
 
 桂子さんは腹立ちまぎれにニーチェのことを思い出した。・・・ニーチェによればgut に対して schlecht の意味で「悪い」を言うことは貴族の道徳に属する。schle-cht とは「劣悪な」ということである。人間にも事物にも優れて善きものとお粗末で劣悪なものとがある。桂子さんが考える心身の病弱者とは人間の中の出来の悪いもの、schlecht なる者のことである。そういう人がキリスト・ウイルスに感染しやすく、また感染する必要があると言ってもよい。ところがその種の人々が人間は本来悪しきものであると言いだすのが桂子さんには気に入らない。「悪しき」が schlecht のことなら、右の言い方は不当である。schlecht は相対的な概念なので、人間みな schlechtと言うのは意味をなさない。それならばその人々の言わんとするところは人間みな「邪悪」、つまり boese だということなのだろうか。ニーチェはこの boese なるものを発明したのがキリスト教で、それは奴隷道徳である、賎民道徳であると言って怒っている。桂子さんはかならずしも全面的にニーチェに与するものではないが、schlecht なる人間たちが gut なる貴族的人間に対する嫉み、恨みから、自分以外の人間と人間の世界を根本的に boese なるものと見たがる心理を面白いと思う。・・・あの連中は、他人だけを boese なるものと言ったのでは信用が得られないから、とりあえずすべての人間を罪あるものとして boese 一色に染めあげ、その中で自分たちだけは信仰のおかげで普遍的な boese から脱色されつつある、と主張する。だからあなたもどうか、と悔い改めることを勧めるのである。
 
 ということになる。
 吉田氏が批判するキリスト教は、人間を他の動物より優越したものと見る立場であり、倉橋氏が問題にするのは、人間を罪ある存在とみなす行きかたである。一見、相反するように見える。しかし、人間が自分を罪あるものであると知ることが出来るということは、そのようなことの出来ないその他の動物に較べて、人間を優位に立たせるものであるということも出来る。理性のない存在は自分のことを省みることなど出来ないからである。だから、D・H・ロレンスは、人間を罪あるものとみなすやりかたは、人間に本来備わっているはずの動物としての生命力を失わさせるものでもある、と主張している。
 今世紀有数の知性の一人であるフォン・ノイマンが癌に冒された時、にわかにカソリックに入信したが、安心は得られず、混乱の内に死んでいったというエピソードを前に紹介した。死の前にたじろぐこと、死を恐れることは、人間の悲惨なのであろうか、それとも、栄光なのであろうか。人間以外の動物でも自分の死を予知しているものはあるかも知れない。しかし、自分の死を恐れているようには見えない。人間以外の動物も自分の死から逃れようと努める。だがそれはドーキンスの言う「遺伝子の戦略」であり、遺伝子に組みこまれた本能的な反応であって、人間が死を恐れるということとは全く異なる。人間はおそらく誰でも、急に後ろから首を絞められでもしたら、それに抵抗する。だが、それは人間が死を恐れるからではない。体中の酸素が不足すると呼吸が早くなる、それと同様の、殆ど無意識的な反応である。われわれが死を恐れるという場合、それが意味するものは、自己意識、自我意識の消滅である。フォン・ノイマンの死をめぐるエピソードは鎮目恭夫氏の著作を通じて知ったのであるが、その鎮目氏は、ある本で次のように述べている。「私にとっては、小学校の少なくとも上級生の頃以来、自己の存在の消滅を考えること、その消滅が不可避であることを考えることは、最も深い恐怖であった。顧みれば、以来今日までの約五十年の私の人生の歩みは、自己の存在の消滅に抵抗しつつ、そのような恐怖に対抗するための、従って、自己の魂の不滅(永遠の生命)を求めるよりは従容として死を迎えることのできる心境を求めることが最も中心的、根本的な動機となって歩んできた歩みであった。」 鎮目氏によれば、霊魂の不滅とか、輪廻とかいう信念を人間から失わさせたものは、西洋に由来する科学の進歩である。ネアンダルタール人は既に死者の埋葬を行っていたという。これを宗教の始まりであるとすることは問題があるかもしれないが、少なくとも、この頃から死が特別のものと見られていたのは確かである。そしてこの頃には死ばかりではなく、あらゆる自然現象が超越的な力によるものと考えられたに違いない。嵐は人間を超えた力の怒りの表れである、といった見方である。それならば、人間以外の動物には、嵐は、あるいは雷はどのように見えているのだろうか。嵐、あるいは雷というのは言葉であり、言葉がなければ存在しないものであるから、人間のように言葉で世界を区切って見るということをしていない存在にとっては、そもそも無いものなのだ、という言いかたもできる。人間以外の動物にとっては、あらゆる出来事が、たとえそれがわれわれにはどんなに異常に見えることであっても、自然な現象なのであるに違いない。人間以外の動物はいつも世界の中にいて、世界を外から眺めるということはない。ところが、人間は世界の説明を求めるという性質を持っている。そして宗教はそこから生まれて来たことは間違いはない。そういう宗教を持っていること、それは人間の栄光なのであろうか、悲惨なのであろうか。
 鎮目氏は、西洋の科学の発達が永遠の生命といった考えかたを瓦解させたと主張する。けれども、事態はそれ程単純ではない。現在の第一級の自然科学者、しかも大脳生理学の研究者の中にも、脳の活動の総称ではない精神、脳という器官からは独立した存在である精神の存在を主張し、その不滅を唱えている者もいる。一方、西洋の自然科学が発達するはるか以前から霊魂不滅といった考えかたを退けてきた者もいた。後者の代表としてはエピキュロスの学派を挙げることが出来る。
 倉橋氏の「城の中の城」に、こんな会話がある。
 
 「・・・あなたの狙いが無神論の砦を築くことにあるのなら、・・・あなたに一番合いそうなのを推薦させていただくとしたら、やはりエピクロスですかね。エピクロスの境地に達して神だの宗教だのを一切考えないで済ますのが最上の健康法です」「神々は、いたとしてもどこかでアンブロシアでも飲んでいて、我々とは全然没交渉である。この世界は神々とは無関係に動いている。人間は死への恐怖から神を作り、その神を恐れる。ところが死を恐れることはない。なぜなら、生きている時には死は存在しない。死が存在する時には我々は存在しない。本音を言えば神々はいらないというわけですね」「そう、神様には隠居してもらおうということで、それがあなたには一番よく似合う哲学らしい・・・」
 
 人間が宗教を持っているということは、われわれが音楽を聴いたり、詩を読んだり、絵を見たりすることと、どこかでつながっている。あるいはまた、誰かを愛したり憎んだり、嫉んだり羨んだりすることともつながっている。そのような様々な感情の中で、あるものを望ましいとして残し、あるものは望ましくないものとして排斥する、そんなことは、恐らく、不可能である。だが、そのような不可能をなんとか達成しようとする努力の一つの表れ、それがエピキュリアンティズムであるのかも知れない。
 
 ricorditi di me, che son la Pia ;
  Siena mi fe', disfecemi Maremma:
 
 というダンテの「神曲」の一節は、大岡昇平氏の「花影」の扉に引かれているこの部分を知っているだけだけれども、「私ピアのことを忘れないでください。シエナで生まれ、マレンマで死にました」という言葉は、単に「花影」の主人公である薄倖の女性を象徴するばかりでなく、文学全体、延いては人間の営為全体をも象徴するものであるように思われる。もし「私のことを覚えていてください」というのが感傷であり、馬鹿げたことであるならば、それでも人間はまだ何かをするだろうか。しかし、それでも「私のことを覚えていてください」というのが直ぐに宗教に結びつく訳ではない。「私のことを覚えていてください」というのは人間以外の動物には絶対にないであろうと思われる感情である。というのは、完全な自我意識、自分という意識を持っている動物は人間だけであると思われるからである。人間にだけ認められて、人間以外の動物には認められないことは沢山ある。白い布地の中央に赤い染料で円が塗られているものに誰かが火をつけたとすると、それが戦争の原因となるかも知れない。ボールを木の枠の中に蹴り入れるというだけのことに大勢の人間が興奮し、しばしば暴力をふるったりする。動物行動学者のローレンツによれば、同一の種の中で殺しあいをするのは人間だけである。ある時刻になると、ある方向にむいて、そこにいる人間すべてが地面に額をつけるといった行為も人間以外には見られない。
 人間のやることは、個人としてやることと集団としてやることに大別することができる。宗教はそのどちらにもかかわる。キリスト教は個人の宗教としては愛の宗教であるとしても、集団の宗教としては憎しみと嫉みの宗教となるという主旨のことを、D・H・ロレンスはその黙示録論で詳細に論じている。人間が人間以外の動物より劣っているように見えることがあるとすれば、大部分それは集団としての人間に係る場合であるように思われる。エピキュロスの教えは、人間に個人にとどまること、集団には参加しないようにということを薦めるものであるかもしれない。しかし人間が個人にとどまるということは可能だろうか。集団生活をする動物というのは沢山ある。しかし徒党を組む動物というのは人間だけである。徒党を組まずに生きることは人間に可能なのだろうか。
 コールダーの「人間、この共謀するもの」に、次のような実験が紹介されている。中学生のある集団をまったく出鱈目に、二つのグループにわける。それぞれのグループの成員には、しかし、グループをわけたもっともらしい理由があるように思わせておく。(ある心理テストの結果、このグループは性格の優しい人だけ集めたとか、あるいは、勇気のある人間だけ集めたとか。)するとそれぞれの成員は自己のグループの利益をその他のグループより増すような行動をとりはじめ、しかも自己のグループ内においては、自分の利益を放棄しても、グループ内の公平を保つような行動をとるようになるという。これは、人間の美しさを示す例なのだろうか。それとも、醜さを示す例なのだろうか。こういう行動は人間だけにしか見られない。人間に特徴的なのは、自我意識ばかりではない。仲間意識、徒党意識というのもまた、人間だけのものである。
 さて、これまで、主として倉橋氏の著作に依りながら、宗教の周辺について論じてきた。倉橋氏が吉田氏に兄事しており、文体から小説の構成まで深く吉田氏の影響を受けていることは、倉橋氏と吉田氏の双方の作品を読めば誰にでも解ることである。倉橋氏が最も大きな影響を受けたのは文学に対する見方であろう。吉田氏は日本の私小説の伝統を徹底的に批判した。私小説の人間の見方は著しく観念的であり、あらかじめ先入観をもって人間を見るものであり、人間の豊かさに目をふさぎ、人間の弱い面、醜い面のみを人間の総てであるとする極めて狭量なものであることを、氏は繰り返し説いた。倉橋氏も、日本で文学といわれているものの大部分が、自分の弱さに自己満足するだけの無意味な、むしろ存在しないほうがましなものあるということを何回も述べている。倉橋氏がかって三島由紀夫氏の信者であったのは当然というべきである。しかし、今回この章を書くために倉橋氏の著作を何冊か読み返してみて、倉橋氏の人間観が随分と暗く救いのないものであることに気がついた。倉橋氏によれば、人間は「優れて善きもの」と「お粗末で劣悪なもの」に分けられるのであるが、その両者の間にはまず移行はありえないと考えているようで、いわば著しく遺伝決定論的なのである。当然、文学も「お粗末で劣悪なもの」による「お粗末で劣悪なもの」を描いた「お粗末で劣悪な」作品と、「優れて善きもの」による「優れて善きもの」を描いた「優れて善き」作品とが画然と分けられることになる。吉田氏もまた私小説を批判したけれども、その私小説にかわって日本にもようやく本当の文学がいくつか出てきていると見ていたし、あるいはもっと広い視野でいえば、十八世紀に文明化したヨーロッパが十九世紀に一度野蛮に戻りそうになったけれども、世紀末に再び文明を回復する動きが出てきたといった見方、さらには江戸時代に文明に達していた日本が明治以降一時野蛮に戻りかけ、最近になってようやく再び文明を回復しかかっているという見解、などに見られるように、その見方はずっと流動的であり、また人間に対する信頼に基づいている。吉田氏の晩年の爆発的な執筆活動は、ようやく文明をとりもどしはじめた日本にさらに文明を定着させるために自分もなにがしかの貢献をしうる、という信念によるところが大きかったように思われる。これは倉橋氏の最近の寡作ぶりと対照的である。
 だから倉橋氏の宗教観と吉田氏の宗教観は確かに重なるところがあるにしても、吉田氏の見方の方がはるかに寛容である。「ヨオロツパの世紀末」の?章は主として宗教を論じているが、そこにこんな文章がある。
 
 我々にとって重要なのはギボンにキリスト教というものが一種の狂気にしか見えなかったことである。・・・古代に属する人間にとってキリスト教は明らかに狂気の沙汰である他なかったのであり、その狂気が十数世紀も続いたならばヨオロツパがヨオロツパであるには古代の理性が再び働いて均衡の回復を図らねばならなかった。
 
 同時に次のような文章もある。
 
 一切が白紙に還元され、懐疑の対象になるのが自由ということである。確かにそこには疑う上での基準がなければならなくて、精神の正常な働きというものを認める所にギリシャ、ロオマの光が再び差し、正気と狂気の区別は精神病理学の専門家にしか付けられないという種類の考えをヨオロツパ人が持つに至ったのは二十世紀になってからのことに過ぎない。その精神の正常な働きが十八世紀の理性だった。それまでにキリスト教には既に二千年近くの歴史があって、ロオマ帝国の崩壊期から中世紀に掛けてのこの宗教によるヨオロツパの精神的な支配は理性に受け入れられない面を生じることを免れず、この宗教に対する十八世紀の一般的に批判的な態度、乃至はその根本的な否定にも我々はヨオロツパというものの姿に漸く成熟したヨオロツパが十数世紀に亙る言わばその青年期の錯誤を錯誤と認めているのを感じないではいられない。もう一度繰り返せば、この時代に宗教がなくなったのではなくてその根本的な否定も是正なのだった。
 
 この二つの文章はほとんど同じことを述べているように見える。しかしキリスト教はただ狂気であるのではなく、後の文章に示されているように、もし理性の働きと合致するのであれば、肯定されるのである。だが、理性の働きと矛盾しない宗教といったものが考えられるだろうか。
 吉田氏の指摘を待つばかりもなく、もし宗教が民主主義や世間体などといったものと同じ次元の、実体のないただの観念に過ぎなくなっているとすれば、それは野蛮であるというしかない。そういう単なる飾りとしての宗教、世間との付き合いのために必要な宗教なら問題にしなくてよい。しかし、その人にとってはたしかに神は実在の存在であるという人間もいることはいて、そして、そのことが、その人の理性の働きを曇らせないとするならば、そこに宗教と理性は共存していることになる。言うまでもなく、そこにあるのは純粋に個人の信仰であって、集団が顔を出す余地はない。そして、そういう人が確かに西欧には存在するのはキリスト教に貫かれた長い西欧の歴史があるからであって、いわば、キリスト教の神がその人をとらえるのであり、死を恐れるから、永遠の生命を得たいから信仰にはいるのではない。そういう歴史を持たない日本人がキリスト教にはいるとしても、それは少なくとも西欧人のキリスト教とはまったく異なるものであるし、宗教のもつ本当の力とはまったく別のものであると吉田氏は主張する。西欧の大部分の文明人にとってもキリスト教は何とか減らしたい重い荷物なのであり、それをもともと荷物を持たないわれわれ日本人がわざわざ背負いこむことはないというのである。
 以上のように考えてくると、ホスピスやターミナル・ケアの議論においてあらわれる宗教というのは随分とあやふやなものであることが解る。それは正に倉橋氏が戯画的に描いているような宗教であり、宗教の側にあるのは、こころの問題は自分達にしか扱えないのだという思い上がりであり、医療者の側にあるのは、あとはまかせた、総てよろしくたのむという過大な期待である。とにかく宗教は何だかよく解らないが、何となくいいものであり効き目があるものとして扱われている。それは丁度、一部の人間が精神医学に対して抱いている過大な期待と合致するところがあるように思われる。もしある人が信仰を得てそれにより平静な境地に達することが出来たとすれば、そのことについてはたが何もいうことはない。しかし、それはあくまでも神とその人だけのあいだでのことであり、他人が強制したりする筋のものではない。そして言うまでもなく、平静の境地に達する手段は信仰だけではない。もし医療者の側がベッド・サイドの瀕死の患者にエピキュロスの説をといたりするならば、それは余計なことであり傲慢なことである。ベッド・サイドで信仰をすすめるのもまったく同じことである。
 ディラン・トマスの詩 「Do not go gentle into that good night」は翻訳することが不可能な詩であるが、トマスの父親に呼びかける形で書かれている。
 
 Do not go gentle into that good night,
 Old age should burn and rage at close of day;
 Rage, rage against the dying of the light.
 Though wise men at their end know dark is right,
 Because their words had forked no lightning they
 Do not go gentle into that good night.
 
 Good men,the last wave by,crying how bright
 Their frail deeds might have danced in a green bay,
 Rage, rage against the dying of the light.
 
 Wild men who caught and sang the sun in flight,
 And learn, too late, they grieved it on its way,
 Do not go gentle into that good night.
 
 Grave men, near death, who see with blinding sight
 Blind eyes could blaze like meteors and be gay,
 Rage, rage against the dying of the light.
 
 And you, my father, there on the sad height,
 Curse, bless, me now with your fierce tears, I pray.
 Do not go gentle into that good night.
 Rage, rage against the dying of the light. 
 
 トマスの父もまた確かにその人にとって神が実在するという人間の一人で(われわれが思いうかべるキリスト教の神とは随分イメージが異なるが)、世のあらゆる不正を憎み、そのような不正の横行を許している神を激しく怒る、そんな人間であったという。そのような父が晩年になり、穏やかな人間となって、世の不正を憎み神を怒ることをしなくなったのを、トマスが悲しんで作ったのがこの詩であるという。こういう、日常の場にも常に神が存在し、その神と常に対話を続け、神を怒り、神を讃め、ありとあらゆることが総て神とかかわっているというような人間を、われわれは回りにしらない。そういうものが何もないところに、病気の時、死に面した時だけ、神を呼び出そうというのは滑稽でもあり悲惨でもある。宗教というのは、そんな手軽で便利なものではない。トマスのこの詩はまた、老いて死につつある父に、変に悟りすますな、闘え、と呼びかけているようにも読める仕掛けになっている。そういう態度というのもありうるわけである。宗教というと、日本ではすぐに従容として死を迎えるといったイメージと結びつくというのも、考えてみれば変な話である。どうも日本のターミナル・ケアの議論にでてくる宗教というのは安易であるという気がしてならない。医学が著しく自然科学に傾斜している、そして自然科学は人間の悩みについては無力である、そういう劣等感が、宗教に安易にすがる風潮を生みだすのであろう。しかし、こころの問題が宗教にしかあつかえないわけではないことは、言うまでもない。例えば、ベイトソンはこのように述べる。「彼らは信仰を教え、降伏せよと説教する。しかし私の望みは明析さにある。勿論、明析さのためには信仰と降伏が必要だという論も成り立つだろう。しかし理解の曇った部分を信仰で埋めるなんて、私はご免こうむる・・・。」
ベイトソンのいう明析さは、どこかで吉田氏のいう精神の正常な働きに通じている。勿論、明析さとか、精神の正常な働きとかいうことにこだわって何の意味があるのか、という疑問は成り立つかもしれない。しかし、それならば、人間が誉りを持つということに、どんな意味があるだろうか。誉りを持って生きるということ、あるいは誉りを持って死んでゆくこと、そんなことは、どうでもよいつまらないことであろうか。 だが、それならば、
 
 ricorditi di me・・・
 
 という言葉は、何故われわれをとらえるのだろうか。