付録 「生きる喜び−人間と生命の基礎と臨床」

 
 
 
  「生きる喜び−人間と生命の基礎と臨床」(1986年)
     (毎日二十一世紀賞応募論文)
 
 
 生命は生物の現象であるが、必ずしも生物学的にのみとらえられるとはいえない。生命をあるいは人間を生物学的に見てゆく場合、何が明らかにされ、何が残されることになるか、それを考えてみたい。
 
 1.の「基礎」においては、科学とくに生物学から人間と生命をみた場合における問題を考察する。
 2.の「臨床」においては、筆者の職場である医療の場における生命観をみてゆく。
 そして最後に将来を簡単に展望する。
 
 
  1.基礎−生物学からみた人間
 
 現在の生物学を支えている最大のバック・ボーンは進化論である。進化論は進化を説明するための仮説であり、その説には様々なものがあって、いまだ定説としてひろくうけいれられたといえるものはない。けれども、進化があったことはすでに大部分の生物学者にとっては自己の研究の出発点となる自明の前提となっている。それならば人間という動物の特徴も進化の産物として説明できるだろうか。
 人間が二本足で立ち、道具を用いる存在となったことは人間が地上で生き残ってくるためには有利に働いたものと思われる。だがこれは鳥が空を飛べるようになったことが鳥にとって有利に働いたのと特に変ったことでもないように思われる。鳥は鳥なりにユニークなのであり、人間は人間なりにユニークというだけのことである。この観点にたてば、人と鳥のあいだ、あるいは鳥と魚のあいだには特に優劣はないことになる。(ただ進化の過程で生じた近接関係のため、人間は魚よりも鳥をより親しいものとして感じることはあるかもしれないが。)
 では人間が言葉を持ったことも人間が地上で生き残ってくるために必要なことだったのだろうか。言葉など持たず、ただ直立歩行し、道具を用いるだけでも充分に生き残ってこられたのではないだろうか。言葉はそんなものなしでも充分にうまくやっていける人間にいわば偶然に与えられたどうでもよいおまけなのではないのだろうか。
 養老孟司氏は「ヒトの見方」のなかで、従来の生物学では剰余の問題はうまく扱えないことを述べている。なぜなら進化では適応が第一に問題とされ、生存に不可欠でないもの、生存に必要でないものには存在理由を見出せないからである。養老氏は人に生じた特有の剰余は脳の新皮質であり、それが人の特徴である象徴を扱う能力をもたらしているとしている。言葉も人の象徴を扱う能力の一つであることは言うまでもない。もし人の特徴が生存に不可欠とは言えない剰余に由来するのであれば、人の特徴は生物学的には説明出来ないことになってしまう。
 人間は単に道具を使うというだけなら人間以外の動物と特別に変った存在ではなかったのではないだろうか。人間が何故か言葉をあやつれる存在にもなったということ、それが人間を人間以外の動物と区別するものにしたのではないだろうか。
 
 人間が人間以外の動物とは全く異なった、それとは次元を異にする、格別に優れた存在であるとする見方は、キリスト教の伝統を背景に持つ西欧社会ではごく一般的である。一方、生物学的に人間を見ると、人間とチンパンジーの差は極めて微々たるものであるとされる。分子生物学の手法で人間とチンパンジーの遺伝子を比較分析すると、その差は通常の生物において同属の異種が示すほどの差も認められないという。生物学的にみれば、人間の独自性といったものはほとんど認められないのである。その観点から、人間は本当にチンパンジーといくらも変った存在ではないので、人間がそうでないと信じているとしたら、それは人間の傲慢な自己中心主義的な錯覚に過ぎないと主張するものがある。分子生物学の研究者ばかりでなく、それとは対照的な生物学の分野である動物行動学の研究者などにもそのような説をとなえるものが多い。人間は毛のないサルに過ぎないという訳である。だが、もう一方では、そういう説がでることが、とりもなおさず人間の独自性を生物学的な研究からは明らかに出来ないことを示唆しているのだ、というものもいる。
 
 近年、現在までの自然科学のありかたに対する批判が勢いを増してきている。それは、今までのやりかたでは自然科学はわれわれ人間にとって本当に重要なことは何も明らかに出来ないのではないかという根源的な疑問に端を発しているように思われる。われわれは人間がどのようなものであるかというかなり確固としたイメージを持っている。ところが科学が描出する人間の像はそれとは余りに掛け離れている。それは一神教が示す人間の尊厳に合致しないといったことではなく、もう少し素朴なわれわれの常識とも遠く掛け離れたものなのである。
 それに対する見方はいくつかに大別することができる。
 第一は、科学がどのように頑張っても人間の本当に大事な部分には触れることが出来ないとするものである。文学者などはこのような立場をとるものが多いかもしれない。昔から、文科の人間は、理科の人間を人間にとって本当に大切とは言えないことをやっている人間とみなす傾向があるようである。とりあえず、この立場を「文科的見方」と呼ぶことにしよう。
 第二は、いままでの科学のやりかたが悪かったとしてもそれとは別の方法によれば、科学の方法によっても人間にもっと迫れるとするものである。最近一種のブームとなっているニュー・エイジ・サイエンスなどはそのような考え方と無関係ではないように思われる。以下、この立場を「新しい科学」と呼ぶ。
 第三は、人間の尊厳とか優越とかいうことは全く根拠の無い人間のひとりよがりなのであり、そのことは科学によって明らかにされたのだから、これからの人間論は、科学が明らかにした人間に関する事実の上に新たに構築しなおされねばならないというものであるモノーの「偶然と必然」はそのような考えかたの一つの典型例である。この立場を「正統的科学」の立場と呼ぼう。
 以下、この三つの立場からの人間観について考察してゆくが、現代科学の主流である分析的・還元的手法を特徴とする「正統的科学」の立場を最も重点的に検討する予定である。またその立場を代表する著作として、モノーの「偶然と必然」にしばしば言及する。
 
 「世界は精神と物質とにわかれているのか?そうだとすれば、精神とは何か? 物質とは何か? 精神は物質に属するか? 宇宙は何らかの目標や目的を持つか? 人間とは、とるに足りぬ小さい惑星の上を力なくはい回っているところの、不純な炭素と水分からなるちっぽけな塊まりだ、と天文学者には思えるのだが、それは本当であるのか? それとも人間はハムレットがそうと考えたようなものか? 高貴な生き方とか卑しむべき生き方があるのか? 善とは? 知恵とは?・・・」 これはラッセルが「西洋哲学史」の冒頭に掲げた哲学が答えるべき課題の一部である。もしわれわれが本当に知りたいと望んでいるのが今ここに列挙されたようなことであるとするならば、科学はそれに何らかの解答を与えうるだろうか。「すべての明確な知識は科学に属し、明確な知識をこえる事柄に関する独断は、神学に属している」が、「これら哲学に与えられた課題は科学と神学のはざまに位置し、科学は解答を与ええないし、神学の答えももはや説得力を持たない」のだとラッセルはいう。とすれば、それに答えるものは哲学をもふくめた「文科的見方」しかないことになってしまう。
 だが、そのようなラッセルの主張にもかかわらず、ここに掲げられた哲学の課題のいくつかには、科学の立場から答えうるのだと、「正統的科学」の側も、「新しい科学」の側も主張するものと思われる。例えば、「人間とは、とるに足りぬ小さい惑星の上を力なくはい回っているところの、不純な炭素と水分からなるちっぽけな塊まりだ、と天文学者には思えるのだが、それは本当であるか?」という問いに対しては、「正統的科学」の典型であるモノーは非常に明解な解答を用意している。「偶然と必然」の最後で、モノーはこう述べる。「人間はついに、自分がかってそのなかから偶然によって出現してきた〈宇宙〉という無関心な果てしない広がりのなかでただひとりで生きているのを知っている。彼の運命も彼の義務もどこにも書かれてはいない」 このような見方は実存主義の一部ですでに言われていたものであり、特に目新しいものでもないかもしれない。事実モノーは「偶然と必然」の扉にカミュの「シシフォスの神話」からの一節を引いている。だが実存主義の主張はわれわれが受入れようと拒否しようと自由な一つの見方にすぎない。ところがモノーのいうところは、生物学の進歩によって明らかになってきた事実に則って見れば事実として人間はそのようなものだ、ということなのである。「偶然と必然」のなかには「客観性の公準」という言葉が再三現れる。モノーの主張によれば、彼が述べていることは、彼の主観にもとずく仮説、正しいか間違っているかを決定するのが不可能な一つの説ではなく、客観性の公準にかなっているがゆえに正しいのである(ちょうど、万有引力の法則が、人間の主観に関係なく、地球の上に人間がいてもいなくても、宇宙に働いている。それと同じ様に)。われわれ人間は、われわれの存在があらゆる時代をつうじて必然的・不可避的・整合的なものであってほしいと望んでいる存在であると、モノーは言う。そして彼によれば、あらゆる宗教と、ほとんどあらゆる哲学、そして科学の一部も、われわれ自身の偶然性を死にもの狂いで否認しようとするわれわれ人類の疲れを知らぬ英雄的な努力の現れを示している。しかし、それにもかかわらず、それは真実ではなくて、小石が科学の立場からみて、存在する義務は有していないが、存在する権利ならば有している存在であるのと同様に、生命もそして人間も、存在する義務は有していないが、存在する権利ならば有しているだけの存在であるということは客観的に正しい、とモノーはいうのである。それはラッセルのいう明確な知識・科学に属することだというのである。ラッセルもモノーも、哲学の問題ではない科学の分野の問題では、明確な解答・客観的な解答が存在することを共に信じている。
 
 「新しい科学」の立場は、このような「正統科学」の立場に疑義をさしはさむことから出発する。その主張によれば、「正統科学」がいうような、客観的で人間の存在を離れても成立する真理といったものは無く、主体と客体の分離という考えは西洋の科学が生み出した幻想なのであって、そのようなあやまった見方をすてされば、そこに一元論的で有機的な真の世界観が現れて来るのである。「科学的方法というものがわれわれに仕掛けた最大のワナは、観察者や実験者がその対象にとっては外的な存在であり、それからは「自立した」存在であるとする暗黙の前提である」(L.ワトソン「生命潮流」)「西洋人は有機体としての自身全体ではなく、こころを自己ととらえるようになった。現在、大多数の人が、自分自身を外界から独立した身体の「内側」にある自我として自覚しているのは、デカルト哲学の二元論のもたらした結果である。・・この人間内部の分裂は、「外の」世界が無数の分離した事象から構成されているとする見方を反映したものである」(カプラ「タオ自然学」)
 
 カプラが東洋の神秘思想に共鳴するのは、そこに「内」と「外」、「自分」と「客体」といった分裂なしに世界を見る見方が示されているからである。そして、西洋伝統の二元論的見方の不毛に気づけば、「海水のサンプルを数多く採取したところで、潮について何かがわかるわけではない。どんなに生物を解剖し、原子以下の構成要素にまで分解してみても、解答は得られない。生命とはパターンであり、運動であり、物質のシンコペーションである」(L.ワトソン「生命潮流」)ことはたやすくみてとれるはずなのである。
 
 モノーやドーキンスなどの「正統派」の著作にもワトソンがきちっと目を配っており、また量子力学が一種の不可知論に到達したことに勇気づけられてカプラが東洋思想に近付いていったのをみてわかるように、「新しい科学」も「正統科学」もその出発点ではそんなに異なってはいない。しかし到達点では著しく異なってしまっている。言ってみれば、「正統科学」は生命をモノの側に近付けてゆくのに対し、「新しい科学」はモノをも生命の側へ近付けてゆくのである。ワトソンは自分が生気論的傾向を持っていることを自認している。二つの立場のこのような違いが生じてきた原因は何なのだろうか。
 
 「正統派」の立場によれば、自分のそとにはものがある。そのものを構成する規則や法則を調べ研究することは各人の価値観とは関係なく行われ得る、また行われなければならないことである。そこで得られた結果は、各人がそれぞれの価値観によって受けいれたり拒んだりするような性質のものではなく、正しいか間違っているかであり、もし正しければ、たとえおのれの価値観に反するものであっても受入れなければならないのである。
 
 ところが、自分のそとにモノがあるという見方自体が、「新しい科学」の立場からいえば、デカルト以来の二元論に起因する西洋近代に特有なものの見方なのであり、西洋近代の価値観と切り離しては成立しえないのである。とすれば、モノーらの主張する方法自体がひとつの価値観を反映していることになり、ものがつくりあげる法則は価値観とは独立しているというのは嘘であるということになる。 科学についての二つの立場が違うのはそれぞれが立脚する価値観が違うからで、どちらの立場をとるかは、結局どちらの価値観を選ぶかということになってしまうのだろうか。問題は世界をどのようなものとして見るかという認識論に帰着してしまうのだろうか。
 
 筆者は自分の立場を一番基本のところでは「正統派」に近いものと考えている。つまり、科学が客観的でありうることを信じている点において「正統派」の側にたつものであり、客観性をまったく放棄してしまえば、研究の結果について相互に議論するという科学の根底は崩れてしまうだろうと信じている。だが、人間がいなければ科学は存在しないことと、科学研究の結果人間が明らかにしたことがわれわれから独立して成立するということ、その二つの間にどのようなおりあいをつけるかについての「正統派」の考えには同調できないところがある。
 モノーら「正統派」の説の一番根底にあるものは、生命現象は(現在はまだ不完全であっても)窮極的には物理化学的な現象ですべて説明しうる、とする考えかたであると思われる。
 モノーにいわせれば、それは科学が示す事実なのである。そしてその事実からのトートロジカルな展開として、人間には何ら生の目的はないことが導きだされてくる。だから、それもまた事実なのである。
 だがそう述べながらも奇妙なことに、モノーの著書は最後に至って真の社会主義を理想として掲げ、それへ導くものとして、科学に基づく知識の倫理を提言するのである。だがこの部分は著しく説得力を欠く。科学者としてのモノーは人間に目的がないことを確信しており、一方、一人の人間としてモノーは人間の生には目的があることを確信している。その二つの確信はモノーのなかで分裂しており、それらを結び付ける試みはうまくいっていない。
 このモノーの分裂に、現代の「正統科学」の立場で生命をあるいは人間を見る場合に現れてくる問題点が集約的に示されている。そして、このモノーの分裂は、「正統科学」の立場の生命観の誤りに起因しているのである。だがそうであるからといって、「新しい科学」の立場が正しいということにはならないのだが。
 モノーの分裂は、生命を物理化学の言葉だけで説明しきるという窮極的に不可能なことを無理に行おうとすることから生じている、そう筆者は考えている。「正統派」は生命現象をつかさどるものは物理化学的な力だけであると信じている。生命現象は、物理化学的な力以外の何か生命に特有な力あるいは超越的な力による説明を必要としないということであるなら確かにその通りであろう。だがそうではあっても、生命現象は、星と星の間に働く力とは根本的に異なるのである。宇宙空間にある塵が集まって星になることと、地球のうえに偶然生れた生命が連綿として続いてわれわれに至ることとの間には明確な質的な差がある。両者ともに物理現象によるといえば確かにその通りである。だが後者は、偶然に生じた変化が環境とのかかわりのなかで生き残ってきただけであるとしても、そのかかわりが星と星とを結ぶ力である物理的な力とは異なるものであるが故に、生命は単に受動的な存在ではなくなるのである。
 われわれ人間は酸素なしに生きることはできない。この酸素は植物が長い時間をかけて少しづつ地球のうえに蓄積してきたものである。またわれわれの体液の組成は海水の組成を反映している。われわれの体は生命が生れてからの生命と環境との関係の歴史を記憶している。生命を特徴づけるものはこの「関係」なのである。物理化学的法則は普遍的である。しかし地球上の生命形態は特殊なものであり、現在このような姿をしているという事実はあっても、このような姿をしていなければならない必然性はない。そのような特殊性を規定するものが「関係」なのである。また筆者がこのことを「関係」と呼ぶのは、グレゴリー・ベイトソンの用法を意識している。ベイトソンの説については後ほど改めて検討する予定であるが、とりあえずその「精神と自然」から若干の引用をして、彼の見方の一端を示すことにする。「生ある世界とビリヤード球や銀河系のような生なき世界との間がいかなる根底的概念によって区切られているか・・・力と衝撃という概念で十分な説明が可能な物理的世界と、差異と区別なしには何一つ語り得ない世界との相違は一体何なのか」「私は生涯、生なき世界には関知せずにきた。石と棒きれとビリヤード玉と銀河系の記述はそっと箱にしまって、ふたをしておいた。そしてもう一つの箱に生あるものを入れた。カニと人と美と差異と」「量ではない、常にカタチ、形態、関係なのである。これこそカニを生あるものの一員として特徴づけているものなのだ」
 モノーの著書においても「関係」という観点は生命は目的を持つようにみえるという角度から考察されている。だがモノーの考えでは最終的にはその点も物理化学的な作用に還元されてしまうのである。生物で「関係」をつかさどる力は物理化学的なものだけである。コンピューターを動かす力が電気的なものだけであるのと同様に。だがそれにもかかわらず、この「関係」は物理化学的な力では全く説明出来ない。この点が生命を物理化学的現象として解析しつくすことが出来ない理由なのだと筆者は考えている。重ねていえば、生命をつかさどっている力は物理化学的なものだけである。生命に特有な力を仮定する必要はない。だがそれにもかかわらず、生命の特徴は物理化学的な力では説明出来ないのである。
 「新しい科学」は生命を物理化学の原理で説明する見方を批判する。ニュートンの力学が驚くべきほどうまく世界を記述出来たとしても、そのやりかたがいつでもどこでもうまくゆくとは限らないという。生命現象は物理化学的現象だけで説明しきれるとは言えないという訳である。
 生命は物理化学的法則を超越した力にもとづくとするいわゆる生気論的な見方は科学の歴史のなかで少しずつその論拠を失ってきた。にもかかわらず、どこかに生気論的色彩を持った主張は依然として根強く続けられている。例えば、現在のニュー・エイジ・サイエンスとも関連する視点を持ったケストラーやソープらの反還元主義の主張には生気論に通じるものが感じられる。そしてケストラーやワトソンといった人々が超能力、ESPといったものに強い関心をしめすのは(ケストラー「偶然の本質」、ワトソン「スーパー・ネイチャー」)、そこにこそ生命に固有で物理法則を超越するものがあると感じられるためなのだと思われる。またケストラーやソープが獲得形質の遺伝を必ずしも否定は出来ないものとするのも(ケストラー「サンバガエルの謎」、ソープ「生命=偶然を超えるもの」)、生命が全く偶然だけに作用されるものではないという信念によっているように思われる。かれらの主張は「正統科学」の持っている弱点、生命という物理化学のみでは解明不可能なことを無理に物理化学のみで説明しようとする点をついている限りにおいては見るべきものを持っている。しかしその解決策として何か生命現象に特有な力を持ち出してくるとしたら、それはモノーがいうところの「われわれ自身の偶然性を死にもの狂いで否認しようとするわれわれ人類の疲れをしらぬ英雄的な努力の現れ」の一つの例となってしまうように思われるのである。
 
 太陽と地球、あるいはわれわれの銀河系とアンドロメダ大銀河の間には何の関係もない。それらの間には物理的な法則は働いていても、互いは孤立しており無関係である。一方、太陽の存在がなければ地球上の生命は存在しえない。だから地球上の生命と太陽は深く関係している。だが太陽は地球の生命を養うために活動しているのだろうか。
 「正統科学」の立場は、星と星の間にはたらく法則の延長として生命を説明しきろうとする。星と星の間には何ら意志の疎通はない。生命もそういう物質間に働く力の集合として説明しうるなら、そこには意志とか意図とかいったものが入ってくる余地はない。そういう形で思考が進んで行く。
 「新しい科学」は、地球と太陽が有機的に関連しあっているというような、あるいは太陽は地球のために輝いているといったような過剰な「関係」づけを行う傾向がある。確かに「関係」こそが生命の特徴を示すものであるとしても、「関係」を非生命系にまで延長し、あらゆるものに「関係」を見出してゆくような態度はかえって生命の特徴に対する考察をいい加減にしてしまうものと筆者には思われる。
 「正統科学」による生命の物質的側面の過度の強調でもなく、「新しい科学」による生命の「関係」的側面への過度の神秘的な思い入れでもないその中間に生命の本当の姿があらわれて来るのではないだろうか。
 生命を説明するために「物理化学的な力」と「関係」という二つの因子を導入することは、一種の二元論であるかも知れない。だが「関係」は「物理化学的な力」なしでは結ばれ得ないという点では、この二つの因子は独立ではない。この二元論は、デカルトの二元論とは全く異なり、人間以外の動物を物理化学的な機械とみなすものではない。人間と人間以外の動物の間にではなく、生命を持つものと持たないものの間にはっきりとした線を引くものである。そして生命をつかさどる力は生命をもたないものに働く力と全く同一のものであると考えるが、それにもかかわらず、その物理化学的な力は生物の特徴を全く説明できないと考えるのである。
 問題は生物を特徴づけるこの「関係」を科学が解明しうるかということである。DNAを例にとって考えてみよう。大昔からのわれわれと環境とのかかわりを記憶するための物質的基盤はDNAであることが明らかとなった。では、DNAを研究することは「関係」を明らかにすることになるのだろうか。モノーも述べているように、DNAのなかの3つのヌクレオチドとそれぞれが対応するアミノ酸の間には必然的な因果関係はない。全く別の情報伝達法が発達してもかまわなかったはずである。ということは、DNAを研究することは情報伝達自体を研究することではなく、現在ある生命システムが行いうる情報伝達の限界を明らかにするものでしかないことになる。「正統科学」は「関係」の物質的基盤を研究するものであり、「関係」を規制する条件を明らかにするものではあっても、「関係」自体を明らかにするものではない。
 生命体がとりむすぶ情報伝達という観点から考えると、生物個体まるごとを研究の対象とするような分野、たとえば動物行動学などは一つの有力な方向である可能性があり、ローレンツ以来の研究は人間について多くの示唆を与えて来た。(動物行動学は「新しい科学」とは異なる立場からの「正統科学」のやりかたの批判いう点でも重要である)しかしながら動物行動学の研究は「関係」を支える構造的単位の研究に重点が置かれており、「関係」それ自体を研究の第一の目標としているわけでは必ずしもないように思われる。「関係」それ自体を対象にしようとする試みのなかで一見対照的であるが根底に共通のものをもつものとして、カール・ポッパーとG.ベイトソンのふたりの説を見てみたい。(ベイトソンについては、すでに一部論じた)
 ポッパーによれば生命の発生とともに問題が発生する。非生命的物質世界では問題は生じない。どのような物理化学的理論も新しい問題の発生を説明できないし、また物理化学的過程のみでは問題を解決できない。この点で生命と非生命はわかれる。そして生命世界で発生した問題は試行と誤りの排除という形で解決されてゆく。
 一方、ベイトソンによれば生命はストカスティックな過程に特徴がある。すなわち、でたらめな側面をもつ出来ごとがそのでたらめの一部を保存するような形ででたらめでない過程の支配下におかれている、そういう過程である。
 このふたりの説がダーウィンの変異と淘汰による進化論と密接な関係をもつことは明瞭である。そしてふたりの説の特徴は人間の思考あるいは学習もこのような生命の特徴のアナロジーとして説明しうるとする点にある。すなわち人間が言語をもっておこなう推測と反駁は生物体が非言語的におこなう試行と誤りの排除のアナロジーであり(ポッパー)、人間の学習もまたストカスティックな過程そのもの(ベイトソン)なのである。
 
 人間の特徴は進化の産物として説明できるか、科学はわれわれに納得のいく人間像を提供できるか、ということを本論の出発点で問題としてかかげた。筆者は養老氏とともに言語を頂点とする象徴をあやつる能力を人間の最大の特徴と考えるものである。そして養老氏とともに言語を進化の産物として説明することは不可能と考えている。人間の起源は少なくとも四百万年位はさかのぼることができるとされている。一方人間が現在あるような言語を持ったのはたかだか数万年前のことであろう。四百万年以上前の人間と現代の人間とを生物学的に較べてもその差は現代の人間とチンパンジーの差より微々たるものであることは明らかなのだから、そこに有意の差を見出せるとは思えない。まして数万年前の人間と現代の人間との間に生物学的な差を発見しようというのは絶望的な試みである。養老氏の言うごとく、脳の新皮質は人間にあたえられた剰余であり、剰余ということ自体すでに進化の産物としては説明しにくいのではあるが、その脳の新皮質が人間にあたえられたことを既知の前提として受入れても、そこから言語が生れてこなければならない必然性は何もないように思われる。チョムスキーらは人間の脳には言語能力を保証する構造的基盤があると主張している。しかし、それは潜在的能力であり、言語が今あるような形をとる必然性はなく、今とは全く別の認識やコミュニケィションの手段を人間が持っていても構わなかったはずである。そうでなければ言語の歴史がこんなにも短いことを説明できない。
 言葉をもつ以前の人間が世界とどのような「関係」をとりむすんでいたかを最早われわれは想像することが出来ない。犬やライオンがどのように世界とかかわっているか本当のところはわれわれには分からないように。だがそれならば言葉をもつ以前の人類は人間ではなかったのだろうか。人間は言葉をもつことによって何か動物以上の存在になったのだろうか。
 この点で筆者はポッパーやベイトソンの立場に立つ。すなわち、人間の言語あるいは精神がどんなに特殊なものと見えようとも、それは生物を今日の存在へと導いてきた進化の規則のそとへでるものではない、そう考えている。生命と非生命の間にははっきりとした線をひくことができる。だが人間と人間以外の動物の間にはそのようなはっきりとした線を引くことはできない、そう考えている。
 
 生命には物理化学的、物質的側面があるのは事実であり、「正統科学」はその面で確実な成果をこれまであげてきたし、これからもあげつづけてゆくであろう。だが生命の根本的な側面である「関係」は「正統科学」からのアプローチによる解明を期待できない。まして言語という人間に生じた非常に特殊な関係装置を「正統科学」により解明してゆくことは全く期待できない。(したがって人間の自己意識とか死の意識とかは全く未解明のまま残される)
 だがそれでも「関係」は生物の問題であり、生命固有の問題なのである。(地球以外のどこかに生命が存在したとすると、その物質的基盤は地球のものとは全くことなっている可能性が高い。しかしその生命体が互いにあるいは外界ととりむすぶ「関係」は、地球のうえの生命がやっている仕方と根本的に異なったものではないはずである)
 人間の脳の新皮質が、あるいは言語能力がいかに特殊なものであるにしても、それは生命と非生命をわけるようには、人間と人間以外の動物を分けるものではない。いかに特殊なものであってもそれは生物が示す「関係」の延長上にあるはずである。「関係」自体の究明が現在、極めて遅れているのだから、そのなかでも特殊な人間のつくりだす「関係」の独自性が明らかにされていないのは当然である。その独自性を明らかにするためには、生命が示す「関係」について地道に究明の努力を続けて行くしか方法はない。そして当分は、生命について、物質の側面はかなり明らかになってきているにしても、「関係」の側面はまだほとんど未踏の領域として残されているということを自覚しその分裂に耐えてゆくしかないのである。(そして筆者は、「物質」と「関係」は相互に無関係な部分もあるのだから、この分裂は永遠に解決されない部分があると考えている)
 この分裂は人間の自己意識や生死の問題で先鋭化する。人間が自己を特殊な存在であると考える最大の原因は、人間だけが明確な自我意識をもっているように見えることであろう。自我意識は言語なしには成立しえない。情緒的な反応、喜びとか悲しみとかが人間以外にもあることは周りにいる動物をみればすぐに判る。だからかれらにも心があることは明白である。だが犬や猫は自分という意識はもっていないようにみえる。そして自我意識をもっているのが人間だけであるということが、生命を考えてゆく場合にも特殊な影を投げかけてくる。自分の生命、自分の死、ということを考えるのは人間だけであるからである。
 
 
  2.臨床−医療の場における生命
 
 医療は何のためにあるのだろう。何を目指しているのだろう。
 こういう問いは退廃的だという批判がある。医療は現実の生活の中にすでに存在している。ということは、それを必要としているものがあるということである。医療に従事するものはプロとして、求められたことをすれば良いので、その仕事の目的とか意味とかについて思いわづらうのは余計なことだという考えかたである。だが医療施設を訪れる人が本当のところ何を求めているのか、それが医療を行う側ではよく分からなくなってきているのが現状である。そして現在の医療の場における混乱のかなりの部分もそれに起因しているはずである。脳死の問題、臓器移植の問題、尊厳死の問題、末期治療の問題など、現在の医療における問題点はみなその点にかかわっている。
 
 現在の医療が人間を機械あつかいしており、病気の治療はまるで機械の修理のようにおこなわれている、そんなことでは困る、もっと患者を人間としてあつかう医療が望まれる、そういう主旨の医療批判は各所で根強くつづけられている。しかし、こういう批判をしているひとは、今の医療がどこかおかしいと感じながらも、どこがおかしいのか自分でもうまく表現ができず、とりあえず、このような言いかたをしているのではないだろうか。というのは、大部分のひとにとっては、病気を一種の機械の故障と考えること自体には大きな異和感はないと思われるからである。
 いまここに一台のコンピューターがあり、故障し、部品のどれかが駄目になっているのが発見されたとする。それを正常な部品と交換し、コンピューターはふたたび正常に作動を始める、そういうもののアナロジーとして医療を考えることは間違いだろうか。臓器移植はまさにそういう発想である。人工臓器などと難しいことを言わなくても、義歯の歴史はすでに古い。外科手術自体こういう考えかたと深いつながりがあることは言うまでもない。薬を飲んだり、注射をしたりというのも、ガタがきた機械に油をさそうという発想である。機械に余りにもガタがきてしまって本来の働きを全くしなくなっている、それでも意味もなく動くことは動く、そういう機械を動かし続けることに意味があるか、それが尊厳死や末期治療の発想である。
 機械には、それをつくった目的があり、それが故障した場合、修理せねばならない必然性もはっきりとしている。しかし動物の、あるいはもっと狭く限定して、人間の肉体にもし目的がないとしたら(モノーの観点からはそういうことになる)、その故障は何故なおさねばならないのだろう。ドーキンスの言うように、肉体の目的が生きることそれ自体であるからなのだろうか(何故ならば、遺伝子がそうするように命令しているから)。生命は生きつづけることを命じている。だから医療があるというのだろうか。
 大部分のひとがいまの医療にひっかかりを感じるのはおそらくその点であろう。
 
 医療は、一貫して、ひとが少しでも長生きすることをとりあえずの目標としてきたようにみえる。しかし、かってはその目標を実現するための有効な手段をほとんど持たなかった。近年になり、医療技術の発達により、ある程度その目標に近づけるようになってきて、初めて、その目標が正しかったのかどうかに反省の念が生じてきている。しかし、それでは、その目標を引っ込めてしまったら、代りとなる新たな目標があるかといえば、きわめて疑問なのである。そして医療が生命をあつかうものでありながら、生命について、これまでほとんどまともには考えたことがなかったことが露呈されてきて、そのために医療の信用は著しく失墜してきているように思われる。
 
 川喜田愛郎氏は、その大著「近代医学の史的基盤」の最後のページで、病気は必ずしも絶対に除かれねばならぬものではなく、人の生命も何よりも貴いものではない、そう見なければ、病をおして事業に没頭したり、生命を冒して信仰に殉じたりするという「人のいのちの世界の真の消息」を理解することができない、そう述べたあと、さらにこう続ける。 「だが、医学と医術にとっては、その深い消息を胸に秘めながらも、ひとまずそこまで立ち入らないで、病気の除去と生命の保全とにひたすら工夫を凝らすところに、その分を弁えた営為があるとすべきだろう。西欧近代医学の特質と達成とは、みずからの無力を弁えた苦渋のうちに病者に接しながらも、初手から構えて生命とか、たましいとか、あるいは天地の理とかいうような、およそそうした大ぶりの、ことに行為を欠いた場ではとかく空疎のなりがちの言葉をもちだすことを抑えて、病気を「冷たく」科学の世界にひとまず還元して刻苦を重ねてきたところにあった、とわたくしは理解する」
 臨床医のはしくれとして、筆者も川喜田氏のいうことはよくわかるつもりである。医療の分野には、さまざまのインチキやイカサマがいつも紛れこんでくる。それらから身を守りながら科学としての医学(川喜田氏のいう近代医学とはそれを差すものと思われる)をすすめてゆくためには、このような禁欲的な姿勢が是非とも必要であった。しかし、依然として無力であることには変りがないにしても、以前に較べれば、とにかく医療が何程かのことをなしえるようになった現在、医療が「人のいのちの世界の真の消息」に知らない顔でいるわけにはいかなくなっていると思われるのである。
 医学の教科書に書いてあることは、もし病気が治されねばならないとしたら、そして生命が貴いものであり、それを少しでも延長させることが望ましいとしたら、そのために現在どのようなことが可能であり、だからわれわれは何をすべきであるかということである。病気は治されねばならないのか、生命は貴いものかどうかということは、そこでは問われていない。しかし、過去においては、特に問うまでもない自明のこととして、ほとんど不問に付されてきたように思われる。
 だから治療を目差さない医療、延命をもとめない医療(ターミナル・ケアなど)が無視できない存在になってくると、あらためて医療全体の基盤が問われることになってくる。
 
 生きることは喜ばしいことでありうる、だからこそ医療が存在するのではないだろうか。そして、いつも生きているのが喜ばしいとは限らないこと、時には生きていること、生きつづけることが喜びとはならないこともありうること、それもいまさら言うまでもないことではないだろうか。
 生きる喜びとか、生きている感覚とかいっても、そんな大層なことではない。寒いところから暖かい家に帰ってきてほっとするとか、空腹になにか食べて一息つくとか、そういったこととどこかで結び付くはずの感覚である。事業に没頭とか、信仰に殉ずるとかいった大ぶりなことを例にだす必要はない。われわれの生活はもっと地道で、地に足がついたものであるはずである。
 鳥が空を飛んでいるのは餌をもとめている時もあるかも知れないが、ただ飛んでいるだけのこともあるにちがいない。人間もそのように、ただ生きているというのが基本である。それは、遺伝子の命令のままに受け身で生きているといったこととは全く異なる。そうすることが喜びであるから鳥が空を飛ぶように、人間も生きることが喜びであるから、生きる。そして人間は、言葉をもち象徴をあやつる風変りな動物として、音楽を聴いたり、小説を読んだりもする。だがそれは、鳥が空を飛べるからそれを楽しむことの延長にあることのはずである。
 一言でいえば、人間も動物であり、人間以外の動物が生きることを楽しむように、人間も生きることを楽しむということである。そういう楽しみを保つことが医療の目的であると筆者は考えている。
 鳥は呼吸する機械、消化をする機械ではない。人間も呼吸する機械、消化をする機械ではない。鳥には鳥の、人間には人間の生きる喜びがある。ただ人間の生きる喜びは、鳥の場合より、広範かつ複雑であるということだけである。
 
 「正統科学」の立場からみれば、生命は様々な機械的機能の複合でしかない。そして、少しでも長く生きることを目指して、それぞれの機械的機能を調整することが医療ということになる。その調整技術に関しては近年、目に見えて大きな進歩がみられた。しかし、「正統科学」は長く生きることを目指すべきか否かついて全く解答をもっていない。それは科学のそとから、まったく別の原理によって与えられるべきものとされる。それは、ラッセルのいう哲学が答えるべき課題として科学の枠外に置かれている。
 そのことの反映として、混じりあうことのない全く異質の二つの原理が、互いに知らぬ顔をして併存しているという局面が医療の場では多く見られる。例えば、延命の原理とホスピスの原理など、まったく相入れないものである。あるところまでは延命の原理が正しく、あるところからはホスピスの原理が正しくなるなどということがあるわけはない。そのように、その場その場で適当に原則を使いわけるのではなく、もう少し一貫した原則を医療の場に持ち込むことは出来ないものだろうか。
 筆者は、医療の場においてもっとも基本となるのは「人間は動物である」という見方だと考えている。繰り返しになるが、これは動物が生きる機械であり、医療は人間のなかの機械である部分を扱うべきだ、ということではない。われわれは犬や猫を見て、それを生きた機械だとは考えない。日向で寝そべっている猫は気持よさそうである。それを生きる喜びなどと大袈裟にいう必要はないのかもしれないが、とにかくそのようなものの延長が人間のなかにもあり、それを守ってゆくことが医療の役割であると考えれば、いまよりももう少し一貫した原則を医療のなかに持ち込むことが出来るのではないだろうか。
 
 進行した癌の患者でも、もしその患者が日向の猫と同じ喜びを感じているとしたら、医療を必要としているのである。末期治療の問題、尊厳死の問題、脳死の問題などは、個々の事例においては無数の問題が横たわっているとしても、「動物としての人間」という観点から対応できる部分が多いと考えられる。
 動物そして人間は孤立して生きているのではなく、関係の網の目のなかで生きている。生きる喜びを感じることがすでにできなくなっていて、ただ呼吸する機械になっているものにたいして、その肉親がなお生き続けることを望んでいるといった事例は臨床において、しばしば経験する。個々の例を考えれば、どのように対応するべきか、その場その場で決めなければならないことが多い。だが、試行錯誤で問題を解決してゆかなければならないのは生命の作りだす問題の特徴なのであった。医療の場において完全に出来合いの答えなど、ないのは当然であると言えよう。
 そして生命の一回性の問題、特に人間がそれを自覚する存在であるという点が最後まで残される。それに対する何らかの答えがあるとは、筆者には思えない。これは人間が特有の「剰余」をかかえこんでしまったことの帰結なのである。人間が「剰余」を誇るのであるならば、それは避けることなくひきうけねばならぬ、人間の運命なのである。
 「文科」はそれに何らかの答えを用意しているだろうか。ディラン・トマスは、その詩の最後の行を、こう結ぶ。「After the first death, there is no other. 最初に死んだものの後に、又ということはない。」
 これは、医学あるいは広く科学的な試みに対する究極的な否定であるのかもしれない。
 だが、だからといって「理科」の側が卑下するにもおよばないだろう。出来ないことの前では素直に沈黙していれば良いのだから。
 
 
  3.展望−動物としての人間
 
 従来からの人間観、「理性」をもつ動物、ホモ・サピエンスという人間観に対し、狂った動物あるいは壊れた動物、ホモ・デメンスといった見方が近年、盛んになってきている。この二つの見方は一見まったく対照的に見えるが、人間が人間以外の動物とはまったく断絶した、それとは根本的に異なった存在であると考える点では奇妙に一致している。つまり人間のもつ象徴をあやつる能力を、プラスと考えるか、マイナスと考えるかの方向の違いであって、象徴をあやつる能力をもったことが人間を人間以外の動物と決定的に断絶させることになったとみる点では共通している。筆者もまた、既に述べたように、言葉をあやつること、象徴をあやつることを人間という動物の最大の特徴であると考えてはいるが、それにもかかわらず、それが人間を人間以外の動物と断絶させるものとは考えていない。
 人間が人間以外の動物とまったくことなった特別の存在である、あるいは人間は動物ではない、とすることは、人間にのみ不滅の魂があるとするキリスト教の説を受けいれるのでもなければ正当化されない考えかたである。しかし、キリスト教の伝統がつよい西欧では、一見キリスト教の教義から自由になっているように見える人でも、その考えに縛られていることが多い。モノーの著書における倫理へのこだわりもそのことと無縁ではない。モノーは彼の正しいと考える「科学的」見方が倫理を破壊するものであることを恐れている。「人間の運命も人間の義務もどこにも書かれていない」ことを、モノーは科学がついに発見した真理であるかのように述べるが、ある一匹の犬の「運命も義務もどこにも書かれていない」と述べることが滑稽であることを考えれば、モノーがキリスト教的人間観に深くとらわれていることは明白である。そして「新しい科学」が「正統科学」に対立するのも、根本のところでは「正統科学」が、倫理をふくめた人間的諸価値を破壊するものと考えるからなのである。ダーウィンの進化論に対するサミュエル・バトラーの反発は、今なお繰り返されている。
 キリスト教の伝統から自由である日本に住むわれわれは、「人間が動物である」ということについて、もう少し自由に考えられるのではないだろうか。
 
 人間の頭脳は真に驚歎すべきものであり、自らが誕生するはるか以前の宇宙創成の過程を推測し、地球からはるか離れた宇宙での出来事を理解しうるようになったばかりではなく、バッハやベートーベンの音楽をも生み出してきた。しかし、相対性原理を発見したことによっても、モーツアルトの音楽を聴くことによっても、人間が動物でなくなるわけではない。二十一世紀になっても、人間はやはり動物である。
 
 先日、男女をある程度産みわけることが可能になったことが報じられた。これから二十一世紀にむかって、このような技術上の進歩は、医療を含めて様々な方面で展開されてゆくであろう。だが、物理化学的理論がそれ自体では問題を生み出さず、問題を解決しないように、男女を産みわける技術自体には、男女を産みわけることの可否を決定するものは何も含まれていない。
 もしわれわれが動物を醜いものとみて、芸術上の達成、科学上の発見、技術の進歩などによりわれわれが他の動物からへだたってゆくことを人間の向上と考えるならば、技術の進歩にともない将来生じてくるであろう諸問題を解決してゆく方策を見出すことは困難であろう。
 動物は美しいものなのである。人間もまた動物の一員として、動物の美しさを拡充し実現してゆくことを生きる喜びとするのである。芸術も、科学も、技術もそのために存在している。
 人間は歴史上の一時期、自分が動物であることを忘れかけたように思われる。次の世紀へむかって何より大切なことは「人間が動物である」という常識をとりもどしてゆくことである。そのために、生命についての新しい学問が必要とされている。地球上の生命がもつ相互の関り、あるいは環境との関り、それを探求する新しい学問、「関係」についての新しい学問はまだ生れていない。本稿で言及したベイトソンの著作はそのような試みの萌芽である。ニュー・エイジ・サイエンスもそのような意図で出発したが、残念ながら、誤った道へ入りこみつつあるように思われる。
 生命についての包括的な学問、それが今、二十一世紀にむかい、何よりも必要とされている。それが達成されなければ、どのような科学上の進歩も(そして芸術の達成さえ)不毛のものとなってしまうであろう。
  
  
文献(本文中で直接に引用、言及したもののみ)
1.養老孟司「ヒトの見方」 筑摩書房
2.J・モノー「偶然と必然」渡辺格・村上光彦訳 みすず書房
3.B・ラッセル「西洋哲学史」市井三郎訳 みすず書房
4.L・ワトソン「生命潮流」木幡和枝・村田恵子・中野恵美子訳 工作舎
5.F・カプラ「タオ自然学」吉福伸逸田中三彦島田裕巳・中山直子訳 工作舎
6.G・ベイトソン「精神と自然」佐藤良明訳 思索社
7.A・ケストラー編著「還元主義を超えて」池田善昭監訳 工作舎
8.A・ケストラー「偶然の本質」村上陽一郎訳 蒼樹書房
9.L・ワトソン「スーパーネイチュア」牧野賢治訳 蒼樹書房
10.A・ケストラー「サンバガエルの謎」石田敏子訳 サイマル出版会
11.W・H・ソープ「生命=偶然を超えるもの」吉岡佳子訳 海鳴社
12.K・ポパー「果てしなき探求−知的自伝」森博訳 岩波書店
13.R・ドーキンス「生物=生存機械論」日高敏隆・岸由二・羽田説子訳 紀伊国屋書店
14.川喜田愛郎「近代医学の史的基盤」 岩波書店
15.Dylan Thomas 「A refusal to mourn the death, by fire, of a child in London. in Collected Poems 1934-1952. Dent」(吉田健一訳「ロンドンで一人の子供が火災で死んだのを悼むことに対する拒絶」「葡萄酒の色」 小沢書店)