高田里恵子「文学部をめぐる病い 教養主義・ナチス・旧制高校」

 [松らい社 2001年6月18日初版]


 副題からも見てとれるように、日本のドイツ文学者何人かの戦前から戦後にかけての言動を論じて,、教養主義の問題に言及した本であるが、著者によれば、本書の一番の主題は《「二流ということ」と、その悲哀についての研究》なのだそうである。
主として、昭和10年くらいから戦後にかけてが扱われている。
 「文学」などいう(本来は一流の、あるいは言葉をかえれば、何らかデモーニッシュなものをもった人間がかかわるべき)営為に、マトモで優秀で穏やかな、それゆえに二流の人間がかかわることができるようになったことによって生じた悲喜劇の日本の最初の事例を示すのが、ここに描きだされた数名のドイツ文学者なのだという。
 そこに挙げられるのは、高橋健二竹山道雄手塚富雄高橋義孝といった名前である。ケストナーやヘッセといった(どう考えてもナチスとは結びつかない)著書の翻訳者として知っていた高橋健二が、大政翼賛会文化部長であったということを本書ではじめて知った。しかし、そのことを非難するために著者は本書を書いたわけではない。著者は高橋健二の戦前・戦後の言動を、同情的な皮肉な目でみている。
 後味のわるい本である。それはここで肯定的に扱われているひとが一人もいないからなのであろう。そういう作者の態度は、「自覚症状」、「病歴」、「病原」、「自己診断」、「症例」、「伝染」、「余病」という各章の頭書からもみてとれるはずである。「文学部をめぐる病い」というタイトルから導かれたちょっとした遊び心から発しているだけなのかもしれないが、著者の醒めた視線をあらわすものとは言えるだろう。
 もう一つ、著者が女性であるということがある。男たちが喧喧諤諤、床屋政談に熱中しているところに、女があらわれて、「あんたたち、いい歳して、なに下らないこといってるの!」と一喝するとでもいった雰囲気がある。いうまでもなく、旧制高校は男たちの世界、バンカラの世界である。
 そして著者によれば、教養主義も、またいうまでもなくナチスも、男たちの世界である。三浦雅士も「青春の終焉」で、青春が大きな輝きを60年代に失った理由の一つが、女性が解放の端緒をつかみはじめたことであるとしていた。

 もう少し内容をみていこう。
 日本の有力なドイツ文学者たちの親ナチス的言動はすでによく知られ、批判もでつくしているのだそうである。問題は、「戦前・戦中のファシズム信奉者・鼓吹者から戦後民主主義への変貌が、実は小部分の言いかえや削除の問題でしかなかった」(池田浩士)ことにあるのだという。客観的には大きな変貌に見えることが、本人の内部においては、自然な連続として意識されている、そのことにある、という。高橋健二の場合も、戦前に体制翼賛会文化部長、ナチスの紹介者、戦後にケストナー、ヘッセの紹介者というわけではなく、戦前においてすでに、ナチス文学の紹介者でありながら、同時にケストナー、ヘッセの翻訳者でもあった。つまり、高橋健二は戦前においてもリベラルな旧制高校ドイツ語教師でもあるのである。
 ここで登場するのが(東京帝国大学)「文学部」の問題である。「文学部」の第一点は、「法学部」でないということである。日本の官僚養成機構の中心である東京帝国大学「法学部」に背をむけるということは、立身出世主義に背をむけることを意味する。次に「大学の文学部」である。「文学部」に「文学」はあるだろうか? 本当の文学は「大学」にはなく、在野の文学者のなかにあるのではないか? 東京帝国大学文学部教授を辞退して小説家になった夏目漱石の悪意! 詩人(「文学」)と対立するものとしての文学部教授。アカデミズムの中には「文学」はないのかもしれない。そうだとしたら、大学の文学部は何をするところなのか? 高田によれば、大学文学部は、詩人になりそこねた人間が「文学もどき」をやる場所になっていくのである。細かい文法にこだわる語学や、瑣末な実証主義といった学問をする場ではなく、「文学」をする場所になっていく。文学作品の翻訳が大学人の業績とされるようになっていく。さらに東京帝国大学文学部独文科である。仏文科であれば、端から実用性を期待されていない。しかし、英文科と独文科は、明治以来の日本の近代化のなかで、実用も期待されているところがある。しかも、東京帝国大学である。何か「独文科」も国家の役にたてないだろうか?
 そこに日本とドイツの関係が深まり、ナチスが台頭してくる。そういうドイツの最先端を日本に紹介することは、大学文学部の責務ではないだろうか? ケストナーもヘッセもナチスもその当時のドイツの最先端であれば、ようやく大学文学部独文科にも、社会との接点ができたことになる。高橋健二は世の要請に応えたに過ぎない。真面目な「いい人」なのである。もっとも、高田によれば、自分の心に無警戒、天真爛漫で善良すぎる「いい加減さ」でもあるのであるが。
 ここに現代ドイツの哲学者スローターダイクの「二重スパイ・三重スパイ説」というのが紹介されている。「自分がそこに属している場所に対して、あるいは自分が恩恵を受けている状況に対して、密かに批判的まなざしをもち、決してその状態に入れこんでいるわけでも賛成しているわけではないが、しかし、その状態を推進する立場にいる・・・。これは迎合なのか抵抗なのか。」 これが二重スパイ状況なのだが、「今日、国家や企業、組織の中で相応の地位に納まり、この国家という乗り物がこのまま進んでいけばいずれどこに向うことになるのか、多少とも心得ている人間というのは、誰しもこのスパイたちとあまり変わらないのではないか」とスローターダイクはいう。そうなると「自己はとっくに消えうせ、「私」がどこにあるかわからなくなる」ものなのだが、不思議に自己がなくならず、状況に対して批判的であったということを確信できる天真爛漫さがあれば、高橋健二のような行動が可能になる。高田のいう「幸福な二重スパイ」である。
 そして本書が問題にするのが、「文学」が二重スパイ性を隠蔽する有力な武器なのではないかという点である。ここで「法科」でなく「文科」ということが効いてくる。たとえば渡辺一夫の回想。「その当時の僕は、文科へ行くということを、次のような人間になる第一歩と考えていたようである。即ち、一生涯好きな本を--主として文芸書を--読みながら、静かに世の片隅で暮す人間になるための第一歩という風に。」
 この当時、「文学」と対立するものは、「法科」ばかりでなく、「哲学」と「左翼」があった。「法科」の断念ということは、立身出世の否定ということで「屈折した自己特権化」の試みであったとしても、「左翼」を選ぶことは「文学」以上の「自己否定」的な生き方であるために、「文学」を選んだ人間は「左翼」に強いコンプレックスを持ち続けた。「静かに世の片隅で暮す」ことへの、社会に背をむけて生きることへの劣等感である。だから大政翼賛会文化部への参加は、「左翼」へいくのとは別な社会への回帰になるのである。
 そしてもう一つ、この当時の軍隊が日本の中で唯一、学歴がまったく通用しない社会であったということがある。日本のこの当時に生じた教養主義(大正教養主義ではない昭和教養主義!)はその当時の高学歴の青年たちの軍隊社会からの自己防衛でもあったのではないか、というのが高田の主張である。その青年たちに読まれたものが、たとえばヘッセである。そのヘッセを紹介した高橋健二が、戦後、どうして自分の行為を恥じることがあろうか。
 そこで高田が問題にするのが、高橋健二おける《人を教育することなどはたしてできるものなのか、するべきことなのか?》ということへの根本的疑問の不在、あるいは文学への根本的懐疑の不在と、夏目漱石や西田幾太郎には確かにあった「わけのわからないデモーニッシュなもの」の不在なのである。それが二流ということなのだが・・・。
 そして、このころ、メディアの発達によって、「三四郎」の「偉大な暗闇」である「広田先生」のようなサロン的な書かざる文化人は息の根をとめられ、二流の書き手、凡庸な文化人にも出番がめぐってきた。そのようにして、文化は無害化、「岩波化」してゆく。ドイツ文学の翻訳も鴎外ではなく、大学の教授の仕事となっていく
 高橋健二はこの本の主役であるが、そのほか、竹山道雄の「ビルマの竪琴」は反戦小説なのではなく一高賛歌の学校小説なのであるという興味深い指摘もある。日本の軍隊は、世界でも類のない、市民生活における価値、学歴をふくむ娑婆の価値を一切もちこまない、星の数より何年軍隊の飯をくったかがすべてに優先する<異様な>社会であった。もっともそれを<異様な>と感じるのは高学歴の人間だけなのだというが高田の主張なのだが・・・。
 「ビルマの竪琴」は学校社会の延長としての軍隊はありえないかと夢想した小説なのであるという。軍隊には土着の日本があり、一高をふくむエリート学校には日本の夢見る西洋がある(なにしろ、授業の相当部分が外国語にあてられるのだ)。そんな夢想は実現するはずもないのだけれど。「教養主義」は、日本の土着をふくむ「わけのわからないもの」を理解させるためのものではなく、それとの対決を避けるようにさせるものであった。
 最後の「余病」と頭書された章は中野孝次を論じた章で、ここだけ時代があたらしい。著者の意地の悪さが一番はっきりとでている章になっている。少し遅れて旧制高校的なものにあこがれ、やがてそれに復讐するようになる過程のケース・スタディである。学校教師から小説家への転向の事例を通して、戦前から戦後へのドイツ文学者の演じた悲喜劇が、個人のなかで再演されている。中野は大学教師として日本におけるカフカの発見者の一人なのだが、マン、リルケ、ヘッセ、カロッサという四大家からカフカへのドイツ文学の移行は、教養主義の終焉を意味したのだという。そして中野は大学という教養主義の棲家もでて、小説家となり日本の土着へ帰っていくのである。
 著者は大学でドイツ文学を講じているひとらしい。自分で述べた言説がつねに自分にかえってくることを十分に意識して書いている。それがこの本にある種の屈折をもたらしている。「そんなことを言って、お前はどうなんだ」という言葉をつねに意識しながら書くというのは、あまり精神衛生にはよくないことのようである。それが、この本を読んだ印象がなにかすっきりしない、一つの原因であるのかもしれない。


(2006年3月11日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

  • 本書が気になるのは、教養人というのは所詮二流の人なのではないかという指摘をふくんでいる点である。なんらかデモーニッシュなものをもっている人が一流なのであり、教養人というのは醒めた人、熱くなれない人の言いではないか、ということである。このことについては以前からずっと気になっている。それはある時からわたくしがデモーニッシュなものを否定するということを指標にしてきているように思うからである。25歳ごろ吉田健一でいくことに決め、その吉田氏が称揚するヨーロッパ18世紀というのを自分の物差しにしてきたのであるが、その吉田氏自身は実はデモーニッシュな人であったのではないか? 自分の中のデモーニッシュなものを克服することを自分の一生の課題として、ヨーロッパ18世紀の優雅ということを言ったのではないか? デモーニッシュなものをもっていたからこそ、氏の優雅という主張、文明という主張が力を持ったのであり、もともとデモーニッシュなものをもたない人が優雅とか文明などというと生命を枯らすだけなのではないか、という疑念が消えないからである。(2006年3月11日付記)

文学部をめぐる病い?教養主義・ナチス・旧制高校

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