竹内洋「大学という病 東大紛擾と教授群像」

 [中公叢書 2001年10月10日初版]


 東大紛擾といっても、主として昭和十四年の東京帝国大学経済学部のいわゆる平賀粛学問題をめぐる紛擾をあつかったものである。だが、昭和四十三年の東大全共闘による丸山真男研究室封鎖などもでてくる。昭和十年代と昭和四十年代におきたことにある種の共通点があるのではないか、あるいはそれは同じことのくりかえしなのではないか、という視点が背後にある。
 主役は河合栄治郎狂言まわしが大森義太郎。
 昭和三年四月十七日、東京帝国大学の評議会において、「新人会」の解散が決定され、その後、京大河上肇、東大大森義太郎、九大向坂逸郎らが大学から追われていく。その一ケ月前の三月十五日共産党に対する全国的な弾圧がおこなわれ、その検挙者のなかに学生がきわめて多かったことに対応するものであった。
 竹内の見取り図によれば、大正教養主義を滅ぼしたは、マルクス主義の台頭なのだが、そのマルクス主義が弾圧という外因によって沈滞したあと、もう一度教養主義が甦る。その二度目の<昭和教養主義>の中心人物が河合栄治郎なのである。この<昭和教養主義>は軍国主義の高まりによる右からの攻撃により弱体化するのだが、軍国主義と右派は、敗戦という外因によって衰退する。だが、そこにもう一度甦るべきものは<昭和教養主義>の流れをくむものでもよかったのだが、実際に甦ったのは<マルクス主義教養主義>?とでもいうべきものであり、それは全共闘運動によって終焉することになった。
 こういう見取り図であれば、昭和十年代と四十年代にある種の平行関係をみることは可能であろう。
 本書によれば、マルクス主義は明治時代からすでに日本に紹介されてはいたものの、大正半ばまでは、民間のものであり、大学があつかう学問だとは思われていなかった。
 新人会の設立が大正七年、森戸事件が大正九年帝国大学の学生や教授がマルクス主義を研究したり、運動するようになることによって、それはアカデミックな問題になっていった。これらは大正教養主義の延長としてでてきたのだが、個人の内面倫理という人格主義から、社会改革という行動への飛躍があり、当然、大正教養主義をのりこえるものとなった。
 「新人会」の解散の議題とともに評議会においては、大森義太郎助教授の進退問題も議題になったが、大森は先手をうって辞表を提出する。それが可能であったのは、当時ジャーナリズムの勃興があり、それによって筆だけで食べていける見通しがたったからであった。
 ところで東京帝国大学経済学部は大正八年、法科から独立したばかりの若い学部であった。
 昭和十一年河合栄治郎は経済学部長になる。昭和十一年といえば、弾圧により社会主義運動は停滞していた。昭和のはじめにはマルクス主義に対立する反動教授とみなされていた河合は、昭和十年代には、衰退したマルクス陣営にかわって軍部を批判する戦闘的自由主義者であるとされるようになっていく。そして昭和教養主義のイデオローグとなってゆく。
 河合がジャーナリズムの寵児ともなっていくとともに、その足をひっぱる動きもさかんになり、東大経済学部は派閥争いの嵐の渦中にはいっていく。本書の読みどころの一つは、その派閥争いのドタバタなのであるが割愛する。なにしろ、マルクス派と右派が結託したりするのだから滅茶苦茶である。
 二転三転、一度沈んだ河合はまた浮かび上がる。この間、大森義太郎はマルクス主義の言論を発表する場を失って困窮し、いわゆる人民戦線事件で検挙され、ほどなく病死する。
 帝国大学内部の派閥争いでふたたび浮かび上がった河合は、今度は外部からの攻撃にさらされるようになる。「原理日本」といった雑誌を発行する蓑田胸喜などの右からの攻撃である。蓑田胸喜は、竹内によれば、日本版ジョゼフ・マッカーシーなのである。攻撃されたほうはたまったものではない。
 そして、日本版ジョゼフ・マッカーシーによる東京帝国大学教授弾劾の主たる攻撃対象となっていた田中耕太郎、末弘厳太郎といった法学部教授をまもるための生贄として、歴史の新しい経済学部の河合栄治郎が(法学部の陰謀にまんまとのせられて?と竹内は推測する)東大から追放される。平賀粛学事件である。この間、これに抗議して辞職すべきかどうか、教授たちは右往左往する。昭和十六年二月、河合は五十三歳で急死する。
 そして敗戦とともに大学人事はまた一変するが、今度は左派が多数派となる。河合門下は左派からの攻撃をうけるようになる。そしてめぐりめぐって、昭和四十年代に、今度はその左派が、全共闘運動の攻撃をうけることになる。
 著者は、昭和十四年におきた、「原理日本社」を信奉する右翼学生たちによる津田左右吉つるしあげ事件の現場にいた丸山真男がその場で感じたものは、後年、昭和四十三年十二月二十三日に、全共闘による自分の研究室の封鎖において感じたものと、ほとんど同じものであったのではないかと推測している。
 そして、大内兵衛安田講堂封鎖解除後に「世界」に書いた「東大を滅ぼしてはならない」も引用している。「これでいい、これでいい、これで入学試験もやれる、これで東大も滅びないと思った。・・・お菓子の一箱でももってどなたさまもご苦労でしたといってお礼に行きたいような気がした・・・。」 なんともいいようがない文章である。大内兵衛、このとき八十歳。
 著者は最後に、大学神話《大学が社会にとって重要な機能をはたす制度であるという信頼》が昭和十年代に一度、失われようとしていた理由を考察している。
 1)は、日本が昭和十年代にとにかく世界においついたと感じたことである。外国の業績を紹介するだけでは機能がはたせなくなった。学問の背後にある西洋の後光が減衰した。
 2)は、ジャーナリズムの発達である。そのため、知を大学にもとめなくなった。
 3)は、左翼を中心とした、大学の実態暴露である。
 しかし、大学は自ら倒れるのではなく、学徒動員といった外的要因によって強制的に死滅させられていった。これがいけなかった。外部の力によって息の根を止められたのがいけなかった。大学が弱体化したから、軍国主義が跳梁跋扈したからではなく、軍国主義とは関係なく大学は死に瀕していたのに、それをあたかも、大学が強くあることさえできれば軍国主義の制覇はなかったような錯覚に陥ってしまった。
 そのため、戦後、なんら反省なく、ふたたび大学神話は甦ってしまった。そこに、<マルクス主義教養主義>といったものも生まれてしまった。そして、それを全共闘運動がこわした。
 今や誰も大学に期待しているものはいなくなった。そして今度は大学院がかっての大学神話を背負おうとしてしている。だが、それは果たして・・・・。

 日本において大学は国策として、日本の近代化のためにつくられた実用のためのものであることがあらためて思いおこされる。《「文学部」をめぐる病い》は、そこに起因していた。一高の問題もそこに関係しているであろう。実用という無味乾燥なところにいく前のモラトリアム。
 社会とまったく関係ないことを研究しているひとに仕事の場を保証するものとしての大学は何によって正当化されるのだろうか?
 しかし、この問題は、今の日本が直面しているさまざまな問題の系のひとつに過ぎないのではないだろうか? かって意味があったものが、今はもう意味がなくなっているのに、かってあったという理由だけで続いている、そういうものはたくさんある。
 われわれは自分の意味を他からあたえられるのはなく、一人一人自分でみつけていかなくてはいけない。近代化はもう終わったのだから。
 

(2006年3月11日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

  • これも学園闘争(紛争)がらみで読んだ。学問というのが無用のものでいいのか、有用であるべきかというのは、大学に類するようなものができて以来、常に問われ続けている問題である。最近は、それはひたすら有用のほうにむかっているようである。専門分化という問題がそれに絡む。教養というのは専門分化の反対語である。大学とは何を学ぶところなのか、まさかノウハウではないはずである。さりとて、いまさら古典教育でもあるまいが・・・。(2006年3月11日付記)


大学という病―東大紛擾と教授群像 (中公叢書)

大学という病―東大紛擾と教授群像 (中公叢書)