中野雄「丸山真男 音楽の対話」

 [文春新書 1999年1月20日初版]


 音楽愛好家としての丸山真男を語った本。
 たしかに半端ではない音楽好きである。なにしろ「指輪」全曲のスコアに対訳をつけ、詳細な書き込みをしていたというのだから、そこに費やされた時間は膨大なものであったに違いない。丸山は書かないひととして有名であったが、もし音楽にかかわった時間がなければ、もう少し著作が残っていたのでは、という可能性を著者は否定していない。
 丸山は「自分史」それも「音楽自分史」を書きたい、自分と音楽とのかかわりについての本を書いてみたいといっていたのだそうである。「自分史」などというのはおよそ丸山真男に似つかわしくない言葉だが、丸山は音楽を自分の第二の専門分野とかんがえていたのではないかと著者は推定している。
 丸山真男であるから、ワーグナーヒットラーとのかかわり、ナチス支配下でのフルトベングラーの身の処しかたといった話題もでてくるが、これは特段どうこう言うほどの内容ではない。
 これを読んで感じるのは、丸山真男が骨の髄まで西欧文化を愛したひとなのであり、根っからのロマンチストなのであるなあ、ということである。「芸術とは自己表現の意欲です。自分のなかにある何かを訴えたい、相手に分かって欲しいという強い気持ちが、<形>になって実現したのが芸術です。音楽は<音>という手段によって自分の想いを伝える芸術」なんてことを臆面もなく口にできるというのは、いささか信じられない思いである。
 こんなに無条件に自分というものを信じられるというのは、一体どういうことなのだろう。丸山は音楽は愛好しても、文学には縁のなかった人間なのかもしれない。丸山が愛するのは古典派であり、ショパン、リストといったロマン派は敬遠していたようであるが、それにもかかわらず、実にナイーブなロマンチストなのである。そして印象派以降、まして現代音楽はほとんど駄目だったらしいのも、またむべなるかなという気がするし、ベートーベンを形式は古典派だが内容はロマン派といっているのも、よくわかる話である。
 丸山によれば、地球上の音楽で調性が確立しているのはヨーロッパの音楽だけだという。その調性の確立ゆえに、ソナタ形式も生まれた。ヨーロッパの音楽が世界を制覇したのは、ヨーロッパが政治的・経済的に世界を制覇したことに付随するものではなく、音楽に内在する生命力をヨーロッパ音楽が発見したからなのだという。
 たしかに、ソナタ形式こそがヨーロッパ音楽の精髄であるとしても、それは古典派時代のヨーロッパの世界観にマッチしたものであったからこそ、あれだけの発展をとげたのではないだろうか? ソナタ形式弁証法とも、正反合とも通じるのである。だからバッハは調性は知っていてもソナタ形式を必要としなかったし、ヨーロッパが自己への絶対的な信頼をもてなくなるとともに、ソナタ形式への信頼も失われていったのではないだろうか? 「心のメッセージの伝達」というような言葉がもはや信じられない場所にくると、ソナタ形式のもつ意味も変わらざるをえない。
 丸山真男は、個人とか個性とかいうものが無条件で信じられる幸せなひとだったようである。したがって彼がもっとも敬愛した演奏家フルトベングラーであるということになる。
 とにかく丸山は生真面目なひとであって、衣食には関心がなく、『サザエさん』のどこが面白いのかどうしてもわからなかったのだそうである。だから音楽も楽しみではなく、何か作曲家の人格との格闘といった趣さえある。
 著者はあるとき、丸山夫人に、「先生は音楽について、『自分はプロだ』と自認しておられるのでしょうか」ときいたことがあるのだという。夫人は口許をほころばせて、即座に、「まあ、本人はね・・・」と答えたのだそうである。奥さんには、なんでもお見通しということなのであろう。
 丸山真男というひとは、どこか無骨で敬虔な一九世紀のヨーロッパ人のようなところがあるひとだったのではないかと思う。


(2006年3月11日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)


丸山真男 音楽の対話 (文春新書)

丸山真男 音楽の対話 (文春新書)