カール・ポパー 「果てしなき探求 知的自伝」の<音楽論>

[岩波同時代ライブラリー 1995年12月15日初版 1978年岩波現代選書]


 丸山真男の音楽論は、本人の自負にもかかわらず、存外、常識的で新味のないものであるように思われた。それを読んでいるうちに、久しぶりにポパーの音楽論を読み返してみたくなった。そして、それを丸山のものと比較してみたい。

 ポパーの知的自伝である「果てしなき探求」では、11章から14章までの4章が音楽をめぐる議論にあたられている。
 丸山の音楽論は彼の政治論とは(バッソ・オスティナートといった修辞をのぞけば)本当のかかわりは一切もたないのとは対称的に、ポパーの音楽論は、かれの本来の仕事である科学哲学と密接なかかわりをもっている。
 
第11章 「音楽」 は、自分が成長した音楽環境の紹介である。音楽に親しむことを通じて彼は以下の三つの考えを得たのだという。
 一つ目は、独断的思考と批判的思考についてであり、ドグマおよび伝統の意義についての考えをそこから得た。(第12章)
 二つ目は、作曲における「客観的音楽」と「主観的音楽」の区別である。(第13章)
 三つ目は、音楽および芸術一般における歴史法則主義的な考えの知的貧困と破壊力についてである。(第14章)
 
第12章「ポリフォニー音楽の勃興についての思索--発見の心理学か発見の論理学か」
音楽は昔、まず単旋律からはじまった。これはまず同度で歌われたが、次にオクターブで、次に5度平行、さらに3度平行でもうたわれるようになった。ここまでは対位旋律ではない。独立性がないからである。
 あるとき、歌える音域などの関係でもとの旋律の動きに追随できず、反行する動きとなる場合がおきた。ここではじめて対位旋律の可能性が気づかれる。もとの旋律を壊すことのない新しい第二の旋律の可能性が発見される。ここからポリフォニーが生じた。
 これが可能であったのは、教会音楽の場合には、グレゴリア聖歌の聖典化ということがあったからである。動かせない固定的な規範があることが、かえって新しい発見をうむのである。
 まったくの自由はなにも生まない。なにかドグマがないとわれわれは、そもそも行動へのきっかけがつかめない。ドグマによって行動を開始し、そこで偶然生じた誤りが、新たな発見をもたらす、それが人間の行動である。試行錯誤こそが人間の行きかたの根本である。
 これは、音楽における形式の意味ということにつながる議論であり、ロマン主義と形式という問題を提示している。
 ここの部分は、ベートーベンはソナタ形式という枠のなかで書いたから、かえってそのロマン主義が野放図に陥らずに済んだという丸山の見解にも通じるものがある。
 
第13章「二種類の音楽」
 ここでの主題は、バッハの音楽とベートーベンの音楽には、根本的な違いがあるということである。そして前者を「客観的音楽」、後者を「主観的音楽」とよぶ。
 ベートーベンは、音楽を自己表現の手段にした、しかしバッハはそうではない、というのが議論の出発点となる。
 ここで問題となるのは、音楽の感情的要素である。音楽が、聴く人に、ある情緒的、感情的な影響をあたえることは間違いない。
 問題が二つ生じる。一つは、感情の伝達あるいは聴衆にある感情を生じさせることが音楽の主たる目的なのか? 二つ目は、作曲家の感情を伝達することが音楽の主たる目的なのか? である。
 音楽(あるいは詩)と人間的感情との関係については、芸術家は一種の精霊にとりつかれるのだ、という説が昔からある。
 プラトンに「イオン」にその定式化があるが、プラトンの説にはいくつかの要素がある。1)詩人や音楽家がつくるものは、神(ミューズ)からの賦与であり、詩人や音楽家はその道具である。2)それにとれつかれた芸術家はある種の高揚状態になり、それが聴衆を共鳴させる。3)芸術家は、自分の作に感動させられる。その感動が聴衆にも類似の反応をおこす。4)訓練とか学習で獲得される技が芸術家をつくるのではなく、精霊になにかを賦与されたもののみが芸術家となれるのである。
 この説から、精霊あるいは神(ミューズ)をとりさってみよう。そうすると、芸術は自己表現である、あるいは自己の霊感と感情の表現であるという近代理論にいきつく。近代理論は「神なき神学」である。ここでは芸術家が自分自身に霊感をあたえる。
 プラトンの3)は近代の芸術理論とは相容れない。そして、この3)のみが芸術と感情との本当の関係を示すものである(とポパーはかんがえる)。
 音楽は感情を描写する能力をもっている。その能力を利用して、オラトリオやオペラが生まれた。作曲家の機能は最初の聴衆として、自分自身の作品が、どのような感情を引き起こすかどうかを自分自身を利用して試めすことである。
 しかし、たとえば作中のある人間の感情の描写がすぐれたものであった場合、それは作曲家がそれを表現しうるような深い感情をもっていたから、それが可能であったとするような近代の見解は、純粋な自己表現でないものはすべてまやかしであり不実あるとする見方に容易につながっていく。
 そもそも「感情の描写」は音楽が解決しなくていけない諸問題の一部であり、しかも主要な問題ですらない。、
 この部分のポパーの説は丸山真男の音楽観とまっこうから対立するものとなっている。
 「芸術とは自己表現の意欲です。自分のなかにある何かを訴えたい、相手に分かって欲しいという強い気持ちが、<形>になって実現したのが芸術です。音楽は<音>という手段によって自分の想いを伝える芸術」というのが丸山の考えなのであるが、では、バッハやモツアルトはなにを表現しようかとしたのかについては、実は丸山の考えははっきりしない。ショパンシューマンを丸山はあまりかっていない。つまりいわゆるロマン派は評価しない。それらは「個人的な体験」「私小説」だという。バッハは神のために、ハイドン、モツアルトは現世のひとびとのために、ベートーベンは人類のために音楽を書いた、そこには哲学があるという。丸山のいう自己表現とは、個人的な感情の表現ではなく、思想の表現なのである。これは次の「芸術における進歩主義」の問題へとつながっていく。

 第14章「芸術、とりわけ音楽における進歩主義
 前章で、ベートーベンは音楽を自己表現の手段にしたとしたが、それは正確ではないかもしれない(とポパーはいう)。正確には、ベートーベンは音楽を自己表現の手段にする行きかたに道をひらいたということであり、ベートーベン自身は自己の音楽を自己批評する能力をもっていた。
 音楽を自己表現であるとする「表現主義」は音楽を衰退に導いたが、同時に音楽を衰退に導いた「反・表現主義」の動きもある。「音列主義」から「ミュージック・コンクレート」へといたる「形式主義」的な試みである。
 こういった「形式主義」的なこころみは、「歴史法則主義」とくに「進歩にたいする歴史法則主義」からうまれた。音楽にこれを持ち込んだのはワーグナーであり、彼は「世に真価を認められない天才」という悪しき考えを、音楽の場に持ち込んだ。
 ワーグナーがつくった悪しき伝統は、シェーンベルクらに受け継がれ、彼らは「ワーグナーをいかにのりこえるか」「いかにワーグナーの残滓を捨て去るか」をかんがえ、ついには「万人の先をゆくにはどうしたらいいか」をかんがえるようになった。
 音楽の歴史にはある方向があり、あとから来るものは、前人より先をいった作品を書かねばならないとすることはまったくのあやまりである(とポパーはいう)。

 おそらく「音楽における進歩主義」をうむものは、音楽についての思想なのである。音楽自体を評価するのではなく、その音楽が何かあたらしいものを持っているかどうかで評価する、そういう思想である。ここではベートーベンのもった世界観という意味での音楽家の思想が評価されるのではなく、もっと狭い音楽自体への思想が評価される。
 たとえば、「形式主義」というのは、音楽は思想を表現すべきではないという思想を表明した音楽なのかもしれない。ひとを高揚させる音楽は人を悪にみちびく力をもつ。そうならひとを高揚させない音楽こそが望まれるという考えは、丸山ではないけれども、ヒトラーワーグナーをあれだけ使ったあとにおいては十分に根拠がある考え方であるかもしれない。
 おそらくベートーベンが音楽に音楽でない何者かを持ち込んだのである。それは「英雄交響曲」や「熱情ソナタ」にもすでにあらわれていたが、「第九交響曲」において決定的になった。ある言いたいことをいうために、全体の構成を犠牲にすることも辞さないという行きかたは、それまでにはなかった。そして音楽だけでは思いを表現できないことに苛立って、言葉をもちこんだ。
 音楽にはある限界があり、音楽では表現できないこともある。しかし、それでは満足できない人間がいて、強引に言葉を導入することによって、そこを突破しようとした。幸か不幸かそれが、ベートーベンという西洋音史においてまれにみる、あるいは最大の能力をもった作曲家であったので、そこをなんとか突破しようと試みることは可能であった。
 そして西洋音楽史は、ベートーベン以後、音楽自体に自己を限っていこうとする動きと、音楽に音楽以外のものをくわえていくことによって音楽の可能性をひろげていこうとする動きの、二つの動きに分裂していったのである。
 ポパーは、前者の立場にいる。丸山は後者の立場の中でも「私的」な音楽を排する立場である。どちらも耽溺するロマン主義には反対する立場であるので、その主張には共通する部分もある。
 しかし、それでもポパーと丸山の音楽への態度が著しくことなるように見えるのは、ポパーが楽しみのための音楽、慰めとしての音楽の場にとどまるのに対し、丸山が「修養としての音楽」といった言葉を連想させるような、ちょっと「教養主義的」な古めかしい音楽の聴き方をしているように見えるからであろう。ポパーはもっと伝統的な音楽の聴き方をしているように思われる。そのほうがわれわれの聴き方にづっと近い。
 しかし、ベートーベンのころやロマン主義のころとは違い、「個人」の無力ということが切実に感じられるようになっている現在、そういう伝統的な音楽享受がこのまま続けていけるものであるのか、それはまた大きな問題であろう。



(2006年3月11日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/より移植)

  • ここで言われている客観的音楽と主観的音楽の区分というのは、通常は古典派音楽とロマン派音楽といわれているものに相当するのであろうが、ポパーがいわんとするのは客観的音楽においては、われわれに感動をもたらすものは作品の側にあるのに対して、主観的音楽においては作曲家の側にあるということである。そして作品の側にある感動は普遍性をもつのに対して、作曲家の側にある感動は「個的」なもの「一回限り」のものであって、早晩古びてしまうものであるということである。ここら辺、小林秀雄の「モツアルト」をどうしても想起してしまうのだけれども、ポパーシェーンベルクの弟子として作曲を勉強したことがある人であることが、ポパーの議論を強くしている。一時は音楽における進歩主義の渦中にいたひとなのである。そして客観的音楽という見方は後の「世界3」という見方へとつながっていく。「世界3」というのは反ロマン主義、反「個性」主義なのである。でも、やはりロマンの音楽というのは魅力的なのではないだろうか? 西欧の生み出した「善」も「悪」もみんなそこのふくまれている。「悪」のないところでは「善」もまた力をもたないのではないかというのが、西欧がわれれれに提示する根本的な疑問なのであろう。(2006年3月11日付記)