養老孟司「人間科学」

  筑摩書房 2002年 4月25日 初版


 とんでもない本ではある。古来からの哲学の大問題に一人で格闘しているような趣がある。だから、ここでとりあげられているどれか問題一つをとっても、それについて古来から万巻の書が書かれているはずで、それを読んでいるだけで人生が終わってしまうはずである。したがって「あとがき」で氏がいうように「考える時間が足りない」というのは本当であろう。いくら時間があっても足りないはずである。
 二年前に雑誌に連載したものをまとめたものというが、雑誌に書いた当時と考えがかなり変ってしまって部分があり、相当書き換えたという。ここにもすでに氏の考えが表明されていて、「人間は変る」、しかし、「書いたものは固定する」というわけである。われわれはよくプラトンの思想というようないいかたをするが、それはプラトンがなにという本に書いた考え方ということであって、書いたあとプラトンは考えを変えたかもしれないよ、ということである。

 さて、
「ヒトとは何か」を科学の立場から考えるのが「人間科学」である。
 19世紀から20世紀前半の科学は「物質とエネルギー」のみを扱った。
 そこにもう一つ「情報」という概念が入ってきた。
 「人間科学」とは総論である。前提を問うことでもある。
 「科学」とは「分科の学」である。西欧において、分科を統一していたものは、「神学」と「哲学」であった。西欧の神学と哲学の背景にはキリスト教がある。明治維新において、政府は江戸時代と同様にキリスト教をおそれた。それで教育勅語をつくった。ここには宗教と哲学はない。「和魂洋才」とは、「神学」と「哲学」ぬきで西洋を受け入れようということである。そこで維持されようとしたものは、日本共同体である。
 西洋の基準が「神」であるとしたら、われわれの基準は何か? それは「人間」である。

 ヒトの情報世界には2種類ある。遺伝子−細胞系と言語−脳系である。
 遺伝子は、細胞という翻訳機関がなければ単なる物質としての粉末である。
 言語は、脳という翻訳機関がなければ何の意味ももたない。
 脳は「世界像の構築」と「コミュニケーション」という二つの働きをする。
 脳の世界は心、精神、社会、文化の世界であり、遺伝子−細胞の世界は身体の世界である。
 遺伝子があつかう情報の正体ははっきりしているが、脳の場合にはまだそれが十分には特定されていない。
 脳を理解するということは、<脳を理解するのも脳である>という典型的な自己言及矛盾問題を孕んでいる。
 ニューロン活動における電気的現象がなぜ意識を生むのか、という疑問は、遺伝子の塩基配列がなぜ特定の蛋白質と対応するかという疑問と等値である。ここには因果関係はないが、因果関係のないものをわれわれは理解しづらいのである。
 意識の自己規定とは、自分は情報であるという主張である。
 遺伝子という情報は固定しているが、細胞という生きているシステムは常に変化している。ドーキンスが「利己的な遺伝子」で遺伝子に注目したのは、これが固定して扱いやすいからである。ウイルヒョウの細胞説は、とても扱いにくい。
 脳−言葉系と遺伝子−細胞系の区別は、伝統的な心身問題と対応する。
 物質と精神、脳と心という問題は、この区別に翻訳できる。
 たえず変化している脳という生きているシステムが、意識=自己同一性という「固定」をどうやって生み出すか? これが中心問題である。
 DNAは物質であると同時に「情報として働く」という側面をもつ。
 脳はたしかに物質ではあるが、同時に情報機関として働いている。
 そこにはアナロジーがある。
 DNAは細胞という翻訳機構をもつ。脳は物質であると同時に翻訳機構である。その翻訳機構と<こころ>はどこかでかかわっている。
 現在の脳研究の多くは、脳が遺伝子からどのように発現されてくるかを調べている。これは実は、遺伝子−細胞系の研究である。これは古典的な物質−エネルギー系での仕事であり、情報系としての研究ではない。
 一神教の伝統を見ても、一元論はわれわれの脳自体に由来しているのかもしれないが、現在において大切なのは、問題が、遺伝子−細胞系の問題か、言語−脳系の問題かを峻別することである。
 「万物は流転するが、情報は固定している」
 しかし、現在は情報化社会なので、万物が固定する。これは「俺は俺だ」である。
 都市において、遺伝子−細胞系がすなわち身体が無視されるようになると、「唯脳論」となる。
 代謝系は物質系である。しかしたとえばクレブスサイクルにおいて、個々の物質は入れ替わっているがサイクルは不変であるという、変化と固定をみることができる。
 対象を固定したものとみるなら、それは情報として見ているのであり、違うものとしてみているのなら、実体として見ているのである。
 
 私とはなんであれ、私はいつでも私である。デカルトのコギト!
 リンゴという言葉はある脳内の現象と対応している。しかし、その具体的な過程は特定されていない。その脳内の現象が同一に繰り返されることが、同一性を保障する。外界のさまざまに異なり、刻々変化するものにリンゴという同一性を保障するものがそれである。
 言葉は、外界に客観的な指示対象をもち、同時に脳内にある過程をもつ。不定冠詞は情報表現と、定冠詞は実体表現と関連する。
 生物学は情報系の学問である。これが物質−エネルギー系の学問である物理学より遅れていると見られた原因である。
 自然選択とは、情報系に成り立つ法則である。

 都市=文明=脳化社会であり、人工空間の上に成立する仮想空間を社会制度と呼ぶ。

 日本の自然は強く、今でも国土の7割を森林が覆っている。英国ではその10分の1である。したがって早くからエネルギー源として石炭に頼らざるをえなかった。その露天掘りの炭鉱にたまる水を排泄するために蒸気機関ができた。それが産業革命に結びつく。都市の物流の源は田舎である。今の日本においては、世界のさまざまな地方が「田舎」である。

 社会制度と自己規定は平行する。日本に西欧風の自己が欠けているというのは、日本社会と西欧社会は違うとうことをいっているにすぎない。
 
 言葉では表現できないものがある。「クオリア」である。それは絵画や音楽などの芸術に保持される。

 ここで論じられている問題は、心身問題と都市化の問題に大別される。
 心身問題あるいは、物理学と生物学の峻別の問題は、強くベイトソンの「精神と自然」を想起させる。ベイトソンの「生ある世界」と「生なき世界」の区別、差異が徹底的に重要である世界と、力と衝撃が原因となる世界の区別である。差異は情報と直結する。あるいは量がものごとを決定する世界と関係がものごとを規定する世界。
 ただベイトソンの本が書かれた1979年から20年以上の時間がたってベイトソンが比喩でしか語れなかったことが、もっと事実の問題として語れるようになってきているということである。
 
 自分とは何かという古来からの哲学上の大問題を、脳という情報処理機関の情報固定化作用である、といいきってしまうといかにも即物的であるが・・・。
 古来からの世界の歴史を思想・制度の歴史としてだけでなく、その文明を支えたエネルギーの歴史としてみるとまた随分と違った顔がみえてくるのではないかということを養老氏の本を読んでいると感じる。
 そういう点でいかにも氏は理科的なひとである。


2006年7月29日 HPより移植