飯田経夫「人間にとって経済とは何か」

  PHP新書 2002年6月28日初版


 飯田氏は大学の先生で、近代経済学者であるが、その飯田氏がもう経済学はいやになったということを書いた本である。
 自分はこの世の中から貧乏をなくしたいと思って経済学者になった。以来半世紀、自分の目標は達成され、日本は豊かになった。しかし、同時にとても『貧しい国』にもなってしまった。こういう『心の貧しい』国をつくるために自分は経済学者になったのかと思うとなにかとても空しい気がする、といったのが全編を貫く気分である。
 飯田氏はどうもお金が嫌い、あるいはお金よりも大切なものがないように見える人が嫌いらしい。本書で頻繁にあらわれる言葉は『拝金主義』であるが、それへの飯田氏の嫌悪感は徹底している。いわば本書は経済学版『清貧のすすめ』なのである。といってもわたしは中野孝次氏の本は読んでいないが。
 
 日本はもう豊かになってしまった。消費者にはもう買いたいものがない。それなのに、消費者に「もっと食え、もっと食え」といって、無理に口をこじ開けて食べ物をつめこむようなやりかたが、現在不況対策という名前でおこなわれているものである。今の日本は本当に不況なのであろうか? 今の若者は大幅にフリーター化している。みんなが平気でフリーターをしている社会が不況なのだろうか? 
 失業が問題になっているが、日本の失業のかなりは「非自発的失業」ではなく、自分が職業を選んでいる自発的な「摩擦的失業」である。
 今の日本の世の中は決して荒んではいない。日本は平和である。日本は豊かなのである。
 問題は、豊かになって「衣食足りて礼節を知る」ではなく、「小人閑居して不善をなす」ほうに来ていることなのである。今の大学生は授業中、私語し、携帯をかけ、平気で食事をする。このような弛緩しきった若者がいるのは、とりもなおさず、日本が豊かになり、餓えの恐怖から解放されたからである。
 先進国はもう豊かになってしまった。そこでは、もう経済学はいらないのである。これから必要なことは、それぞれの固有の伝統の上に、浪費をつつしみ、もっと落ち着いた暮しを築いていくことである。これからの国家百年の計は「豊かさにどう耐えるか」ということなのである。
 今の資本主義は金儲け一筋である。そこにはバランス感覚がない。「足るを知る」という精神がまったくない。「足るを知る」というのは非西洋的な日本の風土の中で発達した思想である。日本には他との争いを好まない「和の精神」がある。この「和の精神」が拝金主義の資本主義によってこわされていくのを傍観しているだけでいいのだろうか?
 日本人は「ヒラの人たち」が真面目によく働く。それが日本と欧米の違いである。日本は仕事は「公」という感覚があった。しかし、そういう人たちがもっていた責任感がバブル期を境に失われてしまった。たかが金儲けのためにそういう「公」の精神が失われていくのはとても残念である。
  
 いわれているいる日本の不況の元凶は、レーガノミックスである。それで生じた貿易赤字を、日本の責任に転嫁して日本に内需拡大をもとめてきた。それをばか正直に実行した結果がバブルであった。レーガノミックスがなければバブルもなかったはずだし、アメリカのいうことに唯々諾々としたがって、大真面目に内需拡大を努めなければ、バブルもおきなかったはずなのである。
 
 福祉国家は理念としては素晴らしいものである。しかし、人間にはそれをうまく運営していけるだけの器量がない。
 
 アダム・スミスに始まった「自由放任」の経済学は、資本主義の欠陥を指摘したマルクス経済学との対決をせまられ、それがケインズ経済学を生むという経過をとってきたが、ベルリンの壁の崩壊以降、資本主義に対するアンチがなくなり、再び、アダム・スミスの「自由放任」「市場万能」の経済学へと先祖返りしてしまった。しかもアダム・スミスにはあった自由主義哲学は消失し、皆が欲望を最大限に追求し、ひたすら金儲けに励めば、そこに最良の社会が出現するという、弱肉強食、優勝劣敗思想を礼賛する拝金主義になってきている。
 しかし、たかが金儲けを追求することですべての問題が解決するであろうか? 資本主義、市場経済には大きな欠点があるのである。むきだしの資本主義というのはとてもおそろしいものなのである。資本主義は野生のままではいけないので、飼いならさねばいけないものなのである。
 たとえマルクス主義の主張した計画経済は間違っていたとしても、それでもマルクスの資本主義批判の有効性が失われたわけではない。単なる拝金主義のおちいった現在の資本主義を、もう一度「真面目な」資本主義にもどしていかねばならない。
 カネは手段にすぎない。それを目的化してしまっては世も末である。

 以上みてきて感じるのは、思想をもたない経済学者の悲劇ということである。アダム・スミスも現在のシカゴ学派も思想的な背景をもっている。しかし、そういう意味での思想的なバックボーンが飯田氏には一切ない。だから、資本主義があるいは市場経済が単なる金儲け・拝金主義と同一視されてしまうわけである。
 もちろん、近代経済学者にもそういう思想的バックボーンをもたないひとはたくさんいる。たとえば中谷厳氏? そういうひとが描く人間のイメージというのは、ひどく薄っぺらである。しかし、同時に単純な仮定から数学的操作で、どの程度、現実を近似できるかという学問も存在するはずである。これはこれとして充分になりたつ。飯田氏はそういう方向にも興味がないらしい。
 というか、もう豊かになってしまった社会で、そういう操作をして、現実を分析することに興味がもてないらしい。飯田氏の関心は現在の資本主義の行き過ぎにどのような歯止めをかけるかということなのだが、福祉国家の現実にも絶望しているらしい。
 どうも飯田氏の論を拡大解釈すると、あまり豊かになりすぎるのもかんがえもので、ある程度餓えの恐怖があるくらいの経済状態のほうが人間は緊張状態にあっていいのだ、といっているようにも思える。そうであれば確かに経済学には関心がもてないかもしれない。
 
 とにかく、飯田氏というひとは本当に金儲けが嫌いというか、お金というものに不潔感を感じているひとなのだなあと思う。そういう心情はわたくしもまた共有しているので、飯田氏の言もわからないではない(仕事中に株に投資しませんかとか、節税のためにワンルームマンションを買いませんかなどという電話がかかってくると、なぜか無性に腹がたつ)。しかし、一方では、金儲けには不羈とか自主独立ということと結びつく面も同時にあるはずなのだが、飯田氏にはそういう視点はまったくないようである。
 だから、もし日本がこれから沈没していくとしたら、自分がどう生き残っていくかという視点はまったくなく、日本は今もう充分に豊かなのだから、金のことなどにあくせくせずに心豊かに生きていく方向をさぐるべきであるといった主張になる。
 飯田氏はどうも競争も嫌いであって、日本がこれからだめになっていくとしたら、だれかを蹴落としてまで自分が生き残るというのではなく、みんなと「和」を保ちながら一緒に貧しさの中で(その中で精神的な豊かさを見出しながら)生きていくほうを選ぶのであろう。
 あらゆる点で、村上龍と対称的な視点の本である。


2006年7月29日 HPより移植