渡辺京二 「なぜいま人類史か」

   葦書房 1986年10月10日初版
 

 思うところあって、渡辺京二氏の「なぜいま人類史か」を読み返してみた。本書を購読したのが3年前なので、久しぶりに読み返すことになる。
 「なぜいま人類史か」「共同体の課題」「外国人が見た幕末維新」「明治維新をめぐる考察」の4論文を収載している。それぞれの論文を検討していきたい。

 「なぜいま人類史か」
 「信じる」ことと「知る」ことはどうちがうのか?、「信」は根拠のない主観であり、「知」は客観に保障された真の認識である、というような旧来の見方は科学自体によって否定されようとしている。
 古代は「信」と「知」が融合していたかもしれない。しかし、歴史はひきかえすことはできない。
 ここでいう「信」とは信仰とか宗教のことではない。世界の現世超越的な意味付けへの指向をいう。
 人類の歴史は偶然の産物であるという見方がある。しかし著者(渡辺)はそう考えない。人類のたどってきた道筋には了解できる道筋があるとかんがえる。人間も自然の基礎の上にあるのであり、人間の意志や願望も自然の働きそのものであるからである。
 しかし大脳の所産はみな正しいということにもならない。自然の中に価値の序列付けを可能にするものがある。世界は人間の希望や意味付けとは独立して存在するという見方がある。しかしそれならなぜ人間は意味付けようとするのか? 最近ではそういう世界の意味付けから解放されるところに人間の自由があるというという考えが思想界を支配している。しかし、それは間違っていると考える。
 人間は、毎日、天理教でいう「陽気暮らし」をしているだけでは満足できない何かがある。そういうものが世界宗教、普遍宗教を生む。つまり人間は「社会の中の生存」だけでは満足できないのである。「社会生存」以外に「天地生存」(国木田独歩)というものがある。
 「社会生存」以外に「天地生存」を人間に必要とさせるものは何か? たとえば「死」という問題がある。
 しかしもっと根本的な問題は、人間が群れをなさずには生きていけない存在であるにもかかわらず、一方では、群れを離れたいという強い衝動も同時にもっている、ことにある。この離群の衝動は人間に根本的にそなわっている。
 「天地生存」に充足しながら「社会生存」の実もえることはできないかものだろうか?
 ここで「共同性への指向」という観点を出す。これは「群れから逃げ出したいにもかかわらず、群れから逃げ出さずにすむような群れのありかたを希求するこころのありかた」をいう。
 しかし、この「共同性への指向」はしばしば大きな災厄をもたらす。この世に大きな災いをもたらすのは理想をもとめる衝動であることが大部分である。
 資本主義とは、それまで社会体制の中で他の分野と共存していた経済体制が、それのみで自立して、それによって伝統的社会を根こそぎにした状態をいう。資本主義と科学技術はその時間空間認識において同一の構造をもつ。かれらは力をあわせて「コスモス」を世界から消失させたのである。高度消費社会は経済合理性のみが貫徹した社会であり、そこではブラウン運動的な個人の自由は最大限に確保される。いまの若いひとは管理社会は自分たちのブラウン運動的自由のためのコストとわりきっている。
 戦後の急進的知識人のやったことは、こういう社会をつくるために地ならしなのである。彼らは前資本主義的なパラダイム、伝統的価値観を解体させた。「反抑圧主義」[相対主義」「商売人的リアリズム」というパラダイムが生まれた。19世紀以来の自由を希求する人たちは、人間の解放という理想にもえていた。しかし、結果として得られたものは? 「規範の中性化による自由」と「金銭を尺度とする福祉」である。倫理は消失し、あるのは社会運営のための技術的とりきめだけになる。そこでは、最低限の生存は保障される。しかしそこにあるのは、生きることから<意味>が消失した空虚な多幸感のみである。そこでは人間の魂は平安だろうか?
 現代文明の最大の問題点は、人間と世界との関係を引き裂く点にある。われわれは世界との親和を失った。
 ロシアと西欧では社会の概念がまったくことなる。西欧はローマ起源である。ロシア人には社会は「制度」であり、大事なのは同朋的交わりである。そのなかでのみ人間は完全な人格でありうるのである。

 以上80ページほどを要約した。わずか80ページほどの中に、大きなテーマがいくつもとりあげられていて壮観である。これは今から20年以上も前の講演の記録で、渡辺氏は否定しているけれども、ニューサイエンスの香りがどこかにすることは否定できないように思われる。近代科学の生み出した世界観は現代科学の最新の成果によって否定されるというようなものいいである。自分の説は最新の科学によって肯定されるのだ、というのは科学自体への現代人の信頼をあてにしているように思う。かつてはそれなりに影響をもったニューサイエンスも現在ではあらかた力を失ってしまったように思われる。というのはニューサイエンスは、否定はするが、なんら肯定的なものはうみださなかったからである。渡辺氏の説も基本的には現代文明の否定であるが、現代人は不幸なのであるから、早晩このような制度はもたなくなる。そうなったあかつきには、今渡辺氏が述べているような一見奇矯な説が意味をもってくるのだ、そう渡辺氏はいっているのだが、そうなのだろうか? 
 現代人は一般的に不幸なのだろうか? 大部分のひとはそう思っていないのではないだろうか? 大部分の人はそう思ってはいないにしても、一部には不幸な人がいる。そういうひとに対しては、渡辺氏の説は大いに意味のあるものであろう。福田恆存氏のいう<一匹と九十九匹と>である。あるいは中島梓氏のいう<文学がなくては生きていけない飢えた子供>である。中島氏によれば、現代は異常な時代なのだから、そこで正常でいられる子供がいたらそちらのほうが異常であり、異常をきたした子供のほうが正常であるというのであるが、それはさておいて、あらゆる人間が渡辺氏の言説を必要とするわけではないことは確かであろうし、多くのひとにとっては渡辺氏の言説は余計なお世話であろう。「俺が不幸だって? 勝手なこといいやがって。俺はしたいようにするんだから抛っておいてくれよ!」というであろう。そういうものいい自体が不幸をなにより示しているなどというと悪循環になってしまうが・・・。
 さて、それならば、わたくしは不幸であろうか? 別にそうも思わないが、二十歳前後に福田恆存氏にぞっこんいかれていたことがあり、そのころこのようなことをいろいろ考えてみたことは確かである。「芸術とは何か」から「人間・この劇的なるもの」に至る著作で福田氏は、あるがままの自分などというものには何の意味もないのであり、あるがままの自分である「個」というようなものに信をおく現代文明への徹底した批判を展開した。そのころわたしには「進歩的文化人」という人たちに対する抜きがたい不信感のようなものがあり、その不信感をうまく表現できないで困っていたところ、福田氏に出会って、ああそうだったのかと合点することろがあった。渡辺氏の本書の論にしたがえば、「進歩的文化人」が「社会存在」としての人間しか見ていなかったのに対して、人間は「天地存在」でもあるのだ、ということをいっていたということになるのであろうか? その後、最終的には福田恆存氏の信者ではなくなったが、それは福田氏が主張していた全体感覚といったもの、それを最終的には福田氏も信じられてはいないのではないか、と思うようになったことが大きいと思う。福田氏はめっぽう切れる刀をもっているのだが、どうも切っているのが二流のひとばかりなのではないか、という気がしてきた。やっぱり人は一流のひとと格闘すべきなのであり(もちろん福田氏はD・H・ロレンスという巨人と格闘したわけだが)、二流のひとを相手にしていると段々、本来の志がどこかにいってしまうというようなことはないだろうか?
大体、左翼の側には一流のひとは少なくて、左翼を相手にするとそうなりがちであるなどというのは偏見であろうが・・・。そもそも福田氏を読み出したのは、そのころの教祖であった吉本隆明氏の本を読んでいたら、「左の側にはろくな人間がいない。それにひきかえ、敵の陣営には江藤淳がいる、福田恆存がいる」というようなことが書いてあったからで、それで、紀元節復活運動にでてくるやせこけた貧相なおじさんと思っていた福田氏の本を読んでみる気になったのだった。
 問題は、歴史はひきかえせないという点である。資本主義の運動が貫徹し、われわれが世界との親和をうしなってしまっても、それを不幸と思わない人間が大部分となっていることをどう考えるかである。かれらは今しかしらない。かつての世界との親和があり信があり生に意味があった、世界がコスモスであった時代を、もしかれらが知ることになれば、かれらは考えをかえるだろうか? 変えるかもしれない、それが渡辺氏が「逝きし世の面影」のような本を書く動機なのであろう。
 歴史の産物は偶然であるというのは、世界を神がつくったということへのアンチである。だからモノ−の「偶然と必然」が西欧知識人の間ではおおきな衝撃になった。神の意図による世界という見方をくつがえすのは西欧においては途方もない大事業であっていまだに成功していない(ブッシュのアメリカをみよ)。歴史が偶然ではないということになると、いきなり、それでは歴史は神のもとにあるというほうに揺れ返してしまうのが西欧である。モノ−的偶然世界と、神の必然世界以外の中間項がほとんどない。渡辺氏は神の出番のない「必然の世界」を構想しているのでるが、その営為に成功した思想家はまだいない。できたことは今が不幸であることの指摘であって、あとは自分はそういう不幸には陥りたくはないということであり、自分にとってのかすかな道をさがしていくことだけである。
 渡辺氏のいう「共同性への希求」をどれだけのひとが共有しているかであろう。渡辺氏のとりあげるパステルナーク・ソルジェニチン・イリイチというひとたちは、世界の大勢のなかでは、結局、反動としてとりあつかわれることになってしまう。さらにたどれば、ロレンス然りであり、ニーチェ然りである。近代というのはろくでもない時代なのであり、それを自覚したひとがナチスを、あるいは近代の超克を、大東亜共栄圏をいったのかもしれない。エズラ・パウンドハイデガーも近代に吐き気がしていたのであろう。三島由紀夫もあんな死に方をしてしまった。
 しかし、この点を論じるには、「共同体論の課題」以下を読んでいかなくてはならない。
 
 「共同体論の課題」
 ここでいう共同体は、最近よく日本社会論で問題にされる、日本の会社の共同体化の問題といった文脈での共同体とは少し違い、マルクス主義における原始共産制における共同体といったニュアンスに近いものである。
 日本の農業共同体の特色は、その中では身分的秩序はあるにもかかわらず、それに所属しているかぎり成員は飢えることはないというものであった。その首長は各成員の生活のすべてを面倒をみる義務を負う責任があった。さまにパターナリズムである。
 マルクスは三つの共同体の形式を考えた。「アジア的」「古典古代的」「ゲルマン的」である。
 「アジア的」が問題である。「帝力われにおいて何かあらんや」というのがまさにこれである。帝力は直接、個々の農民にはかかわらないという意識である。東洋的アナーキズムである。帝力の下にある共同体の内部には帝力はかかわれない。こういう形態は強いし、長持ちする。そのことゆえにアジア的停滞も生じる。こういう形態があると共同体の内部にいる人間にとっては、帝力などは関係ないことになる。
 だからこそ、江戸末期に日本にきた外国人は「世界中で日本の百姓ほど幸せな顔をしているものはいない」と異口同音にいったのである。もちろん百姓は武士に平身低頭しなければならないのだけれども、しかし、この二つの階級は隔離されているのである。
 一方、「古典古代的」とは戦士共同体、軍事共同体なのである。この場合は共同体即国家になる。公的な愛国心というのは後者からしか生じない。「アジア的共同体」では、兵隊にとられることは天災なのである。
 「ゲルマン的」において、マルクスはその民会組織に民主主義の萌芽をみたのだが、きわめて乏しい資料からの理想化による間違った推論であった。
 問題は人類がすでに<共同体>から離脱したということである。もう戻れないということである。「個」の世界へと移行した。しかし、かつての「共同体」への憧憬は残るのである。

 さて、これを考えると、日本の会社というのはきわめて「アジア的共同体」の色彩をもっているのだなあということを感じる。そこに属する限りは飢えることはなく、会社は各成員の生活のすべてを面倒みることを期待されている。最近の「リストラと能力主義」の時代において、ようやく「アジア的共同体」が崩壊しようとしているのかもしれない。しかし、この「アジア的共同体」はわれわれの骨の髄までしみこんだものかもしれないので、大部分の人間はどう生きていったらいいか途方にくれるだけかもしれない。
 また小林よしのりとか「公」というようなことをさかんにいっているひとは、日本が「古典古代的共同体」であると勘違いしているのかもしれない。
 われわれは自分が直接国を形成しているというような意識がきわめて乏しい。プリグリム・ファーザーズの子孫は絶対にそのようなことはないであろう。国は自分のものと思っているであろう。しかし、われわれは、「帝力われにおいて何かあらんや」なのである。
 江戸の百姓たちが幸せであったのは、共同体の中で生活を保障されていたからなのであろうか、それとも「世界との親和」を感じていたからなのであろうか? それが「なぜいま人類史か」とこの部分がどうつながるかを考えると生じる疑問である。江戸時代は檀家制度などによって宗教感覚が根扱ぎにされた時代である。きわめて世俗的な時代であった。そういう時代において<コスモス>への帰属というような感覚を彼らがもっていたとは思いにくいのだが・・・。そうであるならば、かれらの幸福とは端的に飢えることがない幸福であり、魂の飢えなどというものは感じていなかったのではないだろうか? そうであるならば、現代の大衆とかわるところはないともいえるのであはないだろうか? ここでの江戸末期の百姓が、ドストエフスキーのスラブやロレンスの原始人に相当するものなのか? それが疑問である。

 「外国人が見た幕末」
 幕末に日本にきた外国人は、日本人は非常に優秀であるとした。それと同時にとんでもない嘘つきであるともした。親切で礼儀正しい文明人である、しかし物事は一緒にやれない、なぜなら嘘つきだから、というのである。その当時の日本人には契約の観念がなく、契約は人情によってはいつでも変更できるとしていたことがそう思わせたのであろう。
 日本人は相手の感情を害することを非常に気にするので、面とむかって駄目とはいわない、なんだかんだいっていれば、こちらの事情を察してくれることを期待する、そういうやりかたもそういう感想とつながったであろう。
 「日本人の幸福そうなバカ面」ということを当時の外国人はみな言っている。当時の下層民はみな口をぽかんとあけていたのだそうである。実にイノセントな顔をしているとみな指摘している。かれらは権利もないが義務もなく、ほったらかしにされていた。それが外国人の目にはきわめて自由であるとみえた。
 一方、その上にいる武士たちは油断も隙もないという印象をあたえている。
 そして、武士と百姓は別天地に住んでいるのである。
 この当時の日本は経済がまだ社会にくみいれられている社会だったのである。
 当時のヨーロッパ人は自分たちと接することで、日本人の牧歌的な幸せが失われてしまうだろうということへの後ろめたさをみな口にしている。日本人は優秀であるから、ひとたびヨーロッパ文明に接すれば、それをめざして走り出すであろう、通商・貿易というもののもつ革命的な力により急激に変化していくだろうことを予想した。
 実はヨーロッパにも「アジア的」なものはある。しかし東洋に進出してきたヨーロッパは「資本制市場システム」のヨーロッパなのである。
 問題はそういう資本制的近代というのがヨーロッパ以外では絶対に生じなかっただろうという点にある。
 そうではあるが同時にこのシステムは普遍性ももつ。なぜなら、人間は共同体のなかにあっても、つねに同時に「個」であることをもとめるものなのであり、この「西欧的近代システム」こそが「個」を解放するものであったからである。ただそれにもかかわらず、人間は「西欧的近代システム」においては「心の飢え」を感じる存在でもあるのである。それが証拠に現在の欧米の小説にえがかれた家庭は地獄である。家庭だけではない、職場もまた然り。そういう地獄に人間は耐えられるのだろうか? 「西欧的近代システム」はもたないのではないか?

 渡辺氏が「逝きし世の面影」で詳細に論じていることの素描である。
 人間はひとりでは生きられないが、一人であることを希求する存在でもある、それが人間の<悲劇>をうむというのが、渡辺氏の根本認識である。「個人の解放」が人を幸せにすると単純に信じている能天気な近代主義者に渡辺氏が嫌悪感をもつ所以である。「個人であることを希求する」がしかし、個人になっても内面はなぜか空虚である、人間は個人を超える何かとともにある場合にのみ充たされるのではないか、と渡辺氏はいう。しかし、個人になってただもう幸せという人もたくさんいるのである。あるいは物質的に豊かになることでただ嬉しいという人も多いのである。現在の中華人民共和国などを傍からみていると、ただもう金持ちになることをみんなが目指しているように見える。内面の空虚なんてものを感じるのはごく一部の変人だけかもしれない。
 ヨーロッパのもつ強さというのが、個人を解き放つことにあるのか、たんに物質的に豊かにさせることにあるのか、どうなのだろうか? 家庭は地獄かもしれないが、欲しいものさえ買えればいいじゃないかという考えもあるのだろうか?

 「明治維新をめぐる考察」
 「伝統的社会」から「近代」へ。「伝統的社会」では序列的人間観があり、「近代」では平等的人間観がある。明治維新がそれである。「伝統的社会」が悪いわけではない。人々はそこでバカ面の幸せを享受していたのである。その社会が悪いから、明治維新が必要だったわけではない、そうしないと生き残れないから明治維新と必要としたのである。世界にひきずり出されたのであ

 極東裁判の時に、第一の被告としてペリーを呼べといった被告がいたそうである。大東亜共栄圏というのも、西欧文明とはべつのところで自分たちは生きていきたい。西欧は西欧でやってくれ、自分たちは自分たちでやっていく、という一種の拡大した鎖国の主張だったのではないだろうか?

 本書全体をつらぬく基本のトーンは、西欧文明の光と影である。
 つまり渡辺氏だってわたくしだって西欧文明に徹底的に毒されてしまっているのである。いまさらもうほかの道へは進めないのである。そうであるなら、自分の努力で少しづつでも解毒していくしかない。本書は渡辺氏なりの解毒の試みなのである。わたくしもかつて福田恆存氏にいかれたことがある人間なので渡辺氏の主張の背景はよくわかる。
 しかし、わたくしはもう少し違う解毒法をえらんだように思う。それは多分「魂の飢え」なんて大袈裟なことはどこか嘘なのではとする方向であるように思う。「魂の飢え」なんてなんとなく高級そうであるが、高級そうな悩みというのはどこか眉唾なところがあるではないかという方向のように思う。うまくいえないのだが・・・。