稲葉振一郎 「経済学という教養」

   [東洋経済新報社 2004年1月23日初版]


 「素人の、素人による、素人のための経済学入門」というのが触込みであるが、嘘である。
 明確な一つの立場の主張であって、単なる入門書ではない。
 数冊にわけて書かなくてはいけない多くの主張が一冊に凝縮されているので、論旨の飛躍が多く、それぞれの主張が十分な説得力をもつ濃度で展開されていない。第一章「こういう人は、この本を読んで下さい」だけでも一冊の本になるのではないだろうか?

 それで第一章。
 いきなりソーカルの「サイエンス・ウォーズ」がでてくる。これを読んで不安になった人が読者の一部として想定されている。こんなひとは素人ではない。だから稲葉氏のいう素人とは、経済学には素人ではあっても、人文科学一般にはかなり関心をもっている人が対象であり、以下の章に展開されている議論も、読者にある程度の人文科学の素養があることを前提としている。
 で、「パラダイム」論がほとんど説明なしにでてくる。ポストモダン知識人の反科学主義がでてくる。そこらをかなり大胆に切り捨てたあと、そういう問題は自然科学においてだけではなく、経済学においても成り立つのだという風に議論が進む。経済学は人文社会科学の分野のなかでも例外的に科学的な装いをしているからである。
 同時に経済学に特有な問題として、マルクス主義という強力な反主流派の存在を指摘する。そしてマルクスの批判がポストモダン的批判原理と通底していることが指摘される。
 マルクス主義が袋小路に入ったのは、それが「経済学」と「経済学批判」の双方をふくみ、後者にのめりこんで、前者がおろそかになったのが原因であるという。後者はマルクス主義においては、一種の避難路であったのだが、ポストモダンにおいてはそこが主戦場になったという。
 存在が意識を規定するという考え方はマルクスマルクス主義が近代思想にもたらした最大の遺産である。これが文化相対主義につながった。マルクス主義自体は衰退しても、この文化相対主義の考えは多くの人文系知識人の意識に潜在しており、そのことゆえに新古典派的経済学が懐疑的な目でみられる。
 さらにダーウィン主義の影響、とくにドーキンスの「利己的な遺伝子」による自然選択による意図せざるデザイン論の勝利が示され、その中で理性におけるデザインが例外で信じ難いことであるという論が示される。そして経済学を中心に議論されてきたことが逆に進化生物学にも適応され大きな成果をあげていることがいわれ、経済学の議論が生命体全体でもなりたつものであることがいわれる。
 さらに社会生物学の成功により文化相対主義が逆風にされされていることがいわれる。
 というようなさまざまなことに関心をもっているのが素人なのである。つまり専門バカになっていないさまざまな分野に関心をもつ素人を、経済学の玄人にするのではなく、「筋金入りの素人」@野矢茂樹にするのが本書の目的であるということを宣言して第一章は終わる。道具としての経済学ではなく文化としての経済学。だが、とっかかりがいる。それには「不況・不平等・構造改革」を例に考えていこう、ということで以下がその各論ということになる。

 第二章は不平等をとりあげる。
 84年の村上泰亮氏の「新中間大衆の時代」から時代は段々と不平等化のほうにむかっていることが指摘される。それで最近では「意欲格差」ということがいわれ、低い社会階層ほど意欲がひくく、それにもかかわらず現状に満足している現状が指摘される。「降りる」人がたくさんでてきているのである。つまり欧米風の階層分化とそれによる階層毎の文化という方向に日本もむかっているのではないかということである。
 そして、不平等化は実は不況に起因しているのではないか、という視点が導入され、不況の原因論としての構造改革派の議論が紹介され、それはプロの経済学者からは支持されない考えかたであることが示唆され、この点を経済学的に考えようとして章を終わる。

 第三章が経済学入門である。
 まず示される経済原理が比較優位。ミクロ経済学の市場原理がそこから導入され、それが成り立つのは完全雇用下であるということからケインズ経済学が不況下の経済学として導入される。さらに貨幣ヴェール説から物価の変動の基準となるものは何かという疑問が提示され、それについては、それが賃金であるとするものと、貨幣であるとするものの二つがあることが言われる。賃金の下方硬直性からみると、ケインズ政策とはインフレによって賃金を実質的に切り下げることによる失業改称策なのである。だから本当は賃金の下方硬直性さえなければ、すべてはうまくいくはずなのである。一方、少数派ではあるが、不況の原因を貨幣にもとめる立場がある。流動性選好を重視する立場である。この立場からいえば、不況対策とはインフレをおこして貨幣の価値をさげ、ひとびとの貨幣への執着をモノへの志向への誘導しようというものである。
 ここでケイジアンを三種にわける議論がでてくるが、ここは相当議論を急いでいて十分な説明と根拠の提出がされていない。本来ならここだけでも一冊の本がかかれるべきところであろう。
 ニューケイジアンⅠ:市場はそれほどスムーズにはたらくわけではない。
 ニューケイジアンⅡ:不況では市場がスムーズに働いても需要不足を解消できない。
    それは魅力的な新製品が不足しているからである。
 ニューケイジアンⅢ:不況では市場がスムーズに働いても需要不足を解消できない。
    それは人びとが経済の先行きを悲観していて財布の紐をゆるめないからである。
 ⅠとⅡをあわせて実物的ケイジアン、Ⅲを貨幣的ケイジアンと呼ぶ。
 (この実質的ケイジアンと貨幣的ケイジアンの区別はきわめて強引で、ⅠとⅢを同時に信じている経済学者はたくさんいると思う。それを強引にわけたのは、そうしないと後の議論が展開できないからで、自分の議論の運びのために、実態とは異なる強引な区分けをしているため、これから後の議論が非常にわかりにくく、かつ納得し難いものとなってくる・・・宮崎註)

 補論 金融システムという魔圏
 これは第三章への補論であるが、日本の現状への経済学者の議論を論じたものである。
 実物的ケイジアンの立場からは、構造改革路線も、伝統的ケイジアン路線も両方選択可能であるように見える。賃金の下方硬直性が問題であるなら、本当は賃金をさげればいいのである。ケインズ政策は賃金の下方硬直性には手をつけない、あるいは手をつけられないという立場であるのに対して、構造改革派は賃金を下げてしまえという立場である。
 実は問題にされているのは、賃金の下方硬直性だけではなくて、債務の下方硬直性なのである。デフレで貨幣価値があがっても、債務はそのまま、つまり実際の債務はふくれあがっていく一方なのである。これが不良債権問題が解決できない理由である。さてそれなら、債務価格を低下させることはできないのか? その方法はありうるとしてもなお貨幣で持ち続けるほうがましな世の中であれば、それも機能しないだろうというのが著者の主張である。つまり貨幣的ケイジアンの立場が説明価が高いと著者は考える。
 そしてこの観点からフィッシャーの公式が誘導され、マクロ的なインフレ誘導策しかないことが示される。

 第4章では日本経済の現状が分析される。あるいはそれに対する経済論が分析される。
 ハイエクミルトン・フリードマンのような原理的スミス主義者にとっては、日本型経済システムは社会主義計画経済である。この観点からすれば、過去の高度成長期においても、日本型システムは間違ったものであったはずなのだが、日本の経済学者でこのような立場をとるものはほとんどいない。
 日本の構造改革論者の大部分は、かっては有効であった日本型システムがいまや非合理で時代遅れとなったと主張する。
 このような日本型経済システムは、かつては「封建遺制」とされた。(1)
 しかし60年代後半から、それはもっと新しい起源をもつと主張されるようになった。(2)
 ここには日本特有の「講座派」対「労農派」という対立がある。(1)は講座派、(2)は労農派に対応する。
 80年代の日本の繁栄により後者が優勢になった。
 村上泰亮は「開発主義」が正当化されるのはどのような局面でかを論じた。それは規模の経済効果がある場合、キャッチアップの局面であるとした。
 しかし、このようなやりかたは技術革新への適応にはすぐれていても、新技術の創出についてはそうはいえないという見方もあった。長期の安定にはむいていても、短期のチャレンジにはむかないシステムであるという議論である。
 これが多くの構造改革論者が共有している認識である。
 しかし、講座派的な日本前近代論は大塚久雄丸山真男、内田義彦などでは生きていた。
 日本人は、集団主義から自立して、立派な民主主義者たれという彼らの説教は、集団主義から脱して自立して、立派な市場経済を作れという構造改革論者と共鳴するのである。
 80年代に流行したレーガンサッチャー流の新自由主義とも構造改革論は共鳴する部分がある。

 第5章は「左翼」の日本経済への視点を論じる。この辺りから議論が非常に空疎になり、かつ論旨が飛躍し主張がたどれなくなる。関係あるところのみひろいあげる。
 構造改革論者が説く今後の日本の方向は奇妙に新自由主義と一致する。しかし、その理論的な背景は異なる。そして「左翼」の主張が奇妙に構造改革派と共鳴するのはなぜかということを論じていくのだが、ここのところはよく理解できない。かれらがともに貨幣的ケイジアンの立場を理解していないと指摘されたあと、もし不況がマクロの問題であるとすれば、かれらの主張はなりたたないことがいわれる。そして、不況がマクロの問題であることが論証なしで正しいとされてしまう。

 第6章は不平等を論じるが、ここでの主旨は、不平等にも弱肉強食の不平等と共存共栄の不平等があり、市場経済は本来共存共栄のシステム(大きく得するひとも少ししか得しないひともいるが、みんな得をするシステム)であるはずなのに、不況下では弱肉強食のシステムになってしまう。そのことをわすれて構造改革論者が市場経済至上主義となっているのはおかしいことがいわれ、不況である現在においては、まず好況となるようにすることが共存共栄を実現するために必要であるといわる。しかし、好況下ではつねに共存共栄となるのだろうか? ここら辺の議論はきわめて杜撰である。

 第7章はマルクス主義を論じるが、なぜそれを論じるのかがわからない(おそらく平等ということにかんしてであろうが、平等ということとマルクス主義がどう結びつくかは、自明のこととしてまったく論じられない)。まして現在マルクス経済学をとりあげる理由がまったくわからない。

 第8章はまとめで、左翼はいかにあるべきかがいわれる。
 景気というのは公共財であるという指摘は面白い。だからマクロ的不況は避けるべきであるという。

 第一章はたいへん面白いのだが、期待に反して、そのあと論じられることに、文化相対主義利己的な遺伝子もでてこない。平等ということを論じるだけでも、それが普遍的な価値なのか文化に相対的なものかという視点もでてくるであろうし、また社会生物学的な視点からみた平等というのは大きな問題であるはずであるが、それもまったく取り上げられない。そういうことで第二章以下は狭義の経済学としてほぼ論じられる。
 それで、論じられるのは一般的な経済学ではなく、現在の日本の経済なのであり、そこで稲葉氏はリフレ派を支持するのであるが、氏の論は不況下と好況下ではとるべき経済政策や優先すべき政策が違ってくるということであるので、リフレ派の経済理解一般が正しいとしているわけではないように見える。つまり、いつでもどこでも成り立つ経済原理を考察するのが経済学入門であろうが、そういう視点からいわれるのは比較優位説だけである。こういう経済学入門はないだろうと思う。
 マルクス主義は思想史的にはあるは現在政治においては決定的に大きな影響をもっているが、経済学としてはもはや論じる価値をもつとは思えない。貧困ということをまともにとりあげた思想家として特筆すべきであろうが、その貧困を解決するためにマルクスが提出した処方はもはや無価値である。それに稲葉氏がこだわる理由がわからない。
 ケインズがほとんどケインズ福祉国家という文脈で用いられているが、ケインズの経済学説と福祉国家とは直接関係はないのではないだろうか? どちらも国家が大きな役割を演じるということはあるが、ケインズ福祉国家などというものに何にも関心をもっていなかったのではないだろうか?
 ここでも講座派・労農派の問題がとりあげられるが、本来経済学と日本の近代化などは関係ない話である。しかし、村上龍などは日本の経済体制の変化が日本の社会構造の変化と深く関連すると考えており、その観点から経済に興味をもっているのであろう。
 インフレ下の不況というのがある。これがケインズの権威と決定的に傷つけたらしい。それならば、デフレ下の好況といのはあるのだろうか? 日本の経済は最近少しづつ上向いているが相変わらずデフレである。誰かがデフレと不況は独立した因子であるといっていたが本当なのだろうか? リフレ派の主張はとにかくデフレの克服がなければ経済は回復しないということである。景気は回復するが物価は下がるという夢のような事態もあるうるのだろうか?

 この本の文体と似た本をどこかで読んだことがあるという既視感がずっとあった。浅羽通明氏の「野望としての教養」だった。浅羽氏の本も壮大な大風呂敷という感があったが、稲葉氏の本もどこかそういうところがある。そうだったら、他説など気にせずにひたすら自説を展開したようがいいのではないだろうか? いろいろな説への目配りが多すぎて、この人はたくさん本を読んでいるなということは解っても、かえって著者のいる場所がわかりにくくなっているような気がする。