石井宏 「反音楽史 さらば、ベートーベン」

   [新潮社 2004年2月20日初版]


 バッハ、ハイドン、モツアルト、ベートーベン、シューベルトブラームス・・・、クラシック音楽史のビッグ・ネームのほとんどをドイツ人が占めているが、これは後世のドイツ人が捏造した音楽史をわれわれが鵜呑みにしているからであって、実際は、音楽史はイタリア人が中心となって動いてきたのであり、また交響曲ソナタなどの器楽による音楽を第一とする音楽史もまた史実とは反するのであり、実際は音楽は声・歌を中心に展開してきたのである、ということを主張した本。
 そのために著者はいろいろな事例を提示している。それぞれの時期に人気があった作曲家と、現在音楽史で重視されている作曲家はまったく異なる。大バッハは無名のまま死んだし、モツアルトも似たようなものである。それなのになぜ、彼らを中心とした音楽史が書かれるのか? こういう議論は、<音楽>という言葉で何をあらわすかに依存する。2003年世界で一番売れた音楽CDがその年の一番すぐれた音楽であるわけではない。昨年、出版された本の中で、「バカの壁」が一番優れた本であるわけではない。
 ドイツ人にいわせれば、音楽はイタリア人において開花したのは事実であっても、本当の音楽、音楽の精髄を体現したのがドイツ音楽であるのだ、ということで議論は終わってしまうであろう。
 石井氏は現在流布している音楽史はドイツ人が作り上げたある種の価値観にもとづいているという。それに対して石井がここで述べる音楽史は事実を述べたものであるという。氏は何らか価値観に基づかない事実としての歴史というものがあると思っているのである。
 石井氏は多くの人に聴かれる音楽こそが音楽であるという。ところがドイツ人は、ソナタ形式を頂点とする音楽の様式にかなかったものこそが音楽であると勝手に主張しているのだという。
 形式を重視するのがドイツ人で、歌が好きなのがイタリア人である。音楽自体を楽しむイタリア人の音楽観が排斥され、理屈で音楽をきくドイツ人の音楽観が勝利したのであるという。
 それで長年歌い継がれてきた民謡とベートーベンの「運命」をくらべてどちらが優れているかという変な議論をはじめる。しかし、民謡とベートーベンの交響曲は別のものなのである。それを比較することは意味がない。
 石井氏の議論で一番の要となるのは、なぜ西洋音楽史においては作曲家の名前というのが絶対的なものとなったのかという議論であろう。たとえば、かつての日本においては圧倒的に演奏家優位の芸の世界であった。
 なんで西洋においてはあれほど作曲家が偉そうな顔をしているのか? それは作曲というのが一つの世界の創造であるからなのであろう。小なりといえども世界の創造者。それは創造神を前提とする社会においては当然畏怖すべき対象となる。それはまた西欧近代個人主義の問題でもある。だから石井氏が西欧近代個人主義の否定を視野に入れて、<さらばベートーベン>といっているのかが問題となる。
 しかしそうとは思えない。ベートーベンの相手が民謡だからである。小林秀雄は西欧近代個人主義の帰結としてのロマン主義を否定するものとして「モーツアルト」を書いた。ベートーベン=ロマン主義と対立するものとしてのモツアルトである。
 ベートーベンからワーグナーマーラーに至る誇大妄想系の音楽がある。マーラーは自分の第八交響曲についてこう書く。「想像してごらんなさい。宇宙が鳴り響きはじめるのを。もはや人間の声ではなく、周行する惑星や太陽たちなのです。」 誇大妄想である。しかし、この交響曲を書くときに、誇大妄想のゆえにマーラーの精神はある運動をしている。その運動がわれわれの何かをゆさぶるのである。
 西欧のもつ問題点がここにある。このような妄想を否定する多くの立場があっても、そういう否定もまた、それぞれある個人の主張としてなされるという点である。
 さらに問題がある。マーラーの音楽はワーグナーのものとは違って、マーラーの個人的主張とはいいきれないものがある。例えば、第一交響曲の開始の「自然の音のように」。あるいは第三楽章の民謡の引用など。
 ベートーベン自身、晩年、弦楽四重奏ピアノソナタを書いて、自分の誇大妄想のつけをひきうけた。もっともそれと平行してあいかわらず、誇大妄想系である第九交響曲や荘厳ミサを書いてはいるのだが。
 問題はわれわれにどうやら精神というものがあるらしいことである。それはあるものによって動かされることがある。あるいは何かによって動かされることいよってはじめて精神というものがあることがわかる。その何かの一つとして音楽があるらしいということである。
 作曲家の小倉朗氏は「現代音楽を語る」(岩波新書)で、アンセルメの「感覚的対象」と「音楽的対象」の区別という言葉を引いている。民謡あるいはイタリア音楽の多く、あるいは多くのオペラは感覚的対象ではあっても音楽的対象ではない。
 たとえば、われわれは「運命」の開始を聴いた途端に第四楽章の開始を思い浮かべる。それは実に変な聴き方であって、作曲家は初めて聴いた聴衆を念頭において曲をつくるはずである。すでにその曲を知っていて、二回目三回目に聴いている人を想定して曲をつくるはずはない。
 しかし、もはやわれわれは初めて聴く曲として「運命」を聴くことはできない。第一楽章がはじまった途端にその曲の構成を聴いてしまうのである(作曲家としては、4楽章が終わった時点でありありと構造が見て取れるということを期待しているのであろうが)。そして「運命」は繰り返してきけば、きくほどその構成が明らかになるようにできている。それはある意味で、理屈で音楽をきくことである。しかし、その理屈が背景にないとわれわれは十分にその構成をたどることができない。つまり、その理屈あるいは理論もわれわれが音楽をきく楽しみを増すのである。
 そういう変てこな聴き方、素直でない聴き方をする人間など多くはないであろう。だから、クラシック音楽の聴き手はそんなに多いはずはないのである。オネゲルがすでに一世紀近く前にそんなことをいっているはずである。現代詩の読者がほとんどいないように。あるいは読み物でない文学の読み手が多くはないように。
 もちろん、文学が物語りの分野に積極的に進出していくこと、音楽が<歌>の部分に回帰していくことはなんらさしつかえない。そういう行為は貧血した文学、貧血した音楽に何らかの力をあたえるであろう。しかし「ロリータ」のような間違いがなければナボコフの小説がベストセラーになることなどないし、「悲歌のシンフォニー」のような間違いがなければグレツキのCDがベストセラーになることもない。
 だから石井氏もいうように、そういう少数の人間の関心しか集めないであろう彼らの作品を学校で多数の生徒に教えるのはおかしいであろう。最近はイタリア人のヴィバルディも教科書には入ってきたのかもしれない。しかし、それさえも現在における絶対的な少数派なのである。文学史においてはもやは森鴎外夏目漱石はおしえるべきではないのかしれないが、そうかといって赤川次郎や渡邉淳一を教えることもないであろう。
 われわれがソナタ形式の曲を聴く最大の楽しみは再現部における主題の回帰である。たとえば、運命あるいは合唱の第一楽章の再現部。ベートーベンのやりかたはいかにもあざとい。あざといにもかかわらず、それがわれわれの喜びであるのは、それがわれわれの構成感覚あるいは形式感覚に訴えるからである。あるいはわれわれに形式感覚・構成感覚があることを、ソナタ形式が教える。われわれのもつ秩序感覚、構成感覚、それを最大限に引き出すやりかたをベートーベンは発見したのである。
 そして、われわれはベートーベンの時代ほどは秩序というようなものを信じられなくなっているから、次第に、マーラー交響曲のようにソナタ形式を極限までの引き伸ばすようなことが試みられるようになり、現在においてはショスタコーヴィッチがソナタ形式で曲を書くと、時代錯誤といわれるのである。
 もちろん、ソナタ形式でなくてもいい。三部形式であっても、A−B−Aの形式でもAの回帰はわれわれを満足させる。それに満足することが、われわれのどこかに形式感覚があることを知らせるのである。
 おそらくドイツ音楽のある種の優位は、構成感覚や秩序感覚と深く関係しているので、それゆえにドイツの哲学の分野におけるドイツ人のある種の優位と関係している。とくにカント・ヘーゲル以来の観念論哲学あるいはそれを逆転したマルクスさえも、ドイツ的な絶対音楽とどこかで通低している。イギリスの経験論哲学の伝統とイギリスにおける大作曲家の不在はどこかで関係しているはずである。
 シューマンが元凶であるかも知れない愛国的なドイツ音楽優位の主張は、シェ−ベルクの「十二音の理論によって、ドイツは今後100年音楽上の優位を確保することができた」という歪んだ主張とつながっていく。その根底には音楽における進歩というきわめて議論の多い考え方があり、さらに歴史における進歩というきわめて重大な問題が潜んでいる。

 以上、考えると、石井氏のあたえた答えはまるで見当違いであるように思えるが、それにもかかわらず、氏の提出した<なぜドイツ人の作曲家が大きな顔をしているのか?>という問いはきわめて重大な問題なのである。それはなぜ現在、世界の中で欧米が偉そうな顔をしているのかという焦眉の問題とも関係しているはずなのである。

 経済が成長し、教育が普及するとわれわれは個人になっていくしかないらしい。その逆はどうもないようなのである。
 個人になっていくことが幸福なことであるかどうかはわからないが、たとえ不幸になるとわかっていても、それでも個人となっていくしかないようなのである。
 もはやシューマンのようなロマン的な自我をわれわれは信じることができないとしても、それでもわれわれは、集団のなかにかえっていくことはできないのである。