加藤典洋(編) 「イエローページ村上春樹 Part2」

   [荒地出版社2004年5月1日 初版]


 加藤が教鞭をとっている明治学院大学の学生との討論による村上春樹論。とはいっても文体も加藤のものであるし、加藤の著書といってもいいであろう。
 今年のはじめに読んだ加藤の「テキストから遠く離れて」と「小説の未来」とかさなるところが多い。「テキストから遠く離れて」はポストモダン的なテキスト論にはもう飽きた。もっと古めかしい作家論をかくぞ。という宣言であるが、テキスト論へのこだわりがすてきれないのか、バルトとかソシュールだとかへの偏頗な議論に満ちている。どうもこれは同業者への弁解、おれはこんなふるめかしい作家論を書いているけれども、ちゃんとテキスト論だってわかっているんだぜ、という言い訳のために書いているように思える部分が多く、各論である「小説の未来」のほうがずっと面白かった。
 テキスト論を排するということは、作家はこれを書くことで何をいいたかったのか、その場面はどういうことをいっているのかということを論じることになる。
 テキスト論の要は、テキストは読者の数だけ読まれ方がある、ということであろう。だからここでいわれていることは加藤典洋の読みである。問題はかなり断定的な読みが提示されるので、村上春樹の読者が本書を読むことによって、自分にとっての村上春樹の世界が広くなるだろうか、狭くなるだろうかということである。どうも狭くなるように思う。
 たとえば、ナカタさんの過去を示す1944年のお椀山での事件は「その事件は児童を引率した女性教師が、ある理由から我を失い、児童の一人を激しく打擲した暴行事件から生じた集団催眠事件にほかならない」と書いている。確かに第12章の女性教師の手紙ではそのようにもとれる書き方がされている。しかし第2章の描写における意味ありげなジュラルミン色の飛行物体の意味がそれでは消えてしまうように思う。この事件はその女性教師からはそのようにうけとられる事件であったと同時に、何か超自然的なものがナカタさんに力を及ぼしたともとれるように書かれていて、それがナカタさんが猫と会話でき、空から魚を降らすことをそれほど違和なく読者が受け入れるための伏線にもなっている。
 また田村浩一(ジョニー・ウォーカー)を殺したのは誰かということへの加藤のこだわりも読者からは余計なお世話と感じられるかもしれない。そもそもこの小説では主人公田村カフカの父田村浩一は一度も登場せず、ジョニー・ウォーカーが田村浩一であるのかは不分明である。ジョニー・ウォーカーを見ているのはナカタさん(と猫たち)だけなのだから、ジョニー・ウォーカーはナカタさんのみた幻影であるかも知れないのである。
 一番の問題は主人公の田村カフカが解離性人格障害(多重人格)を病んでいるのだという断定である。そして、その発想の根には神戸の児童連続殺傷事件の犯人の(酒鬼薔薇聖斗)少年があるという。
 わたくしは30年以上の臨床の場で、離人症のケースは経験したことがあるが、解離性人格障害というのはみたことがない。本当にそういう病気は存在するのだろうか? 本書の奇数章は田村カフカという一人の人格からの視点で統一されている。本書に二箇所でてくるカラスと呼ばれる少年が主人公の別人格であるというのだが、その少年の人格が田村カフカを否定して行動している場面はどこにもないのだから、解離性人格障害という主張がどこからでてくるのかわからない。そもそも酒鬼薔薇聖斗少年は解離性人格障害なのだろうか?
 どうも解離性人格障害という病名をもちだしたり、酒鬼薔薇聖斗少年が発想の根にあるとすることは、小説の読み方を痩せさせるものではあっても、豊かにするものではないように思う。
 そして、加藤もみとめるように、このように読んでいくと、「海辺のカフカ」における魅力的な人物であるナカタさんと星野青年の意味が見えなくなってしまう。加藤は星野青年が「アンダーグラウンド」に登場する市井に普通の人に発し、「スプートニクの恋人」の中村主任を経由して登場したという。わたくしはむしろ「神の子どもたちはみな踊る」のなかの「かえるくん、地球を救う」の片桐からきているように思う。星野青年は田村カフカ少年の苦悩を相対化するものとして存在するのである。中村主任のように「苦悩だなんていい気なもんだ」というようなことはいわないで。
 ということで、小説の読みにかんしては納得できないところも多かったが、ノンフィクションである「アンダーグラウンド」と「約束された場所で」に関する議論はきわめて説得的であった。
 村上春樹が述べている「「語られた話」の事実性は、あるいは精密な意味での事実性とは異なっているかもしれない。(中略) 私は取材に当たって「人々の語る話は、その個々の話の文脈の中で、紛れもない真実なのだ」という基本的な姿勢を常に維持したし、今でもはっきりと維持している」という部分は、実は加藤の小説の読み方への反論となっている。読者がある小説を読むことによってつくりあげる物語は、その読者にとっての真実である、いくら「誤読」であっても真実であるということであれば、正しい読み方などというものはなくなってしまう。それがテキスト論の難しいところである。