小熊英二 「<民主>と<愛国>−戦後日本のナショナリズムと公共性」

   [新曜社 2002年10月31日初版]


 注と索引もふくめると千ページ近くもあり、値段も6千円以上という大著であるけれども、私の買った今年一月の版が第8刷となっているから、けっこう売れているのであろう。一ケ月くらいかけて少しづつ読んできた。
 これを読む気になったのは、養老孟司の「運のつき」に紹介されていたからであるが、養老氏のいうようにこの本は戦中から戦後にかけての「言説」の変化を扱っている。言説であるから論議の対象は知識人である。戦中から戦後にかけて知識人の言説の変化を丹念に追っているわけである。
 小熊氏によれば、「戦後思想」とは、ほとんど戦争と敗戦の体験をいかに言語化し、思想化するかの営為だったのであるが、しかし、養老氏はそんな言説の変化なんかは「知りたくなかった」のだという。戦中と戦後では社会が180度変わったのだから、知識人がそれに合わせて言説を調節するのは当然である。しかし「そんなつじつま合わせ」なんかききたくなかった。そういう言説をせずに黙っていたひとはたくさんいた。敗軍の将兵を語らずである。そういうひとは、物量に負けたと思って、科学技術にいったのだという。それで今度は技術で勝負してやろうということになった(プロジェクトX)。つまり、戦争を継続したのである、というのが養老説。
 
 そういうことでここで扱われているのは、黙っていることができずにたくさん言説を提示した人たちである。
 小熊によれば、戦後は1945年の敗戦から1954年までの「第一の戦後」と1955年以降の「第二の戦後」に区分される。なぜ1955年でわけるかといえば、その年に日本のGNPが戦前の水準に回復したからであり、政治の「55年体制」ができ、「六全協」で共産党が穏健路線に転じたからでもある。

 第一の戦後:①後進国意識 ②アナーキー状態 ③現実は変えられるという意識 ④圧倒的な貧富の差(農村と都会の分離) ⑤「公」即「私」
 第二の戦後:①先進国意識 ②出来上がった体制 ③現実は所与 ④高度成長(日本の均質化) ⑤「公」≠「私」

 とすれば、同じ言葉・言説であっても、第一の戦後の時代と第二の戦後の時代では、違う意味をもってしまうことになる。
 最近の右からの戦後民主主義批判は、戦後民主主義が国家を否定するものであり、個人を重視する世界市民思想であり、アメリカの影響をうけた近代主義・西洋主義であり、共産主義への信仰を抱く大正教養主義の延長であるのだという。そういう主張をするひとは「第一の戦後」を思想的に体験していない。そもそも戦後民主主義という言葉も1960年以降のものである。
 第二の戦後を小熊氏は70年代初頭で切る。というのはそれまでに第二の戦後の言語体系がほぼ完成し、1968年ごろからの全共闘運動の台頭により「第一の戦後」派の知識人が影響力を失ったからである。全共闘運動は戦争を知らない戦争体験のない世代の運動であり、戦争と敗戦を思想化したのが戦後思想という小熊氏の定義に従えば、戦後思想ではないことになる。

 軍隊生活を経験したひとは日本の軍隊の非能率・非合理・無責任・道義の頽廃を身をもって知っていた。また銃後においても多くのひとが軍事体制の頽廃を実感していた。
 軍隊にいった知識人は軍隊生活の中で<大衆・・・当時はほとんど農民>への嫌悪を植え付けられた。田舎に疎開し、田舎に買出しにいったものも田舎への嫌悪を感じた。
 そしてそのことは日本は戦争に全力を出し切らなかったから負けたという考えを生じさせた。あなたまかせの無責任ではなく、個々の人間が各々の責務を自覚することができていれば、負けることはなかったというのである。個々の人間が各々の責務を自覚すること、それが民主主義である。つまり日本が民主主義国であれば、負けなかっただろうと。
 こういう考えはアメリカからの民主化指令が出る前の、45年8月から9月にかけて出てきていた。個人の自覚がなかったから様々な道義の頽廃がおきたという議論である。

 戦中から終戦直後にかけては、近代は批判されるべきものというのは常識であった。
 中世は、個人は共同体に埋没した世界であるが、
 近代は、個人が自由を獲得はするが、そのためにかえって人間はばらばらとなり、相互の闘争が不可避となるからである。
 とすれば、
 未来は、個人が国家という高次の段階に止揚されるものでなければならない。
 これはほとんどヘーゲルの図式であるが、マルクスはそれを国家→共産主義社会としただけで、基本的に近代の個人主義社会を否定されるべきものとしたので、その点では同一であり、右も左も近代には否定的であった。
 しかし、戦争の体験は日本はまだ否定されるべき近代にも達していないという認識を生んだ。
 天皇制では総力戦は戦えないことになる。
 つまり、戦争前には日本は近代にいると思っていたが、実は近世にいたのだという認識ができてきた。丸山真男の「近代主義」は近代の問題を十分に知った上ででてきたものであるにもかかわらず、こういう歴史を知らないものからは、気楽な近代主義に見えた。

 日本が負けたのは、国の利益という全体が見えず、自分の所属する共同体の利益のみしか考えないものばかりだったからであるという見方が多くでた。。国民という意識は村落やギルドといった共同体から自立した近代的個人が開放されることによってはじめて実現すると考えれば、国民というのは近代の産物なのである。
 しかし一方では丸山真男ら多くの知識人には大衆への嫌悪も同時に存在した。
 また敗戦を宗教的にとられるものも多かった。原罪としての侵略戦争という見方である。
 総力戦によって貴族階級や中産階級が没落するという第一次世界大戦でのヨーロッパの経験を日本は第二次世界大戦でした。
 オールドリベラリストからみると、「赤」と「軍部」は同じだった。どちらも無知な民衆を扇動する存在だった。彼らにとっては上流階級が支配する大正こそがまともな時代で、無知な軍部が支配した昭和は異常な時代だった。それに対して、若手は明治を重視した。
 戦時中の官僚統制の原因は、丸山真男 によれば「無責任」体制であり 竹内好によれば 「保身」であった。
 日本の優等生文化では、戦前は士官学校の優等生で優遇され、戦後は帝大の優等生が優遇された。優等生は堕落する。堕落を拒否するものは敗北するしかない。
 つねに新しいものを受け入れるのが優等生である。共産主義から全体主義へ。全体主義から民主主義へ。その時々の最新と思われるものを主人としてとりかえるだけであり、独立した思想は決して欲しない。
 60年安保における全学連主流派が用いた「革命」という言葉は純粋性と徹底性の意味であった。
 60年安保後、階級社会から大衆社会への移行がおこった。大学進学率は60年では10%であったものが、70年には24%であり、75年には38%までになった。
 それと同時に近代という言葉が目標から批判すべき対象へと変わっていった。平和と民主主義への批判がおきてくる。このころから戦後存在した思想を戦後民主主義という呼び方をすることが始まった。
 60年代後半から各大学で紛争が多発するようになった⇒全共闘運動。全共闘運動は学生にとってマスプロ授業より面白かった。「民主主義」「平和」「近代市民社会」「近代合理主義」「話し合い」などが否定されていった。その当時の教授はもはや武士ではなくサラリーマンとなっていた。戦後民主主義の正反対の像として高倉健がいた。
 1972年の浅間山荘事件で新左翼のイメージは一気に悪化した。かれらが残したものは知識人の地位の低下であった。

 著者のまとめによれば、戦後思想とは戦争体験の思想化である。
 戦後思想はあまりに男性的であった。それは戦争体験に依拠したから。
 戦争体験をもたない世代の時代になると、戦後思想は力をもたなくなる。

 わたくしは1947年の生まれであるから、もちろん戦争体験をもたない。
 中学に入った年に60年安保があった。わたくしがとにかくもマルクスの著作を読んだのは中学生の時だけである。
 わたくしが高校のころに「戦争を知らない子供たち」という歌が流行った。この歌をわたくしの父親は忌み嫌っていた。「戦争を知らない」なんてことがどうして自慢になるのだ!」と憤っていた。父親は南方の島にいかされ九死に一生をえてかえった人間である。筆舌につくせない経験をしたのであろうが、直接には何もきいたことがない。言葉にできないものがたくさんあるのであろう。「戦争を知らない子供たち」を作詞した北山修は別にそれを自慢したわけではなくて、てんでんばらばらであるわれわれの世代に唯一共通したものがあれとすれば、戦争を知らないということであると考えたわけである。
 そしてこの本を読んで、わたくしが知らないのは戦争だけではなく、終戦直後というのも全然知らないのだということを、あらためて感じた。わたくしが微かにおぼえているのは傷痍軍人というものである。戦争で負傷して身体が不自由になり、おそらくそのために就業できなかったのであろう人が白衣を着て(アコーディオンかなんかを弾いていたかもしれない)電車の中をまわってくるのである。それが何がしかの金を要求する。こういう人たちの姿がみえなくなったのは、いつぐらいからだろうか?
 だからわたくしにとって、この本が圧倒的に面白かったのは終戦後10年くらいの話の部分、55年体制ができるまでの部分である。わたしが小学校低学年までであるから、まずなにも実感がない。そのころまでと、その後では、戦後といってもまったく違う時代なのであるとすれば、戦後の前半を自分は知らないことになる。その戦後の前半は戦争と地続きなわけであるから、わたくしはそういう意味で、完全な戦争を知らない子供なのである。
 そして、そういう完全なる戦争を知らない子供である自分は、戦後の進歩的文化人が好きでない。著者が批判する吉本隆明あるいは加藤典明などのほうに好感を持つ。著者によれば、吉本は本当の戦争を知らず、加藤は55年以前の戦後を知らないでままにものをいっているのであるが。
 わたくしがそのように感じるのは、わたくしにとっての戦争体験に相当するものが全共闘運動であって、わたくしはそれに一切かかわっていないにもかかわらず、その思想的な影響から逃れられていないからなのであろう。内田樹のいうように全共闘運動が徹底的にアマチュアたらんとした運動であったとすれば、そのようなアマチュアであること、プロにならないことへの志向があるのであろう。
 養老孟司もいうように多くの戦後の男たちはプロになっていった。まさに技術的な専門家になってアメリカを見返そうとした。しかしそのような形で体制の中にはいっていくことにどうしても違和感を感じる人間もあり、どうしても何かなじめないもの、自分がよそ者である居心地の悪さを感じるがゆえに、そういう人たちの思想に共鳴する部分があるのであろう。
 もちろん丸山真男も戦争の中で徹底的に違和感を感じるたのであり、それが彼の思想を決定したであろうことは、本書で縷縷説明されてりいることろである。おそらくわたくしが丸山真男に感じる違和感というのは、氏が日本全体の中では少数派であっても、知識人社会の中にあっては多数派でありうると信じているように見える点なのではないかと思う。
 全共闘運動の特異な点というのは、自分が多数派になれる可能性というのははじめから否定した点であるように思う。わたくしが全共闘運動になにがしか共鳴する点があったとするならば、それは自分が絶対に多数派ではありえないという自覚の故であったように思う。
 だから、全共闘運動の中から本気でそれを革命運動だと思いこんでいる人間がでてくるのをみたときまったく理解ができず、一片の同情もできなかった。馬鹿みたいとしか思えなかった。浅間山荘事件などというのも、馬鹿げたエピソードであるとしか思えなかった。彼らはわずか20余名が武装闘争に立ち上がれば、広範な人民がそれに呼応して立ち上がって革命がおきるとどうも本気で信じていたようなのである。この事件が新左翼運動の決定的な衝撃となり、凋落の引き金になったという話をよくきくが、理解できない。あの運動が本気で現実政治とかかわると思っていたひとがいたとしたら、わたくしとは違う世界に住んでいるのだと思う。
 もしも戦争を直接的にひきずった戦後というのが55年ごろに終焉していたとするならば、それ以後の赤軍派などというのは、戦後すぐまだ時代が不安定で改変可能であると見えていたころの幻影をひきずったアナクロイズムということになるのだろうか?

 本書に示されているように日本の思想は右も左も「公」の方に関心をしめすばかりであったのであり、「私」への関心は傍流であった。小熊によれば、「私」という方向を明確にだしたのはほとんど吉本隆明一人ということになる。だから、《「日本」がダメになろうと繁栄しようと、「あなた」には関係ないのではないか。あなたの人生はあなた次第なのである。あなたは日本と運命をともにするわけではない。日本がダメになるだろうかと、いつも「日本」を主語にして考える、その発想がダメなのである。この先、お天気が悪くなることばかり心配しても仕方がない。雨になるとわかれば、自分だけは傘を用意すればよいのである。日本全体が雨でも傘をもっている人は困らない。》(竹内靖雄「日本の終わり」)というような考えは個人主義として排斥されてきた。ヒューム・スミス流の自由主義もリバタリアリズムも日本ではまったく根をもっていない。あるいはそのようなものは、思想の領域ではなく文学の領域と考えられてきたのだろうか?

 本書は大変な労作であるが、著者の見解と単なる事実の挙証との境目が今一つはっきりしない点が問題であるように思う。あることが小熊氏からはこう見えるということと客観的にこれこれであるというのはまったく異なる事態であるが、事実と仮説との峻別というような社会科学方法論への意識が今ひとつ足りないのではないかと思った。