渡辺京二 「対談集 近代をどう超えるか」

  [弦書房 2003年8月15日 初版]


 渡辺氏と7人の対談集であるが、対談相手は榊原英資氏と中野三敬氏以外は知らないひとである。

 「“江戸の平和”とグローバリズム」 対榊原英資
 渡辺:室町時代に日本の村はできた。そのころの村は隣の村と山や水を争うミニ国家であった。そのころの日本人は猛々しく、華美で自己顕示的で他人を信じない。東アジアへの傭兵の最大供給源であった。信長秀吉の施策によって中央集権化が進み、ミニ国家間の争いはありえなくなり、日本は平和になった。日本人は温和になった。
 江戸文学は人情の世界であり、リアリズムの世界であり、「お前も馬鹿だ、俺もそうだ。お互い偉くはない」という世界で、観念的な志向がない。
 江戸末期に西洋に触れた日本人は、事物の抽象、精神の飛翔の魅力にふれた。江戸の「色事」から明治の「恋愛」への変換がおきた。
 岡倉天心はアジアなど何も知らなかった。かれがいうアジアとは西洋への違和感のことである。
 この10〜20年、急におかしなことになってきている。資本主義自体は福祉に貢献した。必要なものを安価に提供した。しかし、この10〜20年、資本主義は必要ないものを売ることでしか存続できなくなってきた。

 「江戸文明は世界史の奇跡」 対中野三敬
 中野;相互に信頼感があれば身分制度は楽に機能する。上司者に倫理を植え付けることができた江戸時代は世界でも珍しい時代である。
 渡辺:江戸時代は外国人からは福祉のない弱者切り捨ての世界とみえた。しかしヒューマニズムがないということは、人間中心の思い上がりがないことでもある。自分の限界を知ることが大事であり、それを知ることにより自分の力を尽くす張り合いもでてくる。

 「9・11テロとグローバリズム」 対大嶋仁
 渡辺:イスラムテロリズムの論理は、抽象的な観念で社会を計画的にかえようとする近代の驕りである点で、スターリン主義毛沢東主義と同根である。近代化に直面してキリスト教は中世的な神の観念を反省した。イスラムはまだそこを通過していない。世界を善悪にわけ、自分を善とし、異教徒を改宗させなければならないとするのはスターリニズムと同じである。イスラムはバナキュラーなものを否定する。

 「石牟礼文学をどう読むか」 対岩岡中正
 渡辺:ドストエフスキーはローマ法的な契約の世界を西ヨーロッパの原形とみた。そこではすべてが利益に還元され、ロシアのもつ他者への共感能力は失われるとした。

 「「歴史」をどう書くか」 対有馬学
 渡辺:いまの若者にとって、高度成長以前は古代である。暗くて貧しいだけの世界。日本だけでなく世界の若者が歴史の重圧から開放された。それは同時に人間が風土性を失うことでもある。

 「知識人のあり方を問う」 対武田修志
 渡辺:漱石の「三四郎」の広田先生はその当時の愚劣な社会では何も本気でしようとはしない人間である。しかしそういう姿勢では性根がすわらず、自分の身をすら律することすらができない。
 修養とは、自分を肯定しないこと、畏怖すべきもの大切なものに照らされて自分を恥じるということである。自分が西洋文学を好きなのは、崇高なもの、清らかなもの、気高いものを求める気持ちがそこにあるからである。日本の文学には理想主義をせせら笑うという悪しき伝統がある。それは江戸文芸に理想がなかったから。
 18世紀にはじまった批判的知識人は歴史上の特殊な存在であって、もはやその役割をおえた。19世紀から20世紀前半に生まれた大思想、それによる社会批判、社会変革への志向は破産した。

 以上少しづつ抜書きしてきたが、渡辺氏がきわめて倫理的な人であることは、これら断片からもうかがえる。
 渡辺氏の根本は、この世を生きて甲斐あるものにするにはどうすればいいかというきわめて真っ当な問いにあるのだが、一方知識人がそれを主導して実現できるとするような思い上がり、傲慢をきびしく否定するので、結果するのが、まず自分が生きて甲斐のあるように生きるという倫理的な要請なのである。
 氏によればわれわれの生を生きて甲斐あるものにするのは、イリイチのいうヴァナキュラーな何かなのであり、生活に根をもつことである。ドストエフスキーのスラブ、石牟礼氏の文学にあるある種の生命的なもの、さまざまな筋を通ってそれが探られるのだが、これはニーチェやロレンスの近代批判にいきついてしまうのではないかと思う。そしてそれらは敗北にいたる道であることは歴史が証明してしまっている。近代人でありながら、そのような道を追求することは、必ず敗北するしかないのである。できることは自分の不幸が何に由来するかをしることそれだけである。自分がなぜ不幸であるのかを知っているということをプライドにして、おのれの不幸を自覚していない大衆を笑うという姿勢は退廃している。渡辺氏はそのことをよく自覚している。それに陥いらないようにするにはどうするべきか? それが渡辺氏の常なる課題である。その課題を手放さないこと、それを手放せば退廃へとまっしぐらであることの自覚が渡辺氏の著作を緊張させている。つまり渡辺氏の論からいえば、何か書くこと、それを人に伝えようとすること、それ自体がすでに氏の姿勢に反する危険性をはらんでいるからである。だまって市井で充実して生きる、それだけをしていることができないのである。他人にもまた充実していきられるようにするための指針としてそれは書かれるのだろうか? むしろ書かれたものは読者の不幸を指摘するものであっても、読者の生を充実させるものではないとしたら・・・。
 現在における知識人の位置ということについて、多くの思考をいざなう本である。