水谷三公 「丸山真男」

   [ ちくま新書 2004年8月10日初版]


 最初のほうに、丸山真男は「世間」の人ではなく、「社会」の人であったという指摘がある。「社会」はムラ八分もいじめもない、欧米近代にある自由な個人の自発的な協力と連帯を約束するものであったが、それが日本に定着しないのは、知識人の啓蒙不足によるのではなく、単にそんなものは世界のどこを探してもないからだという。丸山たちのしたことは、「世間」をこわしただけであり、そのあとには空白が残されているという。
 この視点から本が一冊書かれるのかと思って期待して読んでいったのだが、あとは丸山真男マルクス主義社会主義の幻想を捨てることができなかった人なのだというようないまさらいっても詮無い繰言であった。
 だから読んでもしかたがない本であったが、最初の指摘だけは重要である。
 「世間」をこわすということにおいて丸山真男はそれなりの貢献をしたのだろうか? それとも丸山真男がいてもいなくても、「世間」は自然にこわれる運命にあったのだろうか?
 明治において西欧を受け入れたそのこと自体が「世間」を着々とこわしていく動力となったのだろうか? それとも西欧受容が浅薄だったからそうなったので、西欧にも「世間」に相当するものがあり、それは西欧の奥深くに隠れていて一見してはなかなか見えないものであるため、こわさなくてもいい「世間」をこわすことになってしまったのだろうか?
 それならば「世間」は日本でだけ壊れつつあるのであり、欧米においては依然として強固なものとして残っているのであろうか、それとも日本と同じで、何かの力が欧米でも欧米の「世間」を破壊しつつあるのだろうか? そうだとすればその力は何なのだろうか?
 おそらく晩年の丸山は「社会」というようなものに甘い幻想はまったくもっていなかったであろう。日本の歴史を通じて流れる基層低音というようなものに関心が向いていたように思う。
 それでも「世間」を丸山は嫌い続けた。わたくしもまた「世間」が嫌いである。それがわたくしを一人にしておいてくれないから。それなら、あなたは一人でいて幸せなのですか?ときかれれば少しもそうではない。一緒にいたくないひととは一緒にならないでいられる自由、それが欲しい。一緒にいたい人とだけ一緒にいられれさえすればいい。それはわがままである。たしかにそのとおりである。自分がかかわりたくない人ともかかわっていかないと、世界が小さくなり、視野が極端に狭くなってしまうかもしれない。それはそうなのだが、それでも・・・。