橋本治 「「広告批評」の橋本治」

   [マドラ出版 1995年3月25日 初版]
    その1 「なぜ「結婚」したの?」


 先日開店したばかりの東京駅の丸善本店で偶然みつけたもの。現在、絶版であるらしい。再販制度外というか買取で返品しない本らしいから、売れずに残っていたのであろう。

 最初の浮世絵の話、次の歌謡曲の話、その次のマンガ哲学辞典、高橋源一郎との対談、その次の「パンツのウラオモテ」という論までは省略して、その次の「なぜ「結婚」したの?」から一篇づつみていく。

 「なぜ「結婚」したの?」
 結婚していない人間にとってその理由は、別に積極的に結婚しなきゃいけない理由がない、結婚したい理由がみつからない、自分の暮らしに不都合を感じていない、というだけである。そういう人間は結婚している人に、あなたはなぜ積極的に結婚したいと思ったのですか?とききかえす。きかれたほうは別に積極的な理由なんかないよ、と答える。
 結婚するかしないかは、個人の選択如何である。しかし、それは個人に選択能力があることを前提とする。
 昔は、結婚しないと食べていけないということがあった。ほとんどの女性がそうであったのだが、次男以下の男もそうであって。女性は結婚以外の自活の道がほとんど閉ざされていたし、男は一家を代表してはじめて一人前であると遇されたから。
 現在、この条件はくずれた。昔は結婚にはメリットもたくさんあったのである。
 現在では、結婚するかしないかは、ローンを組んで持ち家をもつか、一生借家住まいでいくかの間の差のようなものに過ぎなくなってしまった。 
 結婚しないで、一人で生きていくつもり? という問いも過去にはあった。これは結婚生活=性生活の時代の話である。これも過去の話である。
 一人で寂しくない? という問いもある。これにも「別に!」と答えれば終わり。
 かつての結婚はパック旅行のようなものであった。現在結婚が揺らいでいるのは、パック旅行では満足できないひとが増えてきたのと同じである。
 しかし、すべて自分の責任で選択することがどれだけの人に可能だろうか? 自分で食べていける仕事をもって、セックスの相手をちゃんと見つけられて、一人でも寂しくないと公然といえる人間がどれだけいるか? すべて個人の力量が問われる。
 だから、現在でも、結婚については、平均的な能力しかもたないひとは、平均的な生きかたをするしかないという解答が一つの解答として、用意されている。
 近代自我にはゴールがみえない。結婚はそこに用意されている仮のゴールのひとつである(就職も、学校にいくこともまたそういう仮のゴールなのであるが・・・)。
 現在の人間の問題は、結婚してから、それを糧にして「自分というもの」をつくることをするのではなく、結婚する前から自分をつくり過ぎてしまうところにある。だから、相手に譲歩を要求しても、自分は決して譲歩しない。結婚のトラブルの大概はここから生じる。
 グリム童話で、カエルになった王子様とお姫さまが結婚する話がある。お姫さまは結婚の承諾の印としてキスをすることにより、王子はもとの王子の姿に戻るのであるが、もしそのままカエルのままであったら? 結婚とは相手がカエルであっても、それを受け入れるという覚悟から成立する。そうでなければ他人との生活などなりたつわけがない。結婚というのはミもフタもないものなのである。
 いつのころからか、人は覚悟をしなくなった。
 ところで最近、変な女が増えている。カエルとなら結婚するが人間とはいやだ、などというのである。

 橋本治はほとんどわたしと同い年であるが、結婚していない。それがこういう文章を書いているわけである。
 さて、自分はなぜ結婚したのだろう。
 第一は、とにかく家からでたかった、独立したかった、ということがある。結婚してはじめて一人前と思っていたのだろうか? とにかく結婚ということをしたかったのであって、結婚したい相手ができたから結婚したのではなかった。結婚することにして、では誰にしようかな、という順序。どうもスタートから間違っているようである。でも見合い結婚などという、もはやなくなってしまったかもしれない制度が、わたくしが若かったころには厳然とあったのだから、そういう結婚のありかたも社会から公認されていたのではあろうが。
 親元から通学し、通勤もしていたので、結婚でもしなければ家をでる口実がなかった。25歳過ぎたら家をでて自活しろなどという親ではなかったし、第一、そのころ医者になりたてで自活できる収入などなかった。まあ、三島由紀夫が「永すぎた春」という婚約した男女が結婚式までどうやって処女と童貞をまもっていくかという今から考えると信じられないような話を書いていた時代だから、一人で生きるのも大変だったし。
 間違いないことは、結婚前に「自分」というものができていると思っていて、それが結婚で変わるとか、結婚によって自分を作っていくという可能性をまったく考えていなかったことである。これがすべての災いの根源となっていることは間違いない。
 それからしてきたことは、できあがっていると思っていた自分の像を少しずつ壊して、フレキシブルな自分というものに変えていくことだったように思う。そのための力となったのは主として仕事の上での経験であって、結婚生活での経験ではなかったように思う。どうもわたくしは結婚からほとんどプラスのものを学んでいない。
 橋本の論考でまったく考慮されていないのが「家」という考え方である。ここで論じられているのは徹底して、個人同士の結婚である。しかし、いまだに多くの披露宴などは○○家と××家の結婚である。「家」意識などというものはほとんど形骸化しているであろうし、わたくしにもそのような意識はまったくないが、まだ「家」を継ぐという意識の結婚もないことはないように思う。それはある意味で食べていくための結婚という側面を残していて、平均的な人間の結婚として十分に肯定されうるものなのかもしれないが。
 わたくしの若いころは結婚をするのが当たり前で、しないとどこか変なんじゃないとかいわれる時代であった。今は結婚は少しもするのが当たり前のものではなくなってきている。とすると、橋本のいう平均的な人も結婚しないことが多くなっていくわけである。どうも橋本は結婚しないで一人で生きていけるような強いひとはそんなに多くはないよ、と思っているようなのであるが・・・。