橋本治「広告批評の橋本治」  その2 橋本流「社会主義」入門


 右翼とは反動である。左翼の思想がまず先にでて、その後で右翼の思想がでる。
 ソヴィエト崩壊時のソヴィエト共産党の行動は「反動」であった。民主化運動が左で、ソヴィエト共産党が右であった。
 平面上で位置を決定するには、縦軸と横軸の二つの座標軸が必要である。
 左翼は横の思想、右翼は縦の思想である。
 左翼が縦にこだわるようになったら、それは崩されるべき既成である。
 既製の現実はいつでも上下の縦である。それを崩そうとして横の思想がうまれる。民主主義は横の思想。その民主主義にも上下の縦をみるのが社会主義共産主義の思想。
 そんなことをされたら秩序が崩れるというのが右翼。
 既成の現実の高さに由来する誤りを崩そうということでまず左翼が生まれる。そこから生まれる無秩序の混乱を元に戻そうとして右翼の思想が生まれる。
 社会主義は横一列の思想。友情・同志・平等な男女関係。親子でなく家族。
 王様や殿様など上下の秩序が機能しているときには右翼はでてこない。それがやばくなってはじめて右翼は生まれる。
 左翼思想は友情の論理。右翼思想は一家内の論理。
 縦軸・横軸だけの世界はない。その両方にめくばりが必要である。
 20世紀後半に、自由主義圏・社会主義圏ともに、内外の貧富差がなくなる方向に進んだ。社会主義はみんなが貧乏に、自由主義圏ではみんながやや豊かに。
 社会主義圏での最大の問題は、マルクス主義は果たして本当に正しいのかという議論が許されなかった点にある。マルクスは所詮、一人の思想家にすぎないのに。今すでに死んでいるひとが、今の現実を見てどう考えるだろうかに正解があるはずはない。それがマルクスが生きてたなら、われわれのように考えるに違いないという主張のもとに、権力争いが行われた。
 社会主義は友情の思想であり、自分のことばかりでなく、困っている他人のことも考えようという思想である。それにそっぽを向いて、”オレのことしか考えないのも自由である”と主張した自由主義者はいやな奴であった。
 ではなぜ社会主義は崩壊したのか? それは「どうして、”自分のことばかりでなく、困っているひとのことも考えよう”ということばかりいう人間はいやな奴なのか?」という疑問が生まれてきたからである。そういう人間が貧乏くさくダサいと思われるようになったのである。”ひとのため”ばかりいって”自分”のない人間は嫌悪されるようになったのである。また社会主義は男の思想であって、女から”みんなのことを考えよう”ってあなたはいうけど、そのみんなの中にわたしは入ってるの?といわれて、言葉がなかったのである。
 社会主義は乏しいものを分かち合う段階で崩壊した。しかし、いまだ実現していない共産主義は、金持ちでなければできない思想なのである。「おれそんなものいらないからだれか好きなひともっていっていいよ」、というのが共産主義である。”平等”ではなく、”必要に応じて”。
 社会主義になかったのは、モノを流通させる市場。
 日本のその逆で、モノの流通はあるが、本質的な議論がぜんぜんない。言論の市場がない。
 友情は横軸だが、恋愛は縦軸。これらは相互に交換可能なはずなのである。

 橋本が以上の論考をしたのは、ソ連が崩壊してまだそれほと時間がたっていない時期だった。
 現在、社会主義はほとんど信奉者がなくなり、現在の左の思想の主流はポストモダンとかフェミニズムといった”反”の思想である。反=近代、反=支配、反=抑圧、反=男。それらは”反”であるという点においては、反動であるのだが、縦の関係に反対している点において左翼なのである。これらが反対しているのは相手の”動”に対してではない。相手は何も動きのない既成であって、壁のように立ちはだかっているだけなのである。
 社会主義崩壊後、今まで社会主義を主張していたものが環境運動とかに逃げ込んでいるとかいう悪口がよくいわれるが、たぶんかれらは支配への反対、横の思想という点では一貫している。
 横の思想、困っている他人をどうにかしよう、の実現の手段として、市場経済しかないのかというのが問題である。今の中国など見ていると、そう信じているとしか思えない。複雑な利害がからまった複雑な方程式を最適に近いかたちで解いてくれるものとしては市場経済しかないというのがコンセンサスのようである。今後、計画経済が主流となることはないのであろう。経済的に困っているという問題については社会主義の論は敗北したのである。しかし、他人が困っていることは貧困とは限らない。その点でまだ横の思想は生きているのである。
 わたくしのことを考えてみると、”自分のことばかりでなく、困っているひとのことも考えよう”ということばかりいう人間はいやな奴が多いとは感じたが、そういう人間が貧乏くさくダサいと考えたからではない。そういうことをいっている人間が本当は、困っているひとのことなどは考えてもいず、ただ相手をエゴイストと規定し、自分はエゴイストでないと規定することによって、相手より有利にたとうということしか考えていない、エゴイストであると考えたからである。
 相手は横の関係ではなく、支配−被支配という関係・縦の関係にこだわっていると思ったのである。それならばわたくしは横の関係を信じていたのか? 絶対にそうではなくて、ひとから支配されるのがいやだったのである。と同時に人を支配するのもいやだった。ただ無関係でいたい、抛っておいてくれということであった。こんなのは思想でもなんでもなくてただの感性にすぎないのであろうが、おそらく吉行淳之介あたりを経由した感性である。
 しかし、こういう感性というのは寂しいものであって、人間関係から逃げていると、貧しく痩せてくる。人間関係から意識的に逃げることをしなくなったのは40歳ごろであろうか? 自分に少し自信ができてきて、他人が介入してきてもそう簡単には壊れないという自信ができてきた? それとも自分なんか壊れてもかまわないと思えるようになってきたのか? どちらなのか、自分でもわからないが、どちらもあるのであろう。いずれにしても、自分へのこだわりが減ってきたことに由来することは間違いなさそうである。
 それと同時に困っているひとのことを考えるようになったのであろうか? 困っているひとのことを考えるという言葉には今でも傲慢を感じる。いまだに人の上にはたちたくない。ただ仕事というのはいやでもおうでも人とかかわることであって、ひとに影響を与えてしまう、そこからは逃げられないという覚悟のようなものだけはできてきたように思う。あるいは仕事のなかで困ったひとに何がしかのことができている局面もあるのかしれない。それを謙虚に受ける気構えだけはできてきたのかもしれない。
 橋本のこの論を読んで、自分は横の関係よりも縦の関係にずっと敏感なのだなと思う。ただ若い時のほうが右で、年をとるにしたがって少し左にシフトしてきているように思う。年をとるにしたがって、かえって若くなってきているのであろうか? あるは単に少しも成熟できないということなのかしれないが・・・。