内田樹 「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」

  [海鳥社 2004年10月20日初版]


 難しい本である。ラカンレヴィナスの本がなぜ難しいのか? それは簡単にはわからないように書くことによって、読者にあなたは何をいいたいのかという問いを励起させることをめざしているのだと内田はいう。それならば、この本も読者にそのような問いがおきることを期待したものなのだろうか? しかし、この本は懸命にやさしく書こうとしていて難解なのである。
 『「存在するとは何か?」(qu'est-ce qu'etre?)という問いには、すでに「存在する」(etre)という動詞の三人称現在単数形(est)が使われている。問われている当のものの支えなしにには問いそのものが立ちゆかない。』などという文章は、be動詞、sein動詞、etre動詞というものが存在している西欧言語体系内でしか成立しない議論である。内田は深く西欧哲学に親しんでいるから、このように書くことに抵抗がないわけだが、日本語で書かれた部分だけからは、<問われている当のものの支えなしにには問いそのものが立ちゆかない>などということはおきない。「何か?」という文には「存在する」という文を先取しているものはないから。ハイデガーの哲学というのもbe動詞の分析ではないかという気がすることがあるが、この本は西欧哲学での問題意識を当然の前提にしている人を読者として想定しているのである。
 ラカンのいう想像界(l'imaginaire)と象徴界(le symbolique)などということをいきなりいわれても困るのである。とにかく想像界というもので今までの西欧哲学の思考法をいい、象徴界というものでそれを乗り越えるラカンの思考法をいっているのかとも思うし、意味から関係へ、、知識から作法へ、ものからものでないものへ、既知から未知へ、閉じるから開くへ、頭から体へ、見ることから聴くことへ、近代を超えること、その他多くの連想をさそうのだが、これG・ベイトソンではないのかな、ベイトソンのほうがよっぽどわかりやすい言い方でいっているぞという念を禁じることができない。
 問題は最後の4・5章「死者の切迫」と「死者としての他者」である。
 レヴィナスは、あるいはラカンは、「ホロコースト」はヨーロッパ形而上学を涵養した風土から直接生み出されたと考える。それは西洋文明の鬼子ではなく正嫡子である。そう考えるがゆえに、今までに西欧哲学の伝統的な発想で「ホロコースト」を批判することは無力であり、「ホロコースト」での死者への礼節を欠く行為である。透明で中立的な主体による批判はありえない。自分の外部にある邪悪によって世界の出来事を説明することは許されない。自明な<私>は許されない。<Cogito>を根拠とする思考法、自分が正気であることを前提とする思考は許容されない。その例としてカミュの「異邦人」があげられる。この小説における母親の死を正しく弔うとはどういうことであるのかという問いは、そのまま大戦における死者の弔い喩であるとされる。
 ここで問われているのは、第二次世界大戦における膨大な死者の弔いの問題だけである。しかし、それにもかかわらずここには内田の個人的な体験、学生運動における仲間たちの死という問題意識が濃厚に立ちあらわれている。そのまったく無意味にみえる死をどう弔うのか? その死が自分にではなく、別の誰かにきたことをどう考えるか?
 その死をなんらかの意味づけによって汚さないこと、その死を意味づけることにより自分が義の人にならないように禁欲すること、その学生運動は、<ヨーロッパ形而上学を涵養した風土から直接生み出された>のだから、<ヨーロッパ形而上学を涵養した風土から直接生み出された>言説によっては、絶対に、その死を飾らないこと・・・。わたくしがそのように読むのは、文庫版での高橋源一郎ジョン・レノン対火星人」の内田による解説を読んだことがあるからなのだが、それを読んでしまった以上、それ以外の読み方をすることができない。
 そう考えるならば、最初の3章もまた、ヨーロッパの知という一般的な問題ではなく、学生運動という不毛を生んだ知のありかたの問題点というきわめて具体的な問題意識に裏打ちされていると考えなくてはならない。
 しかしあくまでも本書は、レヴィナスラカンカミュの今次大戦へのかかわりかたという構造を崩さない。もしわたくしが、高橋源一郎の本の内田の解説を読んでいなければ、それによって内田の個人的な体験を知っていなければ、今回のような感想はでてこなかったはずである。本書でもラカンがあのように曖昧で難解な書き方をするのは、そうしないと大戦の死者が許さないと感じているからだ、と誰かが書いているのを見て、初めてラカンの本が腑に落ちたというようなことを内田は書いている。本書において安易に自分が体験した学生運動のことなど書くことはその運動における死者が許さないのであろう。それを書くことを禁欲することによって、本書が一般的な広がりをもつものになったのか、それとも抽象的でどこか身に沁みないものになってしまったか、それが難しいところである。


(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

他者と死者―ラカンによるレヴィナス