P・リトル 「遺伝子と運命」

  [講談社ブルーバックス 2004年12月20日初版]


 分子遺伝学者による、遺伝学の現状についてのきわめてバランスのよくとれた啓蒙書である。
 (遺伝子変異)+(環境)=(わたしたち)というのが著者の主張の根本である。われわれは遺伝だけで決まるのではないし、環境だけで決まるのでもない、という実に穏健なことをここでは述べている。遺伝子でなく遺伝子変異というところがミソである。
 われわれの何かの一部が遺伝で決まるというと、その決まった部分は一定不変となってしまうようなイメージがあるが、われわれを決定する遺伝子は多数あり、そのそれぞれが個々の人に固有な変異をもっており、その変異によるばらつきがの集合がわれわれ一人ひとりの違いや個性をつくりだしているという点に注意を向けるために、この言葉が使われている。
 ヒトとチンパンジーが違うのは、遺伝子の違いによるが、ヒトそれぞれが異なるのも、また遺伝子のばらつきにもとづく、すなわち遺伝による部分が多いことをこの言葉はいっている。
 遺伝子によるというと、それが決定論としてうけとられることが多い。著者は簡単な計算を示すことにより、まったく同じ遺伝子変異の組み合わせをもった人間が地球の歴史時間上に生まれる可能性はゼロであること、したがって人間一人ひとりはまったくユニークであることを示す。われわれ一人ひとりはかって一度も存在したことのない人間なのであるから、われわれがどのようなものになっていくのか予想できるひとはいない。われわれは決定されてはいないのである。
 現代遺伝学から見れば、人種という集団が存在する科学的根拠はない。ある集団にしか見られない遺伝子変異というものがないからである。それは人類の歴史が遺伝学見地からは短すぎるからである。言語の違いなどはまったく文化的なものであって遺伝学的基礎をもつものではない。人種というのも文化的な概念なのである。
 脳は生後の環境によって配線が変わるという特徴をもつ。ネイティブとして二ヶ国語を話すひとと、成人してから第二外国語を学んだひとでは、言語活動に用いる脳の部分が違っていることが知られている。
 研究データから見て、個性の5割以下が遺伝子変異の影響であり、5割以上が環境によるものであろう。知能が遺伝子変異により決定されているというと、それなら努力しても無駄だという意見がすぐでる。しかし、環境による部分も大きいのだから、そのような見解は誤解である。しかも現在まだIQの高いひとと低いひとの間での脳の物理学的な違いはみつかっていない。
 アメリカの黒人の平均IQが90、白人が100、アジア系が110という結果が知られている。これは何を意味するか? これだけでは遺伝子変異と環境のどちらがどの程度影響しているかは何もいえない。というか現在それを厳密に解析する手段はない。どちらかといえば環境による影響が大きいだろうという程度しかいえない。
 しかし、これらの間で遺伝子変異の差異がないということもいえない。それならば、それらの研究は人種差別を助長するのですべきではないのだろうか? 決して、そういうことはない。どういう結果が出ようともある集団で平均としていわれたことが、その個々の成員に直接あてはまるわけではないことを、絶対にわすれないようにすればいいだけである。
 
 ここでは人種差別のことがいわれているだけで、男女差別のことはまったくいわれていないが、この本でいわれていることだけで、前稿の斉藤氏への反論としては十分でろう。たとえ、男女間で平均では遺伝に由来する差異があったとしても、個々の人間についてはまったく何もいえないというだけである。個々の男性、個々の女性を見れば人様々なのである。フェミニズムの陣営が女性と男性には生まれたときには何の差もなく男女の役割分担はすべて文化的に後天的に規定されたものであると主張するのは(もちろんそんな単純なことをいっているのではないことはよく承知しているが)、「オニババ・・」で三砂氏が、女性の幸福は出産にありと主張するのと同じ地平にいる。他人の幸福がどのようなものであるか、本人は知らなくても自分は知っているという見地からものを言っているからである。両者ともに、実に画一的にものをみている。
 一方には女性は家にいるべきである。子供を生むのが幸福なのである云々という議論がある。他方に女性は家にいるべきではない。子供を生むのが幸福とは限らない云々という議論がある。問題は家にいるべきか、いるべきでないかではない。個々の女性が、いたいかいたくないかである。家にいたくないと思ったときにパートナーが家にいろといったとするとそこで問題がおきる。家にいることは面白くないことなのであるとすると、その面白くないことをなぜさせられなければいけないのかという疑問がでてくる。その面白くないことを強いものが弱いものに力で押しつける、その構造が問題になってきたわけである。
 かつては女性も(労働+出産+育児+家事)をせざるとえない時代があった。農業の時代である。それが女性が労働をせず(出産+育児+家事)だけをしていればいい時代に変化したとすると、それは女性にとっては歓迎すべき時代であった可能性がある。しかし、家事というのが甚だ面白くないものであり、して当たり前、しても誰からも評価されないものであるとことがわかってくると、面白いことをしたい、他人から評価される仕事をしたいという欲求がでてくるのもまた当然である。そして、仕事に進出してもたが、今度は仕事といわれるものの大部分はただ労苦であるばかりのものであり、してもほとんど評価されることもないものなのであるということがわかってくると、そんなものはしないで暮せればそのほうがいいという考えもまたでてくるかもしれない。つまり現在の労働がただ苦役であるのならば、そんなものは自分がせず、他人に押しつけたほうが勝ちである。
 もしも出産、育児が、生命をあつかうが故に他の労働とは比較にならない喜びがあるものであるものであるとしたら、農業もまた命をあつかうものとして他の物質をあつかう労働などとは比較を絶する喜びをひとにもたらすものであるのかもしれない。しかし、命を相手にすることほど苦労が多いことはなく、またそれはしばしば報われないこともあるとしたら、そんなものには手をださないほうが賢明という考えもでてくる。
 労働のほとんどが苦役なのであるとしたら、そんなものは男におしつけて自分は楽したほうがいいという女性がでてくるのは当然である。
 フェミニズムの出発点は家事とはつまらないものであり、女性は社会にでてもっと有意義な仕事をすべきであるというものであった。しかし今まで男たちがやってきた仕事に参加したときに(まだ全然参加などさせてもらっていない、ほんの少し参加できたと思ったら、また排斥されつつあるというのが正直なとこであろうが)、なんだこんなことだったのか、こんな苦労ばかりで報われないことの多いことを男たちはしていたのかと思ったとすると、それだったら家にいたほうがいいということにもなりかねない。
 とすると、本当に議論すべきは「仕事」についてなのである。もしも仕事こそが人を活かすものであるならば、女性が男性と対等に仕事をもてる仕組みを社会はつくりあげていかなくてはならない。しかし「仕事」が単に苦役にすぎないとしたら、生物学的特徴を利用して、女はそういういやなことは男におしつけて、悠々としていればいいのである。
 そしておそらくこれからの時代の仕事は、一部の面白いやりがいのある仕事と、残り大部分の単調で面白みのない仕事にわかれていくのであろう。女性の職場には総合職と一般職という区別がある。これからは、男の仕事も大部分は女性の一般職的なものになっていくのかもしれない。
 人類の歴史の中で、女性が育児を苦役であるとして放棄するようなことがおきていたら、人類は絶滅していたはずである。男性が狩りと採集を苦役であるとして放棄していたら、やはり人類は絶滅していたはずである。だから女性のどこかに本当は苦役である育児を喜びであると感じるところが残っているかもしれないし、男性のどこかにも本当は苦役である単純な労働を喜びであると感じるところが残っているかもしれない。だから仕事の大部分がこれから単調で面白みのないものになっていった場合、それへの耐性は男性のほうが強いかもしれない。そうだとしたら、これからも仕事はどちらかといえば、男のものであり続けていくのかもしれない。
 しかし、それはあくまで「平均」の話である。個々の男性、女性には一般論は通用しない。わたしは仕事をしたいという女性に、そんなこといわずに子供を産めといわないこと、わたしは子供を産むという女性に、そんなことをせずに仕事をしろともいわないこと、それが大事なのであろう。
 もちろん、そういう女性が自分の意思で決めたと思っていることは、実は社会的文化的な通念を無意識に受け入れているだけであって、本当は自分の判断ではないという見方もあろう。しかし、少なくともその決定のある割合は自分ではそうと意識していないとしても、文化的社会的なものではなく、生物学的遺伝学的に規定されているのだということは、本書をふくめた生物学の知識から自然に導かれることである。
 ひとは生物学的に規定されているとしても、それから逃れることができる、それが決定的に重要なのである。それがわれわれの自由なのであるから。



(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)


遺伝子と運命 (ブルーバックス)

遺伝子と運命 (ブルーバックス)