P・ゲイ 「シュニッツラーの世紀 中流階級の成立 1815-1914」

  [岩波書店 2004年11月26日初版]


 毎日新聞の書評で紹介されていたもの。吉田健一が「ヨオロツパの世紀末」で18世紀の優雅と対照させて徹底的に卑俗なものとして描いたヨーロッパ19世紀のブルジョアについて論じた浩瀚な本である。
 そのブルジョアの一人として作家シュニッツラーがとりあげられている。ゲイによればシュニッツラーは仕事中毒であり、自分の恋人が処女であることにはかない希みをかけ、文化の鑑賞力があることを自負するが、シェーンベルクジョイスには懐疑的で、決闘のような貴族の因襲は軽蔑するといった人間であった。確かなものはどこにもないというのがシュニッツラーの格律であり、また19世紀ブルジョアの格律であった。
 この時代はヴィクトリア女王の統治(1837〜1901)とほぼ重なる。いわゆるヴィクトリア朝的偽善を体現しているのがブルジョアであるとされることが多いが、ブルジョアはもっと多面的で複雑なものである。たとえば、ヴィクトリア朝時代のブルジョアの多くは通説とは違って性を楽しんでいた。かれらは決してとりすました上品ぶった人間ではなかったのである。
 この時代のブルジョアはまだまだ少数派であった(人口の10〜15%)。
 ブルジョアは作家や芸術家からは徹底的に馬鹿にされた。偽善的で、精神性がなく、卑俗で、寛容と慈愛に欠けるという現在のブルジョアのイメージを作ったのは、それらの芸術家や作家たちなのである。
 19世紀ブルジョアを特徴づけるものは家庭であり、幸せな一家という像である。実は仕事の上で男女の分割が明確になったのが、この時代なのである。その時代すでに、当時の近代的な家族形態を嘆き批判する言論が見られる。父権の失墜、宗教からの離反、共同体の消滅、個人主義的なありかたなどである。
 この時代、家族崇拝の風潮が高潮し(いとしきわが家!)、男たちは家族のためにはたらくという規範ができあがった。女性自身も女は男より能力に劣ると考えるようになり、わずかに家庭の中でのみ自分の能力を発揮できると考えた。一般に、女性の得意分野は感情の領域に限られると考えられていた。この当時、女性が殺人を犯しても無罪になることが多かった。女性が理性をもつとは考えられていなかったからである。女性の脳は男性より小さく未発達であると当時の医学と人類学が保障した。たとえばシュニッツラーはその日記の中に、女性は信頼に値せず、想像力に乏しく、みな売春婦なのだといったことを書いている。
 この当時の大きな変化として「恋愛」という観念の普及がある。以前は商談の一種のようであった結婚が、恋人たちの自己決定によるものとされるようになってきた。
 この当時、すでに出生率の低下が各国で問題となっていた。避妊・産児制限が具体的なものとなってきていたからである。夫が妻の出産に立ち会うのは普通のことであった。
 この当時についていわれる(性を連想させるから)ピアノの脚を紙の覆いで隠したというような話は大部分捏造であるが、女性は性の喜びを感じないというような説が流布していたのは事実である。そう信じたがった人がヴィクトリア朝時代にいたことは事実である。
 当時の人間は攻撃性を人間に備わったものと考えていた。それを進化論が支持すると考えていた。当時、体罰を悪とするものは多くはなかった。特にイギリスのパブリックスクールはそうであった。
 神によってあるいは進化によって選ばれた白人が世界を支配し、劣等民族を救うという信念はあまねく支持された。アーリア人種という観念も19世紀半ばに発明された。底流としては以前からあった反ユダヤ感情は、1890年のドレフュス事件で表面化した。以前の反ユダヤ感情は宗教的なものであったからキリスト教に改宗することでそれから逃れることができた。このときになると、それが人種的なものとなってきたので、逃れることができないものとなった。
 この当時、神経衰弱という用語が作られたが、その第一の原因をされたのが、産業社会化による分業の普及と都会の喧騒であった。それは「疎外」と呼ばれ、「アノミー」とも呼ばれた。しかしフロイトはその原因をヴィクトリア時代中流階級における過剰な性の抑圧であると考えた。このフロイトの説は現在の時点から見ると行きすぎであると思われるが、精神の出来事にはかならず原因があるとした点は画期的であった。彼は宗教を迷信であるとし、科学を上においた。それ以前には悪魔憑きや神罰であるとされていたものが、宗教の後退によって医学の領域に入ってきた。
 かつては安定の時代であった。それが変化の時代へと変わろうとしていた。変化は心に傷を残す。絶え間ない改良と進歩の理論がヴィクトリア時代を支配した。この変化の象徴が鉄道であった。
 この当時のブルジョアは、労働を神聖なものとした。貴族はそう考えなかったし、労働者はいやでも働かなければならなかったのであるが。
 リットン・ストレイチーの「ヴィクトリア時代の偉人たち」が現在のヴィクトリア朝ステレオタイプなイメージを作った。しかし、われわれはもう一度、自分の目でヴィクトリア時代を見直すことをはじめなければならない。
 
 はじめにも書いたように、この本は毎日新聞の書評で知ったのだが、読んでいるうちに著者のピーター・ゲイという名前をどこかで見たことがあるような気がしはじめた。その内に、昔読んだ山口昌男の本であったような気がしはじめたので、本棚から「本の神話学」をひっぱりだしてきたら、確かに最初のほうに、《ピーター・ゲイの「ワイマール文化」》という項があった。本の刊行が1971年だから、読んだのももう30年以上前、こちらが25歳ごろであろうかと思われるが、その時の呆然とした感じというのは今だに記憶に残っている。一体、山口昌男という人はなんでこんなにいろんなことを知っているのだろうという驚きである。この本でワールブルグ研究所というものを知り、カッシラーという名前を知り、クルティウスの名前を知った(知っただけだけれど)。なにしろ、原書を読んで翻訳の間違いを指摘したり、ゲイの思想的背景をさぐったりするかたわら、ワイマール時代にかかわる聞いたこともない名前について次々と論じていくわけで、ただもう驚きであった。その時それに刺激されて買ったらしい「ワイマール文化」も本棚の片隅に読んだ形跡もなく埃を被ったままになっていた。ゲイの名前もふくめ、その本を買ったことすら、すっかり忘れていた。
 ということで、ゲイは19世紀のブルジョア時代をふくめたヨーロッパ近代思想史の専門家、大碩学であるらしい。19世紀をめぐって書かれたもっと大きい著書もあるようだが、本書はシュニッツラーを狂言回しにして、自説を簡明に述べることを意図したものとなっているということのようである。
 シュニッツラーは、わたしが学生のころには、岩波文庫などに「輪舞」とかいくつかの作が収められていたように覚えているが、最近ではほとんど忘れられた作家となっていた。それがキューブリックの遺作「アイズ・ワイド・シャット」の原作としてシュニッツラーの作が用いられたことから、少しリバイバルしているらしい。
 ゲイのこの本もそれに関連して執筆したシュニッツラーについての小論がもとになったらしい。ゲイはフロイトに帰依しているらしく、精神分析家の資格までもっているとのことであるから、フロイトとシュニッツラーの親交を考えれば、シュニッツラーはゲイの守備範囲なのであろう。
 この本を読んで、まず感じるのは、21世紀にはいった今、問題になっていることの多くはすでに19世紀から問題とされていたのだなあということである。
 われわれが当然視している家庭像は19世紀ブルジョアのものなのだというのが第一の驚きであった。山田昌弘氏の本などを読んでいると、それは1940年体制に由来するというのだが、日本という視点だけからはそうであっても、もっと大きな観点からは違っているということかもしれない。日本の戦後の家庭のある意味での嘘臭さというのは、19世紀ブルジョアの嘘臭さに由来するのかもしれない。
 少子化とか共同体の崩壊とか現在の焦眉の問題と思われているようなことが、実は19世紀にすでに問題化していたという指摘も新鮮であった。夫が妻の分娩に立ち会うのが普通だったというのもびっくりした。ラマーズ法などというのは、現在の悪しき風潮であると思っていたのだが・・・。
 恥ずかしながら、わたくしのヴィクトリア朝的偽善のイメージは「風と共に去りぬ」の中のアメリカ南部上流社会の描写しかない。1860年代であるが、そこでみんなが遵守しているように見える生き方は、そうしなければいけないという建前であって、本気ではそれを誰も信じてはいないような書き方がされている。ただし、メラニーという女性だけは例外で、ヴィクトリア朝的生き方が生得のものであるような人間として造形されている。メラニーだけは偽善としてではなく、それを善として生きているのである。ということになれば、あの小説でスカーレットが性的な喜びを感じたかどうかというのが問題で、最後のほうではレット・バトラーとの間にそういうようになったと思える書き方がされているが、メラニーは感じていなんだろうなあ、と思われるので、それが良くも悪くもヴィクトリア朝的ということなのであろう。
 篠田一士だったかが、吉田健一の評論の種本はリットン・ストレイチーなんだということをどこかで書いていたように思う(小説の種本はウッドハウス)。吉田の19世紀嫌悪というのはブルームズベリー・グループの19世紀嫌悪に由来するものなのかもしれない。
 われわれの生活が深く19世紀ブルジョア思考に浸潤されているのだとしたら、19世紀という時代について、もっともっと知らなければいけないのかもしれない。
 しばらく前の日本は総中流意識であるといわれていた。みんな自分が(プチ?)ブルジョアであると思っていたのである。これから日本は階層分化していくのであろう。そうすると上の階層がブルジョア意識を持ち続けるのであろうか? 本来、上の階層としては貴族がいるはずなのであるが。
 わたくしは若いときに吉田健一に徹底的にいかれた人間であるので、吉田氏の目でヨーロッパ19世紀を見ているところがある。この本に描かれた19世紀ブルジョアを見て、相変わらず、あまりぞっとしないという印象をもつ。しかしゲイもいうように、ブルジョアも多様なのであるという点に留意しなくてはいけないであろう。もっとも吉田氏が19世紀人から画然と分けて考えたボードレールなども、ゲイにいわせればブルジョアの一人なのであるから、ブルジョアの定義次第という議論になってしまうのかもしれけれども。



(2006年4月19日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

シュニッツラーの世紀―中流階級文化の成立1815‐1914

シュニッツラーの世紀―中流階級文化の成立1815‐1914