山本貴光 吉川浩満 「心脳問題 「脳の世紀」を生き抜く」

  [朝日出版社 2004年6月9日初版]


 去年買って読まずに抛ってあったのだが、最近脳関係の本を読んでいるので、思い出して読んでみた。問題状況を整理把握するのに大変有意義な本であった。
 著者らは、哲学・脳科学の専門家ではなく、他の仕事をしながらアマチュアとして、こういう問題に関心をもち、インターネット上にWEBSITEで意見を公開しているということらしい。ともに30歳台の若いひとである。

 著書の目的は「脳の世紀」を生き抜くために必要な基礎体力を養うこととなっている。つまり「脳情報のリテラシー(読み解きかた)を身につける」ということである。

 最初に提示されるのが「脳の働きを科学的に明らかにする営為が生み出す知見」と「人が生きるうえで日常から学ぶ経験」のあいだの対立という問題である。
 問題1:カテゴリー・ミステイク・・・物理学者いわく、椅子は究極の粒子の集合である。デザイナーいわく、椅子は見た目、空間との調和、座り心地などの総和である。物理学者の記述はデザイナーの記述の真偽を決めるうえでは何の役にもたたない。逆もまた真。このように本来混ざることのできない異なるカテゴリーを同列にならべて関係づけようとする誤りをカテゴリー・ミステイクという。「物質でしかない脳からどうして心が生じるのか?」という疑問はこの範疇に属する。
 問題2:〜は〜にすぎない・・・例:「人間の心というのは脳内の分子運動にすぎない」 個体は判断を誤ることがあるが、個々のニューロンは誤らない。心の中で言葉をしゃべるときは言語中枢が発火しているし、幻聴を聞く人は聴覚中枢が発火している。あることが錯誤であるかどうかは、知覚判断とそれをとりまく環境との関係で決まる。「〜にすぎない」仮説は、そういう環境を一切顧慮しない。心の問題は、関係の問題、意味の問題であるのに、それを物質の問題であるとするのは日常の経験を一切無視するものである。

 脳科学の本領は、脳の働きについての一般的な説明を与えるところにあり、それが環境においていかなる意味をもつかは、科学とは別に考えなくていけないのである。ある言葉が文法的に正しく話されたとしても、それでその言葉の意味が一意的に定まるわけではない。意味は文脈・環境に依存する。科学は言語の統語論に相当する。科学は意味論とはかかわらない。
 プラトンの「パイドン」のなかで、ソクラテスは自分が牢獄の中にいることについて二つの説明を示す。一つは骨と腱から説明するやりかたである。自分は肉体の動きの結果としてここにいる。もう一つがアテナイ人が自分を有罪とし。自分がそれを受け入れるのが正しいと思ったからとの説明である。骨と腱の説明が「脳内分子運動説」なのである。
 
 ギルバート・ライルは物事を知るには二種類のやりかたがあるという。一つは「内容を知る(命題知)」やりかたであり、もう一つが「方法を知る(方法知)」やりかたである。他者とのコミュニケーションを必要とせず、自分の能力のみが大事な場合には命題知が重要になる。
 社会学では偶発性(不確からしさ)を二種類にわける。「単一の偶発性」と「二重の偶発性」である。前者は自分にだけ関係する場合であり、後者は他者との関係がかかわる場合である。自分がどれだけ勉強しても、どれだけの点をとれるかについては不確実性がある。また自分がある成績をとったときにどう評価されるかも不確かである(「凄い!優秀!」「いやな奴!がり勉!」)。
 
 オーストラリアの哲学者チャルマーズは「イージー・プロブレム」と「ハード・プロブレム」という区別を提案した。前者は、脳が環境からの刺激をどう処理するかといった問題であり、後者は、脳内活動の過程に内面的な経験、すなわち心がなぜともなうのかといった問題である。彼は究極のハード・プロブレムはクオリアであるとした。心やクオリアは物質の法則では説明できないのではないか? 精神の法則があるのではないか?とする。一方、ニューロンの発火からクオリアを説明しようとするものもいるが(茂木健一郎)。

 われわれが鈍い痛みを感じるときに「C繊維」という神経線維が興奮していることはわかっている。しかし、痛みとC繊維の関係を考え出すと、途端に問題が錯綜する。痛みとはC繊維の興奮なのか?それとも両者は別のものであるのか? 前者が「イージー・プロブレム」なのであり、後者が「ハード・プロブレム」なのである。
 人には心と呼ばれるものがあり、脳と呼ばれる器官があることは確かである。脳は物質であるが、心は物質ではない。

 ギルバート・ライルは、心脳問題といった問題は「ある種の知的な気分」のもとで生じるといっている。日常の生活ではわれわれは心脳問題といったことで自分を煩わせることはまったくない。

 心脳問題には4つの回答がある。
 唯物論 人間=物 フランシス・クリック 利根川進
  創発主義的唯物論:個々のレベルでは生じない性質がシステムのレベルでは生じる
 唯心論 人間=心 バークリ
 二元論 人間=物+心
  相互作用説 デカルト
  平行説 スピノザ
  随伴説(創発主義的唯物論と近い) チャルマーズ
 同一説 人間=物=心 養老孟司
 結局これはC繊維と痛みとの関係に帰着するものであることがわかる。心脳問題というと高級な感じがしてしまうが、実はこれは普遍的な問題でもある。
 人間はモノに還元できるか。人間は科学が記述するような自然法則によって説明しつくせるかというのが心脳問題の要であることがわかる。人間は心に還元できるかという問いではないことは要注意である。

 そこでカントの「純粋理性批判」の第三アンチノミーが登場する。
 正命題:世界は自然法則に還元できない。自由が存在する。
 反命題:世界は自然法則に還元できる。自由は存在しない。

 このアンチノミーの観点から4つの回答を検討してみる。
 唯物論 反命題のみが成り立つ。(著者の反論:科学のつとめは反命題で世界の現象を記述することである。しかしそのことが世の中には反命題しか存在しないことを示すのではない。)
 唯心論 正命題のみが成り立つ。
 二元論 両命題をなんとか調停しようとする。しかしカテゴリー・ミステイクに容易に陥ってしまう。
 同一説 これは両者を受け入れ、カテゴリー・ミステイクも避けられる利点をもつ。しかし、同一とは何かという新たな問題を呼び込んでしまう。問うと、心脳問題の出発点に戻ってしまうことになる。

 大森荘蔵は「重ね描き」という考えを提唱した。科学的記述は日常経験の記述の上に重ね描きされるべきという提唱である。これもカテゴリー・ミステイクを避けることができるやりかたである。科学はもともと心を排除して物質のみを相手にしてきた。もともとそこには心にかかわることは排除されているのに、モノの語法で心を語ることができるわけはないのだから科学はおのれの分の中でふるまえばいいとした。科学はモノ「として」人間を描くが、それがいつのまにかモノ「である」人間という主張にかわってしまった。大森にいわせれば、科学は心を説明できないし、する必要もないとする。

 心脳問題は、科学が出発点において心を自然から排除したことに起因する。自然があり、それを眺めるわたくしの心がある、これが科学の世界観であり、問題の根源をなす。
 「権利問題」:原理的にいって何が正当か?
 「事実問題」:実際になにが起こっているか?
 大森の提唱は「権利問題」の範囲なのである。
 論理実証主義は、解決不能の問題を「擬似問題」と呼んで、相手にしないという態度にでた。その立場からいえば、心脳問題は「擬似問題」である。
 しかし、真の問題は、それにもかかわらず、われれれがなぜ心脳問題を問い続けるのだろうかという点にある。

 池田清彦によれば、科学とは真理を目指すものではなく、「同一性」を目指す営みである。変化する自然現象を、変化しない同一性(言葉)で記述するのが科学である。
 ギブソンが提唱している「アフォーダンス」という概念がある。「環境が生き物に提供する価値」を指す。ここでは環境を接するものとしての身体が決定的な重要性をもつ。これは現在の中枢至上主義に対する大きなアンチテーゼである。

 ドゥルーズは、現代社会が「規律型」から「コントロール型」へ移行しつつあると主張する。「規律型」とはフーコーが「監獄の誕生」で提唱した社会の成員の内面に自発的に規範を守るような精神を植えつけることによる権力形態である(それが近代以前の命令と服従にもとづく形態に代わったとする)。これは日本でも明治期から高度成長の終りまでは有効に機能した。
 一方「コントロール型」とは、個々の成員の内面は問題にせず、個々人がもつ外部情報によって管理をおこなう。そうであれば、個々の成員が内面でどのようなことを考えているかはまったく問題にされない。人間が精神的レベルではなくて、生物学的なレベルであつかわれるようになっていく。「マクドナルド化」である。剥き出しの生物学的情報である脳情報や遺伝子情報が重要になってくる。
 たとえば、注意欠陥多動性障害という病名ができると内面の問題が薬で管理される生物学的な問題へと変わってしまう。生物学的な情報は従来中立的なものと考えられてきたが、今後は政治的な情報となってしまう可能性が高い。コントロール型社会は脳中心主義と親和性をもち、しかも脳中心主義はコントロール社会への認識を鈍化させる働きをする。

 科学という同一性を用いる知は、心という持続を断ち切る性質をもつので必ず副作用を持つ。「心を解明する」というのは、心を同一性をもって記述するということである。特異性を切り落とすことである。われれれは持続を捉える言葉をもっていない。畢竟それは芸術と対立するものである。
 ドゥールーズ&ガタリは、「同一性を記述する科学」「特異なものを生成する芸術」「両者の経験の条件を絶えず検討にかけなおす哲学」という三つの方法を区別した。
 世界は原理的には持続の相のもとにあるが、実際にはそれは言葉という同一性を示すものを使ってしか記述できないという根本にいつもたち返って、そこから目を離さないことがなにより重要である。
 
 わたくしがなぜこの問題に関心をもつのかと考えると、人間を特別なもの、人間に備わった心を崇高なものと見るような見方がなんともいえず嫌いであるというのが第一の理由であるように思う。キリスト教的な世界観、万物の霊長というような見方が厭で厭で仕方がない。なぜなのだろう。それで心身二元論、体なんてつまらないもので、本当に人間が人間たる証は心なのです、という考えを否定したいということがある。
 一言でいえば、人間を動物としてみない見方がどうしても納得できない。であるから、本書の心身問題、心脳問題も、痛みーC繊維問題の系であるという見方は大きな啓示であった。神経にある活動が生じる、それを痛みと感じる、ということと、神経にある活動が生じる、それを悲しみと感じるということはまったくパラレルであるというのは非常に示唆に富む見解である。別に悲しみが痛みより高級であるということはない。風邪をひいても人生観は変わる(チェホフ)。まして歯が痛ければ人生観どころではない。
 もう一つは当然であるが、医療とのかかわりである。なにしろ医療は身体をあつかう。そこでは心は対象外である。であるから精神医学というのがきわめて医療の中で特異な部分を占めることになる。もしも精神医学も脳という身体をあつかうのだということになれば、ある意味では医療体系は整合性をもったものとして完成する。そこでは疾患というのはどういうものであるのかが完全に理解される。しかし、そこには、疾患はそもそも治療されなければいけないのかということは含まれない。ある状況をどうして疾患とあつかうのかということも顧慮されない。コミュニケーションというファクターを欠くのである。そして医療の業務とはほとんどがコミュニケーションなのである。医療の日常の大部分を占める部分については素人として手探りでやっていて、身体にかかわる部分にだけプロとしてかかわる、というのはきわめて異常な形態である。
 こういう場でカントがでてくるとは思わなかった。あわてて篠田英雄訳でアンチノミーの証明部分を読み返してみたが、なんだかカントの証明はピント外れである。無限退行を利用した議論で、あることには原因があり、そのまた原因には原因がありとどこまでいってもきりがないから、その因果を断ち切る自由がなければいけないというのと、自由にあることをはじめるといっても、はじめるためには何かがあるのだろう、それの原因があるはずだという、時間のはじまり、空間のはてという第一アンチノミーの応用である。
 ここの問題は生物が地球という特殊な場所に適応するように進化してきたということで説明できるのではないだろうか? われわれの時間、空間認識は地球で生存する上で好都合にできているのであって、その認識形態が事実であるかどうかということにはかかわらないのである。われわれが頭を動かした時にまわりの景色が動かないということは大変不思議であるが、そうでないと生存上困る。蛙は動かないものは認識できず、動いたものだけを認識するそうであるから、当然われわれの視覚処理システムとは異なったシステムで生きているわけであるが、そうであるなら蛙の時空認識が人間と同じであるはずがない。蝙蝠もまた。われわれからすれば、地球が太陽の周りをまわっている事実を反映して、太陽が固定して自分が動いているような時空処理をしても生きる上でなんらメリットはない。事実よりも生存なのである。科学は日常生活でわれわれがおこなう認識とはことなった次元での認識なのである。ニュートンが正しかろうがアインシュタインが正しかろうが、われわれの日常生活にはまったくかかわりがない。しかし、ニュートンアインシュタインかどちらかが正しいのであって、両方とも正しいということはない。
 だから、池田清彦のいう「科学とは真理を目指すものではない」というのはおかしいのであり、「変化する自然現象を、変化しない同一性(言葉)で記述するのが科学である」のだとしたら、「宇宙の活動は神の意思による」とする説明も科学であることになってしまうのではないかと思うが、池田の論を「言葉にできないものを無理に言葉にしようとするところに科学の問題は起因する」とすれば、生産的な命題となるのであろう。
 最近、身体を重視するさまざまな議論がでてきているが、その根源がアフォーダンス理論なのであるらしいことが本書によって理解できた。身体の来歴というのはまさに一回限りのことであるから、科学と根本的に背馳する。肉体は言葉にも対置するものであるから、科学が言葉によるという限界をつきぬけるものとしてもアフォーダンス理論はあるのであろう。
 大抵の医者は健康診断という業務が好きではないのではないかと思うが、その根底に管理という発想があるからであろう。ドゥールーズの本というのはいくら読んでも少しも理解できないし、「「知」の欺瞞」あたりから悪評さくさくであるが、それでもドゥールーズ学者である丹生谷貴志の本などを読むと、とても大事なことを言っている人なのだろうなあということがおぼろげながら感じられる。「管理型」の社会から「コントロール」型の社会へという指摘はここで初めて知ったが、いよいよ健康診断、健康管理という問題はきな臭い問題になっていくのであろうということが感じられる。われわれにとっても切実に関係する問題について語っているわけである。しかし、「「知」の欺瞞」で引用されている限りドゥールーズの文章はちんぷんかんぷんである。なんでこんなわかりにくい書きかたをするのだろうというのは、相変わらずよくわからない。
 養老孟司の同一説:これは構造と機能という観点からいわれているのだと思う。肺という臓器自体には呼吸はない。胃や腸という構造自体には消化吸収はない。しかし肺は呼吸のためのものであり、胃や腸は消化吸収のためのものである。解剖学的には呼吸も消化吸収もみえない。それと同じに、解剖学的に見た脳自体には心はない。しかし脳の活動として心が生じる、それだけのことを言っているのであると思う。呼吸や消化吸収という過程は単純な過程なので、解剖学的な構造が機能と対応することを示せる。しかし心というのは桁外れに複雑な過程なので、現在のところ脳の構造を調べてもその構造がなぜ心を生じさせるのかまったく示せない、しかし、示せないことが関係ないということではない。それは肺や胃腸からの類推で明らかであるというだけの主張であると思う。同一であるものとは何かという問題がそこから生じることはないと思う。肺と呼吸はある同一なものをん別々の観点から見ているのである、という言い方(こういう言い方は普通しない。なぜなら活動していない、体から取り出した肺というものにわれわれはほとんど関心をもたないからである。しかし、脳の場合は肺の運動、心臓の運動、消化吸収の運動のような目だった運動が観察できないため、物としての脳、ブツとしての脳にえらく存在感があるのである)をした場合、その同一性とは何かという問いは生じないであろう。そして養老の同一説は、随伴説的二元論とも創発主義的唯物論とも両立しうるものであると思う。とすれば、唯心論をのぞく心身論、心脳論の各論は一つに収斂しうる基本的な相違のないものなのではないだろうか? 今唯心論を支持するものはまずいないだろう。そうすれば、みな大きな変わりのない見方をしているのである。肺が呼吸のための臓器であるように、脳は心身の調整をおこなう臓器である。そこで各論に生じる違いはむしろ言語に起因するものであって、脳の側には存在しないのではないだろうか?
 それで最後は言葉に帰ってくる。人間は言葉をもった。その言葉をもったが故に科学もあるのであるが、同時に言葉があることが多くの混乱の素ともなっている。言葉がなければ心もないだろうか? 言葉をもったのは人間だけであるにしても、心は多くの動物にもみられるかもしれない(心の定義次第であるが)。人間だけがもった言葉で人間の心を調べていく。そのことの中に根源的な矛盾がひそんでいるのかもしれない。ほとんど自己言及の矛盾のようなことがおきてきているのかもしれない。なんらかのメタ言語を用いるのでなければ、心の記述はできないのかもしれない。音楽とか物語であるとか時間をふくむ何かでしかそれは表せないのかもしれない。
 本書を読んでいて、しばしばG・ベイトソンの本を思い出した。


(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

心脳問題―「脳の世紀」を生き抜く

心脳問題―「脳の世紀」を生き抜く