上野千鶴子 「老いる準備 介護すること されること」

  [学陽書房 2005年2月22日初版]


 これがあの戦闘的といわれた上野千鶴子の本かと思うほど(というほど上野氏の本を読んでいるわけではないが)おとなしい本である。声高に自分の意見を述べるのではなく、データをして語らしめるという社会学の本来の姿に徹した部分が多い。ということで思想的な色彩はあまり感じられない本であるが、上野氏によれば、介護保険が導入されて、介護という行為が有償のものとなったことはきわめて画期的なことであったのである、なぜならフェミニズムは一貫して家事という労働が無償であるのはなぜかという問いを発してきたのであり、今度この制度が導入されたことにより、家事が一部であれ有償でありうることを国家が公的に認めたということは、時代を画することであった、ということであるから、本書もまたフェミニズムの思想に関連したものであるということになるのであろう。あとがきで、『「いつから女の問題をほったらかしにして、介護のほうにいっちゃったのよ」・・・そう言われるようになってから、何年もたつ』と書いている。そして、女の問題をほったらかしたのではなく、老いた女の問題にめぐりあったのだ、自分も老いたのだから、といったことを書いている。

 フェミニズムというものが登場して、男にできることなら女にもなんでもできる、女も強いと言いだしたとき、わたしもその一翼を担ったにはちがいないが、内心ひやりとしていた。こんなことを言っていて、いいんだろうか。この人たちだって、そのうちに歳をとるだろうに。今は強くっても、どんどん弱くなるというのに。・・・それだったら、はじめから自分の弱さに居直って生きていく道はないだろうかというのが、わたしのフェミニズムの出発点だった。女は弱者ではあるが、弱者が弱者のまま尊重される方法はないだろうか、そう主張してきた。

 と上野氏は書いている。本当かねという気がする。自分の弱さに居直って生きていくなどというのがフェミニズムであるはずがない。自分は弱い性であるから強い性である男は女を保護すべきであるというのが古来女性がとってきた戦略であり、それを打破すべきであるというのがフェミニズムの原点であったはずである。女性が弱いというのは支配層である男が自分の支配を貫徹するためにでっちあげた根拠のない神話であり、文化的な発明に過ぎないのであるから、それを打破していこうということではなかったのだろうか? 上記のようなことを言い出したら、フェミニズム戦線は総崩れになってしまうのではないだろうか?
 季節には青春朱夏白秋玄冬の4つの季節があるとあった。どうもこれは五行説に由来する言葉らしい。知らなかった。これを知っただけでもこの本を読んでよかったことになるかもしれない。
 歴史的にみて、年寄りがやっかいものやお荷物であるとされるようになったのは、近代産業社会になって以降だそうである。
 「かわいい」というのは女が生存戦略のためにずっと採用してきた言葉である。しかしと上野氏はいう。「かわいくない女」であるわたしはどうしたらいいの? 自分はかわいくない女でも生きていける社会を作りたい、と。たしかにわたくしのささやかな経験から言っても、病院ではかわいがられるお年寄りの生存価は高いかもしれない。この「かわいい」というのは、我をはらない、いうことを素直にきく、謙虚で、ききわけがいい、といったことであり、なんのことはない「管理しやすいタイプ」というだけのことである。上野氏にはどうもあまり備わっているとは思えない資質である。
 もしもフェミニズムが、女が弱いけれども弱いままで尊重される世界を目指す運動であるとすれば、年寄りもまた無能力であり役に立たない弱い存在ではあっても、それでも尊重される世界を目指すというのが、これからの老人問題への取り組みの基本となるべき姿勢であるという。他人に迷惑をかけない、自分の面倒は自分でみるという自立の思想の方向に向老学はむかうべきではなく、他人の援助が必要であれば、老人はそれを受ける権利があるという方向にむかうべきであるともいう。
 旧来の家族関係においては、長男(の嫁)が親の介護をしたが、その代償として他の兄弟は相続を放棄した。しかし、近年においては、長男(の嫁)が親の介護をするのが当然としながら、親が死んだら他の兄弟は遺産の平等な分配を要求するのであるという。それに対する上野氏の提示する対策は介護に入る前に長男の嫁は夫の親と養親子契約を結べ、また他の兄弟にあらかじめ相続放棄の書類にハンコを押しておいてもらえ、というものである。そうすれば妻は夫の親の財産の正式な相続権者になるし、他の兄弟からの不当な遺産分配要求を退けることができるのだと。これを上野氏はいたって真面目に主張している。
 さて、介護保険で家族関係が変わったというのが本書での上野氏の主張の眼目である。この法律が成立したのは「介護はもはや家族だけの責任ではない」という国民的な合意が得られていたからだという。
 上野氏によれば、介護は女向きのビジネスである。家でやったらタダであることが、外にでてやればお金をもらえて感謝されるのだから、今までのキャリアが活かせる、と。わたくしが読んだある本によると、離婚する専業主婦にどうやって食べていくのだと聞くと異口同音に介護士の資格をとる、というそうである。今まで専業主婦という立場でやってきたことが、そうすれば収入源になるわけである。しかし上野氏もいっているように、ケアの仕事の労働条件はいいとはいえないし、フィリピンなどから低賃金の労働者がこの分野に入ってくる可能性は十分にある。
 介護が公的なものとなり社会化されたのだから、次は育児であると上野氏はいう。それができれば少子化対策になるよという。育児・介護の私事化がおきたのは近代以降である。それがふたたび逆転して「育児・介護の公的事業化」が現在おきつつあるのだという。しかし近代化というは都市化である。それ以前に育児や介護を担った共同体的なものを忌避したからこそ都市化はおきたわけである。そういう共同体的なものへの嫌悪を上野氏も自分の感性であると述べている。あらゆることにいいことばかりを期待することはできない。育児や介護の私事化は共同体への嫌悪から生じる必然である。これからまた育児・介護を公的なものとしていこうとしても、それを共同体の手にゆだねることなど考えられない。きわめて即物的な金銭によって解決していくしかない。それはやむをえないことであって、それがいいことであるとか、前進であるとかすることはできないのではないだろうか?
 本書のかなりの部分が、九州のグリーンコープ連合の福祉ワーカーズ・コレクティブという活動の紹介にあてられている。介護にかんしてのNPO活動の一つのようで、上野氏も相当深くかかわっているらしい。ここに上野氏は一種の市民運動直接民主主義の可能性を見ているらしい。組織のありかた、税制のありかたなどさまざまなことについて具体的な提言をおこなっている。各論についてはわたくしにはよく理解できないところが多いが、興味を惹かれたのは上野氏の以下のような趣旨の言である。介護という一種の人助けも、結局は自分のため、自己満足のためでもある。なぜ自己満足が必要なのかといえば人間は一人では生きてはいけないからである。そして介護の分野に中年以降の女性が多数参加してきているのは、子どもが大きくなってきた年代であるということ、かつてはあんなにも自分を必要としているように見えた子どもが、もう自分を必要としなくなってきているという寂しさが動機になっているのではないか、人間がだれかに必要とされたいというのは不純な動機ではない、自然な感情である、というものである。
 でもそうすると、出産育児というようなことは女性にとって最大の自己満足をあたえるものということにはならないだろうか? そういうことを公的な装置に委ねて、仕事をすることは女性にとって幸福なことであるのだろうか? 女も仕事(そこでは自分が必要とされているように見える)をすることが本当の幸せなのであるが、社会の制度によってそれがかなえられないために擬似的・代償的に育児などという本来苦痛でしかないことに、満足を見出さざるをえないということなのだろうか? 男も誰かに必要をされているという喜びをもとめて、過労死まですることもある。女が男社会に進出したいといって過労死までするのは馬鹿であると、上野氏も本書でいっているのだが。
 上野氏は1948年生まれであるから、わたくしほぼ同年代、団塊の世代である。氏によれば、団塊の世代は若いときに世の中に反抗した不良青年であり、その後、不倫と離婚の不良中年になっている。老後になっても変わるわけがない。必ずや非行老年になるであろう、という。夫が死ねば夫の財産の半分は自分のもの、それを子どもに残そうなどと考えずに、自分で使い切ってしまえ、そうすれば年金の行く末が灰色でもなんとかなる。親業を卒業したら家族をリストラしてもいい。わがままに生きよう、住みなれた土地は離れるな(子どもに面倒をみてもらおうなどと思って、高齢になってから慣れない土地にいくな)、そこでは親しい仲間たちと一緒に生きろ、気のあう仲間とネットワークを作れ、しかし最後は一人と覚悟せよ、というのが上野氏の提案する老後対策である。
 さて、高齢者は体力とお金はないかもしれないが、時間はたっぷりともっている。しかし時間はひとりではつぶれないし、ひとりでにもつぶれない。ありあまる時間をつぶすためには仲間とノウハウがいる。そのためには若いときから遊んでおくことが必要なのだそうである。
 
 介護保険の問題を家事というタダ働き、シャドウワークの有償化という観点からは考えたこともなかったので、その点では本書の視点は新鮮であった。しかし介護は女性に向いた職業であるというような言い方を氏がしてしまっていいのかなということを感じる。このことは容易に看護という仕事をほとんど女が独占してきたということはなぜなのかという疑問に連なるからである。広い意味でのケアは歴史上女性が担ってきたのであり、そのことが看護という仕事が女性のものとされてきた細大の理由になってきたのではないかと思う。そうすると介護以前に看護という分野において、シャドウワークはすでに有償の労働となってきた歴史があるわけである。性的な役割分担の歴史があり、それが職業における性的分担の密接にかかわっているということがある。しかし、それならば看護というのは誰でもできることであり、それがたまたまある場においては有償になっているということなのだろうか? 看護という職業は国家の認定するものであり、専門性をゆ要求する仕事であるから、自分は子どものケアをしたことがあるから、病人のケアもできますというようなことはない。しかしアメリカのナーシングホームに類似したものを日本に作ろうとしたときにその名称が養護老人ホームとなったのは、当初、看護老人ホームという名称を予定したところ、看護協会の反対にあったからという話があるように、老人のケアというものは看護の専門家ではなくてもできるものだ、看護というのはそういうものとは別のもっとレベルの高い専門性のあるものだという見解が看護の業界においては間違いなく存在している。そしてこれからの高齢化社会において、しかも相当部分の老人が病院で死んでいく現状の中で、看護に従事する人間が老人ケアの仕事は自分たちがするべき仕事ではないと思っていることは、由々しき事態につながりかねないものと思う。看護の世界は誰でもできるケアの部分から高度の専門性を必要とする緊急事態までが混在している世界であって、それらを分別して仕事を分担するということは不可能な世界である。あるいは誰でもできるケアの部分に従事していない限りは、緊急事態を発見することができない世界である。老人の介護を私的におこなっている限りはそれは素人の仕事であるから緊急を要する事態に気づくということはありえない。それが公的なものになるということは、なんらかの専門性をもつものに委譲するということであり、それが有償のものとなるということは、それら専門性への対価という側面もあるのではないかと思う。これから母親が母親としてどんどんと素人化していくことが避けられないとしたら、専門家にそれを委譲するという意味で、育児の公化ということも検討されていくのではないかと思う。
 スエーデンにおいて、託児所等の設備が充実しているのは、別に女性のためを考えのことではなくて、少子化による生産人口の減少により、女性にも働いてもらわなければ社会が維持できなくなるからだという説明をどこかでよんだことがある。少子化時代において、子どもが親の介護をしていたら労働人口が減ってしまう。一人の子どもが一人の親を見るというのは非効率である。一人の人間が3人の介護をすれば、あとの二人は別のことができるようになる。育児についても同様である。いずれ日本も少子化の進行により、そのような方向にいかざるをえなくなることは目に見えている。別にシャドウワークの有償化というフェミニズムの論がなくてもそうせざるをえなくなるわけである。
 たしかに上野氏のいうように介護という今までタダ働きであったものが、国家からのお墨付きで有償のものとなったのは画期的なことであろう。子どもが親の世話をするのが日本の美風などといっている保守親父たちにも、そのことはボディーブローのように効いてくるであろう。確実に家族というものも解体していく。しかし、それがいいことなのかどうか、望ましいことなのかどうか、それはわからない。ではあっても、それは都市化、人間の個人化が必然的にもたらすものであって、避けようがない、覆しようのものなのである。
 ワーカーズ・コレクティブという組織について、上野氏は大きな夢と希望を抱いているようである。どうもわたくしは市民運動というものに抜きがたい偏見をもっているので、この組織についても、上野氏がなぜそれほど入れ込んでいるのかよくわからない。市川房江とか管直人とか小田実とかいう人間はどうも好きになれない。それとはレベルの違う人なのであろうとは思うけれども、鶴見俊輔というひともべ平連などというものかかわっていたという理由で敬遠している。自分はいいことをしているのだと思い込んでいる人が苦手である。管直人という人はいいことをしているなどという思いはまったくなくて、市民運動を利用して偉くなりたいというだけの人であるのかもしれないが、そういう人が市民運動などという羊の皮をかぶるのが許せない、というのがわたくしの偏見である。上野氏の描いている組織もなんだか近寄りたくない雰囲気が濃厚である。上野氏は意外にナイーブなところもある人で、若いときに抱いた原始共産主義的な理想のミニチュア版をここに見ているのかもしれない。そうであるなら、上野氏は思ったほど悪いひとではないのかもしれない。しかしわたくしは、悪い人のほうが好きである。
 上野氏のようなしたいことをして、言いたいことをいってきた人がかなり予定調和的で微温的な老後を考えているのがいささか意外ではあった。これだけやりたいことをやりたいようにしてきたのだから、後は孤独な野垂れ死にを覚悟しているのかと思っていたが、そうでもなさそうなのである。畳の上で死にたいみたいな感じで、それはないぜと思う。
 上野氏は人生の峠をもう越えたのであって、あとは下り坂なのだそうである。中年とは峠を越したという感覚なのだそうである。わたくしは上野氏より一歳年上であるが、峠を越えたとか、あとは下り坂みたいな感じはないなぁと思う。別に青春とはいわないが、朱夏ではあって、白秋という思いはない。ましてや玄冬においておや。何か人生をいくつかの時期にわけて、今はこういう時期に入ったからこういう風に生きるべきだというような生き方はしたくない。そういう生き方、80歳まで生きるとして、60歳ではこれをするみたいな生き方は、58歳で余命半年といわれたらうろたえるだとうと思う。「老いる準備」という発想はどこかおかしいと思う。生きたいように生きて、どこかにぶつかったらそれでお仕舞いでいいのではないかと思う。一寸先は闇であって、自分の人生を計画的に生きるなどということができるはずもないからである。


http://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

老いる準備―介護することされること

老いる準備―介護することされること