雑誌「考える人」2005年春号 特集「クラシック音楽と本さえあれば」(新潮社)


 雑誌「考える人」は創刊以来、一応買い揃えるようにしている。その最新号が面白かったので、単行本ではないが、とりあげてみることにする。
 この号の特集は「クラシック音楽と本さえあれば」である。そこに「わたしのベスト・クラシックCD」という、いろいろな人が偏愛するクラシック曲数曲をあげるアンケートがあり、非常に興味深い内田光子へのロングインタビュウがある。また連載の坪内祐三の「考える人」では吉田健一がとりあげられており、おなじく連載の養老孟司の「万物流転」では「われわれの思想としての事件」という、日本には思想がないという議論への考察がある。それらがお互いにどこかで有機的に関連しているところがあるように思う。
 坪内の吉田健一論では、吉田の以下の文章が紹介されている。「思想とイデオロギイはどう違ふか。我々はその区別も付かない所まで来てゐるやうであるが、ここでイデオロギイを、金持が骨董を買ふ態度で思想を扱ふこと、観念を幾つか棚や床の間に並べて置いて、それぞれが自分のものになつた積りでゐることだと定義して置きたい。」
 ここから、すぐに、さまざまな人があげている「わたしのベスト・クラシックCD」が、床の間の置物ではないのかという疑念が浮かぶ。単なる鑑賞物であって、生きていく上では本当には必要でないものではないかという疑念である。
 吉田健一の文はまた、養老孟司の「日本には思想がない」という考察へも繋がる。ここで養老は『「日本には思想がない」というのが日本の思想である』というとんでもないことをいっている。『日本には個人のかわりに家があった』ということもいっている。そのいいかたによれば、吉田が言っている「思想」が養老の「世間の思想」にあたるのであり、「イデオロギー」が養老の「個人の思想」にあたるということになるのだろうか。そもそも個人というものさえ、まだ日本では本当に必要なものではなくて、単なる床の間の飾りなのかもしれないと養老孟司はいっているのであるから。
 内田光子のインタービューを読むと、つくづくとこの人は日本人ではないなと思う。世間のしきたりを受け入れられない人なのである。内田光子はまぎれもない(西欧風の)個人である。だから内田は日本で暮せない。ドストエフスキーはドイツ語翻訳で読んだなどという嫌味なことを平気でいっているが、外交官である父親について、小さな時から世界を巡ったらしい。そういうコスモポリタンなのである。そして、日本人のコスモポリタンというのは(あるいはコスモポリタンというは何国人であっても)どこかに独特の不幸を感じさせるものであるが(内田光子が音楽という万国語を自分の仕事に選んだことは象徴的である)、内田光子がその不幸をどのように解消しているかしていないかがこのインタヴューの眼目となっている。内田は「音楽とは、最終的には美しい何かを人と分かち合うものです」という。ここでは音楽が普遍的に何かを伝達しうるものであることが無前提的に信じられている。内田光子が演奏しているような音楽が西洋固有のものであり、ローカルなものであって、決して普遍性をもたないものなのではないかという疑問が投げかけられることはない。吉田健一もまたコスモポリタンでありながら、実に独特なやりかたで日本回帰をした人であった。それは坪内の論でのテーマともなっている。吉田健一出世作「英国の文学」でも、吉田は徹底的に英国の地方性を論じるのであるが、それが人間の普遍性に通じることにより、日本の地方性の普遍性へと繋がっていくのである。徹底的に西欧であることに徹することから、日本もまた見つかってくる。これを吉田は「文明」と呼ぶのであるが、文明が文明であるためには、その土地に根付いていなければいけないのである。
 特集での吉田健一の写真を見て、いい顔をしている人だなあ、と思う。確か吉田健一自身の文章であったと思うが、福田恆存中村光夫大岡昇平などと一緒に電車にのっている場面を述べたものがあって、これら作家の面魂があまりにも電車のほかのひとと違うのに驚くというような記述があった。かれらは「鉢の木会」なんて会を作ってはいても、徒党を組むわけではなく、一人一人孤独なのであった。その孤独が不敵ないい顔をつくる。福田恆存の顔を評して良心のある鳥みたいといったのは小林秀雄であったろうか。
 養老孟司の文章は明治以降の日本人が近代的自我を確立しようとしてきたことは、はたしていいことだったのかということをめぐっての考察である。しかし、そんなことを論じるのは西欧的個人になってしまった人だけなのである。世間の側、徒党の側にいるひとはそんなことは考えもしない。
 西洋にあって日本にはないものの代表がベートーベンの「運命」といったのは岡倉天心であったように思う。クラシック音楽こそが西洋のエッセンスなのであって、とくにベートーベン以後の音楽というのは、どう考えても西洋以外からはでてくるはずがないものである。ある種野蛮であることが魅力的であることの不可欠な背景になっているというようなものは東洋にはない。個人というのは野蛮であると同時に魅力的ものなのである。
 フォースターの「ハワーズ・エンド」に、ベートーベンの第五交響曲について秀逸な描写がある。第三楽章のはじめの低弦の分散和音の旋律が示すのは「一匹の妖怪が宇宙の端から端までそうっと歩いているところ」であり、彼らは「この世にゃ、高貴だの崇高なんてものはありゃしないんだぜ」とつぶやいている。中間部は「象の踊り」。再び妖怪がもどってきて、同じ言葉をくりかえす。やがて第4楽章へのブリッジのところで妖怪がふたたび現れるが、ベートーベンにひねられて今度は長調になってしまう。そして吹き飛ばされて消えてしまう。4楽章は神々や半神の崇高な戦いの場面となるが、ふたたび妖怪が帰ってくる。「恐怖と空虚だけだぜ! 恐怖と空虚だけだぜ! この世の輝きわたる城壁とても、いつかは崩れることもあろうさ。」 だがベートーベンは城壁を建て直し、妖怪どもをふたたび吹き飛ばす。大きな歓喜のうちに曲は終わる。しかし、妖怪どもはまたもどってくるかもしれないのだ、そうフォースターはいう
 「わたしのベスト・クラシックCD」では、ベートーベン第五交響曲を挙げるような無粋なひとはいない。そもそもベートーベンをあげる人も多くはないが、あげている人でも、小谷野敦の大胆な?交響曲第三番とかピアノ協奏曲第二番などというのを除けば、ピアノ・ソナタ弦楽四重奏、それも多くは後期のものである。月光ソナタとか熱情ソナタなんて人もいない。作曲家ではバッハを選んでいるひとが多い。モツアルトも多い。ついではブラームスだろうか。実は最近 i-POD mini というのを買って、それに音楽を詰め込んで遊んでいるが、好みの曲を入れていくとブラームスが多くなるのには自分でもびっくりした。
 「わたしのベスト・クラシックCD」で挙げられている曲をみてびっくりするのは、日本人作曲家のものが一曲もないことである。尾高尚忠をあげている人もいなければ、武満徹をあげているひともいない。涅槃交響曲だってない。矢代秋雄もいない。吉松隆もない。日本人が聴いてあげなければ誰が彼らの曲を聴くのだろうか? 本当に日本人作曲家たちはかわいそうである。シェーベルク以降の前衛派がほとんどあげられていないのは仕方がないと思うが、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」をあげていた人がいるのはわかるとして、ノーノ「力と光の波のように」(わたくしはこの曲は知らない)を挙げているひとがいたのはご愛嬌であった。ほとんど誰も聴かない曲をつくっていた20世紀前衛作曲家たちは本当に可哀想である。20世紀の作曲家としては、バルトークを挙げているひとはいる。ラベルもいる。ストラビンスキーはどうだったか? マーラーショスタコーヴィッチさえほとんど名前があがってきていなかった。現在の音楽会でもっとも多くとりあげられる20世紀の交響曲や協奏曲は彼らの作であるのに。彼らの作は通俗的であるので演奏会でとりあげられているのであって、本当の通は聴かないということなのだろうか? 例によって、ショスタコーヴィッチの名を挙げているひとは弦楽四重奏曲を選んでいた。
 クラシック音楽というのは20世紀前半で、本当はもう命脈が尽きていたのかもしれない。クラシックを聴くひとは歌舞伎や浄瑠璃を鑑賞しているひとのようなもので文化財を保護しているのであろうか? あるいは、絶滅しつつある生物を保護しようとしている篤志家のようなものなのだろうか? 自分について考えて見ても、本が読めない生活というのはほとんど考えられないが、音楽が聴けない生活には耐えられると思う。絵画を見ることのできない生活は全然問題ない。自分にとっても、音楽は床の間の骨董品であるのかもしれない。そうかもしれないと認めた上で、自分にとっての床の間の置物ベスト・スリーを考えてみた。
1)リパッティ バッハ「主よ!人の望みの喜びよ!」
2)グールド ブラームス 「間奏曲集」
3)デュプレ エルガー「チェロ協奏曲」
 1)は加藤典洋が、2)は佐伯一麦が、3)は江川詔子があげていた。
 われわれ日本人にとっては、クラシック音楽は床の間の置物であるのかもしれないが(われわれ日本人のクラシック音楽受容の最大の問題点は、歴史に濾過されて生き残ってきた一流の作のみを聴いていることである。モツアルトの音楽だって、彼が作った膨大なダンスのための問題などはほとんど聴かない。そういうダンス音楽の流れの中からウイーンのオペレッタなどもでてきたのであろう。そういう娯楽としての音楽が日常の生活の中にあって、その精華として時に交響曲も楽しむというようなことをしていないのである。これは何も音楽に限ったことではないので、文学だって名作路線である。古典的名作と並んで書かれた膨大な娯楽小説などはほとんど読まない。だからもちろん、西洋古典文学だって床の間の置物かもしれないのである。内田光子は「シェークスピア全集を持たないでいられる人がいるなんて、私には考えられない」といっているが、シェークスピア全集を持たないでいられない日本人などというのがどのくらいいるのだろうか。ところで吉田健一はそういう人の一人であったことは間違いなくて、おそらく全集はもっていなくても、それが頭の中にはあったのであろう。彼は酔っ払うとシェークスピアソネットを絶叫したのだそうである)、そうではあっても、これと類似のものは、江戸までの日本でも、日本以外の東洋でも、イスラム圏でも、アフリカでも生まれてはこなかった。これは個人と密接につながったもので、連歌などの対極にあるものである。(もちろん、連歌は日本文化の華であって、これと同様のものは、イスラム圏にも、アフリカ圏にも、中国にもなかったであろうが。座というものは日本以外のどこでも出現しなかった。)
 連歌の楽しみというのは、内田光子がいっている室内楽合奏の楽しみと通じるものだろうか? みんな一緒に何かを作るという意味で通じているのだろうか? だが連歌は個から離れる場であると思う。一方、室内楽合奏は個から離れることはない。それなら、個を増幅するものだろうか? しばらく前にテレビで内田光子がなんとかいうテノール歌手の伴奏をしてシューベルトの「美しき水車屋の娘」をやっていた。これは伴奏なんてものではなくて、歌とピアノの合奏曲というような趣のものであった。個と個がぶつかるところが面白いのであって、個を消す方向にはいかない。内田は、ソロと協奏曲の独奏者ばかりをしていて室内楽の合奏とか歌曲の伴奏さえしたことがないピアニストがたくさんいることを揶揄している。これが内田流の西洋個人主義批判なのであるが・・・。
 養老孟司がなんといおうと、クラシック音楽のようなものが生まれてしまったら、もう人は個人の方向にいくしかないのである。教育が普及すると少子化が進む、ということがあっても、教育の普及をおしとどめるわけにいかないのと同様に、個人化の流れは押しとどめることはできない。個人化が進み、教育が普及することが、最終的に人類を亡ぼすものであっても、それでも、その動きは止められない。
 「考える人」に河合隼雄の「神々の処方箋」という連載があり、今回が最終回で、「現代人と神話」というタイトルになっている。そこに「日本人は欧米の文化を取り入れているつもりで、個人主義の背後にあるキリスト教の存在をまったく不問にしている・・・キリスト教文化圏において・・・個人を尊重する考えが生まれてきても、その個人は神とのつながりを失っていない。・・・個人主義というのは大変なことである。それまでは共同体によって共有する「神話の知」によって安心感を得ていたのに、自分一人の努力によって、自分を支える「自分の神話」を見出さねばならないのだ」とある。
 むかしはこういう文章を読むと、なるほどと感心したものだった。今はいい加減なことをいっているなあと思う。どうして個人の対極にいきなりキリスト教の神がでてこなければいけないのだろう。キリスト教の神がこけ脅かしにでてくるから、なんとなくもっともらしく聞こえるが、実は、この文がいっているのは、自分で考えないのは楽だということだけである。
 これをたとえば吉田健一の「文学の楽み」の最終章「孤独」の以下の文章とくらべてみればいい。「自分の頭痛を他人が感じないのを現代の不幸と思ひ込む所に横着の極致が見られる。それに就ては自分の悩みが頭痛ではなくて、神がゐないとか、存在が生命と矛盾するとかいふ頭痛よりももう少し高級であることになってゐるものだといふ理由が用意されてゐるが、矛盾を認めるのも自分であり、頭痛を病むのも自分である。・・・我々は或る言葉を美しいと認める時に自分一人になり、それは命が惜しくなつたり、必死になつて就職の口を探したりする自分ではなくて、人間であることを止めず、ここに一人の人間がゐるといふ意味での、その限りでは凡ての人間である自分であり、これは我々がその経験をすることで何の得もしなくても、その瞬間に少くとも我々が自分というふもの、自他の区別といふものを忘れることで解る。そのことに掛けては文学を音楽と比較することが出来て、天才がその作曲の能力を自在に駆使して書いた協奏曲でピアノが鳴り出しても我々は自分一人になり、それを聞いてゐるのは我々だけではない。これはその時に我々の周囲に拡る静寂で解る。」
 自分を支える「自分の神話」などというものはいらないのである。そんなものはなくても犬も猫も立派に生きているではないか? 犬も猫も神さまなど信じなくても立派に生きている。人間は犬猫以下だから、神様のようなものを戴いて神話の知をもたなければならないのだろうか? そこまで謙遜することはないように思う。
 音楽を聴くと人は現在にいることになるのかもしれない。動物の中で現在に生きていないのは人間だけだから、音楽によってわれわれはようやく他の動物なみになれるのかもしれない。河合隼雄は音楽は神話の知を呼び出すのだとでもいうだろうか? そんな大げさな言い方をする必要はない。もっと当たり前になればいいではないか。
 音楽と科学というものの中に、西洋の秘密が隠されているのだと思う。科学はギリシャ以来の西洋とかかわるのであろうが、音楽はキリスト教の西洋とかかわるのであって、ギリシャとの連続性はないのではないか。そうであれば、クラシック音楽こそが西洋の秘密ともっとも直接にかかわるのものなのであろう。
 今、シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」を聴きながらこれを書いている。この曲はアンケートで二人の人が挙げていた。協奏曲におけるソリストくらい西洋流個人をよく表しているものはないと思う。

(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)