町田康 「告白」

  [中央公論新社 2005年3月25日初版]


 明治26年に実際にあった「河内十人斬り」に材をとった小説であるが、その事件を再現しようとしたものではまったくない。「パンク侍・・・」が別に時代小説を書こうとしたものではなかったのと同じで、その事件は小説の外枠として使われているだけで、描かれるのはきわめて近代的な心理である。
 
 「思弁と言語と世界が虚無において直列している世界では、とりかえしということがついてしまってはならない。考えてみれば俺はこれまでの人生のいろいろな局面でこここそが取り返しのつかない、引き返し不能地点だ、と思っていていた。ことろがそんなことは全然なく、いまから考えるとあれらの地点は楽勝で引き返すことのできる地点だった。ということがいま俺をこの状況に追い込んだ。つまりあれらの地点が本当に引き返し不能の地点であれば俺はそこできちんと虚無に直列して滅亡していたのだ。ということはこんなことはしないですんだということで、俺はいま正義を行っているがこの正義を真の正義とするためには、俺はここをこそ引き返し不能地点にしなければならない」
 
 などというのが明治26年の人殺しの心理であったはずはない。同時に読んでわかるように、これは端からリアリズム小説をめざしていない。ここに描かれるのは、ただただ、そのような心理をもってしまった人間の不幸なのである。「まごころ」「素直な気持ち」を失ってしまった不幸である。
 
 「まだ、ほんまのこと言うてへん気がする」
 熊太郎は思った。
 俺はこの期に及んでまだ嘘を言っている。・・・・
 俺は生きている間に神さんに向かって本当のことを言って死にたい、ただそれだけなのだ。・・・・
 そう思った熊太郎はもう一度引き金に足指をかけ、本当の本当の本当のところの自分の思いを自分の奥底の探った。
 曠野であった。
 なんらの言葉もなかった。
 なんらの思いもなかった。
 なにひとつ出てこなかった。
 ただ涙があふれるばかりだった。
 熊太郎の口から息のような声が洩れた。
 「あかんかった」
 銃声が谺した。
 
 自分が何をしても、何をいってもそれが嘘であり、本当の自分とは違うと思えてしまう不幸と明治以来の文学者は格闘してきた。「本当のことを云おうか」という谷川俊太郎の詩「鳥羽」の一節を大江健三郎が「万延元年のフットボール」で引用しているが、「本当のことを云おうか」ということこそが近代文学の諸悪の根源みたいなことを三島由紀夫がどこかでいっていた。「世間で思われているとのは違って、俺は本当はこんな(厭な?)人間なのだ」という告白合戦が、明治以来の日本文学の主流を占めてきた。しかしそれは小林秀雄のいうらっきょうの皮むきであって、自分の奥底などを探っていっても、そこには何もない。だから告白文学作家の自負は、ほかの凡俗どもとは違って、俺はこの世には何もないことを知っているから偉いのだといったものになる。自分が不幸であることが自分が凡俗でないことの証拠であるという倒錯。とすれば、実は彼らの文学は自分がいかに世俗を超越しているかの自慢合戦ということにもなる。
 町田康の文学の特異な点は、自分が自分と乖離するということがいかに不幸であるか、しかし、そういう不幸な自分にも救いはないのかという宗教的というしかない希求が色濃くあることにある。現代日本で救済への希求を書いて、それがばかばかしいものとならないためには非常な力技が必要であるし、またその思いを相対化し、批判する視点も欠かせない。
 そのためにあるのが文体の力であり、明治時代を描きながら現代の言葉がぽんぽんとでてくるというような書き方である。でも、
 
 熊太郎はギタリストが試みに太棹を弾いてみたが思うように弾けず、「いっやー、三味線というのは難しいものですなあ」と明るく言っているような調子で、「いっやー、百姓仕事とは難しいものですなあ」と言ったのである。
 
 まではいいけれども、明治時代の登場人物に、葛木モヘア、葛木ドールなんて名前をつけるのはいくらなんでも行きすぎなのではあるまいか。加納マルタ、クレタではあるまいし。
 ここにギタリストがでてくることにも暗示されているように、この小説には町田康がかつてパンク歌手として活動していたことが、大いに関係していると思う。主人公熊太郎は博打打ちなのであるが、博打打ちという虚業がパンク歌手という虚業に重なるのである。パンク歌手などは正業ではないという罪の意識のようなものがこの小説の骨組みの根底にある百姓と博徒の対比に連なる。そしてその意識は小説家というのもまた虚業であるという思いへ連なるのであろう。「くっすん大黒」以来、町田康は何もしない人間、ぶらぶらと遊び呆けている人間を描いてきた。それらは罰せられるべき存在である。しかし、それでも彼らに救いはないのか、というのが一貫した主題となってきた。「パンク侍・・・」と本書で、その主題を町田康は開花させた。現在に稀な倫理的な作家であり、その点、太宰治に通じるものがある。
 この小説は「読売新聞」に連載されたが、約三分の二までのところで打ち切られた。あとの三分の一は単行本になるときに加筆されている。肝腎のクライマックスの部分は加筆部分である。三分の二の部分まででは、この小説を読んだことにはならない。連載は2004年3月から2005年3月までで、一年の約束で連載をはじめ、終わらないのできられてしまったのかもしれない。事情はよくわからないが、新聞で小説を読んでいた人がいたら、その人たちをずいぶんと馬鹿にした話である。最近では新聞小説などはだれも読むことを期待していなくて、小説を書くためのひとつの方便として使われているだけなのだろうか?


(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

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