橋本治 「貧乏は正しい ぼくらの最終戦争」

  [小学館文庫 1998年4月刊 元の本はまどら出版より1995年刊行]


 それで前項から続いて橋本治「貧乏は正しい」シリーズである。
 最終戦争とはハルマゲドンであって、この巻は宗教を扱っているのであるが、ここで橋本がいっていることは、人はどのように生きるべきかというようなことについてある個人が正解を与えるということはありえないということである。人の生き方について正解はないということである。
 ある優れた人が、過去においてすでに、われわれ凡俗には知りえない人生の正しい生き方を提示してくれているのであり、われわれはそれを知り、その指示にしたがって生きることにより正しい生き方をすることができるのだ、ということはないのであり、過去の人間が述べたことには、ある部分には、自分の現在に役に立つことがあるかもしれないが、それなら、それを利用すればいいだけである。ある人の言ったある部分が自分にとって切実であり、きわめて身につまされるものであったとしても、その人のいう他の部分を無批判に正しいとしてはならないということである。
 しかし、宗教とはそのような見方を許さないものである。ある宗教のある部分を自分は正しいと思うが、残りの部分は間違っていると思うとするようなことは許されない。であるから、ここで橋本がいっているように、「信仰の自由」というのはおかしいのである。ある宗教は絶対的に正しいものではなく、ある人には正しいが、別のひとにはそうではない、というようなことは信仰の側からはありえない。その信仰に入らないひとは、愚かな考えによって目をくらまされていて、真理を知ることのできない哀れな人なのである。だから、本来、宗教とは積極的に信者を勧誘しようとするはずのものなのである。しかし、今、熱心に信者勧誘をしているのは新宗教だけである。既成宗教は、わたしはこれを信じるが、人には信仰の自由があり、あなたはそれを信じないとしても、それはあなたの自由であるなどという。
 日本における「信仰の自由」とは「信仰しない自由」なのである。信仰などというのは馬鹿げたものであるが、まあそういうものを信じている愚かなひとがいてもしょうがない、でも、それをこちらにも広げようなどとはしないでくださいね、ということなのである。だから、「信仰の自由」などということをいわれたら、宗教の側は怒らなくてはならないのである。正しいのはわれわれの宗教だけである。他の宗教団体は認めるなといわなくてはいけないはずなのである。そもそも、国に届けを出して one of them の宗教法人として認可をもらい、税金をまけてもらうなどということをしているようでは駄目なのである。
 だから、本当は日本人はもう信仰からは自由になっている。しかし、それにもかかわらず、自分の生き方を誰か他の人間の指示によってきめるというやりかたからは自由になっていない。集団の思想があるからである。個であることの歴史がないから、自分の頭で“考える”がすぐに“信じる”に転化してしまうのである。信仰には何か高邁なものがあるという幻想からは、いまだに自由になれていない。
 この世の中には、役にも立たないクソ難しいことが好きでいるくせに、自分の頭でものを考えることを簡単に放棄してしまう人間が実に多い。一人で難しい本を読んで、そこから一向にでてこなくて、本を相手に“一人宗教”をやっている。重要なのは、その本を書いた著者ではなくて、それを読むことで生まれた、あるいは発見できた自分の心のほうであるのに。
 自分の心がはっきりするほうが重要なのである。その本を読んで自分がトクをしたかである。そして、そのトクをした自分、あらたに発見できた自分を持って現実に帰っていくのである。しかし、本の世界からでてこない人がいる。その人は自分が観念の世界に逃避しているだけだということに気がついていない。現実を生きる上で必要なことを考えればいいのであって、不必要なことは考えてもしかたがないのに。自分の現実をやってくれる他人などというのはいないのである。そういう“一人宗教”の人間にはつきあうべき他人がいない。
 正しいと信じるということは「自分一人で判断をくだす」ということである。自分ひとりで判断を下すのは心細い作業である。それで自分のまわりに自分と同じ考えの人間を増やすことで安心しようとする。現在の布教は信念からではなく不安からおこなわれている。
 ハルマゲドンのような終末思想はユダヤ民族の発明である。それにもかかわらず、現代のユダヤ人は終末思想を抱いていない。それがなぜかといえば、ユダヤ人は過去にハルマゲドンを戦い、徹底的な敗北を喫したという歴史を持っているからである。それが紀元一世紀のユダヤ戦争である。ローマ帝国と戦い、無残な負けを経験したユダヤ人は終末思想を捨てて、神秘思想のほうへといった。人の目にはみえない法則性の探求のほうにである。オカルティズムである。
 このユダヤ戦争に匹敵するものが日本でいえば、太平洋戦争なのである。この戦争は日本にとってのハルマゲドンであった。神と悪魔の戦いである。悪魔といえばキリスト教に通じてしまうので、《鬼畜米英》といったが。このハルマゲドンを経験したせいで、日本人は憑き物が落ちたのである。
 
 橋本治によれば、わたくしのような五十男がこんな本を読んでいるなどというのはとんでもないことで、そんな暇があったら若者を説教・善導していなければいけないのだそうである。困ったことであるが、でもこの本を読んでトクをしたと思うのだから仕方がない。日本にとっての太平洋戦争がユダヤ人にとってのユダヤ戦争であったという指摘だけでも目から鱗であった。こういう視野の広さというのはどこからくるのだろうか? 西欧の教養人にとってはローマ帝国の歴史というのは尽きせぬ思考の糧となっているようであるから、ある程度、歴史に親しめば、自ずからでてくる発想なのであろうか?
 ここでいわれる“一人宗教”というのが問題である。家に閉じこもり万巻の書を読破して、ある日、「ユーレカ!」と叫んで解脱にいたる。しかし、周りの世界はまったく変わっていないわけである。それにもかかわらず、心の持ちようが変われば、すべてが変わる! 現実に何か問題があるから、それを考えるために本を読む、その本を読んだ結果をもって現実に帰っていくというサイクルがなくなり、世界が自分の中だけで回転していく。
 ポパーがあるところで、まともな哲学というのは現実の問題に答えることを目指しているといっていた。プラトンイデア論は、ピタゴラス派が直面した無理数の問題に答えるためであったし、カント哲学は、正しいとしか思えないヒュームの哲学からはでてくるはずのないニュートン理論を説明するためであったという。またポパーは実際に必要にされる以上に言葉の意味にこだわるのは不毛であるともいっている。
 ポストモダン哲学というのがなんであのように面倒くさくて難解であるのか? それは西洋近代という問題に答えるためにでてきたのであり、その点で現実の課題に答えようとするものであったことは確かであるが、議論をしているうちに現実で必要をされる精緻さをはるかに超えた瑣末な議論に入りこんでしまい、“一人宗教”ではないにしても、“党派宗教”“仲間うち宗教”となってしまい、西洋近代の問題に悩んでいる人のところには届かない、議論のための議論になってしまっている。おそらくかつてのマルクス主義陣営内での議論もそのような袋小路に入り込んでいたのであり、議論の出発点にあったはずの現実が忘れられて訓詁学と堕してしまっていた。
 社会主義への信頼が失われてしまった現在においてもマルクスへの郷愁は続いているように見える。マルクスが言ったことの中から自分にかかわりがあることを拾い出してくるというのではなく、自分が一生をささげたマルクスという人間が全否定されるのは忍びがたい、経済学理論としては確かに問題があるのかもしれないが人間論としてはまだまだわれわれに示唆に富むものがあるといった議論である。こういう態度は信仰である。マルクスというかつて世界の秘密を発見した人間がいるという信仰である。世界の秘密をかつて解明した人間がいるということが前提になっている。世界の問題の一切を快刀乱麻を断って解決できるような結び目があるということが前提になっている。
 確かに宗教は日本ではほとんど力をもっていない。しかし、世界の秘密を解いた人間、われわれのあるべき生き方を示唆してくれる人間がどこかにいてくれるはずだという信仰は決して失われていない。
 橋本治がこの本でいっていることは、そんな人間はどこにもいない。自分の問題はどんなに苦しくてもつらくても自分で解決するしかないというしごく当たり前のことである。自分の問題を解決するためにある本を読んである人のいうことが正しいと思うとしても、それを正しいと思ったのは自分であり、もし自分の判断が間違っていたとしてもその責任は自分にあるということである。
 今の若者は「どうやって食っていくか?」ではなくて「この満たされない自分自身の空虚をどうやって埋めたらいいのだろうか?」と悩んでいる。飢えの恐怖から無縁でいられたことは人類の歴史ではほとんどなかった。ほとんどの人間が「どうやって食っていくか?」ではなくて「自分自身の空虚をどうやって埋めたらいいのだろうか?」と悩んでいるなどというのは人類の歴史はじまって以来の異常事態である、そう橋本はいう。そんな高級は悩みはかつては王子様のような特権階級だけがもてた悩みなのだと。しかも王子様がしていることだけをみればプー太郎と変わりないと。
 飢えの恐怖があった時代には「人間はどう生きていくべきか」などと考えるのはお金持ちのお坊ちゃん=王子様だけであった。日本は今、すべての若者が王子様でありプー太郎であるという異常な国になっているのである。
 そして考えることに慣れていない若者は誰か教祖を探す。とすれば、この本でこのように橋本が論じること自体が橋本を教祖にしてしまい、橋本のいっていることなら無批判に正しいとする信者をつくってしまう恐れがあるわけである。橋本のいっていることは、この世の中はおかしいよ、矛盾だらけだよ、でもそれをどうにかしていくのは一人一人の仕事であり、それをどうしたらいいのか指し示せるひとなんかどこにもいないよ、それが一挙に解決するようなバラ色の方策なんかどこにもないよということなのであるが、「あなたにそんなにものが見えているならば、どうしたらいいかも知っているでしょう。教えてください」という人間がでてくるわけである。
 橋本の論が面白いのは、おかしいものはおかしいといい続けている点である。たしかにおかしいけれど現実はという言い方が一切でてこない。しかも解決策を示すこともない。それを解決するのはあなたである。私はあなたではないからと。しかし、そんなことを言ったって、本当はどうしたらいいか知っているんでしょう、出し惜しみしないで教えてくださいという人間が必ずでてくる。すでに真理に到達しているだれかがいるという信仰がすたれていないからである。それをこわすために橋本治は延々と本を書き続けているわけであるが。
 

(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)


ぼくらの最終戦争(ハルマゲドン)―貧乏は正しい! (小学館文庫)

ぼくらの最終戦争(ハルマゲドン)―貧乏は正しい! (小学館文庫)