P・G・ウッドハウス 「よしきた、ジーヴス」「ジーヴズの事件簿」

  [国書刊行会 2005年6月15日初版]  [文藝春秋 2005年5月30日初版]
 

 「よしきた、ジーヴス」は、国書刊行会から刊行されている「ウッドハウス・コレクション」の第2巻で、3月くらいに取り上げた「比類なきジーヴス」の続巻である。「比類なき」の感想のときに現在ウッドハウスの翻訳は入手可能なのはこれ一つなどと書いたが、事態は急速に変化しつつあり、文藝春秋から「P・G・ウッドハウス選集」の刊行もはじまった。「事件簿」はその第一巻である。今年はウッドハウスの当たり年らしい。文藝春秋の選集も全3巻と予告されているが、こちらはジーヴスものはこの巻だけで、あとは他の主人公が主役のものらしい。
 実は「ジーヴズの事件簿」に収められているものの三分の二は「比類なきジーヴス」と同じ内容である。どうせ紹介するなら違うものを翻訳してくれればいいのになどというのはこっちの都合であって、原作の「The Inimitable Jeeves 」がジーヴスものの代表作なのであろう。おかげで、数ヶ月前に読んだばかりなのにまた読み直してしまった。面白い。はじめは翻訳がどっちがこなれているかななどという批判的な読み方をしていたが、そんなことは途中でどうでもよくなってしまった。繰り返して読めるというのがいい本の第一条件であるなら、ウッドハウスは文句なくその条件を充たす。「比類なき・・」のほうは短編を再編成してつなげた長編、「よしきた」のほうは最初から長編としてかかれたものという違いはあるが、内容は似たりよったりである。
 ジーヴスものと呼ばれているくらいで、主人公として有名なのは執事のジーヴスのほうであるが、ジーヴスはいわば「機械仕掛けの神様」として物語に終りをもたらす役割をする存在であって、われわれに魅力的なのは青年貴族ウースターとその仲間たちである。ウースター青年がわれわれをひきつけるのは、彼は知力においては問題があり実際においては徒食するだけのなまけものでありながらも一定の生活信条をもっているからである。その像から想起されるのはあまりに突飛かもしれないが、たとえば中野重治の詩「豪傑」で描かれた豪傑である。武士道などというものは後世の創造であるのかしれないが、ウッドハウスジーヴスものにはいわば貴族道とでもいったものがある。スノッブが幻想としてつくりあげた像であるかもしれないが、《武士は食わねど高楊枝》に通じる何かである。
 「事件簿」には、イーヴリン・ウォー吉田健一ウッドハウス頌が収録されている。そこでウォーは騎士道というようなことをいっている。そしてその登場人物たちはエデンの園の住人であり、誰もまだ禁断の木の実を食べていないともいっている。それに対して吉田健一は、ウォーは熱心なキリスト教徒だからそういうことをいうので、「罪がない」などといわずに無邪気とでもいえばすむことなのにというようなことを言っている。ウッドハウスには先天的に清明な気質とでもいうようなものがあるのだと。
 登場人物たちはしょっちゅう恋に落ちている。しかしその恋愛は「嵐が丘」や「カラマゾフの兄弟」での恋愛とはまったくちがう知恵の木の実を食べる前のたわむれである。あるいは江戸時代の色恋からセックスを抜いたものとでもいった趣である。どこかに古き良き騎士道的恋愛の面影を残している。
 ところで、国書刊行会の本ではジーヴス、文藝春秋ではジーヴズとなっている。吉田健一はジイヴスと書いている。もっともバーティ・ウースターもバアティイ・ウオスタアと表記する人であるから氏の表記が必ずしも発音を正確に反映しているとはいえないであろうが、吉田健一信者として、ここではジーヴスとした。吉田氏は形而上派の詩人ダンを死ぬまでドヌと表記し続けた。若い頃ケンブリッジでそう習ったからなのだそうである。吉田健一は若いときにイギリスで学んだことを死ぬまで墨守したようなところがあると思う。ウッドハウスやウォーの小説は吉田氏の頭にあるイギリスと深く感応するのであろう。
 文藝春秋の選集はハードカバーであるが、国書刊行会のコレクションはソフトカバーの装丁である。イギリスの貴族なら皮装の立派な本に装丁しなおすところであるかもしれない。これから何度も読み返しそうな気がするので、老後の楽しみに装丁しなおしてみようか。


(2006年4月16日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

よしきた、ジーヴス (ウッドハウス・コレクション)

よしきた、ジーヴス (ウッドハウス・コレクション)