田原総一朗 「日本の戦後 下 定年を迎えた戦後民主主義」
[講談社 2005年7月19日初版]
2年ほど前に出た上巻についてきびしい感想を書いた記憶があるが、本書の感想もまた同様である。要するに著者の独自な意見が何もない。その時々においては時流の平均の立場にいて、しばらくしてそれが間違っていたと感じると、様々な人の意見をきけるというジャーナリストの特権的な立場を利用して、報道の表面には表れなかったことを後から確認し、自分がなぜ間違ったかを確かめるというのが、本書に一貫する姿勢である。あとからわかったことはその当時は一般には知られていなかったのだから、その時誤った判断をしたのは止むを得なかったのであり、現在自分が知ったことをまだ知らない人間がいて、いまだに過去の誤った判断を訂正しないでいるとすれば、それはあってはならないことなのである。
著者によれば、あることについて十分な情報を与えられるならば、人はおおむねその問題については同じ結論に達するはずなのである。だから必要なことは知ること、表面にでていない裏の動きを知ることということになる。
2005年現在おきている事象への感想も最後に述べられているが、あと十年もすればそれが間違っていたことを認め、それがなぜであったかをいろいろと調べて懺悔録を書くにきまっている。世の中の動きがどうであろうと、自分が一番大事にする価値観はこういうものであるのだから、その尺度に照らして、これについては自分はこう考えるというものがないから、常にぶれ続ける。
本書に頻出するのが、何々について、誰々に問うた。誰々は××と《顔をしかめて》言った、《不快そうな口調で》言い捨てた、《吐き捨てるよう》に言った、といった類の表現である。あることについて誰々は明確に反対の意見であったとか、ほぼ賛成していた、とか書かずに、あることに対するその人のスタンスを口調とか顔つきで間接的に表現するのである。これは巧妙な逃げである。その口調からわたくしは誰々が内心このことについて大きな危惧を抱いていると感じたというように書けば、書いた人間の判断が後々問われる。しかし、顔をしかめて言ったと書けばこれは客観表現であって、著者の主観ではない、著者の責任は問われない。そういう腰の引けた書き方で、まともなことが書けるわけがない。
であれば、ここでとりあげる必要もないのだが、わたくしの関心から、著者が1967年から1973年までジャーナリストとしてかかわったという全共闘運動の部分だけをとりあげて論じてみたい。
著者は全共闘運動に関係する若者の生き方にとても惹きつけられたのだという。巷間いわれていたような暴徒とは思えなかったのだという。しかし、生き方とか暴徒かどうかというようなことがなぜ大事なのだろう? 著者はフランス革命をどう思っているのであろうか? あるいは2・26事件についてはどうなのだろうか? ロビエスピエールの生き方は、彼は暴徒であったのか? あるいは磯部浅一は? その生い立ちは? というようなことを論じるてみても、それがフランス革命や2・26事件を理解するのに何か役にたつだろうか? フランス革命の悲惨はロビエスピエールの性格に帰することができるのだろうか?
著者は全共闘運動の取材の過程で知り合った何人かの指導者に惚れたのだという。懐が深いとか、知的であるが東映ヤクザ映画の親分のような体質をもつ、とかいうのがその理由である。そんな人間なら自民党にも掃いて捨てるほどいるのではないだろうか?(たぶん、民主党よりも多いであろう・・・だから自民党はいまだに何とか政権の座にいるのである) もちろん、そういう理由で田原氏にとって信頼できる人間が、自民党にも、共産党にも、官僚にも、在野の人間にもいる。しかし、いやしくも思想運動について考察するのにそういう視点からするということがあるだろうか?
なんて悪口ばかりを言っていても仕方がないので、もうすこし著書の流れにそって検討してみよう。要するに、後述するように、田原氏は全共闘運動を思想運動とは思っていない。生き方の問題、人はいかにいきるのが誠実であるのかという問いへの回答の事例なのである。もっと言ってみれば、青春という時代におけるもっとも規範的な生き方の一つの例なのである。
著者によれば、1967〜68年といえば高度成長、二桁成長の時代である。多くの国民が社会主義を時代遅れのものと感じていた。そういうマルクス主義が色あせていた時代に、なぜ大学生たちが古色蒼然たるマルクス主義を錦の御旗として担いだのかを氏は問う。しかし、67〜68年にマルクス主義は色あせていたのだろうか? この時代は60年安保の記憶がまだ鮮明であったはずである。また、ベトナム戦争が継続していた。冷戦の只中であり、アメリカのベスト&ブライテストが本気でドミノ理論を信奉していた時代である。ちょうどわたくしが大学にはいった頃であるが、まだ進歩的文化人は大きな顔をしていた。入学式かあるいは自治会主催の歓迎会かに羽仁五郎がきて講演をしたと思う。大したアジテーターであった。多くの人が、先進国においては共産化ということが現実となると考えていなかったとしても、途上国においてはそれは有力な選択肢、あるいは最優先の選択肢と考えていたのではないだろうか? そして米国のベスト&ブライテスト達は、欧米圏以外の国は共産化し自分たちは孤立するというような悪夢をみていたのではないだろうか? だから学生たちが「革命的マルクス主義者同盟」とか「社会主義青年同盟」とかの旗をかかげていたのも、あながちアナクロニズムとは言えないはずである。
ただ彼らは「反帝反スタ」であって、現実のソヴィエト的体制による共産主義には否定的であった(毛沢東中国にかんしては微妙であるが)ので、実際にどのような政治体制を目指していたのかは不明であるけれども。ところで、ここで紹介されている元中核派の活動家は、「大学での生活がさっぱり面白くない、マルクスも資本論も関係ない、何か大騒ぎがしたい、騒ぐ相手は巨大なほうがいい、ならば国家権力だ」ということで運動に参加したのだそうである。「何かからだが震えるようなことをやりたい」「管理、拘束がいやだから運動に参加した」 そういう言に田原氏は共鳴できるのだという。また元ブント・シンパは「自分探し」をしていて、学生運動に自分の場があるような感じがして参加をしたのだという。
彼らはみな吉本隆明の「擬制の終焉」(現代思潮社 1962年)に大きな影響を受け、「自己否定」「自己変革」という考えもそこから出てきたという。しかし、本書でも指摘されているように、「擬制の終焉」は反安保闘争直後に書かれたものであり、そこで吉本が指摘しているのは、安保闘争の過程での社会党、共産党が果たした役割の欺瞞性ということである。なぜ社会党や共産党があるいは「進歩的文化人たち」が欺瞞的たらざるを得なかったのか、それは彼らが私的利害を優先する人たちを政治的無関心派として否定し、それらを自分たちが導くべき啓蒙の対象であるとしか見なかったからである。吉本によれば、安保闘争の高揚は大衆が自分たちが獲得した私的利害をまもろうとしたからこそ得られたものであった。そうであるならば、「擬制の終焉」からは、自己否定などということはでてくるはずもない。
一方、自己否定ではなく、自分のことを、日本を変える「昭和の維新志士」と自己規定していたものもいるという。たとえば、赤軍派の塩見孝也である。とすれば、これは政治運動をしているつもりなわけである。
戦前生まれの世代の学生運動家はマルクス、レーニン、トロッキーなどを信奉していたのに対して、戦後生まれ世代の学生運動家の多くはマルクスにもレーニンにも関心をもっていなかった、というのが田原氏の指摘である。これはその通りなのであろう。たとえば吉本隆明は戦前生まれである。「擬制の終焉」を読めばそれは明らかである。(「国家権力によって疎外された人民による国家権力の排滅と、それによる権力の人民への移行−そして国家の死滅の方向に指向されるものをさして、インターナショナリズムと呼ぶのである」p17) 一方、多くの全共闘運動参加者がマルクスなど全然読んでいなかったというのも事実であろう。この当時全共闘運動家が「民青」を蛇蝎のごとく嫌ったのは、彼らが「政治」をしていたからである。「政治」などという汚いことは自分たちはしないのであった。
そういう「マルクスなんか知らないよ」派の学生たちが求めたものは「バリケードの中の祝祭空間」であったのだと田原氏はいう。要するに「非日常」「カーニヴァル」を求めたのであった。それは永続することがもともと期待できないものなのであるから、できることは一日延ばしをしていくことだけである。わたくしも医学部紛争の渦中にいて、大学側から出てくる解決案などというのをみていて馬鹿馬鹿しくて仕方がなかった。マスコミがその案の内容などを仔細に検討したりしているのもバカではないかと思った。提案を受け入れればカーニヴァルは終わってしまうのである。だからどんな案がでてきても否定である。しかし、カーニヴァルが永久に続かないことは運動の当事者が一番よくしっている。だから、それが権力によって潰されることを望んでいる。それだけが運動から降りることを可能にするのである。自分たちがたまたま実現してしまった祝祭空間を少しでも長く続かせるために、無理難題を提出する。それは解決しないための方策であるのだから、実現の可能性など初めからまったく考えていない。相手が受け入れたら、さらに受け入れ難い条件を追加して示せばいいだけである。
要するに自分の楽しみのために、周りのあらゆるものを利用するわけである。そういう行為は究極の自己崇拝の産物であり、倫理的に醜いものであって、なにかの落とし前をつけなければいけないものだと思うのだが、田原氏はそうは考えないらしい。これらの祝祭空間が唐十郎や寺山修司のアングラ演劇に引き継がれたという指摘をするだけである。実際、田原氏はATGで映画を作ったりして、自分でも祝祭空間に参加していたつもりらしい。
仏教の一番の問題点はあらゆる人間が出家してしまったら、だれも生産するものがいなくなることである。学生たちは大学という擬似僧院の中で解脱ごっこをしていたわけである。自分たちに大衆が喜捨してくれるのは当然であると思っていたわけである。そしてあるとき還俗して、祭りは終わったとして僧院の外にでていくのである。
一方でまた、連合赤軍事件というのがある。これはある意味本気だったわけである。しかしオウム真理教だって本気だったのではないだろうか? 要するに客観的にみたら単に愚かというだけである。しかし田原氏は大真面目に彼らの動機を追及する。だが、彼らが考えていたことは「大和魂」と同じような「革命戦士魂」さえ養成できれば「神風」が吹いて「革命」が起こせるというようなことなのである。養老孟司氏は連合赤軍事件に陸軍内務班体質を見るのであるが、田原氏にはそういう歴史の中で相対化して見る視点がない。60年代日本はすでに豊かになっていたのだから、「革命」などという状況にはなかったなどという見当はずれの指摘をするだけである。「擬制の終焉」を読む限り、その当時、吉本は本気で政治をしようとしている。しかし、「擬制の終焉」の吉本と詩人としての吉本がどのような関係にあるのかがよくわからない。たとえば、「二月革命」という詩。
二月酷寒には革命を組織する
何といつても労働者と農民には癇癪もちがいるし
インテリゲンチヤには偏執狂がいて
おれたちの革命を支持する
紫色の晴天から雪がふる
雪のなかでおれたちは妻子や恋人と辛い訣れをする
いまは狂者の薄明 狂者の薄暮だ
おれたちは狂者の掟てにしたがつて
放火したビルデイングにありつたけの火砲をぶちこむ
日本の正常な労働者・農民諸君
インテリゲンチア諸君
光輝ある前衛党の諸君
おれたちに抵抗する分子は反革命である もしも
この霏霏として舞い落ちる雪
重たい火砲をひきずつて進撃するおれたち
が視えない諸君は反革命である
(後略)
これが発表されたのは1957年だから、その後考えが変わったのかもしれないが、「大衆の原像」などというのはどこにもない。何だか六全協以前の日本共産党みたいである。前衛である。「マルクスなんか知らないよ」派が読んだ吉本は「擬制の終焉」の吉本ではなく、詩人としての吉本ではないのだろうか?
ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる
もたれあふことをきらつた反抗がたふれる
ぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を
湿つた忍従の穴へ埋めるにきまつてゐる
ぼくがたふれたら収奪者は勢ひをもりかへす(「ちひさな群への挨拶」部分)
これは1952〜53年に書かれている。
ここには政治は微塵もない。アジテーションは政治ではない。
しかし、やはり吉本の軌跡はよくわからない。
田原氏は「真面目」が好きらしい。だが「真面目」であると碌なことにならないのである。
大事なことは、人間の愚かしさに寛容になることであると思うのだが、そういうことは田原氏には思い浮かびもしないらしい。政治というのは人間は愚かであるという前提がないと危険なものとなるはずであるが・・・。
田原氏は朝日新聞みたいな人なのである。
(吉本隆明の詩の引用は「吉本隆明全著作集 1」(勁草書房 1968年)によった。)
(2006年4月4日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)
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