鈴木淳史 「わたしの嫌いなクラシック」

  [洋泉社新書y 2005年8月22日初版]


 著者の鈴木氏はクラシック音楽愛好家なのではあるが、当然のこととして、あらゆるクラシックが好きというわけではない。この曲は嫌い、あの演奏家も嫌い、ということがある。それはなぜなのか、といったことを書いた本である。ベートーベンの第九、荘厳ミサなどへのいちゃもんは同感な部分も多く面白いが、最後の第三章「「キライ」の裏側の潜むもの」の部分が特に興味深いので、主としてその部分を論じる。
 鈴木氏は、西洋クラシック音楽のもとにあるのは「線」的な時間感覚であるのに対して、われわれ東洋では「円」的な感覚であるという。いってみれば、西洋の時間は前に進んでいくが、東洋では永遠にその場に留まる。そういう東西での時間の把握の違いという見方はごく一般的なものであり、とりたたて論じるべきものでもないかもしれない。鈴木氏によれば、そういう西洋的な「線」的時間感覚をもっともよく表したものがクラシック音楽なのであるという。たとえば、それはソナタ形式、あるいは機能和声といったものに表れる。
 鈴木氏の指摘をまつまでもなく、ソナタ形式の提示部−展開部−再現部の形において、再現部は提示部の反復ではない。ソナタ形式は、提示部の再現を必然とするが、再現部は展開部を経ることにより提示部とは異なるものに変容していることが感じられる。それは何か強化され、新たな命を吹き込まれたものとなっている。ソナタ形式の根底にあるのは明らかに西洋的な時間感覚をふくむ西洋の秩序感覚なのであり、そうであるなら、東洋人でそれに同調できないものがいても不思議ではない。伊福部昭はどこかで、ソナタ形式というのは納得できない。提示部−展開部−コーダでいいのではないか? 再現部は余計だ、というようなことをいっていた。
 また機能和声は、Ⅰ−Ⅳ−46−Ⅴ−Ⅰ、あるいはⅠ−Ⅴ−Ⅰとしてワンセットではじめて機能する。ただ鳴り響くトニカというのには意味がなくて、それはサブドミナンテ、ドミナンテと組み合わされることで意味をもち、力をもつ。この方向は一方向の流れであり、サブドミナンテからドミナンテへの流れはありえない。これまた西洋の感覚なのであり、たとえば、それに対して、黛敏郎の「涅槃交響曲」の「カンパノロジー」の部分は鐘(梵鐘)の響きを模したものであり、静止した時間、円環する時間をあらわしている。鐘の響きは何回繰り返されたとしても、時間を未来に進めていくことはない。
 そういう西洋の時間感覚、時間が直線的に進行し、過去から未来へと向かい、現在よりもよい未来がある(ソナタ形式でいえば、再現部は提示部より《豊か》である)という感覚が、西洋でもすでに失われようとしている、というのが本書における鈴木氏の主張の一番肝要の部分である。西洋が自分に自信を持つことができた時代、西洋が体現していた最良の部分がクラシック音楽には保存されているが、そういう古き良き西洋は最早現実の西洋には存在していない−そのことが、現在のクラシック音楽の最大のウイークポイントとなっているのであるが、それだからこそ、われわれは、古き良き西欧の最良部分を追体験するためにクラシック音楽を聴く、というのが鈴木氏の主張である。
 もう一つ、クラシック音楽における「個」という問題がある。あるいは「個」という異質の間での協調ということがある。多様性の擁護、他人を他人と認めるという方向である。「対位法」にたとえばそれが表れると鈴木氏はいう。対位法はある旋律線に対して、和声の規則内でそれと調和する、しかもそれ自体で独立性の高い別の旋律線を作る技法である。しかし、これがはたして対立、多様性の例として適当であるのかには疑問を感じる。この問題はポパーのいうような、ドグマの存在が豊かな可能性に道を開くということの例としてのほうが適当なのではないだろうかと思う。われわれはまったく自由に考えるということはできない。何かすでに存在しているものに対してしか思考することができない。われわれを規制するものが、われわれに新たな思考をうながすのである。ポパーは、和声法という規則の中でどれだけのことができるかを試みる方が、なんら規則がないところで作曲するよりもずっと豊かな結果を生むという。機能和声を排したあとの十二音技法などというのは苦肉のドクマ作りである。ドグマがなければ何でも有りであり、anything goes! の無政府状態であるが、シェーンベルクのような根っからの西洋人、西洋古典音楽の偏愛者にとっては、そのような無秩序状態は耐えられない。だからドグマを必要とするのであるが、このドグマは古典的な和声法の制約よりもはるかに大きな窮屈を産んでしまうし、なによりも和声学にはあった耳に快く響くというよりどころがなくなってしまうから、頭で聴くしかない、《音楽》に乏しいものになってしまう。
 クラシック音楽における「個」という問題は、鈴木氏のいうような「対位法]といった部分にあらわれるのではなく、西欧の芸術家のイメージの典型であるクラシック音楽の作曲家に表れるのではないだろうか? 神が天地を創造したのと同じアナロジーで曲をつくる人間の存在である。西欧以外で、作曲家の固有名詞がこれだけ大きいところはない。西欧以外ではずっと演奏家の比重が高い、「芸」への信仰が強い。個々の「芸」への信仰が強いところではオーケストラなどというのが生まれるはずはない。コントラバスやチューバ、ティンパニといった独奏楽器としてはほとんど機能しない楽器がオーケストラという全体のために生まれる。たとえば、和太鼓とティンパニを比べたら、和太鼓の方がはるかに表現力が高い。ただティンパニは音高をもち、それを調節できる点においてのみ和太鼓より優位に立つ。。
 東洋においては、圧倒的に線であり、横の流れなのである。それに対して西洋音楽は縦の線、すなわち和声である。和声第一であるからこそ、それを支える低音が重視され、低音専用の楽器が生まれる。これは一見すると、西洋が「線」で、東洋が「円」という話と矛盾する。しかし東洋の旋律はその場にとどまり続けるのに対して、西洋の縦の線、和音は必ず次の動きを要求する。属和音は主和音に解決されなければならない。
 竹内靖雄氏は「世界名作の経済倫理学」(PHP新書 10996年)において、西洋の作家には自分を神に擬して、自分の作品を神による世界創造の代替物とみなすタイプの人間がいて、これは西洋以外にはあまり見られないといっている。竹内氏が挙げるのがフロベール。ワイルド、プルーストナボコフといった名前である。(滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」などは、どうなのだろうか?)。
 西洋における「個」の問題は、キリスト教という一神教とそれがもつ世界創造説話の問題を抜きにしては論じることができない。最近、多くの人間が一神教のもつ自己確信の強さに辟易としているのではないかと思う。現在、西欧におけるまともな思想家は、西欧近代がもたらした悪の告発に躍起となっている。しかし、それにもかかわらず、西欧近代は強い魅力をもつのであり(そこには竹内氏のいう強い個人がいる)、その魅力の最良の部分をクラシック音楽が伝えているという鈴木氏の説は、多いに共感できるものであった。
 わたくしがクラシックを聴く理由もそこにあるのであろうと思う。鈴木氏もいうように、われわれが日常暮らしていると、仲間世界としての共同体とそれと異質なものの徹底排除の原理から成り立つ日本社会に息が詰まる思いがすることがある。そのズブズブ、ナアナアの日本から一時的にでも逃避したいという思いである。
 この本でも鈴木氏が言っているように、日本のオーケストラはほとんど全員が日本人で構成されている。これは教員がほとんどが日本人である日本の大学とパラレルである。音楽や学問という一番「個」が表れるべき場所においても、日本的な共同体が成立してしまう。
 たぶん、全共闘運動の一番まともな批判はこの点を撃ったはずである。学問の世界で、旧陸軍内務班的な序列構造ができてしまうということへの批判である。しかし、その批判によっても、何も変わらなかった。
 クラシック音楽を聴くことは、その息苦しさからの一時的な逃避である。われれれの祖先が明治維新、文明開化の時にもったであろう憧れの西欧像を、もっとも簡単に身近に再現させてくれるものが、クラシック音楽なのである。
 クラシック音楽受容の過程ほど、日本における西洋文明受容の悲喜劇が表れている場は他にないかしれない。その時代にはなかった楽器をまるごと輸入し、その時にあった音曲に変わるものとして、西洋の《音楽》をそれとはまったく別のものとして受容して、根のないところに花を咲かせようとした、壮大で無謀な試みだった。そんなことを言えば文学だって、哲学だって絵画だって同じかもしれないが、文学にも思想にも絵画にも、とにかくそれなりの歴史が日本にもあった。しかし音楽だけはそういうものがなかった。いたのは芸人だけである。義太夫とか謡曲とかと西欧の音楽はまったく異なる。西洋音楽を受け入れる素地はまったくなかった。そこで丸ごと輸入になる。ドビュシーが作曲している時代に、ベートーベンの語法を一から勉強して、それを模倣して作曲することを試みる。
 だから、本書でいう「求道派」と「土着派」ができる。西洋音楽をひたすら学び尊重する「求道派」(例:小澤征爾)と、どうせ日本人には本当の西洋はわからない、日本人には日本人の行きかたがあるとする「土着派」(例:朝比奈隆)への二極分解である。しかし、そのどちらでもない第三の道が自分は好きなのだと鈴木氏はいう。何故なら、そういう「求道派」も「土着派」もまさに日本的西洋受容の典型、その陽画と陰画であるから、どちらも日本を思い出させるからと。自分は一時的にでも日本から逃げたいから、日本を忘れたいからクラシックを聴くのだからと。
 そうすると鈴木氏は、伊福部昭の「オーケストラとマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ」とか外山雄三の「管弦楽のためのラプソディー」なんていうのは苦手なのだろうか、前者は非西欧的バーバリズムみたいな世界だし、後者はソーラン節に八木節である。あるいは尾高尚忠の「フルート協奏曲」のような曲はどうなのだろうか。この曲は一見西欧的であるにもかかわらず、とても日本的な感じをあたえる。
 そういえば、そもそも尾高賞も日本人作曲家の作品に与えられる賞であるような気がする。ここでもまた日本的共同体が顔を出すのであろう。国立劇場におけるオペラ上演ではつねに主役が日本人であるかが問題になるらしい。レベルの高い上演をすることよりも、日本人音楽家に仕事をあたえることがしばしば大事ということになるようである。
 クラシック音楽について考えることは、ほとんど日本の西洋受容そのものを考えることにつながると思う。日本が西洋を受容することができたのは、単にそうしないと日本が列強の植民地とされてしまうからといった受動的な動機ばかりによるのではなく、西欧文明自体が強烈な魅力をもっていたからである。自発的に受け入れた部分もまた大きいのである。クラシック音楽はその魅力の一番の根っこを伝えるものであるのかもしれない。
 昨今の政治の動きがどうなるのかはわからないが、小泉純一郎氏の一番いいたいことは、これからはもう旧来の日本的なもたれあいではもうやっていけないのだぞ、ということなのかもしれない。ところで、小泉氏はクラシック音楽ファンではなかったろうか? そういえば田中真紀子氏もそうだっただろうか? 日本でクラシック音楽を好む人間というのは、どこか日本社会になじめないものをもつ人間なのかもしれない。


(2006年4月4日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

新書139 わたしの嫌いなクラシック 鈴木淳史 著 (新書y)

新書139 わたしの嫌いなクラシック 鈴木淳史 著 (新書y)