橋本治 「ああでもなくこうでもなく No95」

  [広告批評2005年8月号 マドラ出版]


 橋本治が延々「広告批評」に連載している「ああでもなくこうでもなく」の今月号の「セレブ」論が面白かったので少々感想を書いてみる。
 セレブというのは日本語であると橋本治はいう。なぜそういう言葉が必要とされるのかといえば、日本の女がドレスを買っても着ていく場所がないからである。なぜ着ていく場所がないか? それは日本のエスタブリッシュメント社会が男社会であって、そういう男たちが集う場所にはホステスはいても、夫人や令嬢はいないからである。そういう夫人や令嬢たちが自分たちだけで集って作る擬似上流階級がセレブと呼ばれ、それが集まる場には彼女たちはドレスを着ていけるのである。
 それでは、本来のセレブレィティであるはずの政治家や大企業の社長はどういう格好をしているのか? 背広を着ているのである。だから「クールビズ」でおかしなことになる。あれは単に背広を脱いでネクタイを外しただけである。しかしファッション感覚がゼロの人間が背広を脱いでネクタイを外したら、文化的武装解除である。
 ここに欠けているものは、暑いから脱ごうではなくて、暑い日本におけるふさわしいファッションは?という発想である。クールビスというのは根本から考えないで、こまったらちょっとだけ目先を変えるという旧来のオヤジ社会の発想そのままなのである。日本のエスタブリッシュメントには自分たちには社会に展望をあたえる役割があるという自覚がない。その自覚のなさを背広がごまかしてきたのである。
 小泉純一郎は、俺はオヤジ社会は嫌いだと公言する。しかし、オヤジ社会がいやなら、それなら《セレブ》なのかというのも不毛な二項対立である。
 
 若いときに自分のセーターを自分で編んでいた橋本治とは違って、わたくしはファッションにはまったく関心がない。吉田健一だかが書いていた男の服装の要諦は目立たないことであるというのを唯一守って今日に至っている。背広を着ているのは、そうすれば目立たないからである。もし別の格好のほうが目立たないとなれば、そちらに変わるはずである。しかし、いわれて見ればこれは何の主張もないただの大勢順応である。背広という格好に隠れて自分の社会的責任を回避しているという側面はあるのかもしれない。目立つというのは、責任を負うということでもある。
 しかし自分はいつだって社会のマイナーな側にいるという自覚がある。エスタブリッシュメントの側にいるとは到底思えない。しかし、そのように自己規定することが、責任回避にも通じるのかもしれないとも思う。
 橋本治イラクで頻発する自爆テロは、テロリストが展望がないと思っていることを示すという。展望があると考えるならば、生き残る選択肢を選ぶはずであると。自爆テロがおきるイラクの最大の問題は、そこで生きている人が展望をもてないでいる点にあるという。そして、現在の日本においてもまた、人々が急速に未来に展望がもてなくなっているのではないかという。その責任はまず第一にエスタブリッシュメントである人々にあるという。自分がエスタブリッシュメントの中にいながら、自分はワン・ノブ・ゼムであるとして、社会に果たすべき役割から逃げているオヤジたちにあるという。そのオヤジの象徴が背広なのであると。背広が人をワン・ノブ・ゼムにしてしまうのであると。
 本書と前項をあわせ《クラシック音楽=セレブ論》というのを思いついた。クラシック音楽を聴くというのは日常では着られないドレスを着るというような側面があるかもしれない。
 そういえばクラシックの演奏会というのは日本では数少ないドレスを着ていける場所であるのかもしれない。外国での演奏会に較べれば、まだまだ着飾った女性は多くはないのかもしれないが・・・。


(2006年4月4日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)