保阪正康 「あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書」

  [新潮新書 2005年7月20日初版]


 著者は「はじめに」で「太平洋戦争そのものは日本の国策を追う限り不可避なものだった」という。そして最終章で、それはなぜかといえば「明治期以降の日本はいったん“ガス抜き”が必要であったから」なのだという。明治期以来の日本が“夜郎自大”になってしまっていたからどこかで、それはいずれどこかで暴発せざるをえなかったからと。しかしそれは問いへの答えになっていないと思われる。なぜならそれは、なぜ明治期以来の日本が“夜郎自大”になってしまったのかという問いに退行してしまう答えだからである。そして“夜郎自大”になるのが日本人の国民性というようなことになってしまえば、もう運命論である。
 司馬遼太郎山本七平という「あの戦争は何だったのか」という問いを問い続けた二人は、なぜ昭和の人間はあのような“非合理”に陥ってしまったのかという疑問に固執した。本書もまたその列に連なるものであるが、著者なりの答えが提示されているわけではない。著者のいっているのは、このあの戦争についての事実があまりにも知られていない。もっと事実を知って各自で考えなくてはいけないということである。
 その事実とは、まず日本における職業軍人養成制度である。軍事についての意思決定権をもっていたのは具体的にどの部分の人間であるかである。また徴兵の制度である。保阪氏によれば、軍を動かし戦略を決定していたのは参謀本部(陸軍)・軍令部(海軍)のなかでもトップに位置した「作戦部」の人間であった。
 保阪氏が考える“非合理”への傾斜の原点は2・26事件である。そこでのテロへの恐怖がそれ以後の人の思考を麻痺させたという。事件をおこした「皇道派」の思考を今の時点で理解することは難しいが、それは今の北朝鮮の体制をわれわれがみても理解不能なのと同じようなものであると保阪氏はいう。皇紀2600年の昭和15年こそが日本の神がかり国家に転落したことが明確になった年であったのであるという。
 保阪氏によれば、通常いわれているのと異なり、戦争の責任が重いのは陸軍ではなく海軍である。なぜなら「南進」は海軍の協力なしにはできなかったから。そもそも海軍も戦争をしたがっていたのであり、石油の備蓄が2年しかないという海軍の提供した情報も戦争をする口実としての嘘であったという。そして真の責任者として海軍省軍務局にいた石川信吾や岡敬純、軍令部作戦課の富岡定俊、神重徳といった山本五十六などとくらべればずっと名前の知られていない軍事官僚の名前をあげる。これらが石油の備蓄不足という“神話”をでっちあげたのであると。海軍が戦争はできないよといえばあの戦争はできなかったというのが保阪氏の主張なのであるが、それならば海軍が戦争はできないよという可能性があったのか、といえば海軍もまた戦争を欲していたのであるから、そういう可能性はなかったことになる。
 開戦の12月8日に日本人が感じた解放感を論じているが、なぜそのような解放感を感じたのかという氏の説明にはまったく説得力がない。このときに感じた解放感がその後の戦争をやめることを著しく困難にさせたことは間違いがないから、この説明は大事であると思うのだが。その時の新聞などの論調は軍部を恐れて筆を曲げたというようなことではなく、心底感じていたことをそのまま書いたものなのではないだろうか? みんなが戦争を歓迎していたのであれば、それを止めることはきわめて難しい。それとも正確な情報さえ伝わっていれば、多くの国民がそのような方向にいくことはなかったのだろうか?
 明治以来西欧に伍そうとして頑張ってきて疲れてしまった、西欧の後を追うのではなく独自に生きるのだ、そう宣言することで解放されたということはないのだろうか。第二の鎖国の宣言、大東亜共栄圏というのも西欧外で生きるという、もっといえば西欧外に閉じこもるという宣言、きわめて後ろ向きな、抛っておいてくれ!という悲鳴なのではないだろうか。そして第三の鎖国平和憲法であるのかもしれない。これも抛っておいてくれ!である。
 この戦争には戦術しかなく戦略がない、目的がないというのが保阪氏の批判であるが、勝とうなどということは考えてもいなかったのではないだろうか? ある程度力をみせて世界の中での棲み分けを認めてもらおうというようなことではなかったのだろうか? どのようにすれば認めてもらえるのかについての戦略は一切なかったとしても。
 この戦争は何のためにたたかっているのかという自省が当事者からでた様子がまったくないと保阪氏は嘆く。自存自衛のためなどという奇麗事だけしかないという。しかし、これは本音なのではないだろうか? 別に世界を征服しようなどとはいわない、日本が生きるのに必要なだけの領土を認めてもらえればいい、というだけなのではないだろうか? アメリカを占領するなどということを考えていたひとがいないのは当たり前である。
 その当時の軍当局にみられた体質は昨今のNHK、西武などに見られる混乱につながっている、日本人はあの戦争から学んでいないというのが保阪氏の本書を書いた大きな動機の一つのようである。この戦争でとにかく日本人は総力を結集した。それは戦後の高度成長にもつながっているという。高度成長期まで戦争は続いていたのだと。多分、高度成長期の“夜郎自大”も戦前の繰り返しなのである。それは日本人の体質なのであろうか? そうであればこれからもそれを繰り返していくのだろうか? 
 ここで書かれていることのほとんどは司馬遼太郎や山本七兵の本で読んでいたことであり新しく教えられたことはあまりなかった。その点ではわたくしは比較的まだ歴史を知っているほうであるのかもしれない。司馬氏は戦車部隊、山本氏は砲兵隊にいたはずであって、軍隊の中でも“合理的”思考を要求されるはずの場所である。それにもかかわらず日本の軍隊の中で横行した“非合理”がなにに起因するのか? それが司馬氏や山本氏の思考の出発点になったはずである。司馬氏は明治期の日本人は“合理的”思考をできていたと考えた。山本氏は“非合理”の由来を日本の共同体に求めた。山本氏によれば、日本の共同体は日本の最弱点でもあり、また日本の一番強い部分でもあった。日本の共同体の故に、日本は誰が責任をとることもなしに、誰が決めるのでもなしに“自然に”戦争へと向かっていったのであるし、共同体の故にアメリカの物量に対抗してとにかくあれだけの戦争ができたのである。共同体のゆえに日本の高度成長はあったのであり、共同体の故にNHKの不祥事も西武の混乱もおきた。保阪氏がいう日本人の“集中力”は共同体に由来するのであり、ひとたび目標を決めると猪突猛進するのも共同体の故である。陸軍も海軍もそれ自体が共同体を形成して、まずおのれの利益を第一優先にしようとした。省益あって国益なしというのも共同体の故である。共同体は“合理的思考”の対極に位置する。
 わたくしがこの辺りの歴史を読んでいていつも一番わからないと感じるのが、「国体の護持」というのが何をさすのかということである。もちろん天皇制の維持ということなのであろうが、“神がかり的”天皇制の維持を図っていたようには思えない。おそらく明治期に伊藤博文らが創作した“重臣”による統治というものがあり、当初は天皇制はそれの機能させるための一つの装置に過ぎなかったのではないかと思われる。国体の護持とは“重臣による政治”の維持ということなのではないだろうか? この当時の人間は誰も民主主義などというものを信じていなくて、日本を運営するためには政治のことがわかっている少数の人間が責任を持つ体制が必須であると信じていて、それが保障されなければ日本は運営できないと思っていたのではないだろうか?
 今おこなわれている選挙で問われているのは、これからも共同体的運営を日本は続けていくのかということであるのかもしれない。共同体こそが日本の美点であり、それが維持できなければ日本人は不幸になるという見方と、そういうものに縋っていると日本は沈んでいくばかりであるという見方の対立であるのかもしれない。
 共同体に依存することは日本人の体質にあっているのだろうか? しかし戦国時代などというのは共同体などくそ食らえという時代であった。江戸末期から明治維新も共同体崩壊の時代である。日本の歴史で人気があるのは戦国時代とか、幕末明治維新などの共同体が崩壊して個人が表にでた時代であると誰かがいっていた。
 それにしても、自民党議員が口々に「小さな政府」といっているのには唖然とした。おらが国に橋を架ける、道を作るというのは「小さな政府」の正反対である。本当に日本は小さな政府に向かおうとしてるのだろうか? 義理と人情と浪花節の“うるわしい日本”はどうなっていくのだろうか? それともまた反動がどこかでくるのだろうか?


(2006年4月4日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植) 

あの戦争は何だったのか: 大人のための歴史教科書 (新潮新書)

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