小谷野敦 斉藤貴男 栗原裕一郎 「禁煙ファシズムと戦う」

  [ベスト新書 2005年10月1日 初版]


 この3氏が別々に「禁煙論」に対する反対を述べた論を収載し、それに小谷野氏と斉藤の対談を付し、最後に医学論文(もちろん、禁煙論の論拠を疑うもの)を一編付したものである。
 小谷野氏の論の一部は以前の「素晴らしき愚民社会」にも収載されており、それをとりあげた時、かなり無茶苦茶な反禁煙論であると書いたが具体的には論じなかった。その印象は今回も同じであるが、以下、少し具体的に論じたみたい。
 
 それでまずその小谷野氏の「禁煙ファシズム・闘争宣言」から。
 日本では1977頃から「嫌煙権」の主張がでてきた。そして、2003年5月に「健康増進法」が施行された。これはそれまであった栄養改善法にとってかわったものであり、大部分は食品の栄養をあつかっているのだそうであるが、その25条で「受動喫煙」の防止義務を各公共機関に課しているのだそうである。この法律は強制力をもっていない。
 この法律が正当化されるためには喫煙が本人の健康を害するだけでなく、「受動喫煙」により周囲の人の健康もまた害されることが立証されなくてはならない。「受動喫煙」の害については故・平山雄氏の疫学研究がその最大の根拠となっている。しかし、これはかねてからきわめて胡散臭いものであるといわれてきている。本書に収載されている2003年に「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル」に掲載されたエンストロームの論文は環境内たばこ煙(日本でいわれる受動喫煙)が他人の健康に与える害は大したものではないことがいっている。しかし、エンストロームは煙草会社から資金提供をうけていたのだそうで、その理由をもってエンストロームの論文の内容自体は議論されることなく、信用するに足りないものとして葬りさられようとしているのだそうである。学問とは、しかし、その内容が正しいかを問うものであって、著者が資金をどこから得ているかには関係がない。禁煙運動家も禁煙パイポの会社や断煙補助剤の会社と提携をしているではないか。
 喫煙を原因とする肺癌が増えているといわれる。しかし平均寿命が延びれば癌で死ぬもほが増えるのは当然である。まあ、それでも煙草は健康に悪いのかもしれない。しかし都市の空気を汚染しているのは煙草よりも自動車の排気ガスである。過重労働、酒の多飲、肥満、通勤ストレスもまた健康に悪い。でも煙草は本人だけではなく、他人にも害を及ぼすから悪いという。しかし自動車もまた凶器である。それゆえに自動車を規制しようという動きは聞かない。
 また、禁煙医師連盟には精神科医が入っていない。禁酒にはかならず精神科医が参加するのに。
 自分がカナダに留学したとき、煙草は蛇蝎のごとく嫌われていた。しかしそういう煙草嫌いの連中がマリファナを吸っているのである。
 とにかく断煙をいう者たちは、人間というものがわかっていない。神経症の人間は煙草をやめるのは難しいといわれている。自分は間違いなく神経症の素因をもつ。喫煙は自分の目の前に「死」へ向かってべたっと広がっている「時間」を分節して、そのべたっとした時間の恐怖から逃れようとする行為なのである。そういう人間の深遠もわからない馬鹿が禁煙などということを軽々しくいうのである。
 いったい禁煙運動をしているひとにとっての生きている意味というのは何なのだろう。高齢化社会が問題なら、煙草をやめさせてこれ以上長生きさせてどうしようというのだ。養老孟司は、禁煙ファシズムは何かを隠すためではないかといっている。養老氏はそれが何かということをいっていないが、「遺伝」に違いないと自分は思う。ヒトゲノムの解析が終り、多くの疾病が遺伝により規定されていることが明らかになってきて、節制してもしなくても寿命の差はプラスマイナス5年くらいであることがわかってしまった。その事実から目をそらすために、後天的な煙草という要因が敵とされるようになったのである。
 欧米で喫煙が嫌われるのは肥満が嫌われるのと同じで、喫煙も肥満も低学歴・低所得層で目立つので、高学歴・高所得の人間が下層の人間をそれによっておおっぴらに差別できるという心理に拠るところが大きい。一方、大麻に寛容なのはエリート芸能人が用いているからである。喫煙者がこれだけ差別迫害されているのに、エイズ患者の人権が異様に保護されるのは、「性の自由」というイデオロギー擁護のためである。
 最初は分煙というつつましい要求であった禁煙運動が、いつの間にか公共機関での全面的禁煙というとんでもない要求にまでエスカレートしてきている。
 
 「受動喫煙」の害というのがきわめて学問的に疑わしいというのは小谷野氏の言うとおりであろう。しかし、寿命が延びたから癌も増えた、などというのはきわめて杜撰な議論である。寿命が延びているにもかかわらず胃癌や子宮癌が減っているという事実を示されただけで破綻してしまう。またヒトの寿命を規定しているのがほとんど遺伝であるというのも、このほんの数十年で日本人の寿命が劇的に延びている事実だけからも否定されてしまう。坪野吉孝氏の「「がん」は予防できる」(講談社+α文庫)によれば、癌の原因の30%が煙草、同じく30%が成人期の食事と肥満、運動不足が5%でアルコールが3%でおよそ70%が生活習慣であり、遺伝(家族歴)は5%、環境汚染は2%である(ハーバード大学のデータ)。このデータの個々の数字がどの程度正しいかは議論があるとしても、少なくとも「遺伝」から目をそらすために煙草という議論は無茶である。総じてここでの小谷野氏の議論は医学的な基礎データへの目配りがほとんどといっていいくらい欠けている。常日頃、小谷野氏が主張する《事実につけ!》という姿勢がここでは見られない。
 思想や哲学をもっている人で禁煙運動に賛同している人はまず見当たらない、と小谷野氏はいうのであるが、ここらあたりに、小谷野氏の独特な選民意識?があらわれているのかもしれない。「もてない男」の「俺は東大を出ているのになぜもてない!」というのは冗談だといっているが、あながち冗談でもないような気もする。
 煙草を吸わずにダイエットしている上流階級が煙草をすう肥満の下層階級を馬鹿にするように、学問も思想もない人間を氏は軽蔑するのである。しかし禁煙運動に賛同している人にも思想や哲学をもつ人もいるだろうと思う。ただ思想や哲学をもっていても、嫌な奴というのはいるのである。
 わたくしが禁煙運動を嫌うのは、運動をしている人たちが《愛国婦人会》のような雰囲気を漂わせている「正義の人」だからである。自分が正しいと信じこんでいて自分が間違っている可能性について微塵も内省することがない人というのは怖い。自分が正しいことを知っていて、まだそれを知らない無知蒙昧なる人びとを良導してやろうと思っているひとをわたくしは嫌いである。禁煙運動に熱をあげている人は、喫煙をしているひとが本当に愚かで哀れなひとに見えて仕方がないらしい。まわりのひとを哀れな奴よ!という目でみるのは気持ちがいいものらしい。一部の「クリスチャン」あるいは「共産主義者」が嫌な奴である所以である。
 「私は政治について人から宣伝されることも人に宣伝することも好まない。どぎつい政治的宣伝は、たとえその中に幾分の正しさを含んでいる際にも私にとってはやりきれない心理的攻撃であって、ことに共産主義者のそれは私を決して中立的にじっとさせておいてくれない点で身にこたえる。このわかり切った「真実」を自分で考えてみるなどはもっての外だといわんばかりにぐんぐん肉迫してきて、有無を言わさず「イエス」と言わせようとするのである。」(林達夫共産主義的人間」)
 禁煙運動家は「共産主義的人間」なのである。一時の進歩的文化人のようなものであって、進歩的文化人にとって思想とは哀れなる「他人」のための思想であった。それゆえ、全共闘運動華やかなしり頃、そういうお前の思想は?と問い詰められてうろたえた。だから小谷野氏が、禁煙運動家に一体お前たちにとって生きる意味とは何なのだと問う戦略は間違ってはいない。しかし死と太陽は見つめていられないのかもしれないから、それから目をそらすために煙草を吸うのではなく、禁煙運動という余計なおせっかいをしていても、あながちそれを非難するにはあたらないだろうとも思うのである。
 禁煙運動の根本的におかしなところはバランスを欠いている点にある。たかだか禁煙などといったどうでもいいことに、なぜあれほどのめりこめるのかそれがわからない。小谷野氏は「中庸ときどきラディカル」なそうであるから、他人がそう認めるかどうかはいざしらず、自分では中庸の人と思っているらしいが、少なくとも禁煙運動家に中庸の人があまりいないことは確かであるように思われる。だから、禁煙運動の本当の目的は偉そうな顔をしたいためでないかと邪推されてしまうのである。
 禁煙運動には間違いなくパターナリズムの匂いがある。現在において胡散臭い目で見られがちであるパターナリズム的心情をこころおきなく発散できるものとして禁煙運動はあるのかもしれない。なんでも自己責任、自己決定の時代に、なんでここにだけパターナリズムが無傷で生き残っているのか不思議であるが、人の前で大きな顔をしたいというのは人間の基本的な欲求の一つであり、それはいくら押さえつけても、どこかで頭をもたげてくるものなのかもしれない。
 
 次に斉藤貴男氏の「「禁煙ファシズム」の狂気」。
 1999年神戸でWHOの「煙草と健康」という国際会議が開かれた。そこでは煙草は絶対的な悪とされ、年間350万人が喫煙に由来する疾患で死に、このままいけば2030年には年間1千万人が喫煙のため死亡するようになるだろうという推計が繰り返されたという。ここではもやは間接喫煙が喫煙者以外にどのような健康被害をあたえるかといったことは議論されず、ひらすらどうすれば煙草規制を強めることができるかが議論されたそうである。出席者は各国のエリートたちばかりであり「自分が大衆を導かなければ」という使命感が充満していたそうである。
 その少し前に日本では「健康日本21」が策定され、2010までに国内の煙草消費量を現在の半分にするという目標が示された。これには高齢少子化にそなえて医療費を減らしたいという思惑が背景にある。そこでは、ある個人の健康がどの程度損なわれるかだけではなく、勤務さきの会社や国にどのような損失が生じるかもまた問題とされる。煙草による社会的損失総額は3兆7935億円、煙草による過剰医療費は1兆1512億円という計算があるそうで、煙草を規制すると税収は減るが、医療費の削減はそれ以上の効果があるという計算がなりたつのだそうである。しかも喫煙者にかかる医療費は非喫煙者を上回り、喫煙者が短命であることを計算に入れても、その傾向は同じなのだそうである。
 松下電機産業では治療費抑制のため、定期健診での軽度血糖異常者に測定器を無料で貸し出し、血糖値を健康管理センターに定期的に報告させる制度を2004年につくるという話もきいた。人間一人ひとりの健康を個人に委ねていいのかという問題がそこで提示されている。
 「21世紀のたばこ対策検討会」の委員で、禁煙派委員が多い中で数少ない禁煙反対派の作家の山崎正和氏は「予防医学という発想そのものが、一歩間違えばファシズムに通じる危険性を持っている。他人の人生に干渉し、支配することに悦びを覚える人が、世の中にはいくらでもいる。人間とはそういうものですが、それを互いに抑えるのが文化でしょう」というような発言をして顰蹙をかったらしい。
 煙草の健康被害にかんするデータは疫学によるものばかりで、病理学的なものがほとんどない点が問題を複雑にしている。この斉藤論文でも故・平山雄氏の疫学データが専門家の間では疑問視されていることが述べられている。
 
 ここで斉藤氏は禁煙運動が当初の分煙といった目標を見失い、自分でのコントロールできないものとなってきてしまっているのではないかと推定している。本来の目的は達成してしまったのに自動運動でどんどんと運動が先鋭化していくのだという。なんだかフェミニズム運動と似ている気がしないでもない。
 ここでも故・平山氏の間接喫煙の疫学データへの疑問が論じられている。
 煙草というのは直接肺に吸い込むときの方が火の温度づっと高くなり、火をつけたままおいてあるほうが温度が低いわけであるが、有害物質の産生量は温度が低い場合のほうがはるかに多くなるのだそうで、その結果いわゆる副流煙には多量に発癌物質等が含まれ、喫煙する当人以外の周囲の人間にも健康被害がおよぶというのが、間接喫煙が問題とされる理由である。しかしその副流煙にしても喫煙者本人が一番多く吸入するはずで、本人はそれにあわせて直接肺内に煙草の煙を吸引しているのであるから、間接喫煙にさらされている人に喫煙者本人とそれほどかわらない健康被害が生じるというようなことはどう考えても納得できない話なのであるが、この点を禁煙論者たちはどう考えているのであろうか?
 もしも間接喫煙の問題が眉唾であるとしたら、あとは喫煙者本人の自己責任である。たしかにそれによる医療費を非喫煙者が負担しているのかもしれない。しかしそれならば酒を販売することによる酒税の収入と酒がもたらす健康被害による医療費のバランスはどうなるのだろうか? もしも、医療費が酒税収入を上回るという計算になれば、政府は禁酒キャンペーンを始めるのだろうか? 事実「健康日本21」では日本の飲酒量を一日1合以内にしていこうという目標が掲げられているのだそうである。わたしなど非国民である。今まで優良納税者であるとばかり思っていたのに。
 あるいは肥満はそれ自体が医療費増加の元凶である。とすれば国家は医療費抑制のために肥満対策に乗り出すべきであろうか? 事実、成人病を生活習慣病などと言い換えたのはそういう背景らしいのである。
 あなたは健康のために痩せたほうがいいよと国がいうなどというのはザミャーチンの「われら」の悪夢のような管理社会であると斉藤氏はいう。これからは日本は小さな政府でいくのだというのが悪い冗談にきこえる。あるいは小さな政府が維持できるようになるために、国民は率先して自己の健康管理に励まなくてならないのだろうか? なにか可笑しな理屈である。
 
 最後に、栗原裕一郎氏の「嫌煙と反−嫌煙のサンバ」。
 よくいわれているように嫌煙運動の源泉はアメリカのピューリタニズムだろう。しかし当のアメリカでももう運動をコントロールできなくなっている。健康信仰の行き過ぎを指摘するようなことで事態が変わるようなことはもはや期待できないのである。
 人権ということを追求すると、それがいずれ常軌を逸してしまう運命にあり、いつのまにか人権などという問題をこえてしまうのである。嫌煙運動も当初は喫煙の自由は保障するなどといっていた。それがいつのまにか喫煙自体を絶対的な悪とみなすようになっていく。
 煙草は依存性を有するものであるから、喫煙者は加害者であるとともに被害者でもあるという視点がでてきている。ここでもまた、山崎正和氏の禁煙論は多様性を許さない思想であるという論が紹介されている。
 
 フェミニズムが当初は男がすなるものは女にもさせよという運動であったものが、いつのまにか、この世には女だけいればよくて男などいなくてもいいなどという変なものまででてきてしまったように、禁煙運動も当初の分煙化というささやかな要求から、悪魔の煙撲滅運動にかわってしまったというのも、栗原氏が言うように、運動というのはひたすら先鋭化する運命を持つという一つの例であるのかもしれない。しかし、「男女雇用平等法」は企業がそれをまもらなくても、それを咎める気が国にあまりないのと異なって、「健康増進法」は医療費抑制という国家目標が絡んでいるだけに嫌煙運動家と大蔵省は同床異夢であっても、同じ方向にむかっていくのかもしれない。
 
 わたしは煙草を吸わないけれども嫌煙運動に強い違和感を感じる。違和感を感じるだけであるから、反=嫌煙権運動をしようとも思わない。しかし嫌煙権運動をしている人には鈍い人が多い、あるいは視野が狭い人が多いような気がしている。寛容の精神に乏しい、ユーモアの精神に欠ける人が多いように感じる。あまり文明的な感じがしないのである。
 この問題では医療にかかわる問題が根底にある。煙草がそれを喫煙する本人の健康に悪いということは事実であろう。それを小谷野氏のようにいい加減な議論で否定しようとすることは結局、反=嫌煙権運動の力を弱めるものであるように思う。同時に間接喫煙の問題は、公平に見て決着がついていない問題、あるいは過剰に評価されすぎている問題であることもわたくしは間違いがないように思われる。この点の議論を曖昧にすることは嫌煙派の説得力を弱めるものであるように思われる。
 そして間接喫煙の健康被害というのがとるにたらない程度のものであるとすれば、嫌煙派のよってたつ基盤が大きくゆらぐことは事実であるが、それだからといって、その議論を避けてはいけないと感じる。しかし、そんなことをいっても嫌煙派は聴く耳をもたないだろうと思う。かってのイタイイタイ病のカドミニウム原因説というのは現在では否定されているようであるが、被害者が多数いる当時にはそのような議論はできなかった。医療の場での科学的事実よりも政治が優先する状況が時に生じてしまう。
 クラインは「煙草は崇高である」(太田出版1997年)で、禁煙運動というのは過去何回もおこっているのであり、今回の潮流もまたいづれ勢いを失うであろうと予想している。しかし、予断は許さないと思う。
 《実際、もし煙草がほんとうに健康によいものであれば、それを吸うひとなどごくわずかになる、と言うことはできるだろう。かしくて、以下の結論が導かれる。すなわち、もし煙草が健康によいもであれば、それは崇高ではなくなるだろう。》というクラインの言葉を理解できるひとは、もうほとんど絶滅寸前ではないかと思うからである。
 《煙草は崇高であるがゆえに、健康と有益性の立場からなされるいかなる批判に対しても、原則として抵抗する。・・・煙草は悪である。それゆえに煙草は善である−−いや、善ではない。美でもない。ただ、崇高なのである。》(同)
 現在の世の中から健康と有益性を除いたら、ほとんどもう何も残らないのではないだろうか?
 それにしても、右も左もファシズムというレッテルを貼るとそれで満足してしまうというのは安易ではないだろうか? 相手をファシズムと呼べば非難こと足れりとするのは思考停止なのではないだろうか? ファシズムというのはとても魅力的であるからこそ、あれだけの熱狂を生んだのである。禁煙運動というのがある種の人にとって命をかけるほどの魅力であるというのは、ある種のひとにとってファシズムが全人生をかけても悔いのないほど魅力的なものであったとの同値であるのかしれないので、そうであるならファシズムの魅力と陥穽をしっかり吟味するのでなければ、この批判は力をもたないだろうと思うのである。


(2006年4月1日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

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