草森紳一 「随筆 本が崩れる」

  [文春新書 2005年10月20日初版]


 この人の本を読むのは初めて。自称、物書き。調べものをして書くらしく棲家は資料に使う本の山。本棚に収まりきらず、床に山積み。本当の山積みで雪国の道路のごとく、通路の両脇は本の断崖、本棚の本さえ見えないという惨状。本がないのは風呂場だけ。あるとき風呂に入ったら風呂場の外の本の山が崩れ、出口を塞ぎ、哀れ風呂場に閉じ込められてしまった、というのが「本が崩れる」。その他、野球にまつわる話、煙草の話の3編を収める。
 収入の7割が本の購入に消えてしまうというから、どうやって生活しているのか見当もつかないが、まあ仙人である。霞でも食っているのであろう。著者の写真も仙人風。白髪あごひげの生気のなさそうなおじさんである。
 煙草の話は想像されるように禁煙嫌煙運動の悪口。例によって例のごとくの話で特に新味はないが、ここで紹介されている香川京子の喫煙ポスター。着物を着て手に煙草を挟み悠然と微笑んでいる。煙草はショートピース。若いころの香川京子が素敵。今、若い女性のスターが煙草のポスターにでることなど考えられないであろう。隔世の感である。このポスターが1961年であるから、わずか40年前、時代は変わる。もう一枚のポスターは司葉子。1958年。同じくショートピース。またまた煙草を手に挟み、微笑む。そこに「たばこは動くアクセサリー」のコピー。このコピーよく覚えているのだから、わたくしも歳である。こんなコピー、今なら嫌煙団体から袋叩きである。本当に時代は変わる。だから現在30歳の人が年金の心配をするのなど無意味なのである。
 本の山の写真もたくさんある。その積み重ねた本の下のほうを抜き取るのは技術がいるので、抜き取りが可能なようにうまく積んでいくのは高度な知的作業であると書いてあるが、そんなことをしなければいけないのは、本棚を置く場所がないからである。本棚は大体壁にしか置けない。部屋の真ん中に置くという手もないことはないがきわめて安定が悪い。壁に窓があったりするとそこには本棚はおけず、もちろんドアの前にもおけないから案外と本棚をおける場所は多くない。渡部昇一氏の「知的生活の方法」にさまざまな書斎の設計図があるが、そこで塀の内側を書庫に使うという画期的な案が示されている。塀を1メートルくらいの厚さの縦長の部屋としてしまい、そこに本棚を一面たてつけるのである。塀だからもちろん窓などいらないし、縦長だから相当量の本棚をたてまわせる。いいなあと思う。とにかく本というのはタイトルが見えないといけない。それとある程度の分類下に収納したい。しかし本はあとからあとから増殖するものであり、分類したところはすでにもう一杯であとから追加する余地がない。だから余裕のある本収納スペースが欲しいのである。
 幸い、わたくしはなんとかまだ本のタイトルがかろうじて見える状態で本を収納できている。書斎はすでに満杯。寝室も満杯。職場にも少し本棚があるがそれは知れている。仕方なく、親の応接の一部に山積みさせてもらっていたが、幸い(?)昨年父が死んで、父の書斎が使えることになり、山積みの本も書棚に納まった。うれしいことに壁の一面には書棚がつくりつけてあり、立派な本棚も二つある。そこに収納されていた父の蔵書は本来ならすぐに処分したいのであるが、母が怒るので、とりあえずタイトルなどみえなくてもいいからぎゅうぎゅうに一箇所に押し込めた。残りはわたくしのものである。整理していて面白かったのはフェミニズム関係の本がたくさんでてきたことで、母乳推奨派の小児科医であった父は当然、女は家にいて子供を育てろ派で、フェミニズムの動向が気になったのであろう。可哀想に! 安らかに眠ってください、あなたの仇はかならず討ちますから!ということはないが、わたくしもフェミニズムにはいささか関心があるので(看護という問題を考えるときにフェミニズムは避けて通れないと思う)、この関係の本はとっておこうかと思う。
 父の本のことを考えても、ある個人の蔵書などというのは他人には全然関心がないものであるから、はたの人にはただ邪魔なだけである。そうであるなら個人で所蔵する必要はなく、図書館なりを利用すればいいようなものであるが、そういう本には線も引けないし、なにより自分の関心にしがって配置しなおすこともできない。なにより思いついたときにすぐに読むことができないのが最大の問題である。
 本を読む醍醐味というのは、ある本を読んでいて、ああこれはひょっとするとあの本にあったあのことと関係があるのではないかという思いが卒然として浮かんでくるにある。その思いが兆したら直ちに、あの本を読まねばならない、そうしないとその思いが消えてしまうのである。そのためには本はいつでも読めるところに、その本のありかがすぐにわかるようにしておいていなければならない。しかし、そのような思いがおきないまま二度を参照されない本もたくさんあるわけで、そういう本がおいてある場所はただもう無駄である。しかし、どの本がそうなるかはあらかじめ予想できないのであるから本は捨ててはいけないということになり、本は増え続ける。
 そうやって本と本との間の自分だけが気がついている秘密の関係を示す地図を作っていくことが本を読むということであるような気がする。本当は、そういう関係はとっくに誰かが気がついているのかもしれないが、他人に地図を示されたのではそれは自分の血肉とはならなくて、自分でああそうか!と思うことが大切であると思う。そういう地図はわたくしという人間がいなくなれば消えてしまうのであるが、それが潔いのであって、みな一人ひとり一から砂の上に城を築いていくのである。あとには蔵書という抜け殻が残る。「あなたの蔵書を示せ、そうすればあなたの人物を当ててみせよう」と渡部昇一氏はいうのであるが・・・。
 人は死んでも著書が残る、それと同じで蔵書という一つの作品が残るということであるのかもしれないが、べつにひとに見せるために蔵書をするわけではない。
 しかしそれにしても、草森さんの“山のような本”、あとは一体どうするつもりなのだろうか? 本人がいなくなればただのゴミの山なのである。


(2006年4月1日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

随筆 本が崩れる (文春新書)

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