浜六郎 「高血圧は薬で下げるな!」

  [角川oneテーマ21 2005年9月10日初版]


 著者の浜氏は医師だが薬の副作用について長年とりくんでいるひとで、つい最近もインフルエンザ治療薬であるタミフルの精神症状の問題をとりあげていた。
 それでタイトル通りの本であるが、薬で下げるな!というのが微妙で、高血圧はよほどでなければ下げなくてもいいという主張と、下げるメリットと降圧剤のデメリットをよく考えて治療を考えろという部分が入り混じっているので、主旨がわかりにくいものとなっている。
 内科外来の患者さんの相当数をしめる高血圧、高脂血症、糖尿病の患者さんのほとんどは症状がまずないから、治療効果の判定がきわめて難しい。というより診療をおこなっている個々の医師にとっては判定はほとんど困難である。その効果が判定できるのは5年先、10年先である。たとえば高血圧治療をしていた患者さんが脳梗塞になったとして、これが治療の失敗であるのか、それとも治療によって無治療であれば3年前におきていた病気を今日までおこさずに済んだのか、それも判定のしようがない。また高血圧でみていた患者さんが癌になった場合、その癌と高血圧治療に因果関係があるのかないのか、それもなんともいいようがない。すべては疫学的データによって判断するしかない。
 血圧は連続して変化していくものであるから、どこから高血圧症であると判定するかは人為的なものである。その根拠はどの位以上の血圧では合併症が増えてくるかである。たとえば拡張期血圧が95以上のひとでは年間千人あたり30人脳梗塞がおきるが、それ以下の人では15人であるというデータがあったとする。ということは95以上の人でも、970人には何もおきないわけである。一年間にであるから10年では300人ということになる。それでも700人にはなにもおきないことになる。それならその700人にあたる人には治療する意味がないということになるのだろうか? こういう議論には決着がつかない。なぜなら一人の人の人生は一回だけだからである。がんの手術をして5年生存率が95%ですといわれたとしても、5年後には生きているか、死んでいるかのどちらかである。シュレディンガーの猫ではないのだから、95%生きていて5%死んでいるなどという状態はない。手術が完璧にうまくいった直後に交通事故で死んでしまうこともある。あるいは明日大地震がおきるかもしれない。今痛みがあるのならば、明日世界が滅ぶとしても、今日治療する意味はある。しかし5年先、10年先をにらんだ治療には手ごたえがいたって乏しいのである。
 著者が問題にするのは、高血圧の治療ガイドラインが改定のたびに治療すべき血圧の指標が下方修正されていくことである。それまで160/95以上が「高血圧」とされていたが、2000年には60歳未満130/85、60歳〜69歳140/90、70〜80歳150/90、80歳以上160/90となった。2004年の改定では、65歳未満で130/85となった(65歳〜75歳は140/90、75歳以上150/90)。
 1964年米国退役軍人病院での重症高血圧(拡張期115〜129)のプラシーボをコントロールとした大規模調査では降圧剤の劇的な効果が示された。さらにもう少し軽症(拡張期90〜114)の高血圧症でも降圧剤投与で合併症が劇的に減った。この二つの研究によって高血圧治療の有効性を誰も疑わなくなった。
 2000年改定のもとになった調査(HOT研究)では、最低血圧が低いほど心筋梗塞が少ないというデータが得られた。しかし総死亡率でみると推計学的に有意ではないものの(70%の危険率でしか有意ではない)血圧を下げるほど死亡率が高くなっていた。この研究は欧米でのものであり、日本では心筋梗塞がはるかに少ないことを考えると、このことは特に問題である。そもそも年齢が進むにしたがって血圧が上がっていくということは生理的適応という側面もあるのではないか? やみくもに高齢者でも血圧を厳重に管理することに意味があるのであろうか? 降圧剤には副作用もあるのだから。
 日本では血圧のかんするダブルブランドコントロールスタディはほとんどない。唯一の研究は1992年のJATE研究であるが、これは血圧が高いものにプラセーボを投与することは非人道的であるといった医師の見解のため、十分な症例数が集まらず、途中で打ち切られてしまった。そのため症例数が少ないがデータが公表されているため解析可能である。その結果は死亡率、心疾患、脳卒中の発生率などに統計学的な差が認められなかった。一方、がんの発生率は投薬群のほうで高かった(使用した薬剤はCa拮抗剤で推計学的に有意)。
 「NIPPON研究」という14年間にわたる追跡調査がある。これは降圧剤の使用の有無、自立しているか否かが調査されている(死んだ人は自立していないほうに数える)。それによれば、拡張期血圧が140を超えると自立度が下がってくる。しかし降圧剤服用歴のないひとのほうがあるひとよりも自立率が高い。これは高齢者にとっては血圧が高いということは合目的的で生理適応的であることを示しているのではないだろうか?
 確かに160/95以上の血圧では総死亡率が増える。しかし、それを降圧治療をするとさらに死亡率は悪化する。
 ヨーロッパでは高齢者を対象としたプラシーボコントロールの研究がある。降圧剤使用群では心臓病と脳卒中は減っている。しかし死亡率は減っていない(推計学的に有意ではないが減ってはいる)。75歳以上では循環器系の死亡は減らず、80歳以上ではかえって増えている。一方フィンランドの研究では高血圧に介入すると脳梗塞は減った。しかし総死亡は増え、心筋梗塞も増えた。その後の継続調査でも介入群のほうが死亡率が高い。
 久山町での調査では140/90以上の人ではっきりと脳梗塞の発生率が増える。それはしかし多く60歳以下の人であり、若くして高血圧になった人の危険度は高いということはいえる。そういうことを勘案すると、60歳以上の人であれば180/100までの血圧は許容範囲なのではないだろうか?
 と、ここまではそれなりに著者の意見は筋が通っている。そこまでは述べられていないが若年の高血圧は“病気”であり治療対象であるが、高齢者の高血圧は“生理的変化”むしろ“積極的意義”があるものであってよほどのことがなければ治療しなくていいのではないかということは十分に検討に値する意見であると思う。ただここまでの展開でもデータの扱いが恣意的であるのが気になる。HOT研究では推計学的に有意でない死亡率の低下をとりあげ、ヨーロッパの高齢者の研究では推計学的に有意でないとして死亡率の低下をとりあげていない。自説の展開に有利であれば、推計学的に有意でなくても数字の変化に意味ありとし、不利であれば推計学的に有意でないとしてとりあげないというのは、著者の主張の信憑性をそこなうものである。
 ここからが迷走する。まず真の血圧とは何か?と問い、一時的な高血圧の恒常的な高血圧は違うから一度測って高かったからといってあわてて治療する必要はないと言う。深呼吸で血圧はすぐに下がるのだ。減塩、運動、ストレスの解消、十分な睡眠、バランスのとれた食事で様子を見ろ。体重の減少を図れ。とすると著者はやはり血圧は低いほうがいいと思っているのだろうか、それが段々とわからなくなる。ストレスによって血圧があがるのはストレスに対応するための身体の生理的反応であるとすれば、その時には高いほうがいいのではないだろうか? ストレスを避けた生活をせよということは、やはり血圧は高くないほうがいいと思っているのだろうか? ここらあたりから著者の主張は血圧はよほどでなければ下げないほうがいいから、薬によっては下げないほうがいいへとシフトしていくのである。
 そしてさらに譲歩して、治療するとしても、治療薬としては利尿剤、ACE阻害剤、β遮断剤を薦め、Ca拮抗剤、ARIの使用に反対する方向へと移っていく。段々と記述が変になってきて、ACE阻害剤の副作用である空咳について述べた部分「咳が出るおかげでウイルスなどの細菌をすばやく排出し、感染症を予防しているとも考えられます。ACE阻害剤が心不全でも寿命を延長させるのは、早く異物の存在に気づき排除できるためとも考えられ、軽い副作用はあったほうがかえって有利なことの典型かもしれません」などというのには笑ってしまった。「ウイルスなどの細菌」というのはいくらなんでも誤植ではないかと思うが、咳ばらいするだけで感染症の予防になるとこの人は本気で考えているのだろうか? どうもあばたも笑窪で、どんどんと論旨が強引になっていく。
 著者のいうように製薬会社の宣伝によって、本来治療の必要のない人までもが治療対象とされようとしているということは間違いないのであろうが、それを批判しようとする姿勢が空回りしてしまっている。
 手許にある「疫学ハンドブック」(南江堂1998年)を見てみた。これを見ても、重症あるいは中程度高血圧に関しては治療の効果が証明されているが、軽度の高血圧症にかんしては確実なデータは得られていないとしているようである。コレステロールにしても血圧にしても以前には治療不要とされていた状態が最近では要治療とされることが多くなってきている。これの背後には製薬会社の思惑があることは間違いないであろう。
 わたくし個人のことを考えても以前は漠然と160/100を高血圧の基準と考えていたように思うが最近では140/90を基準にするようになってきているように思う。いつの間にか知らないうちに洗脳されてきているのであろう。
 実は治療には本書で批判の対象になっているCa拮抗剤を用いることが多い。Ca拮抗剤が市場にでてきた時にその切れ味にびっくりしたというのがその大きな理由になっているように思う。それまでは利尿剤を用いても、交感神経遮断剤を用いてもなかなかよいコントロール状態にならない人が多かった。Ca拮抗剤の出現以降血圧のコントロール自体がうまくいかなくて困るという症例はほとんど経験しなくなった。
 そしてこのすぐに十分な降圧効果がえられるということが、患者さんの精神状態にもばかにならない効果があるのではないかと考えている。血圧で病院を受診するひとは健診で偶然指摘されてという人が多い。健診で指摘をされても全員が病院にくるわけではない。受診をするのは病気というものにナーヴァスであり、自分の健康状態に多大の関心をもっているそういうタイプの人である。健診で高血圧を指摘されることにより病気になってしまうのである。血圧の上下に一喜一憂してしまう。自分の身体状況をすべて血圧と結びつけて考えてしまう。そういう人が投薬を開始してもなかなか良好な血圧にならないと不安は増すばかりである。そういう人に効果の発現に時間がかかる利尿剤などはなかなか出す気にならない。早くいい血圧にして“患者さん”から“健康人”へと戻してあげたい。なにしろ何の症状もないのである。本当なら薬がいらないかもしれない人なのである。そういう人が早く病人状態を脱して血圧など気にせず普通の社会生活をおくってほしい、そのためには手っ取り早くいいコントロール状態にもっていきたい、そうするとCa拮抗剤はいい薬である。
 もう一方には血圧も怖いが薬も怖いというタイプの人がいる。どういうわけか血圧の薬は飲み始めたら一生という神話がある。血圧も怖いが、薬も怖い。そういう患者さんは外来で悩みに悩む。150/90という血圧も怖いが、薬の副作用も怖い、飲むべきか飲まざるべきかそれが問題だということになる。こちらはもう少し様子をみてもいいなと思っているから、患者さん?が薬はのみたくないといえば、「ではもう少し経過を見ましょう」という。そうすると、「でも、先生、ほうっておいて大丈夫ですか?」という。「血圧の治療目的は将来の合併症予防ですから、一月くらい様子をみてもどうってことないですよ」というと、「一月の間に、脳の血管がパンとはじけるなんてことはないですよね」という。「それは100%ないと思いますが、不安でもいけませんから薬使います?」「どんな副作用がありますか?」「副作用のない薬はないですが、この薬は・・・」「やっぱり怖いな」「じゃあ、様子みます?」「脳の血管が・・・」(以下、繰り返し)。こういう患者さんに薬を使って、それでも下がらなかったら大変である。自分は薬も効かない大変な重症患者だと思い込んでしまう。本来、血圧の治療は長い先の健康状態に配慮しておこなうもののはずであるが、実際には現在の精神状態の安定のためにしているようなことになってしまう。血圧というのがあらゆる健康状態のバロメーターであると思い込んでいるひとが結構多くて、血圧は血圧だけの問題でなくなってしまうのである。
 浜氏のいっているのは狭義の血圧治療の問題であって、日常臨床はなかなかそれだけではすまない。つまり問題の根底には、“健康シンドローム”とでもよぶべき《過度の?》健康への関心があり、現在の明らかに過剰な薬物使用の大きな原因となっている可能性が高い。そこをなんとかしないと、血圧の疫学だけではどうにもならないように思う。
 定年すぎたら話題は年金と血圧などという状態である限り、本来は必要のない薬でも使われ続けてしまうのではないだろうか? 最近、もはや資本主義を駆動できるような本当に新しい商品はない、携帯電話が最後の大型商品である、といった議論がある。ところが、医療の世界では無限に人為的に需要を産生できる。病気の定義を医療者の側が変更すればいいのだから。しかし、もっといい手がある。患者さんの側の健康不安を煽ればいいのである。自然に病人が増えてくる。そうだとしたら、“健康シンドローム”は製薬会社をふくめた医療業界が密かに煽っているのだろうか? どうもそうではないような気がする。患者さんの側が勝手に転んでいるというか、そういう方面にしか関心がないひとが増えてきている。どうも、狭義の医療を超えた人間の生き方自体が変わらない限りどうしようもないのではないように思う。


(2006年4月1日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

高血圧は薬で下げるな! (角川oneテーマ21)

高血圧は薬で下げるな! (角川oneテーマ21)