山田風太郎 「妖異金瓶梅」

  [廣済堂文庫 1996年初版 原作は1953年ごろから数年にわたり各雑誌に分載された短編をまとめたもの]


 傑作である。
 これを読んでみようと思ったのは、「ひろい世界のかたすみで」のなかの「不戦青年からむにゃむにゃ老人へ」で橋本治が激賞していたからなのだが、本当に「エロを書いてエロを突き抜け、エロの中から人間の崇高を引っ張り出す」である。ここで橋本治は「風太郎先生の“異質”というか“間違い”は、彼が日本人作家であるというところにあるだろう」といい、「先生の御作で繰り広げられる描写の立体性は、たとえばの話がスティーブン・キング的な、外人作家のものなのである」といっている。それでキングの「IT」の冒頭の献辞「子供たちよ、小説とは虚構のなかにある真実のことで、この小説の真実とは、いたって単純だ――魔法は存在する」を思い出した。それならば、この小説の真実とは? 橋本のいうとおり「人間の崇高さ」である。それは「人間の健気さ」から生じるのであり、「人間の営為の儚さ」と裏腹なものなのである。人間の営為は儚いものでありならが、それでも健気に生きていくところに人間の崇高さがあるのである。あるいは逆にいってもよい。人間は崇高なものであると思って健気に生きている点に人間の儚さがあるのである。
 体裁は連作短編推理小説集である。推理小説というのはどこか子供じみたところがある。それは密室殺人のトリックとかに見られるように、たかだか人一人を殺すのにそんな手間をかけなくてもいいのにというばかばかしさが根底にあるからで、そのために、どこか童話のような印象をあたえる。一方、ポルノグラフフィーは大人の童話であるという話がある。そうであるならば、『エロで有名な中国の奇書』《金瓶梅》を題材にした連作推理小説が童話のような無垢を示すのは当然なのかもしれない。
 推理小説なのであるから当然人が死ぬのであるが、あっ、殺されちゃったとでもいった感じであり、戸棚の中の花瓶が一個なくなったのと変わりがない。あの花瓶を盗ったのは誰でしょう、というのと同じ乗りで、あの人を殺したのは誰でしょう、という推理がなされていく。しかし、その説明を聞かされても、よくまあそんなことを考えたねというようなアホらしいものであって、決してこれから人を殺そうと思うものが参考にできるような現実的な説明ではない。その点ですでに童話なのであるが、この小説の眼目は殺人の動機のあまりの馬鹿馬鹿しさにある。そんなことで人を殺すかよ、というようなとんでもない動機である。そのあまりの馬鹿馬鹿しさが、それ故にかえって人間の無垢を指し示すというとんでもない仕掛けになっている。
 それで、次々に人が殺されていくのを楽しんで読んでいると、最後の方、「凍る歓喜仏」から「女人大魔王」「蓮華往生」、大団円の「死せる潘金蓮」にいたって、これが連作短編集から結構の整った大長編小説へと変貌するのである。すごい力技である。
 『応伯爵ははしり出した。潘金蓮を骨をひろってやるのはおれしかいないと思ったのである。とろとろに腐れはてようと真っ白な野晒になろうと、おれだけは、きっと、きっと抱きしめてやる!
 「金蓮、潘金蓮―」
 かなしげな叫びをあげながら、そのくせ、憑かれたように眼をかがやかせて、暗い、はてしない曠野を、応伯爵はどこまでも駆けつづけていった。』
 なんだか「幻燈辻馬車」の結末を彷彿とさせる末尾である。しかし「幻燈辻馬車」では干潟干兵衛は「大義」にむかって「翔けていった」のに対して、応伯爵はおのれの愚かな情欲に駆られて駆けていくのである。晩年になって山田風太郎はいささか偉くなってしまって、人間の愚かしさを憫笑するだけでは飽き足らなくなって、いささか「大義」について論じたくなったのかしれない。しかし、「大義」よりも「愚かしさ」のほうが、より普遍的な主題である。
 誰かこれを翻訳して欧米に紹介してみようとする人はいないだろうか?
 

(2006年3月29日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)