谷沢永一 「紙つぶて 自作自注最終版」

  [文藝春秋 2005年12月5日初版]


 谷沢永一の名前を初めて知ったのがいつのことかもう覚えていない。どこかで「谷沢永一に噛みつかれたらおしまい」という怖い書評家という風評をきいたのか、あるいは開高健のエッセイのどこかで読んだのか、あるいは開高をふくむ伝説的同人誌「えんぴつ」の総帥として名前をみたのか、おおかたそのどれかであったのだろうと思う。だいぶ長い間「やざわ」と読むのだと思っていて、「たにざわ」と読むことを知ったのもだいぶたってからであった。
 手許にある「完本 紙つぶて」が1978年初版、「紙つぶて 二箇目」が1981年刊行となっているから、「紙つぶて」を読んだのももう30年近く前ということになる。本書はそのかって刊行された書評コラム集「紙つぶて」の各文のすべてに、自文自注として、連歌俳諧における付合の要領で注を付したものである。本文約600字、注約500字。かっての「紙つぶて」がニ段組であったものが、段組のない余裕のあるページ作りとなっており、やや小さな活字を用いた注とともに、見開き2ページで一つのコラムとなる配列となっている。1000ページ弱、丁寧で愛情のこもった造本である。まえがきの「この大冊が破格の厚志によって刊行された暁、私にとってもはや思い残すことはなにもないのである」というのは本音であろう。
 旧「完本 紙つぶて」のあとがきにあるように「紙つぶて」はもともとその一部が私家版として刊行された。それが新聞の書評でとりあげられ、いろいろの経緯を経て「完本 紙つぶて」として刊行1978年にされた。そこにさらに今回、付合としてすべてに自注をつけるという、短歌俳句はいざしらず、散文においては破天荒であろう試みをして本書ができた。そういう本であるからある種の遊びでもあり、もとより多数読者を想定するものではない。それ故、立派な造本で5000円の定価ということになるのであろう。最近の谷沢氏はなんだか困った右翼おじさんという印象が強かったが、本来の書痴としての面目が躍如である本書にこそ、氏の本領が十二分に発揮されている。見事に底が入った本であり、この一冊の本の背後に何万冊もの本が隠し味となって潜んでいる。
 それで今回またぱらぱらと読んでいて、山口昌男の「本の神話学」、ピーター・ゲイの「ワイマール文化」をはじめて知ったのも「完本 紙つぶて」によってではないかということに思い至った(「二十世紀の知性史構図には衒学趣味が似合う」)。そのほか読み返していてこの本から教えられた本、教えられたことがとても多かったのだということをあらためて確認できた。
 それで、谷沢永一開高健向井敏の「書斎のポ・ト・フ」(潮出版社 1981年)にもいろいろな本を教えてもらったことも思い出した(最大のものが、篠沢秀夫「篠沢フランス文学講義」)。また「書斎のポ・ト・フ」を読み返していて、同じような鼎談書評として、丸谷才一木村尚三郎山崎正和の「鼎談書評」(文藝春秋1979年)も思い出した。それでこれもまた読み返してみたのだけれど、吉田健一(幾野宏訳)の「まろやかな日本」(新潮社 1978年刊。吉田健一が英語で書いた文集を幾野氏が訳したもの。原題は Japan is a circle )についての議論で、山崎氏が吉田健一のイギリス好き日本好きアメリカ嫌いといういうことを言って、「アメリカ人はバカだなあ」というのが吉田氏の偏見?だったということを言い、それを受けて丸谷氏が中村光夫の言葉として「アメリカという国が存在することを黙認してやるという調子だったね」というのを紹介し、吉田氏のアメリカ紀行を読むと「ニューヨークにはいいバーがある。こういうバーがある以上は、アメリカ文化にも何か見込みがある」といった調子だったということをいっているところにぶつかった。この「アメリカにはいいバーがあるからまんざらアメリカも捨てたものではない」という吉田健一の議論のしかたという誰かの指摘についてはよく覚えていたのだけれど、どこで読んだ誰の言であるかがわからなくなっていた。今回ようやく丸谷氏の言であることとその出所が確認できた。
 アメリカという国があることを黙認する、などというのは滅茶苦茶な議論なのであるが、わたくしのアメリカ観も同じようなものであるなあということを痛感する。養老孟司の反・一神教論というのも多分に反アメリカ論、アメリカに較べたら日本の方がずっと文明国だぜ、という色彩が強いと思うのだけれども、そんなことは当たり前で、反・一神教論をやるにであれば反ヨーロッパ論としてやるのでなければ、弱いものいじめ?であり、搦め手攻撃ではないかと思う。養老氏はツヴァイクの「昨日の世界」などを称揚する人なのだから、ヨーロッパの歴史と厚みについてはとてもよくわかっている人のはずなのだけれども。
 「鼎談書評」の吉田健一「まろやかな日本」論の中で、丸谷才一が、吉田健一は「人の足を引っ張る」ということがどうしても理解できない人だった、ということを言っている。英語でも pull the legs という成句があり、これは「からかう」という意味になるのだそうであるが、それが日本では「人の出世の邪魔をする」という意味になる。日本人は、他人が成功すれば、それを邪魔をするのが当然であると思っているのに、吉田氏はそういうことがまったく理解できない人であった、そう丸谷氏はいう。それを受けて山崎氏がそういう感覚は江戸時代以降の「ムラ社会」的な管理社会で発生したものであるといい、吉田氏はそれに耐えられない人であったのだ、という。
 「足を引っ張る」的な日本社会では当然とされる心情、それを徹底的に分析したのが谷沢永一の「人間通」(新潮選書 1995年)である。日本人の心根の根本にあるのがどういうものであるかを指摘し、そういうことを理解している人が「人間通」であり、人間通でなければ日本の社会ではよく生きることはできないことを指摘している。つまりそれなしでは人心掌握はできないし、組織の中で生きることはできず、リーダーたることもできないというのである。そのわれわれを動かす基本感情は嫉妬である。したがって他人からいかに嫉妬されないように行動するか、それが大事であるという。確かに日本において「足を引っ張る」心情というのはごくありふれたものであろう。しかしつねに他人にはいい思いをさせないぞ、と思っている心情というのはやはり醜いものであることは認めておかなくてはいけない。たしか福田恆存がチャタレィ裁判の時、吉田健一が証人として、猥褻とは何かとして「他人の情事をあげつらうことをいう」といったということを述べていた。他人の成功が気になってその足を引っ張ろうとするのは「猥褻」なことなのである。どうも谷沢氏にしてもあるいは田辺聖子あるいは司馬遼太郎にしても関西の人は、そういう人間通的な気配りということを重視しすぎるような印象がある。人間関係の洗練ということは文明の極致であり、関東にくらべれば関西のほうが、その点洗練されているのかもしれないが、「隣に蔵建ちゃ、儂ゃ腹が立つ」「隣の貧乏、鴨の味」などというのが文明であるとはどうしても思えない。もちろん、谷沢氏もそういう感情が暗く卑しいものであることは認める。しかし、人間性の究極の本質は嫉妬であるといい、人間はどうしても嫉妬から解脱できない、人の世を動かしている根元は嫉妬であるという。
 「足を引っ張る」ことは、「人間通」では「引き降ろし」と表現されている。自分よりも世に出ている人はみな羨望の対象であり、憎しみの対象であり、それをなんとか引き摺り下ろしたい、破滅させたいと思うのは、人間本然の感情であり、それを避けることはできないように書かれている。そうなのだろうか?
 三島由紀夫中村光夫の「対談・人間と文学」(講談社 1968年刊)で三島氏は、高見順がガンの末期で死の床にありながら、自分の本の広告が新聞にでていて、その広告の活字の大きさが大きかったということにこだわっているのを読んで、怖くて仕方がないと言っている。ガンで死ぬのも痛みがあるのも怖くはないが、死に瀕してまで、自分の世間での評判、他との比較にこだわっているのが怖いという。同書で三島氏は、人間の背丈が高くなる可能性を信じない文学は最終的に肯定できないことを言っている。わたくしもまた人間はもう少し崇高なものでもありうると思う。それを裏打ちする感情は見栄であるかも知れないが、見栄はプライドと結びつく。プライドがある人間であれば、自分の嫉妬をみっともないと思うのではないだろうか? どうも「人間通」での人間像は美しくない。養老氏が「世間知」こそが日本の思想であり、日本の宗教感情でもある、などと言っているのを読むと、でも「人の足を引っ張る」のが宗教感情とは言えないでしょうと思ってしまう。
 「紙つぶて」はきわめて清冽な印象の本であり、私心がないが故に可能な痛烈な批判の書である。そういう本を上梓する谷沢氏が、同時に「人間通」のような本を書くというのが、わたくしにはどうしてもよくわからないところがある。
 「人間と文学」で、三島氏は、吉田健一はハイカラなアングロマニアでシナ趣味、自分はもっと道徳的なグレコマニアであるということをいっている。わたくしは三島氏ほど道徳的な人間ではなく、ドイツ的な観念論、壮大趣味が苦手なアングロマニアであるみたいである。吉田健一の超ミニチュアとして、アメリカを黙認してやっていると同時に、人の足を引っ張る心情というのがどうしても理解できないみたいであり、日本で生きるにはきわめて不適格な人間であることになる。だから、ようやく世間というものが壊れはじめて、ムラ社会的なものがいくらかでも薄らいできているのが嬉しい。少し息がつけるようになっている。それなのに、養老氏のように「家制度」「世間知」の復活を!、などといわれると面食らってしまう。ドストエフスキーの「世界がどうなろうとも、いま一杯の紅茶が飲めればいい」ではないけれども、たとえ日本が滅びようとも、やはり世間が壊れてくれたほうが有難い、という気持ちをぬぐうことができない。
 「紙つぶて」にあるような読書人の世界、本来何の役にもたたない些事に没頭する世界というのは、「世間」にうまく適合できない人間の逃げ場なのではないかとも思うので、「紙つぶて」に感心すればするほど、谷沢氏という人がよくわからないくなってくるところがある。それはわたくしが東京生まれ、東京育ちの、関西人から見れば辺境の夷、野蛮人であるからなのであろうか?


(2006年3月29日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

紙つぶて―自作自注最終版

紙つぶて―自作自注最終版