高橋源一郎 斉藤美奈子 「対談 文芸・評論」 


 高橋源一郎斉藤美奈子が今年度の文芸について語り合った対談。編集部・高橋氏・斉藤氏がそれぞれ5冊づつとりあげていて、併せて15冊。そのうち、村上龍「半島を出よ」、橋本治「蝶のゆくえ」、町田康「告白」の3冊は読んでいたので、それぞれに対する高橋、斉藤両氏の感想が面白かったが(村上龍町田康への感想はほぼ同感、橋本治については異論あり)、この対談をとりあげてみようと思ったのは、その中での脱線部分である「教養主義の崩壊を反省する!」が面白かったからである。
 高橋氏が「教養主義は72年の連合赤軍事件から89年のベルリンの壁ソ連邦の崩壊によるマルクス主義の敗北までの17年の間に崩壊した」といい、「僕たちは教養が大事って言わなかった」というと、斉藤氏も「私も『教養主義なんかかっとばせ!』なんて言った」といい、二人声をあわせて「失敗だった!」という。昭和軽薄体とか糸井重里の「ヘンタイよいこ新聞」とかは、教養主義と古典的左翼主義にコドモを装って対抗しようとしたものである。椎名誠糸井重里橋本治もへらへらしている。みんな『大人はバーカ!』っていっていたけれども、四十歳・五十歳にもなると「大人はバーカ!」ではすまなくなってくる。でもみんなどうやって歳取ったらいいかわからない。高橋氏は、「蝶のゆくえ」を論じている部分で、「それでも橋本治教養主義を崩壊させた責任をとろうとしている」といっている。
 ここで言われるの「大人」が「近代」なのであり、「反近代」の「コドモ」主義というのが「ポスト・モダン」なのである。70年〜90年で思想が整地されてしまったと、高橋氏はいう。あれも駄目、これも駄目といっているうちに、ぺんぺん草も生えなくなってしまったというわけである。それで、高橋氏は「これからは啓蒙主義!」という。
 でもなあ、と思うのである。実はここまで、高橋氏と書いてきて、くすぐったかった。氏には偉そうな感じが微塵もないのである。「大江健三郎さんがいい例だけど、ノーベル文学賞も取ったし、ほんとは超権威のわけじゃん。でも、あの人、いかにもトホホな感じがあるでしょ(笑)?」 「わけじゃん」とか「トホホ」なんて言っているようでは、大人にも権威にもなれるわけないじゃん、である。
 啓蒙とは《人間は愚かである。それにもかかわらず、少しづつは悧巧になっていくことはできる》ということであると思うけれども、近代は人間を悧巧なものであると思い、何かについて正しいことがあり、それにわれわれは到達できるとしたし(たとえばマルクス主義)、ポストモダンは、人間なんて愚かなもので永遠に狂い続けていくだけで、ただその時々で根拠のない思い込みをしているに過ぎない(たとえばファイアアーベントらの科学批判)としたとすれば(あまりにも無茶な要約だけれども)、啓蒙とは丁度その中間にあるわけである。
 嵐山光三郎もたしか昭和軽薄体の一人として出てきたような気がするが(「E気持ちでR」とか)、この人は確信犯的な成熟拒否路線である。でも人の愚かさを指摘しながら、どこかで信念をもっているという点では、啓蒙の末席に連なる人であるのかもしれない。
 糸井重里も「ひぼ日刊イトイ新聞」などによって、これまでの罪滅ぼしとして懸命な啓蒙をしようとしているのであろう。何しろ、毎日、個人で新聞を発行するのだから大運動である。
 内田樹の「おじさん的思考」の中の漱石論に、漱石は明治の人間に大人になる方法を教えたのだという見解があった。明治は江戸を全否定したので、示すべきロールモデルが何もない時代となってしまったあったからである。先行するものがすべて否定されてしまうと、人は成熟することができず、子供のままにとどまるしかなくなる。
 明治は江戸の全否定であったが、70年〜90年の整地作業は知識人の世界だけでの局地のできごとであった。日本全体としては、90年までは高度成長&バブルで自己肯定の世界だったわけである。それがバブルの崩壊&失われた10年で、一気に日本全体が整地作業にはいってしまった。90年の前には、知識人の世界では「大人」の権威が失墜していったが、日本全体でみれば会社人間が「大人」として自信満々、自己肯定していた。それがバブルの崩壊とともに、大人は「誰もいなくなってしまった」わけである。
 両氏のいうように、70年〜90年にかけての思想整地作業は行き過ぎであったのかもしれないが、90年までの日本の無内容な膨張については、これから本格的な批判検討がはじまるところである。橋本治はたしかにへらへらした文体(一時はやたらとハートマークなどが入っていた)で書いてはいたが、不思議と思想整地作業にはかかわらなかった人で(加害者にも被害者にもなっていない)、ポストモダン的な動きとは無縁(そもそも自分の中に近代の要素があまりない人だから、ポストモダンからの陣営からの批判が身に沁みない)の人であったので、90年までの日本(橋本にいわせれば「昭和」)の批判に、無傷で乗り出せたのである。
 ポスト・モダンの言論があれだけ激烈になるのは、実は近代の魅力を強烈に感じているるからなのでもあろう。近代のもっている毒の魔力が身に沁みるからなのであろう。それで近代を否定してみたら「敵」のいない寂しさと虚しさに直面してしまった。自分をしかってくれる何か、自分が乗り越えるべき何かがないと、自分をつくりあがていくことができなくなり、子供のままでいるしかなくなる。とすれば、教養の復権とは、ほとんど「近代」の再評価である。少なくても全否定から部分肯定へである。大山鳴動して、ふたたび一からやり直しである。
 ところが現在の日本を全体でみれば、金がすべてで、一億総投資家にもなりかねない感じである。近代への遡行どころか、整地された無時間に生きる方向へとまっしぐらである。すでに歴史がなくってしまってしまっているのであれば、「教養を!」などといっても、誰も振り向いてくれそうもない。啓蒙の声は届きそうもない。そもそも学ぶ気がない人間を啓蒙することなどできない。まず学ぶことが大事なんですよ!という方向に改心させる、そんなことができるのだろうか? 斉藤氏や高橋氏は誰を啓蒙しようとしているのだろうか?
 ところでカントの「啓蒙とは何か」によると、啓蒙とは、「人間が自分の未成熟の状態から抜けでることである。啓蒙の標語は、「敢えて賢かれ!」、「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」である。」(カント「啓蒙とは何か」(岩波文庫)) 要するに、自分の頭で考える大人になれ!、である。誰かを啓発するのではなく、自分自身を啓発せよである。
 わたくしも自分がどうにかなればいいだけである。日本をどうこうしたいのではなくて、自分がどうにかなりたい。なんでこんな本(雑誌?)を読んでいるのかといえば、自分がいつまでたっても大人になったような気がしないからである。もうあと一年ちょっとすれば60歳である。気分はまだ30歳だろうか? まだ人生の入り口にいるような感じである。このまま人生が終わってしまうとやばい。わたくしの年齢では、漱石なんかはもうとっくに死んでいる。鴎外だって最晩年である。ああ、それなのに、である。なぜ、こうなってしまったのだろうか? あれはいや、これもいや、というのだけはある。しかし、こうなりたい、という目標がないのである。内田樹のいうロール・モデルがない。宗教的超越的存在を信じないのであれば、外部に既成の生き方のモデルがないのは仕方がない。でも生きる型のようなもの、それがこの年齢までできてこないというのは、はやり、どこかおかしいのであろう。この雑誌を読んでみると、高橋氏も斉藤氏も同じような問題を抱えていると思う。年齢が進むにつれて、いろいろなことに潜むおかしさへの嗅覚がどんどん研ぎ澄まされていく。いやなものがどんどん増えてくる。しかし、素直に肯定できるものがどんどん減っていくのが、いいことであるはずがない。
 わたくしが橋本治に惹かれるのは、氏がシニシズムからもっとも遠い点にいるように見えるからである。素直な自己肯定ができている人だからである。村上龍も自己肯定ができているひとであろうが、ここで高橋源一郎がいっているように、壮大な方向違いという印象がぬぐえない。町田康は最終的には宗教の方向にいく人なのだろうと思う。達観しない宗教であり、ほとんど《まごころ》というような言葉に近いなにかであろうが、それでも合理主義とは別な方向である。
 教養主義の再建は大人への道、成熟への道であるのだろうか? それは各自が自分の頭で考えることによって大人になれるのだろうかということである。しかし、頭を使うという方向がすでに間違いであるという意見もある(そういう意見も本に書かれて発表されるのであり、本を書くということは(頭だけではないにしろ)頭を使うことでもあると思うけれども)。教養ということを何も狭く書物に限ることはなく、仕草や所作までふくめた生き方全部というように規定すれば、両者は矛盾しないのかもしれないが。
 自分の頭で考えるためにも仮想敵というのは必要である。あるいは敵はなく物差しかもしれないが。とにかく一度完全に敗北して、絶対的帰依状態となり、ものの見方がその人間経由という時期を経ないと、自分というものができてこないと思う。問題はそうやってできてきた自分というものが大人であるとは限らないということである。何よりの証拠にはあれだけ本を読んでいる高橋・斉藤両氏に全然大人としての風貌がみえない。どうも、自分の頭を使うことと大人になることは別のことのようである。そうすると、ここで両氏がいっている最近の《教養の衰退》と《人間の未成熟》は別の原因に起因するのであろうか? それとも根源が同じ問題の別の形での現れに過ぎないのだろうか?


(2006年3月29日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)


SIGHT別冊「日本一怖い! ブック・オブ・ザ・イヤー2006」 (別冊SIGHT)

SIGHT別冊「日本一怖い! ブック・オブ・ザ・イヤー2006」 (別冊SIGHT)