近藤克則 「健康格差社会 何が心と健康を蝕むのか」

 [医学書院 2005年9月15日初版]


 去年とりあげたカワチらの「不平等が健康を損なう」、ウイルキンソンの「寿命を決める社会のオキテ」の延長線上にある本であるが、それよりもさらに広い範囲の話題をあつかっている。著者は臨床家(リハビリテーション医)としてスタートし、その後、公衆衛生のほうに転じた人らしい。本書はわれわれ臨床医にきわめて大きな問題をなげかけるものであるが、著者が臨床を経験したことのあるひとであることが、本書の主張を(少なくともわれわれ臨床医にとって)説得力のあるものとしている。
 その主張をみていく。
 日本において社会格差が拡大していることはさまざまに論じられているが、社会経済的因子による「健康における不平等」ということについてほとんど指摘するものがない。イギリスのデータであるが、1930年〜32年の生産年齢男子の死亡率を100とすると1991年〜93年には、それが45にまで低下している。しかし、それを職業別にみると、専門職ではそれが30にまで下がっているのに対して、非熟練労働者ではそれが80に留まっている。1930年には1.2倍であった格差が60年後には2.9倍にまで拡大している。
 日本においてはどうか? うつのデータについて見てみる。最低所得層と最高所得層の間では女性で4.1倍、男性で6.9倍、貧しいものにうつ傾向が多くみられる。要介護高齢者の割合は最低所得層は最高所得層の約5倍である。
 なぜそのような差がみられるのか? 健康診断は高所得者ほどよく受ける傾向がある。うつ状態は、自殺の原因となるだけではなく、虚血性心疾患のリスクファクターであることが様々なデータから明らかになってきている。これら自体も死亡率に影響するとしても、最近重視されてきているのが、ストレスが自律神経機能、内分泌機能、免疫機能にあたえる大きな影響である。
 多くの研究から、先進国においては、経済的豊かさと幸福感の間にはほとんど相関がないことが明らかになってきている(相関係数 0.2 )。むしろ失業やインフレ、経済状態などのほうが影響が大きい。アメリカのダウ式平均株価と社会的健康指数(暴力犯罪、児童の貧困、高校中退、65歳以上の平均余命などを16項目を総合的にみたもの)はまったく関係ない。またアメリカでは所得格差が大きい州ほど殺人事件発生率が多いという傾向が確認されている。これらから、カワチらは「不平等が健康を損なう」と主張する。アメリカの州ごとに統計をとると、所得の不平等が大きい州ほど年齢調整死亡率が高い。アメリカはキューバの5倍のひとりあたりのGDPであるが、平均寿命は変わらない。ある町の調査から社会的な結束が強い連帯感の強い町(イタリアからの移民がつくった町)ではとなり町にくらべ心筋梗塞の発症率が半分以下であることが知られたいたが、その町がアメリカ化し、連帯感が失われるとともに心筋梗塞死亡率も他の町とかわらなくなってしまったというデータが得られている。わが国はOECD加盟国27国のなかで5番目に貧困層が多い国になってしまっている。
 現在、厚生労働省を中心に生活習慣病対策をこれからの厚生行政の中心にしようという動きがあるが、対策はかならずしもうまくいっていない。それは対策が「生物・医学モデル」に偏重し、「健康は個人の責任」として、社会経済的因子を十分視野に入れていないからである。膨大な疫学的研究によると健康教育はほとんど無意味という結果がでてきてしまう。知識伝授型の健康指導は、患者側の「わかっちゃいるけど、やめられない」を乗り越えられないのである。最終的にはその人の生活習慣が問題であることは間違いがない。しかし、そのような生活習慣にひとをさせるものが何かということをみない限り、指導は効果を発揮しない。とすれば、社会的因子にもっと介入しなければいけないことになるし、患者個人の心理的側面にもふみこまなければいけないことになる。従来からのハイリスク・ストラテジーに、もっとポピュレーション・ストラテジーを組み込んでいかなくてはならないことになる。従来の健康教育のハイリスク・ストラテジーは患者側に、慣れ親しんだ生活習慣を捨てること、がまんすること、耐えることを強いるものであった。しかも現在までのところ、その効果は検証されていない。
 要介護の問題を考えてみる。要介護になる最大の原因は脳血管障害である。その最大危険因子は高血圧である。であるから減塩指導、禁煙などが予防の重点になる。これは要介護を生活習慣病の結果ととらえる視点である。しかし、低所得者層に要介護者が多いということはまぎれもない事実なのであるから、所得の平準化もまた要介護者予防策になるかもしれないのである。
 従来の「生物・医学モデル」においては、社会経済的因子を積極的に排除することが科学的な態度であった。二重盲検法がその典型である。そこでは患者背景にかたよりがないことが重視される。患者背景は無視しなくてはいけないのである。それを無視することによってはじめて《生物としての人間》への効果が明らかにされる。
 従来、患者側の心理的・社会的側面は医者の仕事ではないとされてきた。しかし、患者の心理的側面をうまくとらえ患者からの信頼を得られる医師が「名医」とされてきたこともまた事実である。そういう背景から1980年ごろから「生物・心理・社会モデル」が追及されだしている。また健康の社会的決定因子の研究や、社会疫学の研究も進んできている。「病は気から」ということについての科学的なアプローチがはじまろうとしている。 国民一人当たりのDGPと平均寿命の関係を調べると、年5000ドルまでは相関し、それ以後無関係になり、頭うちになる。
 イギリス・北欧3国・イタリアなどで、社会経済格差による健康格差が増大していることが示されている。それは生活習慣病に社会経済状態が大きな影響をあたえるからである。ほとんどの疾患において低い社会階層のほうに罹病や死亡が多い傾向がみとめられている。それは物質的原因のためなのだろうか? イギリスの公務員(つまり物質的貧困層ではない層)を対象にした研究で、同じ公務員でありながら高位の行政職と低位の雑務職では死亡率に3倍以上の差があることが示された。これは相対的貧困がきわめて重要であるということである。
 結婚せず、グループ活動などもしない社会的に孤立したひとの健康状態は身体的にも心理的・精神的にも悪いことが知られている。社会的な孤立は高い死亡率とつながる。結婚していることは低い死亡率につながる。非婚者は結婚しているものとくらべ、男性で2.5倍、女性で50%死亡率が高い。未婚者の平均余命は既婚者にくらべ、1940年で約16年、1980年で4〜7年短い。これらは不健康な生活をするものは結婚できにくいというようなバイアスだけでは説明できない。配偶者の死が残されたものの死につながりやすいことはよく知られている(特に男性で)。
 健康であることが社会的成功とつながりやすいことは事実であるが、社会的成功者がより健康状態がいいことはそれだけでは説明できないことが明らかになってきている。物質的環境、ライフスタイルなどが成功者でより健康的であるということはありうる。最近注目されているのが、人間関係が健康におよぼす影響である。底辺層ほど失業などの心理的ストレスに多くさらされる。
 誰かの介護をしている場合、介護を負担と感じているものとそうでないものの間で 1.65倍くらいの死亡率の差が見られることが知られている。介護が負担でないと感じているひとの死亡率は介護していないひとと変わらない。つまり、介護しているかどうかではなく、それを負担であるとかんじるかどうかが死亡率を決めるのである。
 ストレスは交感神経系を緊張させる。免疫機能を低下させる。しかし、そのようなことがどの程度の重要性をもつのかということについては、旧来の「生物・医学モデル」になれた臨床家はきわめて懐疑的であり(著者自身がそうであったという)、心身症といったはっきりとした一部の疾患を除いては、その関与はきわめて小さいと考えている。こころや感情といったあやふやなもの、客観的にとらえられないものがそんなに大きい影響をもつとは考えないのである。
 うつはきわめてありふれたものであり、日本では生涯有病率が7%前後とされている(アメリカでは16%)。その発症が社会・経済的因子とふかくかかわっていることは既知のこととなってきている。
 「病は気から」とは従来からいわれてきているが、「生物・医学モデル」ではほとんど相手にされてこなかった。しかし、「健康状態に対する主観的評価が低い人ほど、死亡率が高い」ということを、すでにたくさんの論文が示してきている。この主観的健康感というのは「ふだんのあなたの健康状態はどうですか?」という質問に、①とても健康、②まあ健康、③普通、④あまり健康でない、⑤まったく健康でない、という選択肢から選んでももらうというようないやになるほど単純なものなのだが、主観的に健康でないと答えたひとの死亡率が 1.5〜3倍、健康であると答えたひとより高いのだそうである。これは血圧、コレステロール、心電図、喫煙歴、食事、運動習慣などとは独立の予後予測因子になるのであるという。またこれは身体機能の低下についての予測力ももつという。
 それらの説明としては、あるストレスがストレスと受取られるためには認知というプロセスを通るからという説がある。同じ高血圧という診断名に対しても、病気とうけとめてしまう人と、血圧は高いが健康と感じるひとで予後が違うということである。
 ストレスをうけた場合でも、それに強いひととそうでない人がいる。著者はストレスに強いひとを「生き抜く力」が強いひとであるという。医者から見て同じ程度の病状の心筋梗塞でも、患者が「回復がよい」と思っている場合はその後の回復がよいことが知られている。そういう患者に「人生前向き度」(どのようなことがおきても、その中にはなにかいいこともあると感じる、など)、本人によるコントロール感(自分のさまざまなことを自分で今ロールできると感じるか否か)を調べると、それが相関することがわかる。
 ここで著者が「生き抜く力」とよぶもの(アントノフスキーの「首尾一貫感覚 sense of coherence (SOC)に近い概念)が医療・保健・健康づくりに大きな影響があるというのが本書の大きな主張の一つとなっている。著者によれば「タバコを止めなければ、ガンになりますよ」などという脅迫はSOCを奪うものなのである。
 SOCは「生活の中のできことには①何らかの意味があり(有意味感)、②把握可能で(把握可能感)、③適切に処理できる(処理可能感)」という確信をいう。SOCスコアの高いひとほど、主観的健康感がよく、ストレスに対する対応能力が高く、社会的地位も高いことがわかった。もともとアントノフスキーの研究はナチス強制収容所から生還したひとの研究からはじまったのだという。
 経済的平等が高い平均寿命と関連することが知られている(まだまだ反論もあるが)。その原因としては相対的な貧富の差がストレスとして働くからであるとするものが多い。また相互信頼感の高い社会ほと年齢調整死亡率が低いことも知られている。相互信頼感、互酬、互助意識、ネットワークへの積極的参加などをソーシャル・キャピタルと呼ぶ。このソーシャル・キャピタルが豊かであるほど死亡率が低い。もっとも、社会の相互信頼性には負の側面もあり、企業犯罪から村八分までさまざまなものがありうる。日本社会の結束力が日本の長寿世界一である理由となっているというものもある。
 行動変容のためには5つの段階があるといわれている。①無関心期、②関心期、③準備期、④実行期、⑤維持期、である。喫煙の場合、①と②各4割となり、③が10〜20%であるという。①②のひとはまず禁煙できない。ハイリスク・シトラテジーに限界がある理由である。それに対するポピュレーション・ストラテジーとしては、職場での禁煙、(高血圧対策として)加工食品への塩分添加の規制、(肥満対策として)脂肪を多くふくむ食品への課税などといったことが考えられる。
 さらに上記から導かれる一般的な対策としては、所得格差の増大の抑制、社会の相互信頼感の回復などが考えられる。
 従来、社会疫学のデータは主として欧米からのものであり、日本ではまだまだデータが乏しい。また社会組織が欧米と日本では著しく異なるので、欧米のデータを日本にあてはめることができるかどうかについては大きな問題が残っている。
 
 以上、本書には相互に関連はあるといっても、本来は個別に論じられてもいいようなテーマが一緒に論じられている。まず大きく言えば、①「生物・医学モデル」から「社会・経済・医学モデル」への転換という方向性の必要ということである。なぜそれが要求されるのかといえば、②われわれの健康にとって「社会・経済的」要因が従来考えられていた以上に大きな役割を果たしていることが明らかになってきたからである。③社会・経済的要因がわれわれの健康にかかわるのは、物質的側面よりもむしろ心理的要因の関与が大きい。もちろん心理的要因も交感神経や免疫系といった物質的基盤を通してかかわってくるのであるが、④環境と肉体はダイレクトに結びつくのではなく、それを人がどう受けとるかというステップが間にはいる。⑤そのステップを上手に対応できるひととそうでない人がいる。そのステップをうまくこなせるひと(SOCの高いひと)は健康度が高い。これからの医療の一つの方向性としてSOCを向上させるという方向があるであろう(ただし、それが可能であるかどうかは現在実証されておらず、仮説段階だが)。⑥また、従来の健康指導がほとんど有効に機能してこなかった理由としては、指導が「生物・医学モデル」に偏していたということがある。これからの指導はもっと心理的側面、SOCの側面を重視すべきである。⑦しかし同時に個々の患者にかかわるだけではなく、社会経済的側面に全体としてもっとかかわっていくべきである、というような流れである。

 上記のことから臨床家としてどのようなことが学べるだろうか? おそらく最初にでてくるのは「健康診断」の問題である。「健康診断」は徹底的に「生物・医学モデル」によっている。心理的側面などというものはまったく顧慮されていない。多くの臨床家は健康診断を好まない。その理由は健康診断で早期のがんが発見されるようなこともないわけではないが、それは例外的といってくらい少数であり、そこで発見される圧倒的多数の些細な異常により、かえって病人を作っているのではないかという忸怩たる気持ちがぬぐえないからである。十二指腸憩室、不完全右脚ブロック、腎のう胞、陳旧性肺結核脂肪肝、軽度の高血圧、軽度のコレステロール高値、耐糖能異常などといったものを指摘されたことにより「病人」になってしまったような人がすくなからずいるからである。それにより人生前向き度が高かった人が、後ろ向きになってしまうことことは十分にありそうである。一番問題なのは脳ドックにおける微小な脳梗塞の発見であろうか? それを指摘された途端に萎縮してしまうひとは少なからずいるはずである。健診の結果の受け取りかたでも、SOCの高いひとと低いひとでは全然違いそうである。会社の規定などにより非自発的にうける人は違うであろうが、自発的に健康診断を受けるひとは、主観的健康感が高くないひとが多いように思う。そこで発見された些細な異常がそういう人の主観的健康感を更に低くし、悪循環に陥らせることは十分ありそうなことである。
 次に、最近のますますきびしくなる健康正常値基準である。高血圧の基準などもきびしくなる一方である。膨大な症例を対象とした研究をすれば、血圧の治療基準をきびしくすることにより、予防できる合併症は若干減ることが明らかになるのかもしれない。しかし膨大な症例を対象にしてはじめて有意になるということは、二つの治療集団間の違いはきわめて小さいということである。あたらしい基準で要治療とされたひとの大部分は本当は治療不要であった可能性が高いわけである。一方、薬をのみはじめたことにより「病人」になってしまう、つまり主観的健康感が低下する人は相当数ある。そうだとすれば、治療対象の拡大は結果として、対象全体の「健康」をマスとしては低下させているかもしれないことになる。
 医療者は通常、自分の行為がプラスかゼロであると思っている。薬の副作用がでればマイナスなのであるが、そういうことさえなければ、実際の自分の行為が100人の患者のうちの数人にしか有効でなく、ほかの人間には効果ゼロであっても、とにかく数人の人間には有効なのだからそれでいいではないかと思っている。バリントが「プライマリケアにおける心身医学」で述べているように、医者が用いる最大の薬は実は医者自身であり、その薬はとんでもない副作用をも持ちうるものなのであるが、医者という薬が副作用を生じたとしても、それを副作用と感じるのはそう感じてしまう患者のほうが悪いのであって、医療者の側には罪はないのである。なぜなら自分の医療からそういう副作用など一切感じないひとも多いのだから。そしてそれと同様に医者という薬を最大限有効に活用している医者であっても、それが臨床上きわめて有効に機能していることには少しも気づいていないかもしれないのである。
 次は、病識のない困った患者についてである。相当ひどい糖尿病状態でも全然気にしないひとがいる。こちらが何をいっても馬耳東風。こういう患者さんは主観的健康感はいいのかもしれない。それを無理に教育して重大な病気であると理解させることは、予後を悪化させる可能性があるのだろうか? もちろん、一番いいのはSOC良好で自分から積極的に治療にとりくむような人なのであろうが。
 次にサプリメントの問題である。あんなもの効くわけないと医者は思っている。しかし、それは患者さんのコントロール感を増しているのかもしれない(あるいはそれによって実際に効果を出しているのかもしれない)。「生物・医学モデル」の大きな問題の一つは、疾患が体内へのエイリアンの侵入のようなイメージにとられかねないことである。病気は、《私》とは別な肉体というところに発生した障害であり、それを薬という異物がやっつけている、あるいは手術という手段でそれを除去するというイメージである。自分の身体という場所で医者が、あるいは薬が勝手に戦争をしているわけである。他人ごとになりかねない。今の「生物学・医学モデル」の医療では患者さんが自分で治療にかかわるという積極的なイメージを持ちにくい。その中でサプリメント服用は、積極的な治療への関与という感じをつくるものなのかもしれない。
 もしも患者さんの主観的健康感を損ねないことがきわめて重要なのであるとすれば、臨床の場においては、明白に問題な場合を除いては、「大丈夫です」「心配ありません」といい続けることが最大の有効な戦略になる(あるいは余命いくばくもない癌の末期であったとしても、そうであるのかもしれない)。もちろん、医療者の側が患者さんに信用されていることが前提なのであるが。
 とすれば、昔ながらのラポールがなにより大事ということになってくる。コレステロールが少々高い人に薬をだすより、大丈夫と信じてもらうほうが冠状動脈疾患の予防の上でも有効なのかもしれない。日本の医療制度が何とか機能しているのは、フリーアクセスで、何らかの健康上の心配があったときに、気軽に相談できる体制があるからなのかもしれない。フランスにいる知人の話では、とにかく医者にかかること自体が大変な作業であるらしい。
 現在のマスコミの医療にかんするスタンスも完全に混乱している。徹底的に「生物・医学モデル」での技能優秀者を賞賛する一方では(難しい手術を行った数、成功率など)、SOCへの感度にいい医者への郷愁も隠せない(赤髭的医師への賛美など)。そもそも今からほんの100年前には医者にできることなどほとんど何もできることはなかったので、患者さんのそばにいて、手を握って慰めるくらいのことしかできなかった。だからやむなくそういうことをしていた。本書をよめばそれはかなりの治療効果をもっていた可能性が高いのであるが、それは医者でなくても祈祷師でもシャーマンでも可能なことであり、おそらく医者よりも祈祷師のほうがずっとうまくやっていたことかもしれない。しかし、現代人は祈祷師やシャーマンを信じなくなったから、医者が科学の使途を装って患者さんの信用を確保し、その信用を担保として、実際にはシャーマンの役を演じなければいけないのかもしれない。
 プラシーボ効果を科学する、というのが本書の隠れた主題なのかもしれない。問題は科学になるためには数量化できることがその要件として大きいが、病気に対する前向きな姿勢などというのは目に見えないあまりにも漠然としたものであることである。薬を投与すれば、コレステロールが下がったか否かは数字ではっきりとでる。しかし、医者の言葉で患者側の病気への姿勢が変わったか否かは数量化もできず、曖昧なままにとどまる。
 インフォームド・コンセントの問題も、本書の視点から考え直すことができるかもしれない。それは患者さんに「生き抜く力」「SOC」を高めてもらうための手段としてとらえるべきであるのかもしれない。そしてもともと「生き抜く力」の高いひとには、旧来のインフォームド・コンセントもさらにそれを高める方向に働くのに対して、「主観的健康感」の低い人には、旧来のインフォームド・コンセントはそれをほとんど破壊してしまう可能性さえあることになるのかもしれない。こころの「健康」な人はより健康に、こころが「健康」でない人はより不健康にという方向に、インフォームド・コンセントによって格差はさらに拡大してしまうのかもしれない。
 「生き抜く力」あるいは「SOC」が生得のもの、先天的なものであるのか、後から修正可能なもの、介入可能なものであるのか、というのは決定的に大きな論点であると思われるが、その点に関しては著者は後者の可能性を信じたい、それを今後の課題としたい、というのであるから、現時点では、それを有効に判断する材料はまだないのであろう。けれども、少なくとも、医療行為はそれを低める方向には行くべきではない、ということはいえるということであろう。著者自身も社会・経済的状況がこれほど健康に大きな影響をあたえるということを臨床出身の人間として最初はとても信じられなかったといっているのであるから、多くの「生物・医学モデル」の医師もまた同様であることは間違いない。それ以前に、多くの臨床家は、そういう事実をほとんど知らないであろう。であるとすれば、著者としてもっとするべきことは啓蒙なのであろう。そして著者が本書でいっていることは、臨床家が日々おこなっていることはマスとしてみると、あまり(ほとんど?)意味がないのですよ、といっているような部分も多くあるのであるから、臨床家からの反発もまた相当にあるのであろうが。
 明らかに健康に悪いが、同時に「生き抜く力」を高めるようなものがあった場合にそれをどう判断するかという問題もでてくる。一番いい例は酒とタバコでろうか? キングズリー・エイミスだったかは「もし酒というものが発明されていなかったら、人類はとっくに滅びているであろう」といっているが、そんなことは文学者の戯言として無視するとしても、これだけ体に悪いものがそれでも続いてきたことにはそれだけの理由があるはずなのである。昔の人は酒の害、タバコの害を知らなかったのであり、その害がわかった以上は話が違ってくるなどというのは嘘である。
 わたくしはタバコというのは明白な健康に対する障害作用があるにしても、それでも現在知られていない《健康》増進?作用があることによって寿命を見れば必ずしも短いとはいえないというデータがあるのではないかと思っているのだが、やはり喫煙者は短命のようではある。しかし橋内章というお医者さん(麻酔科医らしい)は、日本の喫煙率は先進工業国でトップであるにもかかわらず、世界一の長寿国であることを「ジャパニーズ・パラドックス」などと嬉しそうにいっている(「酒・タバコって本当に悪いの? ジャパニーズ・パラドックス」(真興交易医書出版部 2005年11月))。現在の男性の平均寿命の78歳を超えている人が現役だった1965年ごろは日本男子の80%がタバコを喫っていた。それなのになんで長生きなの?と橋内氏はいう。それと橋内氏がだしているもう一つのデータは、日本の経済成長率と男子喫煙率との見事な相関である。喫煙率が下がるにつれて、見事に経済成長率も低下してきている。本当にタバコには「生き抜く力」に繋がる何かがあるのかもしれない。「今日も元気だ! タバコが美味い!」
 本書の著者の近藤氏は明らかにアンチ・タバコ派であるが(効果の乏しい禁煙運動よりもタバコ税を!といっている)、社会的地位の低いものがストレスを過剰にうけ、それが健康の低下につながっているという主張なのであるから、相当程度ストレス発散のために利用されていると思われるタバコについてはどう判断するのだろうか? 近藤氏の問題にするのは長期的なストレスであり、タバコが対応するのは短期ストレスであるから、問題設定が違っているかもしれないけれども。少なくとも、どうせタバコを喫うのであれば、後ろめたい気持ちで喫うのよりも、もっと前向き?な気持ちで喫ったほうが、まだ健康にはいいような気がする。
 日本とドイツでしかいわれていないことのようであるが、少なくとも日本では「うつ好発性性格」というものがあるとされている。真面目、小心、几帳面、責任感旺盛、無趣味、仕事一筋というような人である。要するに社会を底辺でささえる貴重なひとたちであり、いいひとである。一方、本書で描かれる「生き抜く力」のあるひとの典型というのはあるいはホリエモンさんかも知れないのである。それは極端であるとしても、わたくしが本書を読んでイメージしたのは、成功した中小企業のオヤジさんである。自分の人生に自信満々、人をみると人生訓を説教し、「キミ、人生はやる気と根性だよ、ガハハハハ」というようなタイプ(もっとも、こういう一見豪放タイプの一部は本当は異様に小心で、病気を滑稽なほどに怖がるのは事実であるが)。わたくしは、こういうオヤジタイプのひとより、うつ好発性性格のひとのほうが好きである。現在ではうつ好発性性格のひとは組織からはじき飛ばされて、底辺へと落ちていく一方なのかもしれないけれども、そういう人でもそこそこ生きていける連帯感の高い社会のほうが、全体としては健康なのですよ、ということを著者はいいたいのであろう。しかし「生き抜く力」が強いことが奨励される社会というのは、腕力の強いひとが上にいく社会でもあり、格差が拡大していく社会なのではないだろうか、という気もする。
 小医は病を医し、中医は人を医す。而して、大医は国を医す、という諺がある。「生物・医学モデル」の医者は小医であり、SOCに配慮できる医者が中医なのであり、「社会・経済・医学モデル」を理解するのが大医なのかもしれない。
 本書は「生物・医学モデル」のみで医療を理解することに反対する本であることは間違いないが、説明のしかたはかなり「生物・医学モデル」的であるということを感じた。つまり、環境→反応という単純モデルではなく、環境→レセプター→反応という主張である。前者はむしろ物理モデルであり、後者こそが生物モデルであるように思うのだが、前者が生物・医学もモデルであるとされ、後者が社会経済モデルとされている。つまり人間にとっての最大の環境は人間であり、またそれとの関係であるが、人間関係は《こころ》というレセプターによって感受され変換されて、それが反応を規定するという見方である。《こころ》というレセプターあるいは刺激変容器によって環境への人間の反応はいかようにも変わる、だから環境だけを議論しても、そこから得られるものは限定されることになる。これは、血中インスリンだけを測っても駄目でインスリン抵抗性を規定する細胞レセプターをも測定すべきというような議論に近いように思う。インスリンは十分に分泌されているにもかかわらず、それでも糖尿病状態の人がいる。そういう形で糖尿病理解は進んできたわけである。強いストレスにさらされている状態というのは、ほとんどインスリン抵抗性といった概念とパラレルである。血中インスリンは正常であるのに、血糖が正常の人とそうでない人がいる。そうであるとすれば、その差を規定する他の何かがある、そういう形で糖尿病の理解は進んでいく。それと同じ議論の仕方で、同じ環境下であるにもかかわらず、病気になるひととそうでないひとがいる。そうであるとすれば、その差を規定する他の何かがある。それは環境をどのように受け留めるかという《こころ》の存在である、という形で議論が進む。《こころ》の状態によって、Aさんには100である同じ刺激が、Bさんには30でしかないことになる。とすれば結局、100の刺激と30の刺激の差が肉体にあたえる影響ということに議論は還元され、《こころ》はなんら神秘的な役割を演じない、単なる刺激変換器ということになる。
 とすれば、ここに提出されているのは洗練された「生物・医学モデル」であるのかもしれない。「生物・医学モデル」の呪縛というのはことのほか深いのかもしれないことにもなる。ここには、《こころ》についての議論の飛躍はない。エラン・ヴィタールはない。
 医学において心身二元論の問題は亡霊のように、つねにどこからともなくあらわれてくる。こころは「機械の中の幽霊」(G・ライル)であり、肉体という機械の中にどこともなく住んでいる。医療はあえて、その幽霊をあたかもないもののようにあつかい、肉体に自己のフィールドを限定することにより進歩してきた。だから、《こころ》がそこに入ってくるといつも議論が混乱してしまう。
 本書で採用しているやりかたは非常に巧妙な「生物・医学モデル」の拡張であり、《こころ》の問題を副腎皮質ホルモン血中濃度や交感神経機能という測定可能・観察可能な問題に還元して論じようとしている。こころがどのようなものであり、どこでどのように働くかということは一切問わないで、同じ外部環境に対して異なる反応があるということから類推してそこになんらかの中間ステップを想定しないわけにはいかないであろうから、それを《こころ》と呼ぼうという形で議論を進める。これは「生物・医学」モデルになれた医者にも理解しやすい議論の形である。身体の医学をやっている医者はいつも「病だけをみるな、こころをみろ、病人をみろ」などといわれているのであるが、実のところ、どうしていいのかわからないのである。本書の議論はそういう医師にとっても十分納得のいく、受け入れ易い議論となっている。というのは《こころ》を通ったあとでは、あとはそれを無視して旧来の「生物・医学モデル」がそのまま使用できるかたちとなっているからである。
 しかし、《こころ》がしているのは何も外界刺激をブロックしたり、変形したりすることだけではない。こころはなぜか《幸福》というものをもとめたりもする。健康よりも《幸福》をもとめたりすることさえある。本書にもし欠点というものがあるとすれば、健康というものがアプリオリの善として前提されていて、人が時には健康さえ捨てて何かに走るというような存在であるということが顧慮されていないように見える点である。もちろん、それは医療とはなんのかかわりもない話題である。それは医療の課題ではない。だから医療は従来《こころ》を捨てて、身体に己の役割を限定しようとしたのである。しかし《こころ》をもう一度、医療の中に取り込もうという試みをはじめると、その問題が回帰してきてしまう。煙草が崇高であり、大義のためなら命も惜しくない世界がどこからかもどってきてしまうのである。
 著者は「主観的健康感」というようなことをいう。科学とは客観的なものに自己を限定することにより発展してきたのであるから、これは相当に大胆な提言である。しかし、主観的健康感はたとえば罹患率、死亡率というような客観的数字から、その役割を証明されるという形で出現する。前向きに生きる人は風邪にかかりにくい、というように。しかし、《こころ》はたぶん風邪を予防するために発達してきたのではない。おそらく「生物・医学モデル派」の医者は、本書を読んで、《こころ》のもつ大きな力に驚嘆するはずである。しかし、そうではあっても、《こころ》というものがどんなものであるのかが明らかになるわけではない。ここでの議論が、「どのようにして」ということにはこたえても「なぜ」にはこたえていないからである。科学は「どのようにして」に答えればいいのであって、「なぜ」には答える必要がない。「なぜ」と問うことは目的論をよびだしてしまう。生物学において目的論を回避するための最大の根拠が進化論であった。神にかわる自然淘汰である。しかし、ひとの《こころ》が自然淘汰で説明できるか、というのは進化論での非常に大きなテーマであって、現在なお、それをタブーであると感じているひとも多くいる領域である。本書の論は、どうしてもそこにかかわらざるをえなくなるはずである。
 しかし、とにもかくにも、われわれがどのようなものであるのかを知るということがまず先決なのであり、本書には多々教えられかつ考えさせられた。ウィルキンソンの本(「寿命を決める社会のオキテ」)では、社会的地位の高い低いによってストレスが非常に異なるということはサルでも証明されているということがいわれていた。ここでもまた「社会生物学」が顔を出してくる。「社会生物学」の射程はとても広いのであり、医学においてもそれがこれからきわめて重要になってくるであろうことを感じる。
 
 最後に、本書の末尾のほうで述べられているように、ここでのテーマはもちろん小泉改革をどう評価するかという点にも密接にかかわってくる。ウィルキンソンなどは日本が世界最長寿国であるのは、日本社会の均質性によるとしている。日本の医療制度が優秀なためなのではないのである。もちろん、日本の医療制度が日本社会の均質性を反映した制度であることは間違いないのであるが。
 日本の均質性には厭なところも困ったところもたくさんある。過労死などというのは均質社会、仲間とほとんど差がついていない(と思いこんでいるひとがつくる)社会の反映である。そういう日本とくらべ、むこう(というのがどこだかは曖昧なのだが)では、馬車馬のごとく働いているのはエリートだけで、あとは適当にいわれたことをやり、9時5時の生活でアフターファイブを楽しみ、定年がくるのを一日千秋の思いでまち、あとは遊びの人生である、などといわれている。それは嘘なのだろうか? そういうひとも内心では下積みであることに瞋恚の炎を燃やし、陰では藁人形に釘を打ち、鬱々とした人生を送っているのであろうか? 馬車馬のエリートはそれでも楽しく充実した人生を送っているのだろうか?
 わたくしは日本的ムラ社会が厭で、それで医者になったような人間である。だから日本的均質社会がいいというような主張は、それだけで警戒してしまうところがある。最近の小泉首相はつぎつぎとぼろがでてきているようであるが、どこかで養老孟司氏がいっていたように、氏は今までの歴代首相と異なり都会出身なのである。土俗的共同体の匂いがほとんどない人である。それが日本的共同体の象徴のような(たとえば鈴木宗雄氏)自民党からでてきて自民党を壊した、それだけでもう十二分に仕事をしたように思う。歴史の方向は不可避的に「個人」の方向にいくのだと思う。その副作用はいたるところにあらわれてくるはずである。少子化もその一つであるかもしれない。
 ひょっとすると「個人」への志向というのは人類滅亡への方向なのかもしれない。なぜなら生物学的な人類は、ある程度の大きさの集団として存在することではじめて生存を保障される弱い存在として長年生きてきたのであり、「個人」として生きられるなどというのは、あとから生じたまだほんの一万年くらいの文明(すなわち都市化)がもたらした錯覚なのかもしれないからである。われわれが連帯感の強い社会でのほうが長生きであるのは、そういう生物学的基盤があるのかもしれない。われわれの現在の生活は人類の生物学的基盤と反するものであるが故に、滅びの道であるのかもしれない。しかし、現在の人間の健康や寿命というものもまた文明がもたらした豊かさの賜物なのであるとすれば、それが簡単に軌道修正できるともとても思えないのである。


(2006年3月12日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)


健康格差社会―何が心と健康を蝕むのか

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