6 見えざる手

 何が正しいかを知ってそれぞれが行動しているわけではないのに、各自のばらばらの行動の結果として望ましい事態が生じてくるという構造は、アダム・スミスの見えざる手を連想させるものである。スミスの世界においては何か大きな目標があって、それに向かってみなが行動しているわけではない。各自はおのれの欲望の充足をもとめているだけである。それにもかかわらず、何事かが生じてくる。それは誰もが想定さえしていなかったものであるかもしれない。そして生じてきたものが正しいものであるのか、望ましいものであるのか、それは誰にもわからない。
 計画経済体制においては、最良の場合においてさえ、計画が100%実現するだけである。予想外のものがでてくることはない。計画経済体制はラマルク的進化論の世界であり、スミス的世界はダーウィン的進化論の世界なのである。
 ダーウインの進化論においては進化をつかさどるものは自然淘汰であった。梅田氏のウェブ的世界ではそれをつかさどるのが検索エンジンなのである。ここで大事なことは検索エンジンはまったく機械的に働くということである。そこに人間の価値判断が混入することはない。
 検索エンジンが神の役割を演じるのであるが、その神は理神論的な神、自然神学の神に近いものであって、最初に世界を創造したあとは手を引いて、それ以降はかかわってこない。
 そうであっても、とにかく最初の世界創造がなくてはならない、検索エンジンは構築されなければならない。検索エンジンの設計者は最初の設計において、どのような基準でネット上の記事と記事を関連づけていくかを決める。それで問題になるのが、グーグルが選ばれた超秀才によって創設されたらしいということである。グーグルの創設者たち(現在まだ30歳代前半である)が、集団の叡智を信じるひとなのであるかということである。もちろん、信じることが善であり、信じないことが悪であるというわけではないのだが、集団、大衆を軽蔑している人、おのれの優越を疑ったことのないひとが、結果として(あるいは最初からの意図として?)集団の叡智を実現する装置を作ってきているということにおいて、梅田氏はグーグルを100%は評価できないとしているようである。
 そして梅田氏も衆愚論をとるのではなく、グーグル創立者ほどのエリート主義をとるのもないとしても、やはり知的活動をしているひとへの共感と肩入れはかくせない。ふたたび、そのことが悪いというのではない。ほとんど世界を変えてしまう可能性をもった仕組みを二人の若者が構想してしまったという事実と、それが集団の叡智の集約することに強力な力を発揮するであろうということの間の溝の問題である。
 シリコンバレーには世界から並外れた才能をもった若者があつまってくる。その目の輝いた意欲あふれる若者たちが梅田氏のいう集団なのではないかという気がしないでもない。それの叡智を結集する機械としての検索エンジン! しかし多くの人間は自分から情報を検索することなど考えたこともなく、一日中、テレビを受身で呆然と眺めているだけなのである。まだまだ検索エンジンはエリートの道具なのかもしれない。