J・オルコック 「社会生物学の勝利 批判者たちはどこで誤ったか」

 [新曜社 2004年1月15日初版]


 主として昆虫の生殖行動を研究している生物学者による社会生物学擁護論である。
 ここで強調されていることは「至近要因」と「究極要因」の区別の必要性である。それがなぜそうであるのかをしめすのが「至近要因」であり、なぜそうなっているのかを示すのが「究極要因」ということになる。「究極要因」を説明できるのは進化だけである。社会生物学は「究極要因」をさぐる学問である。なぜそうなっているか? そうであるほうが子孫をたくさん残せたから。とすれば、現在そうなっている生物の状態をどのように説明すれば、子孫をたくさん残せることを証明したことになるのか、それが社会生物学のめざす究明の方向である。
 社会生物学が大きな社会問題になったのは、人間がなぜそのようにであるのかに答えるものは生物学ではなく、文化だという考えが根強かったためである。オルコックによれば、文化が規定するものは「至近要因」なのであり、生物学が規定するものは「究極要因」なのであるから、両者は排他的なものではなく両立できるのであるが、非常に多くの人間が人間の行動を規定するものは文化だけであると考えているところから問題が生じる。人間にかんしては行動は学習されるのみであるというわけである。
 そういうひとたちからみると社会生物学者は「遺伝決定論」者であり「生物学的決定論」者であるということになる。人間の尊厳は人間が動物的であることをやめ、自由に自分の意思で自分のことを決められるようになった点にあるのに、社会生物学者は人間の尊厳を冒すものであることになる。
 人間にかぎらずあらゆる生物において、遺伝がすべてではなく、環境が大きな役割をもつ。だから本当は遺伝決定論をとなえる生物学者などいるはずがない。それなのに社会生物学者を遺伝決定論であると非難するのは、政治的な意図があるからである、と著者はいう。
 人間がどの程度、遺伝に影響され、どの程度環境に支配されるかについてのもっとも普通の研究は双生児の比較である。大凡いわれていることは40%が遺伝、60%が環境というようなことである。
 ローレンツらの動物行動学は現在では誤りとされている群淘汰理論にもとづくものであり、ローレンツ自身自分をダーウインの徒であるといっていたとしても、フェロモンなどの至近要因を論ずるものであり、本当の進化論が論じるべき究極要因を論じたのではなかった。
 社会生物学から見れば、脳も繁殖のための道具である。
 感覚について白紙で生まれ、生育後それを学ぶと思うものはいない。しかしさまざまな学習過程は白紙の上に書かれると思っているものがまだ多い。しかし遺伝により方向づけられていなければ、言語の学習などは不可能なのである。
 顔の認知ということにわれわれは何の不思議も感じないが、これはきわめて遺伝的な背景をもつのであり、その証拠に知能においてはまったく異常がないが顔の認知ができないという脳障害が存在する。このことは、他人の顔をすばやく認知できるということが人類の生存にきわめて有利に働いたからこそ、そういう脳の機能が淘汰で残ってきたということを示す。
 しかし、ここ数千年に爆発的に発達した文化によって、それら遺伝的に規定された部分は意味をもたなくなっているとするものも多い。われわれの環境は人類の淘汰圧が働いた状況とは全く異なってしまっているので、進化の観点から人類を見るのはまったく無意味であると、そのような主張をする人たちはいう。
 以下のようなことを考えてみよう。中性のヨーロッパ人は胡椒、ナツメグなどのスパイスに非常な大金を使った。しかし、スパイスには栄養学的な意味はほとんどない。スパイスは食べ物の中にいる細菌を殺す作用があることがわかっている。ニンニク、タマネギ、シナモンなども同様である。細菌の繁殖が早い熱い地帯の人々ほどスパイスの使用頻度が高いことが知られている。古代のひとがそのような医学的知識をもっていたわけではない。しかし、そういう嗜好をもった人は生き延びたのであり、だからこそ、われわれはスパイスを好むのである。われわれは苦いものを口にすると吐き出す。そのような反射をもった人間もまた生き延びたのである。苦いものには毒が多いから。
 最近の先進国ではどこでも少子化の傾向が見られる。これは明らかに適応的でない行動である。これは現在のところ、進化論で説明することが困難な現象であると考えられている(いくつか仮説はでているが)。
 
 どう考えても、人間が動物でないなどということはないのだから、人間を生物学的に研究することができないわけはないのだが、人間が動物であるのは肉体だけで、心は生物学的に研究できないとするものがいる。だからS・J・グールドなどはダブルスタンダードをとらざるをえないことになり、創造論者に対してはダーウイン派の生物学派となり、社会生物学者に対しては、進化論を人間にあてはめるのは危険であると説くことになる。ここには否応なくキリスト教的人間観がでてくるわけで、魂をもつ動物は人間だけであり、人間だけが聖別されているというという人間観が透けて見えてくる。
 本書のあとがきで訳者の長谷川眞理子氏が書いているように、日本では社会生物学が深刻な論争の対象になることがなかったが、それは、日本ではキリスト教的人間観が浸透していないためなのであろう。
 自然科学は西欧で発達したのであり、自然科学の発達にはキリスト教的世界観が深く関係している(たとえば、世界にはカオスではなく秩序があるはずであるという信念)。その自然科学で人間をみようとすると、どこかで自家中毒をおこしてくるのも、ある意味で当然なのかもしれない。
 そこで次のような問題がでてくる。人間を特別な存在、他の動物とはまったく異なるレベルの異なる優れた存在であるとみなすような見方をすることが、人間の生存価を高めるものであったのだろうか? 淘汰の対して有利に働いたのだろうか?という問いである。あるいは、世界を無秩序なものではなく、ある法則に支配された秩序あるものであるとみなすような性向が、ヒトの生存価を高めるものであったろうか? という問いである。
 しかし、そもそも人間を特別な存在であるとみなすような見方は、人類に普遍的なものではないかもしれない。世界を秩序あるものとみなす性向もまたそうかもしれない。
 さらには現在西欧世界が世界の覇権を制しているのは、偶然であるのか必然であるのかという問いもでてくるかもしれない。もしそれが偶然であるのであれば、別の偶然の結果ではトーテム信仰のようなものが、世界の普遍的見方となっていたことだってありえたことになる。個人などというものが少しも尊重されず、大王のもとに多くの働き蜂的ワーカーが服従しているような社会ができてきた可能性も、またあったのかもしれない。
 だからS・J・グールドのような人がでてくるというのはよくわかる。科学の仕事をし、科学を十分に信頼しながらも、科学だけでは寂しいのである。人間が科学が指し示すようなものであることに耐えられないのである。人間はもう少し崇高なものではないだろうかという考えが捨てられないのである。
 一方、科学をやっている人間がグールドを批判するのもよくわかる。あるところでは科学、あるところではそれ以外の原理という使い分けをしているのを見て、いったいお前は科学者か! 科学者の風上にもおけない奴だ! ということになるわけである。本書の著者のオルコックはまさに科学者であり、舌鋒するどくグールドを批判している。
 社会生物学論争を、キリスト教社会である西欧世界でしかおきないコップの中の嵐であるとして、われわれが高みの見物を決め込むわけにはいかないのは、これが医療の問題とも密接にかかわるからである。もっぱら肉体の問題におのれの範囲を限り、こころなんて知らないよといってきた医療の歴史があるからである。
 医学において通常問われるのは至近要因である。なぜ糖尿病という状態がおきるのか? インスリンというホルモンの作用が何らかの原因で不足するから、というのがその説明である。それを究極要因で説明しようとすれば、どのようにかしてホメオスタシスを維持できる仕組みを作りあげた生物は、それを達成できなかった生物にくらべて生き残り上有利であったからというような説明をすることになるのであろう。ところがそのような説明をすると脳が余ってしまうのである。ホメオスタシスの維持に脳はかかわらないのである。もちろん、そんなことはないので脳下垂体はホルモン調節のキーポイントのようなものである。しかし、少なくともわれわれが考える脳の機能は恒常状態の維持とはかかわらないように見える。
 医療の人間の見方というのは静的なのである。人間が何も活動せずただ生きているという状態を維持するこはどのようにすればいいかを問うているのである。心臓が動いていて、呼吸ができて、電解質が維持され、解毒機能が保たれ、糖代謝が維持され・・・。それだけであれば、人間は眠り続けていてもいいわけである。つまり活動する人間、動的な人間は問われない。
 一方、進化の観点から見れば、最大に問われるのは生殖機能である。すべてのことはたくさんの子孫を残せるかという見地から検討される。脳の機能が一番問題となる。生殖機能とは動的なものであり、人間を活動させるものは脳であるからである。とすれば脳は最大限子孫を残すということのために特化しているに違いない。脳が白紙であって、文化によって生後書き込まれる白地図であるなどというのは、およそありえない話になる。その見地から見れば、社会生物学の主張はいたって当然のものなのである。
 が、それと同時に、社会生物学の主張は脳は孤立した器官ではなく、身体のなかで他の器官と密接に関連して働いているであろうというでもあることになる。いわゆるデカルト的な心身二元論的な見方についての科学の側から生物学の側からの異議申し立てとなる。哲学としての議論ではなく、科学としての議論としての異議申し立てである。とすると、ほとんどデカルト的世界観の中で生きてきた医療にとって、社会生物学は非常なインパクトをもつものであるはずなのである。「病気をみるのではなく、病人をみよ!」という修身の教科書のような空念仏ではなく、目の前にある現実として、全体に相互に関係する器官の集合体としての人間があるのであり、その器官の中でも脳というのは非常に大きなウエイトを占めているはずなのである。
 もちろん、オルコックがそのようなことを述べているのではない。しかし至近要因と究極要因という本書の主題をみていると、自ずとそのようなことを考えざるをえない。医学の研究というにのは至近要因の研究であった。そこに究極要因がほとんど考慮されていなかったということである。これからの医療において進化心理学がきわめて大きな役割を担うのはないかということを本書を読んで感じた。
 

社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤ったか

社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤ったか