補遺1

 「ウェブ進化論」ではてなという会社を知った関係で近藤淳也「へんな会社」のつくり方』というへんな本を読んでいる。近藤氏ははてなという会社の社長さんである。
 何だかかなり安直なつくり方の本で、梅田氏の「ウェブ進化論」が氏の半生のエッセンスでありとても濃い内容であるのに対して、5か6しかない内容を本にするために無理に10に引き伸ばしたようなえらく印象の薄い本である。
 それはどうでもいいとして、その中で近藤氏は、《世の中は遠い過去からの人類の英知がつくりあげてきたものだから、現在の最適解になっている》という話は信じらない、というようなことを言っている。
 これを読んで、進化論における最適者生存についての議論を思い出した。もしも進化が最適者を生存させる仕組みであるとすれば、現在いる生き物は現在の環境の中では最適であるといえるのだろうかという議論である。
 これを社会体制に応用すれば、現在の社会は最適なものなのだから変革の必要なし、という議論の可否ということになる。もちろん、社会体制に進化論を応用するのは無茶というのは、誰にでもみえるわけだけれども、男は仕事、女は家庭というのが生物としての人間における最適解なのであるなどといいだす人がいると議論が百出する。(ちなみに、この本にははてなという会社での仕事ぶりを紹介する写真が何枚か収められているけれども、圧倒的に男性が多い会社のようである)
 それに多様性ということも関係する。もしも最適者が生き残るのであれば、多様性を担保するものは何かという問題が生じる。
 内田樹氏などが、多様性というのは未来への保険であるというようなことをよくいう。単色の社会は、現在の行きかたが悪いとわかっても代替するスペアをもたない。多様であれば、AがだめならBでいく、ということができるというのである。
 しかし、進化の過程は現在しか問わないわけだから、将来に備えて今は生存価のひくい生物を保存しておいてあげよう、などという甘いことはいってくれない。だから、絶滅ししつつある種の保護などということがいわれることになる。
 多様性ということは何が正しいかはわからないということを前提にする。なにが正しいかわからないとしたら、とにかく何でも残しておくのが正解である。何が正しいかは時間がきめてくれるし、10年後の多数派と50年後の多数派は違うであろう。
 しかし、多様性を積極的に擁護する社会と、正解があると信じてそれ以外の価値を抑圧する社会のどちらが正しいか? それを決めることもまたできなくて、それは時間が解決するであろうとして、判断を下さないということができるだろうか?
 何だか、寛容は不寛容を寛容するか? である。


「へんな会社」のつくり方 (NT2X)

「へんな会社」のつくり方 (NT2X)