補遺3
梅田望夫さん、近藤淳也さんの本を読んでいると、梅田さんも近藤さんも、あるいは一般的にグーグル創設者をふくむシリコンヴァレー系の人も、みな理科系の人なのだなあ、ということを強く感じる。不特定絶対多数への信頼ということもそれと密接に関係していると思う。客観性への信頼なのである。
理科系-客観、文科系-主観
などとくくってしまうのはあんまりだけれども、理科系の人間にとっては主観もまた客観化されうるのである。
理科は事実、文科は価値
などというのもまたまたあんまりであるけれども、理科系の人間にとっては価値もまた事実の側にふくまれるのであり、価値は客観の側に属する。
シェークスピアの「ハムレット」という作品がある。物理学的実体として「ハムレット」という本があるところまでは、両者ともに認めるであろうが、文科系の人間にとっては、価値はそれを読んだ人間の頭の中に生じるのであるが、理科の人間にとってはもともとの本にある価値をそれを読んだ人間が見つけるだけであって、価値はもともと本の側にあると考える。
「ハムレット」などは従来、実にさまざまな読まれ方をしてきたのであろうし、それにはシュークスピアが考えもしなかったようなものもたくさん含まれるであろう。というか、ほとんどは、シェークスピアが、それは誤読だよ、というようなものかもしれない。
テキストというのは作者の手を離れればどのような読まれ方をもされれてもしかたがないのであり、作者がその読み方は違うという権利はないということがよくいわれる。
文科系の人間にとっては「ハムレット」の新しい読み方というのは、その読み手が創造するものということになるが、理科系の人間にとっては、そのような新しい読まれ方が可能であるのは、そのように読まれうる潜在的な何かをそれがもっていたからということになる(たとえ作者がそのようなことをまったく意識していなかったとしても)。
わたくしは昔、本は読まれなければ黒いシミのついた紙の束であると思っていたので、カール・ポパーが、本は誰にも読まれなくても誰かに読まれうる形になっているだけで本なのであると書いているのを読んで、とてもびっくりした。頭でただ考えているというのではまったく無価値であって、公共的に読まれうる形になった途端に、それは価値をもつことになるというのである。そして、それはその人が頭で考えたのとは全然ちがう読まれ方をするかもしれないのである。
世の中にはたくさんのひとがいるのだから、自分の考えなどということにこだわることはなくて、公共の場に提示さえすれば、自分でも気がついていない新たな価値をだれかがそこにみつけてくれるかもしれないのである。
不特定絶対多数への信頼というのは、自分よりも優れた人がたくさんいることを認めることであり、そういうひとたちのためにも自分が何かの役にたてるかもしれないということでもある。
ポパーの自伝「果てしなき探求」の最終章は「諸事実の世界における諸価値の位置」と題されていて、この問題をあつかっている。そこでポパーはわれわれの知性の産物には客観的側面があることを力説している。それによれば、モノだけがある世界には問題もなく価値ということも生じない。問題が生じ、価値ということがでてくるのは生命の誕生による。
われわれは生きているからこそさまざまな問題に直面する。それに対して個々の人間が個々におこなうさまざなな解決策も、それを公共のものとすることによって、全然別の次元のもの、客観的なものとなりうることになる。
わたくしは、理科と文科のあいだをふらふらしている人間として、いつまでたっても、事実と価値の問題をクリアに切り分けることができそうもない。
梅田氏の本が魅力的であるのは、理科の視点で一貫していて迷いがないことに起因するのかもしれない。
文科は暗く、理科は明るいのだろうか?
- 作者: カール・R・ポパー,森博
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