A・J・カーティス「健康心理学入門」
[新曜社 2006年2月20日初版]
健康心理学についての簡潔で要をえた概説書。
以下、要約。
疾病構造は感染症などの急性疾患から、がんや糖尿病のような慢性疾患への変わってきている。従来の急性疾患に対しては、身体医学モデルが有効であった。これはデカルトの心身二元論と相性がいい見方である。
現代西洋医学は唯物論的一元論に依拠している。
(ギリシャでは体液説 一種の身体心理社会モデルであり、中世では病気の精神論的説明 神の罰などであった。)
現在の西洋医学は身体に重きをおきすぎているという批判があり、こころは身体に影響をおよぼし、また身体もこころに影響をおよぼすということの重要性を指摘する動きがでてきている。
20世紀最後の四半世紀に、身体医学モデルへの疑問が多く提出されるようになった。それにかわるものとして身体心理社会モデルが提出されてきている。
疾患の予防、健康管理増進における心理学の役割は現在におけるもっともエクサイティングな話題の一つである。
人間は合理的に行動変化を進める行為者というより、事後に正当化する存在でもある。人間はしばしば非現実的な楽観主義をとる。
QOL(クォリティオブライフ)は相当程度は主観的なものである。治療中の高血圧患者が感じているQOLは、医者がその患者に想定するQOLより低いことが多い。
病気になってもそれを前向きにとらえられるひとがいる(病気になったことで、自分についての理解がふかまったetc)。これは人生に対する満足度と相関することが知られている。病気であるかどうかということばかりでなく、それを患者さんがどうとらえているかということも、またきわめて重要なのである。病気に前向きのかかわれるかどうかが疾患の治癒過程に大きな影響をあたえると、最近では考えられてきている。
病気とこころの関係などというと胡散臭い目で見られがちであるが、たとえば痛みを感じるというようなことにおいても「こころ」が大きな役割を演じていることはよく知られている。戦場での大きな傷はあまり痛みをともなわず、小さな傷のほうが大きな痛みをともなうことが言われている。前者はこの負傷により、もう戦場を離れられるという希望と結びつくのである。
西洋医学では自律神経系は意識的なコントロールはできないと考えているが、バイオフィードバックによりコントロール可能ではないかという知見があつまってきている。
高血圧や糖尿病患者の50%が医者の指示にしたがっていないことが知られており、それは疾患の重症度とも関係しない。一つには患者側に知識の乏しさがある。肝臓の位置を知らない患者は多い。高血圧が治療で治る病気であると思っているものも多い。
よい患者と悪い患者ということが医療者の中でよくいわれる。よい患者とは医療者のいうことをよくきき、その指示をまもるものである。悪い患者とはたくさんの質問をし、治療に不平をいい、治療への疑問を述べたりする患者である。しかしよい患者の予後が必ずしもよいとはいえない。なぜなら、よい患者が受身であるのに大して、悪い患者のほうが治療に積極的であるかもしれないからである。
こころというのはきわめて曖昧な言葉である。しかし慢性疾患のような「人生の伴侶としての」疾患においては、その原因は多因子的であり、こころもその因子の一つであることは間違いがない。
がんの35%が食事、30%がたばこ、7%が生殖・性行動、3%がアルコールとかかわるといわれているが、ストレスの関与もいわれている。
ストレスというのもまた曖昧な言葉である。セリエのストレス説は今でも有効であるが、それは主として動物実験から得られたものであり、身体要因を重視しすぎるという批判があり、最近では対処モデルが提出されてきている。ストレスの原因となるできごとよりもそれをどう解釈し対処するかが大事という見方である。われわれはストレスの原因をすべて解決できるわけではないが、それにうまく対処することはできる。ストレスは従来いわれていたように、免疫系の抑制作用をもつばかりでなく、神経・内分泌系にも影響するといわれてきている。
イギリスは健康政策として、「患者個人に責任を負わせるやりかた」と「過保護国家」の中間をめざすことを宣言している。
従来のこの分野の本は、すぐに全人的医療などという訳のわからない呪文へと逃げ込んでしまう傾向があり、なんだか胡散臭いし実際の役にはほとんど立たないものばかりであった。精神科とか心療内科の医者が、こころの問題に無関心な医者に警鐘を鳴らす、あるいはそういう医者を非難するというおもむきのものばかりであった。非難されたほうは面白くないし、病気を見るな患者を見よ、などといわれてもうろうろするばかりでどうしたらいいかは、少しも明らかにはならなかった。
では、本書を読むことでそういう点が明らかになってきているのかというと、必ずしもそういうことではない。本書で明らかになることは、対象患者の拡大である。従来問題となっていたのは、さまざまな訴えの中にひそむ“うつ病”の問題(仮面うつ病)、いろいろな身体的訴えがあるがそれを説明する器質的疾患がみつからない場合(心気症・心身症)といったものであり、糖尿病・高血圧といった“ふつうの”病気の治療にこころが関係するなどという視点はほとんどなかった。
本書を読めば、ほとんどありとあらゆる疾患にこころの問題が関係しているということが、精神科や心療内科以外の臨床家にもよく理解できるはずである。
もちろん従来もこの問題が無視されていたわけではなく、たとえば糖尿病治療においていかに患者さんが医者の指示のしたがわないかということは、つねに問題になってきた。だから糖尿病学会で河合隼雄氏が招待されて講演し、患者を変えるということがいかに大変なことか(あるいは患者は変わるのであって、医療者が変えることはできない)、患者さんに説教することは有効性のほとんど期待できないやりかたであること(もっとも、説教することは説教する側はいい気持ちになれる利点があるから、医者の側には利益がある)などがいわれて、聴衆は煙に巻まれるというようなことがおきていたわけである。河合氏一人が、無知なる一般臨床家を説教していい気持ちになるわけである。説教された側が変わることはない。自分が変わろうとするのでない限りは変わらないのだから。だから、相変わらずの臨床が続いていた。
本書では、こころというのが機械の中の幽霊としての模糊としたものではなく、もう少し実体のある、とらえどころのあるものとなってきている。それはストレスというこころと体をつなぐものが提示されているからである。ストレスをおこす事象は即身体に影響するのではなく、ストレスをおこす事象をどう捉えるかによって患者さんの側におけるストレス反応もさまざまになる。その「対処」を担当する器官としてのこころというイメージが提出されるわけである。そしてプラスにはたらく「対処」が患者側におきるように努めることもまた医者の役割であることが示される。
問題はポジティブな「対処」がおきるようにすることが、医者にとっての可能な技法の範囲であるのだろうかということである。どのような「対処」がおきるかは患者さんの側の気質に依存するのであって、医療者の側がかかわれることではないかもしれないからである。あるいは反対に、患者さん側にポジティブな「対処」をおこせるかどうかは医療者の側の先天的な能力あるいは成育過程で身についた能力によるのであって、医者になってからあるいはナースになってからの教育によっては身につけることができないということもあるかもしれないわけである。
それらはほとんどが今度の課題なのであろう。とにかく大事であるのはまず事実を知ることである。本書はごくありふれた病気である高血圧というような病気においても、こころという視点がかかせないという事実を示している。あるいはがんというような従来からもこころの問題が大きなウエイトを占めるであろうと予想はされていたが、実際にはどのうような方向からアプローチすればいいのかが明らかでなく、手探りでさまざまな試みがされていたような分野で、もう少し系統的なアプローチが可能ではないかということを示唆するものともなっている。
多くのひとが従来ぼんやりと感じていたことを、明確な形で示すものとして、健康心理学は今後臨床の場で重要性を増していくであろうことを、本書を読んで感じた。
- 作者: アンソニー・J.カーティス,Anthony J. Curtis,外山紀子
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2006/02
- メディア: 単行本
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